INTERVIEW

デザインの魂のゆくえ

デザインの魂のゆくえ 「デザインと教育」篇 その3:ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンが「グリッドシステム」に託したもの(小田雄太×佐賀一郎)
前編「最終的な舞台としてグラフィックデザインという領域が選ばれていること」

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本連載「デザインの魂のゆくえ」の第1部「デザインと経営」に続く、第2部のテーマは「デザインと教育」。その第3回目の対談として、グラフィックデザイナーの小田雄太さんと同じく多摩美術大学グラフィックデザイン学科で教鞭をとる、デザイン史家でありグラフィックデザイナーでもある佐賀一郎さんを再びゲストに迎え、《ヨゼフ・ミューラー=ブロックマンが「グリッドシステム」に託したもの》と題し、佐賀さんが監訳・解題を務めたヨゼフ・ミューラー=ブロックマン『遊びある真剣、真剣な遊び、私の人生 解題:美学としてのグリッドシステム』(ビー・エヌ・エヌ新社、2018年)をめぐる対談をお届けします。今回は前編です。

●「デザインと教育」篇 序文はこちら

デザインを取り戻すために、どういう文脈を用意するか

小田雄太(以下、小田):そもそもこの連載をはじめようと思ったきっかけには、2015年に起きた東京オリンピックのエンブレム騒動があります。佐野研二郎さんがデザインしたエンブレムに盗作であるとの嫌疑がかかり、最終的に佐野さんみずからの申し出によってデザイン案が取り下げられることになった、あの騒動です。ぼくがエンブレム騒動で問題だと思ったのは、佐野さんのデザインが盗作だとかパクリだとか、そういうことではなく、結局、デザイナーがみずから先陣を切ってエンブレムのデザインそのものをきちんと検証することなく、世論に流されるかたちでデザイン案が取り下げられてしまったことです。
 重要なのは、オリンピック組織委員会も佐野さんも、エンブレムのデザインについては問題がないという認識でいたにもかかわらずそれを取り下げなければならなくなったということ。たしかに、最終デザインにいたるまでに複数回の修正プロセスがあったり、原案と最終案とのコンセプト説明に齟齬があったりと、看過できない問題点もありましたが、エンブレムの取り下げにいたったのは、それでは世の中が納得しなかったからでしょう。その意味で、世論に流されたといえます。エンブレム騒動が端的に示したものは、デザイナーであるぼくらは、デザインという営みが社会に浸透していて、それを担うデザイナーも社会的な役割を担っていると思っていたかもしれないけれど、それがたんなる幻想に過ぎないのかもしれないということです。
 ぼくは佐野さんのエンブレムデザイン自体がよかったとは思っていません。デザインの好き嫌いではなく、そこにデザイナー自身のチャレンジがあったのかという点で疑問があるからです。たとえばロンドンオリンピックのエンブレムも、それを見たイギリス国民の批判にさらされたことがありましたが、あのデザインにはエンブレムのあり方そのものに対して批判的でありながらそれを更新し社会に接続しようとするような、そうしたチャレンジが感じられました。こうした議論を周囲のデザイナーたちともっとしたかったのですが、残念ながらほとんど深められませんでした。
 その一方で、2005年前後からだと思いますが、「デザイン思考」という言葉が取り沙汰されるようになりました。デザイン思考というワード自体は、1991年にアメリカ西海岸で創設されたデザインコンサルティング会社IDEO(アイディオ)によって知られるようになったものです。クライアントの要望にデザインという形を与えて答えることがデザイナーの仕事ですが、たんに形にするのではなく、クライアントの考えを深く掘りさげて、より根本的な問題解決や価値の提案をおこなうことが、デザイン思考の特徴です。日本では、原研哉さんのエッセイ集や佐藤可士和さんの仕事術をまとめたビジネス書によって「デザイン」という言葉が広く知られることになり、そこからデザイン思考も一般に知られるようになったものの、気がつけばあらゆる場面で「デザイン」という言葉が氾濫するようになっていました。しかもそこで語られるデザインは、造形であるよりもビジネス、要するに経済用語のひとつになってしまった印象すらあります。
 「デザイン」という言葉がもっている意味範囲が広いからこその現象なんでしょうけれど、果たしてそこにはほんとうに思考や文脈が介在しているのか。デザインという言葉がもっている内実を考えずに、上滑りして消費されていっているような、そんな状況だと思います。だからこそ、エンブレム騒動のときも、デザインについて話しているようでいながら、議論の中心にデザインがなく、さらにグラフィックデザイナーが意思表明をしているように見えなかったのではないか。そういうところから、グラフィックデザインの実務家の一人として、「デザイン」という言葉の定義をグラフィックデザイナーの手に取り戻すつもりで、この連載を企画しています。
 今回、連載の第二篇として「デザインと教育」というテーマに踏み込もうと思ったのは、DOTPLACEにもすでに書いたことですが、アートディレクターの河北秀也さんが『週刊東洋経済』に書かれていたコラム「三者三様」を読んだからです。「日本にデザイン教育はなかった」という挑戦的な見出しがつけられたそのコラムで、河北さんはデザインが社会とどうつながっていくかについて書かれていた。そのなかに、「デザイン」という言葉からなにを連想するかという問いを投げかけると、海外では年代を問わず「生活や暮らし」という返答があるが、日本人なら形や色と答えるだろう、という下りがありました。ぼくはデザイン教育は、物事の表層について教えるだけではなく、それに触れる前と後ではその人自身が同じ人間ではなくなるような、喚起的なものであるべきだと考えている。河北さんのコラムで描かれた、「デザイン」という言葉に対する日本と海外との反応の差には、いまデザイン教育に携わる人が考えなければいけない問題が存在していると思います。
 そういうことを考えていたときに、アドリアン・フルティガーの『図説 サインとシンボル』(小泉均・監修、越朋彦・翻訳、研究社、2015年)とジョセフ・アルバースの『配色の設計』(永原康史・監訳、和田美樹・翻訳、ビー・エヌ・エヌ新社、2016年)の翻訳書が、相次いで出版されました。このうちアルバースの『配色の設計』をめぐって、教育者の視点でこの本をどう読み解くのか、そこから現在のデザイン教育が抱えている課題と可能性をどう考えるのかを、以前佐賀さんと対話させていただきました。
 今回、佐賀さんが詳細な解題を寄せたヨゼフ・ミューラー=ブロックマン[★1]の自伝である『遊びある真剣、真剣な遊び、私の人生 解題:美学としてのグリッドシステム』が刊行されました(ビー・エヌ・エヌ新社、2018年)。早速読ませてもらったんですけど、おもしろい本ですよね。なにがおもしろいかというと、この本でミューラー=ブロックマンが語っている彼自身の人生は、たんに自伝であることを超えて、あるデザイナーの思想についてのテキストになっていること。そう読める、あるいはそれが伝わるのは、佐賀さんが書かれた解題が充実しているからです。

★1: ヨゼフ・ミューラー=ブロックマン(Josef Müller-Brockmann, 1914–1996)
1950–60年代にかけて隆盛したスイス派を代表するグラフィックデザイナーのひとり。当初はイラストレーションを主軸に置いていたが、1950年頃にサンセリフ体と幾何学的フォルムを用いた構成的デザインに作風を大きく転換。冷静かつ理知的でありながらも独特の明るさと分かりやすさを備えるデザインは、具象から幾何学的抽象へと進んだモダンアートとグラフィックデザインの関係、そしてデザイナーが社会でとるべき中立的立場を規範として示した。デザイナーとして活動するかたわら、教育活動にも注力し、チューリッヒ応用美術学校グラフィックデザインコースの科長(1957–60年)、ウルム造形大学講師(1962–63年)を務める。60年代から70年代にかけては日本でも特別講義・展覧会などを行った。1970年代に入ると、デザイナーとして長年培った経験と方法論をもとに著作活動にも従事、特にビジュアルデザインにおけるグリッドシステムの技術、理念をまとめた1981年の著書『Grid Systems in Graphic Design(グリッドシステム)』は、今なお世界中で参照され、原典的な評価を確立している。

佐賀一郎(以下、佐賀):ミューラー=ブロックマンの自伝を翻訳出版するときに、ただたんに和訳して出しても、あまり意味がないだろうというのが、本書の担当編集者である吉田知哉さんが考えていたことでした。吉田さんは、過去の偉大なデザイナーの本を出版するとして、まずその本そのものの価値をどう捉えるかが一番大事なのだけれど、そこで見出した価値を読者や社会にうまく伝えるためには、「現代に生きるぼくらはこの本の価値をこう受け取った」というメッセージを、一緒に内包する必要があると考えてくださいました。ぼくの解題にかなりの紙幅が割かれているのには、そういう理由があります。

小田:その試みはかなり成功していますね。佐賀さんの考察、とくにミューラー=ブロックマンと彼の妻になる吉川静子さんとの出会いから、戦後日本のデザイン史を参照しつつ、ふたりが歩んだデザイン人生が、日本にどう合流していくのかまでの記述は、佐賀さん自身の実感をともなった視点で描かれていて、説得力がありました。人の人生を語る、その人が生きた社会や歴史を記述するときに、教科書的な客観性はもちろん必要ですが、そこから一歩踏み込んで、記述者がなにを読み取ったのかが、しっかりと記されている。だからこそ、いまの時代に翻訳出版する意味のある本になっているのだと感じます。

佐賀:いまこの本を翻訳出版するにあたって、どういう文脈を用意して、その文脈を成り立たせるためにどんな記述が必要になるのかについては、吉田さんと議論してずいぶん早い段階で見えていたのですが、どうしても私が書ききれなかった。それはまず知識不足を補うところから、つまりヨゼフ・ミューラー=ブロックマンと彼が生きた時代、彼が取り組んだデザインへの理解を深めることが絶対に必要だったからなんですど。もうひとつ、ミューラー=ブロックマンが自分の人生をかけてなした仕事の意味を、たんなる知識としてだけではなくて、私自身の問題として引きつけて考えることができないと、とてもいまの時代を生きる人に届くテキストにはできないと感じたからです。ミューラー=ブロックマンと同じように、とまではいかずとも、できるだけ彼に近づいて、デザインというものを考えられないと、学術的な解題テキストにしかならない。
 結局、出版まで4年もかかってしまったわけですが、その間、吉田さんとはずっと議論を重ねてきましたし、そのほかかかわった人や、自分がいま大学で教えている学生たちとの交流のなかからも、たくさんヒントや気づきをもらうことで、ようやくこうしてひとつの文章として完成させることができた。だから、たしかに文章は私が書いたわけですが、自分ひとりで書いたのではなくて、そうしたかかわりの総体としてこのテキストが成立しています。その時間が無駄ではなかったというか、いま小田さんのまずもっての感想を聞けて、少し安心しました。

自分自身の資質を見極める

佐賀:さきほど小田さんが「デザインを取り戻す」ということを言われていましたが、ぼくはこの本の出版を通じて、ミューラー=ブロックマンという人を客観的に捉え、その人と仕事を冷静に分析しつつ、けれど実感をもって制作にかかわってきました。翻って、そのプロセスは、まさにぼく自身が「デザイン」を取り戻す過程だったように感じています。
 デザイナーであれば誰しも、デザインの価値が下がることは本意ではないはずです。ここで話題にしているのは、社会的な承認や、仕事への対価の話ではなくて、人間の営みのひとつとしてデザインがもっている価値です。自分がやっているデザインという営為に価値がないとはやっぱり言いたくないですし、言われたくない。けれど、冒頭で小田さんがおっしゃられたように、エンブレム騒動をきっかけに、デザインそしてデザイナーの社会的な価値や意義が大きく揺らぐことになりました。エンブレム騒動で問われたのは、大きく言えば「社会におけるデザインの価値」だったけれど、残念ながらぼくらはそれにきちんと答えることができなかったし、いまもできていないのではないでしょうか。ミューラー=ブロックマンのこの本は、そうしたことを考え、語るための地平を提供してくれるものです。だから、彼の人生や思想を追体験的にたどる必要があったし、その過程を経ることで、たしかに私自身も、デザインを自分の手元にたぐり寄せることができたと感じています。

小田:自伝パートだけをさらっと読んでしまうと、リアルさはあるもののそれほど心に残らないかもしれません。けれど、佐賀さんの解題と往復しながら読むことで、ミューラー=ブロックマンの文章への理解が全然違ってきます。ミューラー=ブロックマンというとスイス派の巨匠としてのイメージばかりを想像してしまいますが、じつはイラストレーターとしてキャリアをスタートさせていて、いろいろな経験を経てグラフィックデザイナーになっている。さらにグラフィックデザイナーになってからも自分の仕事につねに批判的で、グリッドシステムに基づく整然としたデザイン手法を見出すまでにもさまざまな紆余曲折を経ている。自分の会社をつくって成功するけれど、大きくなりすぎて理念の共有が難しくなると解散するのとかもそうで、じつはすごく人間臭いところのある人だったことが浮かび上がってきます。

佐賀:彼の人生をつぶさに追ってみると、挫折の連続だったことがわかります。あれほど輝かしい仕事を残した人とは思えないほどです。

小田:とくに印象的なのは、彼がものすごく自己批判的で、どんなときもその精神を忘れないことです。たとえば、「ひとりであること。結局、すべては自分の気力や思考力、自己批判にかかっている」(p. 20)ということを、18歳のときに自分の信条として掲げていたりする。ほかにも「自分の職業上のキャリアが自らの気力と自己批判、規律、学ぶことへの意志によって左右されるであろうことはわかっていた」(p. 19)とも書いている。どうしてミューラー=ブロックマンはそうなり得たのか。時代の影響は大きかったんじゃないかと思うんです。第一次世界大戦と第二次世界大戦に挟まれた時代にミューラー=ブロックマンがデザインを半ば独学しながら修めたことを考えると、まだ「デザイン」というものが固まっていなかったというか、バウハウスに端を発するモダンデザインの草創期にあって、デザインが担う領域を相対的に捉える必要があったのではないか。だからこそ、心理学の権威であるユングをはじめとしたいろいろな人の授業を聴講して、さまざまな領域の勉強をしたんじゃないか。佐賀さんとしては、ミューラー=ブロックマンの自己批判精神の源はどこにあると考えていますか。

佐賀:時代背景があったことはもちろんですけど、それ以上に彼個人の資質がそうさせたのでしょうね。その資質がどこから来たのかと考えると、やはり生い立ちは大いに関係していると思います。8人兄弟の7番目の子どもとして生まれ、1歳のときに父親が第一次世界大戦で戦死し、母親の手ひとつで育てられて、中学卒業と同時に仕事をしなければならなかった。「私たちにとって幸いだったのは、母がすばらしく人間的で聡明な教育者でいてくれたことだった。私たちの道徳観を育んだのは、母の気丈さと人間性である。それは生涯を通じて私を導いた」(p. 11)というように、彼は母親のことをとても尊敬しているし、自分の生い立ちを呪ったことはなかったかもしれない。けれど同時に、自分はマイナスからスタートしている、そういう自覚はあったと考えて間違いないでしょう。
 彼が芸術的な創作を糧とする職能の道へ進んだのは、中学校の教師に作文の挿絵をほめられたことがきっかけですが、後年の彼の歩みから考えると、許されるのならばもっと勉強をしたかったはずです。でも、家庭の経済状況がそれを許さなかったし、おそらくは母親を助けたい思いもあったのでしょう。だから中学校を卒業すると、写真凸版製版の見習いとして地元の印刷所に就職した。そこから職を転々とする道がはじまります。印刷所のドラフトマン、建築事務所のアシスタント、グラフィックデザイナーのアシスタントと、さまざまな職業を経験するわけですが、そのたびに「自分はこういうことでは満足できない人間なんだと」気持ちをあらたにしたと思うんです。生きていくためには同じ職業を長く続けて技術を身につけるほうが有利にもかかわらず、自分の信念に忠実に生きることを選ぶ。
 こう話すとまるで理想に邁進する美しい姿のように聞こえるかもしれませんが、ミューラー=ブロックマンが置かれていた環境を考えれば、非常にリスクの高い選択です。にもかかわらず、その選択をする。極限で苛酷だったからこそ、彼は自分自身の資質を見極めることにかんして、とても慎重だったのではないか。状況に流されるのではなく、自分と向き合あい決断する。だからすごく早い段階で、自分のことを見切った。創造的な行為、社会にとって意義のあることをやるために自分は生まれてきたんだという、そういう気持ちが、挫折を経験するたびに定まっていったのだと思うんです。

デザインとデザイナーの人生

小田:チューリッヒ応用美術学校の聴講生になるとき、ミューラー=ブロックマンは人生の基本方針を決めますよね(p. 20)。当時18歳。そんな時期に「自分はこうあるべき」ということはなかなか決められないです。ミューラー=ブロックマンがすごいのは、基本方針を決めて、それに従って行動した結果、反省点や改善点を探すことをやめないところ。そもそも彼がたてた基本方針自体が、一貫して自己批判、自己反省をベースにしています。象徴的なのが「職業や人間関係の失望を受け入れ、その原因を探ること。客観的な自己批判の姿勢を保つこと。自己批判こそが、良いときも悪いときも最良の友人である」(同)という記述です。自伝では、自分の仕事に対する自己批判が重ねられます。その繰り返しがおもしろい。
 たとえば、第二次世界大戦後におこなった舞台美術のデザインについて、「舞台美術家として、また衣装デザイナーとしての成功とは無関係に、私は自分の仕事への批判的な態度を保っていた。(中略)私には自分の仕事が平凡なものにしか思えなかった。その思いに駆られた私は、ついに劇場の仕事をすべて断るようになった」(pp. 44–45)、あるいは1949年の展覧会デザインの仕事についても「このイラストレーションは観客や報道陣に高く評価されたが、私自身はその成果に批判的で、こうした驚きの効果があまりにもたやすく演出できることにある種の不信感を抱いた。また、タイポグラフィ・写真・統計図表・ドローイングは統一性に欠けており、とうてい満足することはできなかった」(p. 37)。当時はまだグラフィックデザイナーというよりも、イラストレーターとしての意識がつよかった時期ですよね。

佐賀:自伝はミューラー=ブロックマンの晩年に書かれたものなので、その当時ほんとうにそう思っていたかどうかについては、やや留保が必要だとは思います。しかし当時のスイスでは、マックス・ビルやリヒャルト・パウル・ローゼといった偉大な先達たちが、すでにグリッドシステムと呼んで差しつかえないような、統一的で客観的なグラフィックデザインを実現していましたから、そういうことへの意識はあったのかもしれないですね。

小田:自伝ではほとんど触れられていないですが、ヤン・チヒョルト[★2]の影響もすごく受けていますよね。チヒョルトはタイポグラフィにかんして決定的なマニフェストを掲げた人です。サンセリフ体の使用、アシンメトリーな構成など、いわゆるモダンタイポグラフィ、モダンデザインの旗手だった。ところがのちに古典主義に回帰し、モダンデザインそのものに対して批判的な立場を取るようになります。それが原因でマックス・ビル[★3]と論争になった。
 チヒョルトは、自分でルールをつくりつつも、基本的にそのルールに則っておけば大きな失敗はしないが、未知の問題に直面したときはそのルールが通用するかどうかはわからない、というような、教条主義や原理主義とは少し違ったスタンスの人ですよね。モダンデザイン批判も、そうした視点に立脚している。そこに対して、マックス・ビルから批判が来たわけですけど、先人たちがそういうこと、つまりデザインをめぐる議論を重ねていた。ミューラー=ブロックマンの同時代性みたいなものは、いまのぼくらにはつかみにくいけれど、デザイナーとしての彼の思想を理解するには、そういった要素を参照すると見えてくるものがあるのかなという気がします。

★2: ヤン・チヒョルト(Jan Tschichold, 1902–1974)
ドイツ生まれのタイポグラファー。書体デザイナーだった父の影響で1919年から21年にかけてカリグラフィを学ぶ。23年に開催されたバウハウス展に深い感銘を受けたのをきっかけに、キュビスム、未来派、ダダ、構成主義、デ・ステイル、バウハウスなどの造形芸術の歴史的潮流を踏まえた「ニュー・タイポグラフィ」の原理を実作と著作を通じて提唱。20代の若さで、サンセリフ書体の利用、非対称のレイアウトの採用など、モダンデザインの諸原則を、印刷現場の職工からグラフィックアーティストにまで幅広く知らしめた。33年、ナチス・ドイツによる拘留と教職の剝奪をきっかけにミュンヘンからスイス・バーゼルに亡命。以降、モダンデザインから距離をとるようになり、イギリスの伝統的タイポグラファーと交流を深めながら、ペンギン・ブックスのフォーマット・デザインや伝統的ローマン体「Sabon」の書体デザインなどを通じて、革新と伝統の両立を目指す独自の立場を提示した。

★3: マックス・ビル(Josef Max Bill, 1908–1994)
スイス生まれ。具体芸術の活動を通じて絵画、彫刻、生活用品、建築、都市におよぶ多様な造形活動の統合による環境造形を実践。はじめチューリッヒ芸術学校で彫金を学んでいたが、1925年のパリ旅行時に聴講したコルビュジエの講演がきっかけで建築を志し、27年から30年にかけてバウハウスで学ぶ。バウハウスを卒業後、チューリッヒで独立。建築、工業デザイン、広告などを手がけるかたわら、幾何学的、構成的傾向を持つ彫刻・絵画を制作。36年デ・ステイルの旗手であったファン・ドゥースブルフが最晩年に提唱した具体芸術の概念を継承し、チューリッヒ・コンクレーテとして独自の発展をもたらす。49年スイス工作連盟の依頼でグーテ・フォルム展を組織。50年代から60年代にかけてヨーロッパ、アメリカ、日本で広がったグッドデザイン運動の嚆矢となる。50年ウルム造形大学創立のためのカリキュラム立案から校舎設計までを引き受け、51年から56年にかけて初代学長を務める。57年チューリッヒにアトリエを再開。以来晩年まで芸術、デザイン、教育の諸領域で環境造形を唱道・展開した。

佐賀:もちろん同時代的な影響はありますが、ミューラー=ブロックマンは基本的には個人として自分の人生と仕事に懸命だったのだと思います。そのがんばりが真摯であればあるほど、歴史や当時の社会的状況とのかかわりを深めることになっていって、ある段階にさしかかったときに自分が果たした転換、禁欲的な態度、その到達点のようなものが、歴史に影響を与える、個人史が社会史に影響しだすという転換点が来たのでしょうね。そういうところがおもしろないと思う。この自伝を通じて、歴史を第三者的にではなく、主観的に見ることができました。それが私にとってはすごくよかった。
 チヒョルトについても、事象だけを取りだして見てみれば、最初はサンセリフ体の使用を推奨したり、タイポグラフィの目的は伝達だと言ったり、アシンメトリーなレイアウトをしろと主張したり。チヒョルトがそうしたモダンタイポグラフィの基本原理をはじめて唱えたのは1925年に彼自身の編集によって発行された雑誌上でのことで、23歳のときでした。そのきかっけになったのが、2年前にドイツのワイマールで見たバウハウスの展覧会だというから、ほんとうに早熟の天才だった。さらに1927年に著作『ディ・ノイエ・ティポグラフィ(Die Neue Typographie)』を出版し、あたらしいタイポグラフィを高らかに宣言する。それがメルクマールとなって、同時代にものすごい影響を与えるわけです。ビルも当然影響を受けたわけだけど、後年に起きたビルとの論争を理解するには、もう少し補助線が必要です。
 もともとチヒョルトはドイツのライプツィヒで活躍していた人です。『ディ・ノイエ・ティポグラフィ』を刊行したころは、第一次世界大戦後にドイツが急速に右傾化していった時期で、ほどなくしてナチスが政権をとります。当時、先進的なアーティストやデザイナーにはユダヤ系に代表されるような少数民族、社会的マイノリティに属してる人が多かった。つまり迫害される人たちです。ナチスは民族浄化を唱えることで国民から熱烈な支持を獲得しました。その結果、民族主義が過熱しユダヤ人や反政府活動家への弾圧・迫害につながっていったことは周知のとおりですが、その嫌疑がチヒョルトにもかかった。
 そのころチヒョルトはすでに大学の先生になっていて、結婚していたし子どももいた。その状態でナチスから3週間にわたって拘束されて、ずっと尋問を受ける。きっとお前は危険思想の持ち主か、お前はユダヤ人か、と詰問されたはずです。チヒョルトは、彼のデザインに表れたスペーシングや余白を生かしたレイアウトからも一目瞭然なように、ものすごく繊細な仕事をします。そういうことができるきめ細やかなこころの持ち主が、いわれのないかどで拘束され、ありもしない嫌疑をかけつづけられ、脅迫と変わらない尋問を3週間も受けた。しかもその口調は、かつてチヒョルトが『ディ・ノイエ・ティポグラフィ』で書いたのと同じ、「~であるべきだ」「~しなければならない」という命令形だったことでしょう。
 その後、ようやく疑いが晴れて拘束が解かれるわけだけれど、その時点で教職を剥奪されています。社会的な地位を失っただけではなくて、危険人物として疑われてしまったために、誰も彼と仕事をしたがらなくなってしまう。突如として、生活の糧を失ってしまった。だからスイスに亡命するんです。この亡命のあとに、マックス・ビルとの論争が起きた。
 ビルは1908年にスイスで生まれ、チューリッヒの美術工芸学校で彫金を学んだあとで、ル・コルビュジエの影響を受け、建築を志します。ドイツのデッサウでバウハウスが開校すると入学し、全盛期のバウハウスでモダンデザイン教育を修めます。バウハウス閉校後もモダンデザインの追究を続け、吉川静子が学んだウルム造形大学の初代校長も務めました。その後も、ベルリンのバウハウス・アーカイブ設立に尽力するなど、その人生は文字通りモダンデザインの歩みと軌を一にしていると言えるでしょう。
 ビルとチヒョルトの論争は、ビルがスイスの印刷・書籍業界の専門誌『Schweizer Graphische Mittelungen(スイス・グラフィック・マガジン)』に寄稿した論文「タイポグラフィについて」(1946年)で、チヒョルトがモダニストから伝統主義者へ「転向」したとして糾弾したことから始まります。ビルはそのなかで、ゲーテやシラーといった古典的文学作品を例に挙げ、そうした作品を現代に書籍としてデザインする場合、原作の書かれた時代の様式をデザインへと反映させる行為は文化的保守主義なのではないかと問いかけ、かつてチヒョルトがみずから提唱したノイエ・ティポグラフィの理論的正当性と有効性を、モダニストの立場から徹底的に主張しました。
 これに対してチヒョルトは、「ノイエ・タイポグラフィの信仰と真実」(1946年)と題した論文を公開して反論します。そこにはみずからの体験に基づき、かつて「進歩」を信じるあまり性急な変革を求め、その結果、多くのすぐれた伝統的な技能を破壊し、有能な職人たちから仕事に対する誇りと喜びを奪ってしまったことへの反省が記されていました。
 ふたりの論争には、いまなおデザインを考えるための示唆に満ちています。どちらかが正しく、どちらかが間違っているということではなく、ふたりの個人、人生経験の違いを踏まえると、また受け止め方が変わりますよね。
 チヒョルトのポートレイトにはひとつ特徴があって、若いときの写真は自信たっぷりの顔でカメラに正対してこちらを見すえているものが多いんです。それが晩年になると視線を外して微笑みを浮かべたものに変化する。まるで彼の歩んだ人生を物語っているかのようです。デザインはたしかに技術であり職能であるけれど、それぞれのデザイナーにとって人生のがあるわけで、それと切り離してデザインだけで考えることは不自然だと思うんです。ミューラー=ブロックマンについても同じことが言えますよね。

激情を自分自身に向ける

佐賀:ミューラー=ブロックマンの自問自答の背後には、彼の生い立ちという個人的事情がある一方で、第一次世界大戦と第二次世界大戦のあいだに生まれ、戦争へ向かっていく社会的状況のなかで成長したという時代状況も大きく影響しています。そうした状況から、ミューラー=ブロックマン自身が、表現として情報を伝えるときにはどのような態度であるべきかということを、自己批判を繰り返しながらつくりあげていったものが、グリッドシステムなのかなと思います。

小田:これは想像の域を出ない話ですけれど、もしもミューラー=ブロックマンがチヒョルトにほんとうに深く傾倒していたら、グリッドシステムはつくっていないかもしれないですよね。ここまで厳格なものをつくるべきじゃない、と。

佐賀:そうかもしれないですね。もちろんチヒョルトは偉大な先人であり、ミューラー=ブロックマン自身が名指しするほどの影響を与えた人物です。ですが、影響の深さや大きさということで言えば、同じスイス人であり、チューリッヒに生まれたマックス・ビルの影響がやはり大きかったでしょう。チヒョルトは、自分の人生経験を通じて、モダニストとしての態度を軟化させた。一方、スイス人としてのビルはむしろその人生を通じて、モダニストとしての活動を徹底的に展開しつづけようとした。さきほどのビルとチヒョルトの論争は、二人の思想の違いというよりは、二人の人生の違いです。
 バウハウスを卒業してチューリッヒに帰国した20歳のときから、広告から書籍、書体デザインなどのグラフィックデザインの領域に限らず、彫金、彫刻、絵画、建築、プロダクトデザイン、展示デザイン、環境デザイン、文筆・教育活動などの広範な領域で活動したビルは、領域にとらわれることのない横断的な活動を展開しながら、モダニズムの世界を徹底して追究しつづけました。まさに万能の天才と呼ぶにふさわしいような広さと深さです。
 ビルの全人的な造形世界の展開や、その背後でそれを支える造形原理を追究しようとする姿勢は、当時、スイス人であったからこそ可能だったと言えると思います。厳格であればあるほど実験性が高まるわけですが、同時に創造性も高まる。思い切って「遊び」と言ってしまえるかもしれません。それだけの精神的・物質的余裕が、スイスにはあった。ビルの造形芸術家としてのありようは、グリッドシステムのありように直結していると思います。

小田:ミューラー=ブロックマンは渡米して仕事の営業をしたりもしている。そういうことが単純にすごいと思います。時代を前に進めていくんだというような、気概のようなものを感じる。つぎの時代のためにアプローチをしていくことに、すごく貪欲だったように思います。
 そういうところからも、ぼくはミューラー=ブロックマンはけっこう泥臭い人だと思いました。泥臭いし、案外情に流されやすいんじゃないかな、とも。理知的なというよりは、感情的な印象のほうが強い。ある種の激情家というか。ただし、その激情をきちんと自分自身に向けられた人だったような気がします。
 アメリカでのビジネスチャンスを断る理由も特徴的ですよね。「ニューヨークでの生活は、いたるところで私にそれまでほとんど意識していなかったことを教えてくれていた。つまり私は、自分が旧大陸の文化に深く根ざしたヨーロッパ人であることを意識しはじめていたのである」(p. 60)当時のアメリカは戦後の好景気に沸いていて、その空気に触れたときに、戦争の負の遺産を引きずるヨーロッパの文化背景を意識したということは、ミューラー=ブロックマンが故郷への慕情のようなものを自分の核にすえはじめたのかな、という気がする。すごくおもしろいところですね。ここは自分の生きるところではない、そう思ったんでしょうね。
 あと、彼が抱いている芸術に対する深い畏敬の念にも共感を覚えました。デザイン教育を依頼されて来日したときに、能面打師と学生からそれぞれ能面をプレゼントされるエピソードがあるじゃないですか。そこでの記述が「北沢如意の面は、神秘的な生気をまとっていた。一方、学生たちからの贈り物には、どこも謎めいたところがなかった」(p. 77)とあって、すごいことを言うなと(笑)。学生との距離の取り方には、彼らに対して素直である、実直であるがゆえの厳しさみたいないものを感じます。

佐賀:デザインとはこうである、こうでなければならない、というような目的意識、問題意識ではなく、自分が育った環境や、そのときの自分が表現者として感じた思いのようなものが、出発点にある人だったと思うんです。だからイラストレーションをやめるというのも挫折かもしれないけれど、その先にはすでにつぎの道が用意されている。

小田:ひとつのことに熱中しつつも、これがだめだったらこっちにいこうという、そういうことをつねに考えていたんじゃないか。

佐賀:そうそう。けっしてエリートではない。この自伝には、生い立ちからはじまって印刷所のドラフトマンからイラストレーターや展示デザイナー、舞台芸術家、グラフィックデザイナーなど、さまざまな職域を移り変わりながら活動したことが書かれていますが、それらすべてが人生を構成するひとコマひとコマとして、結局、すべて肯定されています。
 この自伝に描かれていることは、当たり前のことかもしれませんが、特定の思想やデザイン原理の標榜ではなく、いろいろな挫折や成功、個人的な思い、願い、信頼などが積み重なったひとりの人生です。もちろん最終的に自分が到達した美学(グリッドシステム)が示されてはいますが、本質的には、ほんとうに素朴に個人的に、「自分はこのように生きた。結果としてこのようなデザイン人生を送った。最終的にグリッドシステムに到達したが、悪くはなかった」ということが書かれているのだと思います。
 すべて肯定できた背後には、ミューラー=ブロックマンの人生に対する真剣さと遊びの入り交じった態度があるのだと思います。そのことが感じられること、そして、その最終的な舞台としてグラフィックデザインという領域が選ばれていること、それがこの自伝の、時代を超えて素敵なところです。
 これは願望にすぎませんが、そのような読み方を、デザイナーの方々もそうですが、とくに学生にはしてほしいなと願っています。そうすることで、勇気というか余裕というか、この本のタイトルのような態度でもって、じっくり自分の仕事や作品に取り組めるのではと思っています。
 この本をいよいよ仕上げないといけない時期にさしかかり、そこからさらにしばらく間をおいたころになって、ミューラー=ブロックマンの姿が学生の姿と重なって見えるようになっていきました。学生とミューラー=ブロックマンとでは、生きた時代も、立場も、実績も違いますが、徹夜あけで死んだような目をしている学生の姿や、作品講評会で緊張のあまり声を震わせている学生の姿が、真剣さを通じてミューラー=ブロックマンとつながった。そしてその末席に、日本語版のつくり手である編集者、そして自分自身の姿もあるような気がした。そう思えたことが無性にうれしかった。

小田:学生に進路について尋ねると、ほとんどの学生が広告デザインに進むと回答します。おそらく「広告デザイン」という業界は間口が広く、大学卒業後の稼ぐための仕事として、自分の将来を安心して考えるうえで想像しやすいのでそう答えている学生が大多数なのだと思います。
 たしかに、広告デザインという業界をもちだす以前に、デザインは職能として、それに従事する人の生活の糧になる必要があります。ただその前に、デザインとは果たして自分にとってなんのための存在なのか、デザインを行使するためにどんな思考や文脈をもつべきなのか、どんな人たちとかかわりながらデザインに触れていきたいのか、そういったことを仮説としてでも自分のステイトメントとしてもっておくことは、結果的にそれが自分のデザイナーとしての将来を保証するものになってゆくはずです。自分のなかで決めて、1ヶ月後にそれを変えるのだってありです。きっとミューラー=ブロックマンにも、本書には書かれていない思考の変遷や紆余曲折があったと思います。
 ミューラー=ブロックマンだって学生の皆さんと同じ年齢のときに、自分がデザイナーとしてひとかどの人物になるなんて想像もしていなかったはずです。ただ、そこに「自分がやるべきこととは」という自問自答があっただけで、自分で決めたことに素直に自分の人生を委ねてきただけなんです。もちろん世間体や他人の評価を気にしたっていい、けれど、最終的にいきつくところとして「自分はこうあるべき」という場所を自分のなかに置いておく練習を、美大教育を通じてしてもらえたらと、ぼくは考えています。

ムジカ・ヴィヴァ、1970年

ムジカ・ヴィヴァ、1970年、竹尾ポスターコレクション所蔵

年頃

IBMヨーロッパのデザインアドバイザーとしてポール・ランドと(*1967〜88年までアドバイザーを務めた)、吉川静子氏提供

後編「創作のよろこび、それを希求する自由を忘れることがなかった」に続きます。

構成:長田年伸


PROFILEプロフィール (50音順)

佐賀一郎(さが・いちろう)

デザイン史家、グラフィックデザイナー。多摩美術大学グラフィックデザイン学科准教授(美術博士)。近代以降のビジュアルデザインとタイポグラフィに力点を置いたデザイン史を俯瞰的に研究。モダンタイポグラフィ/モダンデザインとはなにか? その現代的な意義・意味はなにか? なにが普遍的で、なにがそうでないのか? そこに時代を超えて通用する原理・原則はあるのか? そもそもデザインとは一体なにか? 広い意味での造形芸術の文化的・社会的・個人的価値とは? こうした美学的な問いを探究。共著『活字印刷の文化史』(勉誠出版、2009年)、訳・解説書『ウィム・クロウエル:見果てぬ未来のデザイン』(ビー・エヌ・エヌ新社、2012年)、監訳・解題『遊びある真剣、真剣な遊び、私の人生 解題:美学としてのグリッドシステム』(ビー・エヌ・エヌ新社、2018年)など。

小田雄太(おだ・ゆうた)

デザイナー、アートディレクター。COMPOUND inc.代表、(株)まちづクリエイティブ取締役。多摩美術大学非常勤講師。2004年多摩美術大学GD科卒業後にアートユニット明和電機 宣伝部、その後デザイン会社数社を経て2011年COMPOUND inc.設立。2013年に(株)まちづクリエイティブ取締役に就任、MADcityプロジェクトを始めとしたエリアブランディングに携わる。最近の主な仕事として「NewsPicks」UI/CI開発、diskunion「DIVE INTO MUSIC」、COMME des GARÇONS「noir kei ninomiya」デザインワーク、「BIBLIOPHILIC」ブランディング、「100BANCH」VI・サイン計画など。


PRODUCT関連商品

遊びある真剣、真剣な遊び、私の人生 解題:美学としてのグリッドシステム

ヨゼフ・ミューラー゠ブロックマン [著]
佐賀一郎[監訳・解題]
村瀨庸子[翻訳]
ビー・エヌ・エヌ新社、2018年

「デザイナーとしてどう生きるのか」
20世紀を代表するグラフィックデザイナー、ヨゼフ・ミューラー゠ブロックマンの貴重な肉声から、デザインの意義、デザイナーの責任と自由をとらえ直す一冊。ヨゼフ・ミューラー゠ブロックマンは、スイス派を代表するデザイナーの1人であるとともに戦後を代表するデザイナーの1人である。彼が残した数々のポスターやCI/VIなどのグラフィックデザイン各領域での実作。レイアウト手法として原典的な評価を確立した『グリッドシステム』をはじめとする著作の数々。スイス派の存在を世界に知らしめた国際デザイン誌『ノイエ・グラーフィク』の発刊。アスペン会議、世界デザイン会議・東京など、世界各国で行った講演活動。学科長を務めたチューリッヒ応用美術学校や、ウルム造形大学、大阪芸術大学など、世界各国での教育活動。その〈実作〉〈著作〉〈教育〉にわたる業績の数々によって、ミューラー゠ブロックマンは、第2次世界大戦後において、グラフィックデザインの方向性を指し示す歴史的役割を果たした。本書では、ミューラー゠ブロックマンが、動乱の20世紀において、何をデザインの主眼としたのか、どのようにデザイナーという職業に向き合っていたのかが語られている。また、デザイン史家の佐賀一郎(多摩美術大学)による解題、「美学としてのグリッドシステム」では、ミューラー゠ブロックマンがデザイナーとして社会と結んだ関係を、俯瞰したデザイン史のもとに考察。『グリッドシステム』の概要、技術解説をふまえつつ、背景にある理念と表現を一致させようとした、ミューラー゠ブロックマンの美学をひも解く。これまであまり知られていなかった妻である芸術家吉川静子と、たびたび訪れていた日本との密接な関わりにも言及している。

【目次】
日本語版序文
ラルス・ミューラー氏による原書序文
自伝:遊びある真剣、真剣な遊び、私の人生
作品:ポスター 1951–1994
解題:美学としてのグリッドシステム
 ・デザイン史とミューラー゠ブロックマン
 ・ミューラー゠ブロックマンと吉川静子
 ・グリッドシステムの技術と表現、美学
資料:年譜、参考文献
あとがき