第13回 「『書くこと』が孕む矛盾」
前回、編集という行為がアイデアや創造の助産術として見て取れることを書きました。これは、この連載を通して言及してきた「読むことは書くこと」というビジョンが実現する文化状況においては、読み手が受動的な存在としてのみではなく、同時に書き手のための編集者としても機能する、ということを意味します。それでは今回は「読むことは書くこと」につながるような情報システム(それがウェブサービスであれ、スマホのアプリであれ、なんであれ)の形を定めるために、そのマクロな要件から考察していきましょう。
足がかりとなるコンセプトは次のようにシンプルなものです。それは、優れた編集者の助けがあれば、より多くの潜在的な著者が本を書くという表現活動に参入することができるのではないか、ということです。その着想の源として、この連載で見てきたオープン出版やオープンソースの手法といったインターネットを駆使した取り組みが挙げられますが、それらはプロの作家や専門的なプログラマーによるものであり、誰でも真似ができるものではありません。また他方で、プロの編集者の方でも優れた潜在的な著者を常に探しているとすれば、この両者をマッチングさせる情報サービスを企画することができるのではないかと考えるわけです。
それでは通常の出版プロセスの場合、本はどのように作られ始めるのでしょうか。これは当然のことかも知れませんが、編集者は依頼をかける著者の過去の作品を読み込んでいることが前提条件となります。その上で書き手が「次に書くこと」を提案し、依頼する。この際、編集者は書き手にとっての創作の助産師として働きかけ始めるわけです。
たとえば、「あなたはXという本の中で、ZというテーマのAという側面を書いた。しかし、同じテーマに属するBという部分はまだ十分追究していないので、そこを膨らませて書いたら面白いのではないか」とか、「あなたはA、B、Cという一見バラバラに見えるものを書いてきた。それをXという軸でまとめたら、この領域に関心のある読者は喜ぶと思うが、どうか」という風に。
もしくは、本を書いたことがない人に対しても「あなたのPという活動はとても先端的で面白い。まだ誰もこの分野で一般の読者を対象に本をまとめたことがないので、あなたが最初にそのような本を書いたらどうか」というパターンもあるでしょう。
いずれの場合も本という形にまとめるための手がかりが前提として存在しています。実績が見えない「あなたは何だか面白そうだから、なんでも良いから本を書いてください」というような依頼は、全体の0.01%くらいではないでしょうか。と同時に、そのような依頼をされた方としても、そのような本を書き上げることはなかなか難しいでしょう。
対照的に興味深いのは、雑誌の原稿依頼の場合は、特集というような形でなんらかのテーマが与えられたとしても、細かい内容については白紙委任の場合が多いということです。雑誌という形態の場合は、多くの書き手が分担して一つの作品を形成することによって、テーマに忠実で堅実な原稿もあれば、突拍子もない原稿も一部許容されたりします。あたかも煮込み料理を作るように、編集部のさじ加減で、多様な書き手を具材として配置することで、全体として奇抜になったり、落ち着いたりします。
だから、本を書くという場合と比べて雑誌の場合においては、著者はある程度実験的に書くことが可能になります。そして、この実験的に短い原稿を書けるということと、出版されて多くの読者に届くということの緊張感のバランスこそが、新しい書き手が成長する「場」として、同時に、既に本を書き上げた著者が新しいアイデアを練る場としても、機能するのではないかと考えます。
筆者が思うに、従来の紙印刷を前提にしてきた出版界においては、雑誌と本の相互補完的な関係性が多くの著者と著作を育んできたのではないでしょうか。しかしインターネットや電子書籍のテクノロジーが進歩したことによって、物理的な紙印刷の前提が崩れつつあることは周知の通りです。数多くの有益な情報を掲載するブログやネットメディアが立ち上がり、その多くが無償でコンテンツを提供しています。ニュースもウェブやスマホで見られることが増えてきていると思いますが、そのほとんどが短い時間で分かりやすく理解できるような情報を生成しています。
この転換のより大きい負の側面としては、瞬間的にユーザーのクリックをタップを誘発するためのタイトルやヘッドライン、そして文章が作られるようにデジタルの文章が進化してしまっていることのように思えます。個々人の注意の量が有限である限り、このことは情報の担い手が増えることのもたらす必然的な帰結の一つでもあると思います。
しかし、そもそも書くという行為は情報を伝えることと同義なのでしょうか。筆者はそう思いません。もちろん、自身が得たことを文字にすることで他者に伝えるということは「書くこと」の一つの重要な機能だとは思います。しかし、それ以上に本を書くということは本来的には未知への冒険であり、あらかじめ結論をもって予定調和に辿り着くことのできないものだと考えています。
筆者がこのことを教わった哲学者の言葉を以下に引用します。
- 自らが知らないこと、よく知らないことについて書くこと以外に、書きようがあるのだろうか?(中略)私たちは自らの知識の先端、つまり私たちの既知と未知を隔て、片側から向こう側へ移行させるこの極限点においてしか書くことはできない。このような方法によってのみ、私たちは書くことを決意できる。
(ジル・ドゥルーズ、『差異と反復』, p4.)
ドゥルーズは、哲学者とは未知の概念(コンセプト)を創造するものであるといいます。そして、それは哲学者という肩書きでなくても、文学者によっても行われることだと言います。それは粗製濫造されるものではなく、ドゥルーズ本人も自分の長い執筆人生において幾つかのコンセプトを作り上げたのみだと言っています。つまり、多くの試行錯誤や失敗を要する過程の末に、上澄みのように浮かび上がってくるものを作るために執筆という行為を行っているのだと。
この考え方は、およそ「作る」もの全般に共通することではないかと筆者は考えています。もちろん、ただ意味不明な言葉や詩作を書き連ねれば良いというわけでもないでしょう。誰にも理解されなければ、ただの狂人の独り言にすぎません。しかし、書いている本人に新しい学びや意味が生じさえすれば、少なくとも自分自身という1人の読者に有益な創作を行うことができたのだと言えます。
筆者自身、未熟も甚だしいですが、たくさんの実験的な思索の場を頂戴し、その積み重ねで多くの学びを得て、次に書く機会を得ることができたと感じています。実際、分かりやすく書くことに腐心した文章は「勉強になった」「すんなり読めて分かりやすかった」といった多くのフィードバックを数百人から頂戴し、大変励みになりましたが、そうした反応そのものから筆者自身が学べることが多くなかったことも事実です。つまり、きちんと伝達できた、という満足感はあれど、そのことが直接次の書き物につながるという訳ではありませんでした。対照的に、モノローグ(独り言)のように書いた、自分でも難解な文章では全くといって良いほど反応がなかったので若干落ち込みましたが、2、3人の深い関心を共有する、彼ら自身作り手であり書き手である方たちから深い批評や指摘を得ることができ、そのおかげで筆者もより先鋭的なアイデアをつかむことができました。
他方で、実験的でディープな書物の作り方が今日メジャーになりえないことは、先に述べたようにコミュニケーションにおける情報伝達の側面が優位になっている時代背景があり、それを促進する技術的な背景も関係していると思います。手軽に吸収できる有益な情報が溢れている中、複数の本にゆっくりダイブする意欲も削がれがちなのかもしれません。簡潔に、著者にとって既知のことを伝えることの方が読む方は安心して手に取れますし、その意味でもより多くの読者を集めることができるでしょう。しかし、書き手自身が未知の価値をつかもうとして格闘する書き物を分かりやすく書く方法もまた存在するはずです。
ひとつ確実に言えることは、フィードバックを返してくれる読者は、度合いの違いこそあれ、次に書くことを刺激してくれるという意味で、編集者としての、つまり助産師としての機能を果たしてくれているということです。
ここで、私たちが想像する情報システムのコンセプトの要件が現れました。
まずは、潜在的な書き手が一冊の本を、
・既知の経験を他者に伝えるために書くこと、
・未知の領域を切り開いて自らが学ぶために書くこと、
のいずれかに軸を置くのか、という点です。現時点では、より多くの潜在的な書き手に対して門戸を広く開けるとすれば前者であり、そもそも書くことに執念をもっているより少数の書き手に合わせるなら後者のように思えます。オープン化という題目に沿えば、前者から始まり、ゆるやかに後者に移行することが理想でしょう。
そして二つ目には、読み手=編集者=助産師を、どのように書き手と結びつけるか、という点です。読むことが書き手の次のアイデアやコンセプトの助産につながることをどのように最大化できるのかということを考えることとはつまり、読み手のレスポンスの返し方をデザインすることに他なりません。そのレスポンスの在り方は、いいね!ボタンやツイートボタンを押すことと、新聞の書評を書くことの狭間のどこかに位置しているのか、もしくは全く別の位相にあるのかもしれません。
次回はこの要件の優先度を意識しながら、「読むこと」が「書くこと」となるシステムの在り方についてもう少し具体的に考察していきます。
[読むことは書くこと Reading is Writing:第13回 了]
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