第14回 「『熱量』と『学習』」
前回、文章を書くことの意味について抽象的に考えた場合に、以下のような切り口があるのではないかと述べました。
A:既知の経験を他者に伝えるために書くこと
B:未知の領域を切り開いて自らが学ぶために書くこと
より多くの人が本を書く、ということに照らし合わせて考えると、目的がシンプルに定まっている方が導入としては敷居が低いので、Aの「既知の経験」をベースにした執筆体験を提供することが良さそうです。
そのことと同時に、Bの「未知の領域を切り開くために書く」方法も、実は書き手が脳内で経験していることと書くことの時差が前者よりも短いだけだとも言えます。
例えば:
・経営者が、会社を興して10年経営した経験で得られた知見を振り返って書くこと
・哲学者が、まだ言語化されていない現象や概念を生み出すために思考を巡らせて書くこと
という、一見極端に異なるシチュエーションにおいても、後者では実際に哲学者の物理的な経験の蓄積から生まれる身体的な感覚や直感というものも手伝って、既存の哲学史の知の体系との比較を行いながら、とても生々しい経験を経て書き出されるものだからです。だから、著名な経営者が書いたビジネス本よりも優れた哲学者が書く概念的な本の方が、一種のライブ感を感じることが多かったりするのだと思います。
こう考えると、筆者も経営書も哲学書もレシピ本もブログ記事も等しく、その文章の総体から浮かび上がる著者の経験の密度がどれだけ深いのかという感覚的な基準で評価している気がします。だから一般的に分かりやすい、目に見える「活動」を行っていない人でも、抽象的な思考や概念を深められていれば、Bのパターンでいきなり刺激的な文章を書き始められるのだと思います。
このように考えると、AとBは排他的な志向性というわけではなく、お互いを含みあう関係にあるものと捉えることができそうです。事実、特に記録してこなかった活動について、他者に分かりやすいように書くという行為を通して、自分でもそれまで気が付かなかった発見が生まれるということも往々にしてあるからです。そして、結論が定まっていない思考を展開している時に新たな概念を見つけたと思えた時、次にすることはそれを他者に伝えるために言語化することです。
この関係は、Aは「書き手が読み手の学習を志向すること」、Bは「書き手が自分自身の学習を志向すること」、という風に置き換えられるかと考えています。Aについては、「分かりやすく伝える技術」に関するマニュアル本などが巷間に溢れていると思いますが、そういうこととは全く関係がありません。
筆者が専門的に研究してきた、広くサイバネティクスと呼ばれる分野においては、コンピュータ同士でデータを転送するかのような意味や内容の伝達というものは人間同士の場合においては不可能であるという前提に立って、コミュニケーションという現象を捉えます。筆者は、コミュニケーションの基底を成しているのは伝達ではなく、個々の「学習」であると考えています。本を読む場合においては、書いてある情報を咀嚼し、消化し、価値のあるものとして自分の思考の中に取り込む行為を学習と呼んでいます。このモデルは比較的、イメージしやすいと思います。であれば本を書く場合における自己学習のモデルはどうなっているのでしょうか。筆者のイメージでは書かれる内容を思考し、書き出されたものを読み、更に次に書く内容を思考する反復のなかで学習が行われているのではないかと考えています。
この書き手の学習があるかどうか、という点は、もっと平たく言うと、「書き手が面白がって書いているかどうか」ということではないかと思います。書き手自身に学習や発見がある場合、筆/タイピングがノッてくるということは多くの人が経験しているのではないでしょうか。そして、このことが更に面白いのは、書き手が面白がって書いているかどうかが読み手に分かってしまうことでしょう。
これは筆者が文章を書いている時でも同じで、面白がって書いたとはっきりと自覚している/覚えている文章の場合は、本の場合であればやはり熱のこもったコメントを貰えるし、ネットの記事であればいいね!やRT等のシェア数が増えると思います。(もちろん、内容自体が多くの人に興味を抱かれない場合は、いくら筆者がノって書いたとしても、コメントもシェアも面白いほど発生しないのですが……) *1
この「ある文章が面白がって書かれている度合い」みたいなことを仮に計測できるとしたら、それは書き手が文章に込めた「熱量」を近似する指標になるのではないかと思います。この熱量というものを仮に、書き手がねつ造したり嘘のつくことのできない、信頼できる情報として提供することができれば、書き手自身の学習効果を指し示すヒントになるのではないでしょうか。
このことを考えるきっかけとなったのは、以前集中的に開発を行っていたTypeTraceというソフトウェアを使って自分自身で原稿を書いた時の体験があります。TypeTraceは文字通り、タイピング行為をトレース(追跡)するソフトウェアで、記録された文章は動画のように再生したり早送りしたりできます。このソフトウェアを使って、森美術館で開催されたサスキア・オルドウォーバースという作家の展示 *2 カタログの原稿をタイプトレースで書いてみました。タイプトレースで書く場合は、記録ボタンを押して、ひとまとまりしたら記録停止を押して保存すると、最後のブロックが再生されるということを繰り返しますが、このひとまとまりを極端に短くして書いてみるということをしました。つまり、一フレーズ書く度に、そのフレーズがどのように書かれたのかというプロセスを目視してから次のフレーズを書く、ということを繰り返したわけです。
この繰り返しの記録を末尾の動画で見て頂けます。この動画は1時間39分の執筆時間の記録を5倍速で再生し20分弱におさめたものですが、実際にはフレーズを書いては再生ということを繰り返しているので、2時間強の時間がかかっています。この原稿はBのタイプで、対象の映像作家の作品を見て触発されたことを、事前に結論を用意せずに一気呵成に書き上げたものですが、筆者は非常に集中して面白く書いた記憶があります。この執筆メソッドを通して得られた発見とは、第一に普段とは書かれる内容や構造が変化したことです。具体的には「しかし」「だが」といった逆接の表現が増え、直前に書いたことへの反論が多い文章になりました。それはなぜかと考えた時に、一フレーズ書く度にその書かれたプロセスを再生すると、まるで自分以外の人間が書いた文章のように相対化されて感じる、ということに起因しているのだと思い至りました。
“Lie” (inspired by Saskia Olde Wolbers) [TypeTrace] from dominick chen on Vimeo.
この文章の「熱量」は感じて頂けたでしょうか。そこに何か学習はあったでしょうか。感じられたことがあれば、フィードバックして頂ければ幸いです。次回はTypeTrace文章から出発し、「読むことは書くこと」につながる読み手と書き手の新しい関係性について更に深掘りしていきたいと思います。
[読むことは書くこと Reading is Writing:第14回 了]
注
*1│ノッて書いた記事とその反響の関係性:
余談ですが、この点は既に認知心理などの領域で誰かが学術的に研究していてもおかしくないと思うのですが、筆者はまだ無知なので、もしご存知の方がいればぜひ教えてください。まだない研究だとしたら、とても面白い研究になると思います。
*2│サスキア・オルドウォーバースの展示(2008年、森美術館ギャラリー2):
URL: http://www.moriart.org/contents/mamproject/project007/index.html
読むことは書くこと Reading is Writing:第14回「『熱量』と『学習』」 by ドミニク・チェン is licensed under a Creative Commons 表示 2.1 日本 License.
COMMENTSこの記事に対するコメント