2015年4月、フリーライター鷹野凌さんの初の著書『クリエイターが知っておくべき権利や法律を教わってきました。』(インプレス刊/通称「クリけん」)が刊行され、その監修を務めた弁護士の福井健策さんと鷹野さんによる刊行記念イベントが本屋B&Bにて開催されました。
1億総クリエイター時代とも言われる昨今、情報や作品を発信する人なら心得ておきたい「著作権」にまつわる質疑応答を経たのち、話の焦点は巷でも盛んに争点となっているテーマ「表現とその規制」へ。鷹野さんの疑問を出発点に、それに答える福井さんの解説は「表現の自由」の根本的な存在意義までをも私たちに改めて投げかけます。
DOTPLACEでは、このイベントのハイライトをお届けします。
※本記事は、2015年6月19日に本屋B&B(東京・下北沢)で行われた『クリエイターが知っておくべき権利や法律を教わってきました。著作権のことをきちんと知りたい人のための本』(インプレス)刊行記念イベント「『出版』にまつわる権利や法律もきちんと知りたい!」を一部採録・構成したものです
「神を冒涜する表現」はアリかナシか
鷹野凌(以下、鷹野):僕が毎月編集・発行をしている、『月刊群雛』というインディーズ作家のための文芸誌があります。少し前に、フランスで警官や編集者、風刺漫画家の方々が銃殺されてしまった事件がありましたよね。あのとき、日本人の感覚からしたら問題ではないかもしれないけれど、その宗教を信じていらっしゃる当事者の方からすれば神への冒涜になる表現がもしあった場合に、その原稿を『月刊群雛』に載せてもいいのだろうかと非常に悩みました。
福井健策(以下、福井):なるほど。いわば表現の自主規制の問題ですね。
一昨年くらいから、表現や芸術・文学はどこまで自由なのかを考えさせられるような事件が続きましたよね。最近で思いつくものでも、たとえばわいせつという視点では「ろくでなし子さん事件」 *1 、残虐表現などの視点だと「『はだしのゲン』閉架騒動」 *2 などがありました。
*1:現代美術家のろくでなし子氏が自分の女性器をスキャンした3Dデータをネット上に配信しダウンロードさせたとして、2014年7月にわいせつ電磁的記録媒体頒布罪の疑いで逮捕された事件。氏は釈放後の記者会見で「自分の性器をわいせつだと思っていません」と述べ、有罪性を断固否定。この発言を受けてネット上では「わいせつ」とは何かをめぐる論争が巻き起こったが、2014年12月にわいせつ物公然陳列罪の疑いで再度逮捕された。
*2:中沢啓治氏の被爆体験を元にしたマンガ『はだしのゲン』の作中の残虐表現に問題があるとして、島根県の松江市教育委員会がそれらを自由に閲覧できない「閉架図書」扱いにするよう市内の全市立小中学校に呼びかけていたことを発端とする騒動。
鷹野:はい。
福井:国内でも実に多くの表現とその規制を巡る問題がある中で起こったのが、「シャルリー・エブド襲撃事件」 *3 です。この事件にヨーロッパは大いに荒れました。
昔ちょっと芝居をかじっていたものですから、劇作家の方たちとは普段から仲が良いんですけど、実はこのとき、日本劇作家協会の言論表現委員会ではこの事件に対する意見が真っ二つに割れたんです。
「ろくでなし子さん事件」だろうが、特定秘密保護法だろうが、著作権侵害の非親告罪化だろうが、「論外だ、表現の自由を何だと思っているんだ」と声明を出したり主張してきた人たちですよ。表現の自由は死守する、差別を撃つために差別用語やその様子を描写しなければいけないときだってある、と言っていた日本有数の表現者たちが、シャルリー・エブド襲撃事件のときは真っ二つでした。
*3:2015年1月、フランスの週刊誌『シャルリー・エブド』誌に掲載された風刺漫画にイスラム教の預言者・ムハンマドを冒涜するような表現があったことを一因に、パリ11区のシャルリー・エブド本社を武装した犯人が襲撃。警官2人や編集長、風刺漫画の編集担当者やコラム執筆者ら合わせて12人が殺害された事件。
鷹野:そうなんですね。
福井:会長の坂手洋二や私などは「殺してはいけない。確かに信仰へのひどい冒涜かもしれないが、でもそれには言論で対抗してくれ」という意見だった。そして、その主張が大勢を占めると思っていたんです。そしたらマキノノゾミは「殺すのは論外だが、シャルリー・エブドの風刺漫画は『表現の自由』の範囲ではないと思う。襲撃がアラブからの移民による犯行だとわかった段階で、どっちが弱者でどっちが強者だよ、という話になる」と言うのですね。完全に再現はできていないかもしれませんが、いわば、シャルリー・エブドのやっていることは単なる弱者いじめだって言うんです。「『表現の自由』というのは常に、権力に対して言論以外に戦う術のない者にとっての最後の武器なんだ。だから権力や強いものを批判する術として『表現の自由』があると思って自分はこれまでやってきた」と。まして「撃たれた出版社が抗議するのはともかく、政治家たちと腕を組んで行進した段階で、それは弱者の抑圧ではないのか」と言うんですよ。
結局、「冒涜的に見えても風刺作家にとって表現活動であり、それが殺される社会は絶対にまずい」という立場と、「やっぱり相手の信ずるものを冒涜する表現はどうかと思うし、そこで声高に表現の自由だとデモされても自分は引く」という立場とで割れて、あのときは声明を出せなかった。日本劇作家協会で声明を出しきれなかったのはあれが唯一じゃないかな?
[後編「ヘイトスピーチは『表現の自由』の範疇?」に続きます]
(2015年8月13日更新予定)
編集協力:HONYA TODAY
(2015年6月19日、本屋B&Bにて)
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