INTERVIEW

デザインの魂のゆくえ

デザインの魂のゆくえ 「デザインと教育」篇 その3:ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンが「グリッドシステム」に託したもの(小田雄太×佐賀一郎)
後編「創作のよろこび、それを希求する自由を忘れることがなかった」

2018_JMB_sagasan-02

本連載「デザインの魂のゆくえ」の第1部「デザインと経営」に続く、第2部のテーマは「デザインと教育」。その第3回目の対談として、グラフィックデザイナーの小田雄太さんと同じく多摩美術大学グラフィックデザイン学科で教鞭をとる、デザイン史家でありグラフィックデザイナーでもある佐賀一郎さんを再びゲストに迎え、《ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンが「グリッドシステム」に託したもの》と題し、佐賀さんが監訳・解題を務めたヨゼフ・ミューラー=ブロックマン『遊びある真剣、真剣な遊び、私の人生 解題:美学としてのグリッドシステム』(ビー・エヌ・エヌ新社、2018年)をめぐる対談をお届けします。今回は後編です。

●下記からの続きです。
 前編「最終的な舞台としてグラフィックデザインという領域が選ばれていること」
●「デザインと教育」篇 序文はこちら

グリッドシステムの本質

佐賀一郎(以下、佐賀):学校における教育ということでは、グリッドシステムはいまだに最良の方法論のひとつだと思います。ミューラー=ブロックマンは自分が好き勝手やってきたから、学生に対しても、その人の資質に応じた表現をしてほしい、それに応じた生き方をしてほしいと思っている。でも彼は同時にわかっていて、裸のままの自分の姿で世の中に出ても、社会に接続することにつながっていかない。デザイナーの職能は、情報、メッセージを視覚化して伝えて、その機能と表現を通じて文化に資することにある。グリッドシステムという、情報を整理整頓して正確に伝える技術をマスターして、そのなかで自分の個性をどう生かすかを考える。それがなければ、すぐれたデザイナーにはなれないし、ひとりの人間として生きていけない。つまり個性を殺すのではなくて、社会のなかで生かすためのシステムとしてグリッドシステムが位置づけられていた。
 ただし、実際にデザイナーがグリッドシステムを使うとなると、グリッドにあてはめて、見出しやテキスト、図版やキャプションを配置していくわけですが、そんなにたやすいことではありません。一般には原稿の構造に合わせてグリッドを援用していくかたちになると思うのだけれど、グリッドを使いこなすということは、原稿内容、つまり伝えるメッセージを咀嚼することに直結しています。たんに形をつくるだけの話ではないわけで、主題やテキスト内容の総合的な理解力を求められる。しかも内容を理解したうえで、それと伝えるのにふさわしい合理的な設計をしなければならない。だから、単純に紙面を分割すれば済む話ではないし、グリッドをつくったとしてもそれが機能するかどうかは、検証を重ねないとわかりません。そしてほとんどの場合、グリッドは何度も引き直さなければなりません。グリッドシステム自体はすぐれて合理的なシステムですが、それを十全に使いこなすためには、途方もない努力が求められます。

小田雄太(以下、小田):ぼく自身、駆け出しのデザイナーのころに、自分に任された仕事をグリッドシステムを使って全部やってみようとしたことがあるんです。でも、どうしてもうまくいかないんですね。それはぼくがだめだっただけなのかもしれないですけど、ぼくなりにミューラー=ブロックマンが記したグリッドシステムをそのままやろうとすると、どうしても成立しない部分が出てきてしまう。試行錯誤してもうまくいかなくて、いったんグリッドを考えずにやってみると急に解けたりして。そういう意味では、厳密なルールをたどることには意味があるのだけれど、最終的にはそこから逸脱していくことも考えないといけないのかもしれない。

佐賀:グリッドシステムをほんとうに数理的な正しさのみのシステムとして捉えるかどうかは、この本の最大の命題のひとつです。私はミューラー=ブロックマンの作品を多数所蔵している竹尾ポスターコレクションの調査に2007年に加わり、2015年から研究チームの代表を務めていますが、そこでわかったのは、ミューラー=ブロックマン本人でさえも、グリッドに合わないレイアウトをしているということ。それは「合わない」というよりは「意図的にずらしている」。つまりすべての要素をガチガチにグリッドにはめているわけじゃない。

小田:ぼくも、自分の仕事でミューラー=ブロックマンの「ムジカ・ヴィヴァ」のポスターをオマージュしようとしたことがあって、実際にグリッドを切ってポスターの構成を分析、トレースしたことがあります。そうしたらズレてるんですよね。

佐賀:この本を制作していくなかで、担当編集者の吉田知哉さんがこんなことを言っていました。グリッドシステムはクラシック音楽の楽譜のようなものだと。いまだと、DTMで完璧にプログラミングして楽譜をなぞれば、誰でもキレイな音を鳴らすことができます。でもクラシックの素敵な音楽を奏でる人は、同じ譜面であっても同じようには弾いてない。そこには演奏家や指揮者による解釈と表現が存在している。クラシック音楽の楽譜のように、グリッドシステムもそうしたある種のガイドなのだと。
 つまり、グリッドにガチガチに当てはめること自体が目的になってしまっては意味がないわけです。実際、ミューラー=ブロックマンがシステマティックな教条主義者でなかったことは、みずから率先して大学の講義に現代音楽家のジョン・ケージを招いたり、ギャラリーを運営して現代芸術家を支援していたりする態度から見ても明らかです。
 またこれは、ウルム造形大学で学び、武蔵野美術大学に基礎デザイン学科を設立した向井周太郎さんも書かれていることですが、ミューラー=ブロックマンだけではなく、一世代上のマックス・ビルにしても、数理的な正しさだけでやってるわけではありません。そこで問題としたのは心地よさや緊張感といった平面要素の構成が視覚的に人間に与える「律動」です。人間がその律動を生みだすために、数理や厳密なルールが必要なのであって、システム自体にデザインが奉仕しているわけではないんです。人間ありきの世界像がそこには広がっています

小田:この本を読んだうえでいまの話を聞いて、ようやく腑に落ちました。ズレている理由がよくわかったというか、アレンジするんだな、と。
 でもそのずらしも、ベースとなるグリッドがしっかり構築されていないと、意味をなさないじゃないですか。構造から飛び出した表現をあえてするには、飛び越えるための構造がないといけない。そしてそのはみだした表現も含めてグリッドシステムなんですよね。そこを紐解かずに、グリッドシステムからはじまるデザインの思想みたいなものを解釈することはできないと思います。
 ミューラー=ブロックマンが雑誌『トランス・アトランティック』のロゴをつくるときに、「私は時代にかなった〈現代的な〉解決策を最初から実現不可能にする条件を受け入れることは一度もなかった。しかしこのときの私は、まったく未知のこの問題に解決策を提示し(中略)批判的視線に打ち勝てるデザインを見つけることが自分にできるのかどうか、どうしても知りたいと思った」(p. 107)と書いていますよね。これがおもしろくて。グリッドシステムはそういう意味でいうと、自分で設定したグリッドをそのままなぞるのではなくて、それを解釈したうえでどう返すのかが重要。その土壌として機能するというのが、グリッドシステムの大事なところなのかなという気がしています。

佐賀:ぼくがスイスのバーゼルで開催されたサマースクールでヴォルフガング・ワインガルトにデザインを教わったときは、3日間、1日8時間ひたすら切り貼りをやっていました。同じ原稿を使ったレイアウトを何パターンもつくるんです。その過程で自分にしっくりする文字サイズのバリエーションやレイアウトの位置関係を見つけたら、それをもとにグリッドを引けと言われた。さきほどの律動と同じだと思います。その律動に根ざしてシステム化する。最初にグリッドがあるのではない。順番が違うんですよ。それはすごく素敵な体験でした。ワインガルトだったからそういう方法だったけれど、エミール・ルーダーだったらまた違った教え方をしたことでしょう。
 いずれにせよ、グリッドシステムを静的な「システム」としてとらえてしまうと、そこですべてストップしてしまう。

われわれはなにを失ってしまったのか

小田:ミューラー=ブロックマンが啓蒙したグリッドシステムは、日本にちゃんと伝えられていないのかもしれませんね。日本のデザイン教育では、反証性が培われていないんじゃないかとぼくは考えています。グリッドシステムの理解についても、表層的なまま何十年も教えられてきたのかもしれません。

佐賀:日本人の特質かもしれないですね。見立てというか、スタイルを抜き取って独自にアレンジするセンスや技術に長けている。そこで本質が抜け落ちてしまう弊害はありますが、それを一概に排除することもできなくて。たとえばミューラー=ブロックマンのポスターはすごくわかりやすいじゃないですか。色彩構成の見本のようなデザイン。1960年代の日本の美大では、すでにバウハウス流の教育を輸入していて、みんな色彩構成をしていました。ただ、なぜそれをやるのかが明確に分かっていなかった。ミューラー=ブロックマンのポスターは、色彩構成が生みだす表現の深さと豊かさを、だれもがわかる形で明確に示してみせてくれた。自分が学校でやっていることの先に、どういう表現の可能性があるかを直接的に、わかりやすく垣間見せてくれた。日本人がそれを理解することができたのは、本質は知らずとも技術としての色彩構成を修めていたからです。
 目の前の理論とその先にある実作をつなぐことが、美術教育のひとつの理想です。ミューラー=ブロックマンの仕事のうち、ポスターデザインについては、教育の場でそれを使い、伝えることで、理論と実践をつなげることができたと思いますが、翻ってグリッドシステムについては、その本質について語ることがあまりになされてこなかったのかもしれません。

小田:ぼくは最近、バブル期のデザインというものがあると思っています。すごく簡単に言うと、広告デザインがグラフィックデザインの潮流に合流し、それを飲み込んでしまったのが80年代、90年代のバブル期のデザイン。この時期、たとえば今では大御所と呼ばれるようなアートディレクターが、すばらしい仕事をつぎつぎ発表していきました。その仕事の質についてなにかが言いたいわけじゃないんですけど、ただそれが、教育によってもたらされたものではないことに、ぼくは問題があると思っています。
 それまで、グラフィックデザインのあり方を更新するような表現は、先人たちが残した仕事への反省や批判から生まれてきていました。とくにモダンデザインには、そうした性質が色濃くありますし、ポスト・モダニズムもそうです。そこでは表現のあり方とそれに対するステイトメントがセットとなっていて、だから議論するための土台がありました。さきほど触れたチヒョルトとビルの論争なんて、その典型ですよね。でも日本のバブル期のデザインには、そうしたものがない。
 たしかに当時画期的な表現だったとは思いますが、そうした仕事を生みだしたのは、教育よりはむしろ資本による要請です。ひとつの広告をつくるのに莫大な予算がかけられていた。その結果としての仕事を支えていたのは、デザインを依頼されたデザイナー個人の力量や才能です。それは個々のデザイナーの「個性」として捉えられ、言語化したり理論化できない類いのものとされたし、デザイナーの側も積極的に説明はしなかった。むしろ、デザイナー自身も説明しないことで自分の居場所を経済のなかに見つけようとしていたし、そういう姿勢が看過されてしまったというのは、ある意味不幸なことかもしれません。
 なぜ言語化や理論化を避けたのか。ぼくも考えている最中のことなので断定はできませんが、ひとつには時代の雰囲気があったと思います。好景気に沸く世の中にあって、求められたのはノリというか、その時代の先端をいっているという「いま」の感覚だったのではないか。最先端の「いま」をつかまえていないと時代に置いていかれてしまう。だから永遠に「いま」でいつづけなければならない。仕事を振り返りそれを論理化するのでは時代の先をいくことはできない。そんな気持ちがあったのだと思うんです。そこにはデザイナーという職能や、デザインという行為が社会に与える影響について、デザイナー自身が考え言葉にするための反証性や客観性が介在する余地がなかった。
 いまはまたグラフィックデザインと広告デザインは潮流が分かれていますが、両者が不可分に結びついてしまった時期があるために、いまだにデザイナーが自分の仕事に反証性をもち込むことが難しくなってしまっているように思います。そのことは、一連のエンブレム騒動に対して各種デザイン協会・団体から、きちんとしたステイトメントが発せられなかったことが象徴していますし、学生を教えていて、彼ら/彼女らが自分のデザインを社会的な文脈に位置づけることが苦手なところにも現れています。それと、デザイン思考という言葉がビジネスシーンで流行るのも、こういうところに根がありますよね。デザイナーが当たり前のように反証性と客観性をもって仕事をしてきていれば、デザイン思考が備えている反証性・客観性がここまで取り上げられることも、ここまで言葉が一人歩きすることもなかったはずです。
 自伝を読むと、ミューラー=ブロックマンはデザイナーがもつ社会的な役割についてものすごく自覚的だったことが伝わってきます。そのことを端的に示しているのが、タバコの広告を断るときのエピソードです。「50年代末、私は自分の職業的活動をより意義深いものとするため、あらたな方針を定めた。それは造形者として一般社会に害となり得る仕事の依頼はすべて断るというものである。当時、私はトゥルマックたばこの宣伝を手がけており、チューリッヒ中央駅構内の左右全面に、さまざまな社会階層の人びとが喫煙する姿をモンタージュした大型の写真壁をデザインしたのだが、タバコの作つけから収穫、工場での加工、梱包までを説明する12のショーウインドウをデザインすることで、喫煙が健康に及ぼす悪影響を知った。それまで知らなかった事実に衝撃を受けた私は、これ以上この仕事を引き受けられないとトゥルマックの社長に伝えた」(pp. 50–51)。ミューラー=ブロックマンにとって、デザインをすることとデザイナーであることは、自分が属する社会の成員として生きることと同義だったのだと思います。彼が生きた時代とはデザインを取り巻く経済の状況が変わっているので、現代のすべてのデザイナーに同じ態度を求めることはできないかもしれないけれど、少なくともミューラー=ブロックマンのような市民意識をもってデザインにあたることが、いま必要なのではないでしょうか。

佐賀:デザインと資本の力関係がすごく極端だった時代ですよね。デザインの目的が資本に取りこまれてしまった。その流れは、いまも変わらないように感じます。
 考えなければならないのは、そのことによって反証性がなくなった、客観性がなくなったということもあるけれど、いったいわれわれはなにを失ったのかということですよね。商品の材質や機能、品質がほとんど横並びになって差別化できなくなったときに、そのうえに乗せるイメージに差をつけて、商売することが行われた。表象的な効果だけを考えて、経済が最優先されるようになり、デザインが備えていた社会との関係などの本質的な部分が後退してしまった。それはグリッドシステムが本来もっていた意味が後退していく時期と、歴史的にも符号します。
 イメージが主体になって、ヴィジュアルコミュニケーションから客観性が失われていく。グリッドシステムもそうだけれど、客観性が成立するためには、その背景に社会とデザイナーの共生関係が必要です。つまり「私」だけではなく、対話ができる「あなた」の存在が必要不可欠になる。客観的な情報を伝えることに専念することは、受け手であるあなた自身がその価値を判断してくださいというデザインを求める心と一体化しているものです。それはイメージ広告とは本質的に異なります。イメージ広告は、受け手の知性にではなく感情に訴えかける。そこには知的な意味での信頼関係は発生し得ない。そうなってしまったときに、デザインとかデザイナーとか、クライアントも含めて、なにを失ったのかというと、結局、論理性と客観性だけではなくて、社会との共生関係、信頼関係がなくなった。私はあなたを信用しています、あなたの判断を信用します、それが客観的なコミュニケーションの背後にある基本姿勢です。ぼくらはそれを失ってしまった。このことの意味を、いまほんとうによく考えてみないといけません。

小田:そのとおりだと思います。いま、デザインがもつ社会性をどう考えるかは、すごく大きなテーマになります。

佐賀:戦後日本は軍国主義から一気に転回しています。復興期に日本のグラフィックデザイン界にデビューした田中一光[★1]や杉浦康平[★2]、横尾忠則[★3]の世代、ミューラー=ブロックマンの妻である吉川静子[★4]もそうなのですが、この世代は、日本が神の国であると信じ込まされて戦争を経験したのに、戦争に負けた途端、親の世代がそれまでとまったく違うことを言うのを目の当たりにしました。そのうえ教科書を黒塗りするという経験までしている。だからこそ、国や年上に対する根本的な不信感があったし、今度こそ人任せにせずみずからの手で時代と社会を築いていかなければならないという信念があった。そうした人たちだったから、グラフィックデザインがもつ社会的な役割に自覚的だったし、積極的に議論も重ねることができた。要するに非常に特殊な世代だと思います。この世代に比較すると、さきほど小田さんが話されたバブル期に華々しく活躍した終後に生まれた世代は、また全然違った意識をもっていたはずです。でも、それが具体的にどのような意識だったのかはいまだ明確になっていない。彼らの世代に自覚が足りなかったとかそういうことではなくて、その意識がどういうものであったのかが、まだ歴史化できていない。歴史としてある距離を置いて捉えることができるようになったときに、はじめていい点も悪い点も評価できるようになるわけです。
 近代以降の日本の状況は、世界的に見ても特殊なものだと思います。とくに第二次世界大戦から現在にかけては、領土内で地上戦が行われ、世界で唯一の被爆国となり、首都をはじめとする主要都市の大半が焦土と化しながらも、アメリカに半ば依存することで他国に類を見ない復興を果たし、世界に冠たる経済大国にまでのぼりつめた。けれどこの20年で二度も大きな自然災害に見舞われ、宗教団体による無差別テロを経験し、この先どれほどの時間がかかるのかさえわからない核処理をしなければならない。
 だから、ぼくら自身が問題意識をもって、こういうことをもっと歴史的に解釈して、議論を深めていく必要がある。そのなかで、いまの時代においてデザインがもつ役割、果たすべき社会的責任についても話しあっていかなければならないのだけれど、共通の基盤というか、議論を深めるための共通認識が、不幸なことにいまだできあがっていない。

★1: 田中一光(Ikko Tanaka, 1930–2002)
奈良県生まれ。京都市立美術専門学校図案科(現京都市立芸術大学)で学ぶ。カネボウ、産経新聞大阪本社、ライトパブリシテイ、日本デザインセンターなどを経て、1963年、田中一光デザイン室主宰。西武、セゾングループ、無印良品を始め、多様なグラフィックデザインを手がける。毎日デザイン賞、ニューヨークADC賞、東京ADCグランプリなどを受賞。また、ニューヨークADC、東京ADCの殿堂入り。紫綬褒章受章、文化功労文化功労者表彰。メキシコ現代美術文化センター、ミラノ市立近代美術館、富山県立近代美術館、サンパウロ現代美術館、バウハウス・アーカイブ・ミュージアムなどで個展を行う。著書に『デザインの周辺』『田中一光:伝統と今日のデザイン』など。グラフィックデザイナー、アートディレクターとして日本の伝統的美学とモダンデザインを融和した独自のデザイン美学を創造した、戦後日本のグラフィックデザインを牽引した代表的人物。

★2: 杉浦康平(Kohei Sugirura, 1932–)
グラフィックデザイナー。1932年東京生まれ。東京藝術大学美術学部建築学科卒業。髙島屋宣伝部を経てフリーランス。雑誌・書籍デザインを主な活動領域に、タイポグラフィ、印刷表現、ダイアグラム表現を追究。知覚論、音楽論、アジアの図像研究などを媒介に独自のヴィジュアル・コミュニケーション論を展開。64年から67年にかけてはドイツウルム造形大学の客員教授を務める。無二の存在として、1950年代末から今日に至るまで、同時代・現代のデザイナーに多大な影響を与えつづけるデザイナー。55年、日宣美賞、82年、文化庁芸術選奨新人賞、ライプツィッヒ装丁コンクール特別名誉賞など受賞多数。97年、紫綬褒章。主な著書に『日本のかたち・アジアのカタチ』『かたち誕生』『生命の樹・花宇宙』『宇宙を叩く』『アジアの本・文字・デザイン』『文字の美・文字の力』『多主語的なアジア』など、作品集に『疾風迅雷:杉浦康平雑誌デザインの半世紀』など。

★3: 横尾忠則(Tadanori Yokoo, 1936–)
兵庫県生まれ。兵庫県立西脇高校卒業後、神戸新聞社等を経て1960年に上京。劇場ポスターや舞台デザインを通じて、日本の図像・文字表現と同時代のポップアート、サイケデリック・グラフィックが融合した独自のグラフィク表現を創造。モダニズム全盛期の只中で、その限界を予告的に示した。60–64年日本デザインセンター在籍。64年宇野亜喜良、原田維夫とともにスタジオ・イルフィル設立。65年解散。同年「ペルソナ」展に参加し、センセーションを巻きおこす。72年ニューヨーク近代美術館で個展。81年に画家に転向。以降、アムステルダム市立美術館、カルティエ現代美術財団、京都国立近代美術館、東京都現代美術館、兵庫県立美術館、金沢21世紀美術館など国内外多数の美術館で個展を開催。作品はニューヨーク近代美術館など国内外118の主要美術館に収蔵されている。

★4: 吉川静子(Shizuko Yoshikawa, 1935–)
福岡県大牟田市生まれ。スイスで活動する具体芸術家。津田塾大学を卒業後、東京教育大学(現筑波大学)工芸建築学専攻で学ぶ。1960年、東京で開催された世界デザイン会議に通訳として参加したことがきっかけでビジュアルコミュニケーションを志し、61年に渡独。ウルム造形大学ビジュアルコミュニケーションコースで2年次まで学ぶ。63年、ウルム造形大学を中退し、ヨゼフ・ミューラー゠ブロックマンのアトリエでグラフィックデザイナーとしてのキャリアを重ねる。67年、ミューラー゠ブロックマンと結婚。この頃から具体芸術の領域でアーティストとしての活動を開始。以来今日までおよそ半世紀にわたってアーティストとして活動。ヨーロッパ流の論理的、構成主義的な思考と日本的な感性が融和した繊細かつ明瞭な作品群は世界的評価を得ている。2018年5月、東京のアクシス・ギャラリーで約30年ぶりとなる個展「私の島は何処」が開催された。

小田:ほんとうにその通りで、だから他ならないデザイナーに、デザインについての反証性が欠けているということは不幸でしかない。遅きに失している感は否めませんが、これが現実だから、ここからやっていくしかない。そういうなかで、今回のこの本からなにを読み取り、それをどれだけちゃんと受けとめられるかは、もっともっと議論していかないといけないな、そう思っています。

佐賀:先ほど小田さんが指摘されたように、ミューラー=ブロックマンが示した一市民としての態度は、今後デザイナーに求められるものであることは間違いないと思います。デザインとデザイナーには、社会に対しての責任があることを自覚しないと、エンブレム騒動のようなことをいくらでも繰り返してしまうでしょう。
 ただ、そのうえで、デザインにとことん向き合えば、そこに自分自身のよろこびがあることも伝えておきたいと思うんですね。コンサート・ポスターの制作に取り組んでいたときのことを振り返って、ミューラー=ブロックマンは印象的な一文を記しています。「魅力的な、しかし極度に難しい課題は私を魅了してやまなかった」(p. 55)。自伝は淡々とした筆致で書かれているので実感しにくいかもしれませんが、イラストレーションに軸を置いた主観的な表現から、グリッドシステムに依拠した客観的で統一のとれた表現へのメタモルフォーゼを遂げるプロセスは、けっして簡単なものではなかったはずです。それまでの自分の仕事を批判的に検証し、否定し、再構築しなければならない。それは、生半可な気持ちではとても実現できないでしょう。最初はうまくいかないだろうし、うまくいったと思っても、そこで満足することを自分自身に許さないようにしないといけないのですから。
 でも、そんな苦しみをともなう作業の繰り返しのなかでも、ミューラー=ブロックマンは創作のよろこび、それを希求する自由を忘れることがなかったのだと、この一文は示してくれています。
 本書のタイトルにもなっている「遊びある真剣、真剣な遊び、私の人生」という言葉は、原著タイトルの翻訳なのですが、ミューラー=ブロックマンにとってデザインとはまさに「遊びある真剣、真剣な遊び」だったのだと思うんです。日本語で「遊び」というとあまりいい印象がないかもしれませんが、真剣に、つまり自分の人生をかけてどこまでも真摯に向きあえば、どんな遊びにも等しく価値がある、そんなふうに思います。あらゆる個人、あらゆるデザイナーが、真剣に、自由な遊び心をもって仕事に取り組めるとすれば、これほどすばらしいことはない――結局のところ、ミューラー=ブロックマンはそう語りかけているのだと思います。

ムジカ・ヴィヴァ、1972年、竹尾ポスターコレクション所蔵

ムジカ・ヴィヴァ、1972年、竹尾ポスターコレクション所蔵

1975年頃、自宅にて

自宅書斎にて、1975年頃、吉川静子氏提供

[了]

構成:長田年伸


PROFILEプロフィール (50音順)

小田雄太(おだ・ゆうた)

デザイナー、アートディレクター。COMPOUND inc.代表、(株)まちづクリエイティブ取締役。多摩美術大学非常勤講師。2004年多摩美術大学GD科卒業後にアートユニット明和電機 宣伝部、その後デザイン会社数社を経て2011年COMPOUND inc.設立。2013年に(株)まちづクリエイティブ取締役に就任、MADcityプロジェクトを始めとしたエリアブランディングに携わる。最近の主な仕事として「NewsPicks」UI/CI開発、diskunion「DIVE INTO MUSIC」、COMME des GARÇONS「noir kei ninomiya」デザインワーク、「BIBLIOPHILIC」ブランディング、「100BANCH」VI・サイン計画など。

佐賀一郎(さが・いちろう)

デザイン史家、グラフィックデザイナー。多摩美術大学グラフィックデザイン学科准教授(美術博士)。近代以降のビジュアルデザインとタイポグラフィに力点を置いたデザイン史を俯瞰的に研究。モダンタイポグラフィ/モダンデザインとはなにか? その現代的な意義・意味はなにか? なにが普遍的で、なにがそうでないのか? そこに時代を超えて通用する原理・原則はあるのか? そもそもデザインとは一体なにか? 広い意味での造形芸術の文化的・社会的・個人的価値とは? こうした美学的な問いを探究。共著『活字印刷の文化史』(勉誠出版、2009年)、訳・解説書『ウィム・クロウエル:見果てぬ未来のデザイン』(ビー・エヌ・エヌ新社、2012年)、監訳・解題『遊びある真剣、真剣な遊び、私の人生 解題:美学としてのグリッドシステム』(ビー・エヌ・エヌ新社、2018年)など。


PRODUCT関連商品

遊びある真剣、真剣な遊び、私の人生 解題:美学としてのグリッドシステム

ヨゼフ・ミューラー゠ブロックマン [著]
佐賀一郎[監訳・解題]
村瀨庸子[翻訳]
ビー・エヌ・エヌ新社、2018年

「デザイナーとしてどう生きるのか」
20世紀を代表するグラフィックデザイナー、ヨゼフ・ミューラー゠ブロックマンの貴重な肉声から、デザインの意義、デザイナーの責任と自由をとらえ直す一冊。ヨゼフ・ミューラー゠ブロックマンは、スイス派を代表するデザイナーの1人であるとともに戦後を代表するデザイナーの1人である。彼が残した数々のポスターやCI/VIなどのグラフィックデザイン各領域での実作。レイアウト手法として原典的な評価を確立した『グリッドシステム』をはじめとする著作の数々。スイス派の存在を世界に知らしめた国際デザイン誌『ノイエ・グラーフィク』の発刊。アスペン会議、世界デザイン会議・東京など、世界各国で行った講演活動。学科長を務めたチューリッヒ応用美術学校や、ウルム造形大学、大阪芸術大学など、世界各国での教育活動。その〈実作〉〈著作〉〈教育〉にわたる業績の数々によって、ミューラー゠ブロックマンは、第2次世界大戦後において、グラフィックデザインの方向性を指し示す歴史的役割を果たした。本書では、ミューラー゠ブロックマンが、動乱の20世紀において、何をデザインの主眼としたのか、どのようにデザイナーという職業に向き合っていたのかが語られている。また、デザイン史家の佐賀一郎(多摩美術大学)による解題、「美学としてのグリッドシステム」では、ミューラー゠ブロックマンがデザイナーとして社会と結んだ関係を、俯瞰したデザイン史のもとに考察。『グリッドシステム』の概要、技術解説をふまえつつ、背景にある理念と表現を一致させようとした、ミューラー゠ブロックマンの美学をひも解く。これまであまり知られていなかった妻である芸術家吉川静子と、たびたび訪れていた日本との密接な関わりにも言及している。

【目次】
日本語版序文
ラルス・ミューラー氏による原書序文
自伝:遊びある真剣、真剣な遊び、私の人生
作品:ポスター 1951–1994
解題:美学としてのグリッドシステム
 ・デザイン史とミューラー゠ブロックマン
 ・ミューラー゠ブロックマンと吉川静子
 ・グリッドシステムの技術と表現、美学
資料:年譜、参考文献
あとがき