本連載「デザインの魂のゆくえ」の第1部「デザインと経営」に続く、第2部のテーマは「デザインと教育」。その第1回目の対談として、グラフィックデザイナーの小田雄太さんと同じく多摩美術大学グラフィックデザイン学科で教鞭をとり、ビジュアルデザインやタイポグラフィを教える佐賀一郎さんをゲストに迎え、まずは『色彩の設計』を支える背景にまつわる対談をお届けします。
●「デザインと教育」篇 序文はこちら。
徹底した人間主義
小田雄太(以下、小田):ジョセフ・アルバース[★1]が書いた『配色の設計 色の知覚と相互作用』(永原康史・監訳、和田美樹・翻訳、BNN新社、2016年)は、本の内容の半分以上が演習によって証明され、まさしく色の相互作用を解き明かしていくものです。ぼくはそこから学生に教えるためのヒントをたくさんもらたったのですが、佐賀さんはどんなふうに読まれましたか。
★1: ジョセフ・アルバース(Josef Albers/1888–1976)
ドイツ生まれのデザイナー、写真家、タイポグラファー、版画家、詩人。バウハウスで学び、卒業後は同校で教鞭を執った。1933年のバウハウス閉校にともないアメリカへ移住。イェール大学などで美術教育を続け、バウハウスの教育理念をアメリカにもたらした。《正方形へのオマージュ》に代表される色彩構成の研究でとくに知られている。
佐賀一郎(以下、佐賀):ぼくはアルバースのモダンな考え方がまず印象に残りました。この本の序盤のセクションIII(p. 21)に出てくるカラーペーパーが象徴的なのですが、彼は色彩の研究に絵の具じゃなくてカラーペーパーを使うんですね。その理由は作業の利便性もあるのだけれど、絵の具を混ぜるような、そのときどきで同じ色を再現するのが難しい方法じゃなくて、再現可能な素材を使って色の組み合わせを考えるということ。バウハウスで学び、教え、そのあとアメリカへ渡ってデザイン教育をつづけたのがアルバースという人だけれど、そういうモダンな考え方というか、論理的かつ知的なアプローチで教育に取り組んでいる姿勢が印象に残りました。
小田:ジョセフ・アルバースというと《正方形へのオマージュ》シリーズなど、ペイントによる色彩研究で有名ですよね。そういう先入観をもってこの本を読みはじめたら、カラーペーパーのくだりが早々に登場したので、こういう視点で教えるんだ、というのでぼくも驚きました。
アルバースが求めているのは効率性だけではないですよね。たとえばAという色とCという色があるときに、その中間のBという色の位置を探り当てるようにして色をイメージするというくだりがあります。「色を等間隔に配置する」というフレーズも散見されます。それは単純に絵の具を混ぜればいいという解決方法ではないわけです。
佐賀さんは多摩美ではタイポグラフィを教えてらっしゃっていて、ぼくはデジタルイメージの編集について教えているのだけれど、授業で使う素材は自分が過去に撮った写真です。学生にはエフェクトや合成、コラージュを使わないという制限を加えています。つまり、立ち返る、すべてなかったことにできない素材がまずあって、その素材をどう組み合わせるかを通してイメージを鍛えていく手法ですね。タイポグラフィにも同じようなことがあると思います。
要するに選択肢が限られているからこそ創造的になれる。作業のなかの選択肢があまりにも多いと、かえってイメージを働かせることができなくなりますから。
だから『配色の設計』を読んでいて最初にカラーペーパーが出てきた時に、あぁ混ぜるんじゃないんだ、色のなかでも同じようなことがあるんだなっていう気づきがありました。そういうところが、ジョセフ・アルバースの演習をかたちづくるうえで非常に大切な要素だなと思います。
佐賀:アルバースのメソッドの背後には、徹底した人間中心的な思想があると思います。それは傲慢な意味での人間中心主義ではなくて、たとえば色の組み合わせを考えるだとか、配色の割合を平面構成的に検討したりする、その作業をおこなう個人個人の感覚に最終的なところを完全にゆだねているということです。だからこそそこまでシステマティックにできるわけですよね。
小田:カラーペーパーという明確なよりどころがあるからこそ、共通概念が完全にイメージにゆだねられている、と。
佐賀:そうです。そういう感覚がベースにあるのが、とくに1910~50年代ぐらいにかけて、モダニズムがほぼ完成するまでの期間に活躍した人たちの共通の傾向だと思うんですよ。思想の核になる部分に圧倒的な人間中心主義みたいなものがあって、だからこそ選択肢を制限した知的なアプローチを取ることができる。それがすごくおもしろいと思っています。
基礎課程の難しさとおもしろさ
佐賀:大学教育の基礎課程の最大の特徴は、同じ条件のもと、同じ目標を設定して進むところにあります。しかしその一方、基礎課程の難しさは、そこから個々の学生の長所をどうやって引きだすのかにあるわけですよね。教員によってアプローチの仕方は全然違うと思うのですが、小田さんはどうされていますか。
小田:ぼくはバリエーションをたくさん出させます。で、やればやるほど辛いみたいなことになるんですけど(笑)。ぼくでさえ、同じ課題をやれと言われたらちょっと厳しいなというくらいの水準。なので100点満点を前提にはせず、超えるべき基準はわりと低めに設定しています。ぼくは優秀な学生は二通りあると思っていて、まず与えられた条件や課題に100パーセントの答えを返してくる正統派タイプ。もうひとつは、与えられた課題と設定を裏読みして、脱構築的な制作をするタイプ。どちらのタイプも優秀ですが、やっぱり後者の学生はなかなか評価しづらい。
佐賀:そうですね。成績をつけないといけないしね。
小田:そうなんですよ。で、ぼくはそういうとき、脱構築的な学生については課題としては評価はできないけれど、作品表現としてはこういう風に評価します、という講評をすることはあります。そこはすごくおもしろいところですね。
ぼくは講評を2度やります。中間講評と最終講評。それで中間講評のあとに作業日を設けるようにしています。授業は全6回、4回目に中間講評やって、5回目が作業日で、6回目が最終講評。コマ数のうえでは2コマしかないのですが、その短期間で劇的にクオリティがあがる学生がいたりするんですね。そういうの見ているとやはり、理論や実践とはまた違う、自分の頭のなかのイメージをいかに言葉にして説明してあげられるか、みたいなところが、学生には大事なんだと感じます。一個たがを外してあげるというか、これをやってもいいんだぜ、と中間講評で教えてあげると、さらにそこで制作に対する幅が広がったりというのがあって。
少し『配色の設計』に話を寄せると、基本的にいまの学生はモニターで作業して、プリントアウトしたものを最終講評とするんですね。本書に加法混色と減法混色[★2]についての話(p.40)がありますが、ぼくはこの話を授業でするようにしています。投射光による色の認識と反射光による色の認識は、人間の目にとってはまったく異なる印象になるからです。
★2: 加法混色と減法混色
色を再現する2つの方法。加法混色(additive mixture)は赤・緑・青(RGB)を組み合わせ、減法混色(subtractive mixture)はシアン・マゼンタ・イエロー(CMY)を組み合わせる。加法混色では黒の背景色からはじまり、3色すべてを組み合わせると白になる。一方、減法混色では白の背景色からはじまり、3色すべてを組み合わせると黒になる。加法混色はおもにモニターや照明、減法混色は印刷に用いられる。
学生は絵の具を使って美大を受験します。だから手が覚えているのは減法混色なんですよね。つまり彼らのイメージにはどうしても減法混色的なものが存在している。一方で、モニターを通しての作業は投射光による加法混色です。彼らはぼくらに比べても、子どものときからずっとモニターを見てきている。まして、いまやスマートフォンやタブレットがこれだけ人口に膾炙しているわけだから、日常生活で見ている色は、透過法による加法混色というのが圧倒的に多い。そこに対して、頭のなかで混色のチャンネルを切り替えることは難しいじゃないですか。
昔はけっこう単純だったと思うんです、投射光なのか反射光なのかは。ほとんど反射光だったと思いますし、投射光によるものはだいたい自然物か映像くらいで、いまよりも圧倒的に少なかった。そのなかで、学生たちが加法混色的なイメージと減法混色的なイメージをどう捉えるのかについては、興味深く見守っています。
どんなことにも応用可能な技術
小田:タイポグラフィと配色の関係はどうでしょう。
佐賀:モノクロームのフォルムだけの世界でやるというのが基本になっています。ですからそういう意味では小田さんの授業とは領域が違うんですけど、いまお話をうかがっていて、共通するところがありました。それはバリエーションの部分で、基礎課程は1年生と2年生のときにやるわけですが、ぼくは学生に全部手で書かせるようにしています。
小田:なるほど。
佐賀:要するにレタリングさせるわけです。それをやらないと気づけないことがいっぱいあるんですよね。結局は肉体を通じて学ばせる、教え込ませる。
いまの小田さんの話に完全に符合するような回答はできないけれど、これからの時代の教育はどうあるべきかを考えたときに、とくに基礎課程にかんしては、日本でも1960年代ぐらいからデッサンと色彩構成、平面構成はずっと続けておこなわれています。どれほどメディアが変化しても、いまだに続いているわけです。それはきっとこれからも続いていくと思うんです。社会が変化すればするほど、基礎課程は基礎課程らしくあり続けなければならない。
学科系の科目に教養科目がありますよね。教養科目では、科目ごとにいろいろな先生がさまざまな話をします。その話がそのまま人生に役立つことはありません。重要なことは、いろいろ違ったものがあって、多様な解釈、アプローチがあることを知り、それを咀嚼して昇華し応用すること。そうしないかぎり、いくら教養があっても意味がありません。「教養がある」ということは「応用をきかせることができる」ということです。
基礎課程に関しても同じことを求められるはずなんです。そのときの鍵になるのは、自分の肉体を通じて、自分を中心にして積み重ねていった基準値のようなもの。ぼくは授業では最初にイメージスケッチを描かせるんですけど、学生には最初に描いたイメージよりもいいもをのつくってほしいんですよ。作業を開始する段階ではイメージできなかったものをつくれるようになることが、一番意義あることです。レタリングも変わりません。つくることとチェックすることを何度も繰り返し、振り返ってやっと新しいイメージをつくれる状況にもっていくことがものすごく大事。
基礎課程がより基礎課程らしくあるということは、どんなに時代が変わっても、そのときに必要な肉体感覚を養わせて、肉体的に覚え込ませて、応用をきかせることのできる状況をつくることなのだと思います。
小田:世間的にはあまり知られていないかもしれないけれど、いま美大卒のデザイナーは少なくなってきています。デザインが世の中で果たす役割が変わってきている影響なのでしょうけれど、美大はもっとデザインそのものの定義やデザイナーの生き方をアップデートしていく必要があると思います。
佐賀:同感です。
小田:この本に、「人間の相互関与のすべての領域において感受性がますます必要となっている時代に、色彩を感じる能力やそれに対する意識は、感受性の欠如や残忍性に対する大きな武器となり得る」(『配色の設計』p.13)という一節があります。これをもう少し広げると、すでにあるモノをどうやって認識して組み合わせるか、そこに対して自分の選択肢を持ちつづけられるように努力するようなところが、この時代のデザイナーの職能として求められていると思っていて。この本は配色についてのものですけど、哲学的にも読むことができます。
佐賀:ぼくは美大はそういうことを教える場所だと思っているというか……アルバースが言ったようなことのために美術を教えているという思いがあります。
[中編「色は言葉に勝るとも劣らないイメージ喚起力を持っていつつも、そこに解釈の幅がある。」に続きます]
取材・構成:長田年伸
編集協力:五月女菜穂
写真:後藤知佳(NUMABOOKS)
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