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ドミニク・チェン 読むことは書くこと Reading is Writing

ドミニク・チェン 読むことは書くこと Reading is Writing
第23回「情報摂取のデザイン」

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第23回 「情報摂取のデザイン」

“DTI-sagittal-fibers” Photo by Thomas Schultz[CC BY-SA 3.0]

DTI-sagittal-fibers” Photo by Thomas Schultz[CC BY-SA 3.0

 あるプログラマーの友人が昔、「誰かと話すことはその人を使って情報を検索することだ」というようなことを言っていました。つまり、人それぞれが色々な検索エンジンであって、同じ検索語でもAさんとBさんでは検索結果が変わるのが面白いと。これは実際に、ウェブ上の検索エンジンによって同じ語彙でも検索結果が異なることからしても、ここまで書いてきたことと照らし合わせても、とても本質的なメタファーです。
 記憶が形成される過程は基本的にオープンエンドです。つまり、自分で選んだ本を読むなどの行為を介して望んで作る記憶と、不測の事態が目の前で発生して刻み込まれる記憶のいずれかだけを選別することはできません。不測の事態というとネガティブなイメージが想起されてしまうかと思いますが、たとえば期せずして出会った作品によって(ポジティブな意味で)衝撃を受ける、などということも該当するでしょう。
 改めて考えてみると興味深いのは、私たちは不測の事態を意図することができるということです。たとえば自分がよく知らない専門領域の人と話すことによって、関心はあるが良く知らない事柄について知ることを期待する、ということは「不測の事態を意図する」 と言えるでしょう。前の記事でも言及しましたが、セレンディピティとはつまりそのようなことなのだと考えられます。漫然と向き合っていても気付くことができなくても、注意を維持することによって意識的に、もしくは無意識的に新たな価値を日常のあちらこちらから見つけ出すことができるでしょう。 *1
 それは生命進化の語彙を使えば、自らの表現の系統に「ゆらぎ」をもたらすための行為として見なせるのではないでしょうか。遺伝のゆらぎは環境の変化に適応できなかったものが自然淘汰され、適応できた遺伝的変化が次世代に継承されると言われています。遺伝は種の学習だという表現がありますが、人間個体(個人)の学習もまた様々な環境の変化によってゆらぎを取捨選択していると言えます。
 このメカニズムに自覚的でいながら行為できるとはいえ、私たちはコンピュータのように全ての記憶を秩序立てて意識的に構成することはできません。しかし、自分の思考の傾向のおおまかな流れに気づき、関心領域の考えを深めたり、広げることができます。このことを私たちは「学習」することと呼ぶわけですが、このプロセスの結果として蓄積される記憶が次に私たちが表現する際の環境資源として機能すると考えれば、学習もまた表現行為の一部として見なすことができる。つまり、この連続性において情報の摂取と情報の表現が同一の次元にあると考えられるのです。

 私たちは当然、このことを強迫観念的に捉えるべきではありません。刻々と移り変わる眼前の光景や周囲の音全てに有意な価値を見つけようと身構えていたら、すぐに気が滅入ってしまうでしょう。原理的には身がさらされる環境のあらゆる情報に対して記憶が侵襲されているとはいえ、私たちは同時に選択的な注意(もしくは無関心)と忘却能(もしくは忘れっぽさ)という優れたフィルターを兼ね備えています。
 要は、私たちにデフォルトで内蔵されている、外界に向けられた弁の締め具合を調整することで、私たちは情報を時に過剰に摂取したり、時にストイックに制限したりしながら生きているわけです。しかし、自然現象が無為であることに対して、情報の操作というものは常に人為が介在しています。文章というものにフォーカスを戻せば、先の記事で述べたようなマーケットイン型の文章は、読者に対して短い時間の中で特定の感情を喚起させようとする作成者の意図に溢れているものとして捉えられます。それは読者を操作可能な対象として見なしている行為であり、読書という行為が本来的に学習行為であり、未来の創造性を先取りする自律的な反省のプロセスであることを無視しているといえます。
 当然、私たちのフィルターがこうした人為的な情報の侵襲に対して徐々に強化されていくにつれ、マーケットイン型の文章が淘汰されていくことも考えられるでしょう。しかし、それは代替するものが存在し、そのことに気付くことができればという条件が付きます。先の記事では、プロダクトアウト型の文章の可能性に触れました。プロダクトアウト型の文章とは誰に頼まれるわけでもなく、ただ表現されるために表現されているようなものです。それは、学習による記憶が表現につながるのとは反対のベクトルにおいて、表現が書き手にとっての新たな学習と記憶を形成することに寄与するものです。
 この二つのタイプの対比は極端なものです。書籍という形で流通したり、ネット上で閲覧されるといった伝播経路の特質に無自覚なまま書かれた表現というものは存在しないか、もしくは社会と断絶した狂人によって生み出されたものに限られるでしょう。現実に存在する優れた表現は、この二つの極の狭間で揺れ動きながら、受け手のなかに少なからず創造の契機を芽生えさせるものではないでしょうか。

[読むことは書くこと Reading is Writing:第23回 了] 


*1│不測の事態を意図する
それは生命進化の語彙を使えば、自らの表現の系統に「ゆらぎ」をもたらすための行為として見なせるのではないでしょうか。遺伝のゆらぎは環境の変化に適応できなかったものが自然淘汰され、適応できた遺伝的変化が次世代に継承されると言われています。遺伝は種の学習だという表現がありますが、人間個体(個人)の学習もまた様々な環境の変化によってゆらぎを取捨選択していると言えます。

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PROFILEプロフィール (50音順)

ドミニク・チェン(Dominick Chen)

1981年、東京生まれ。フランス国籍。博士(東京大学、学際情報学)。NPO法人コモンスフィア(旧クリエイティブ・コモンズ・ジャパン)理事。株式会社ディヴィデュアル共同創業者。主な著書に『電脳のレリギオ』(NTT出版、2015年)、『インターネットを生命化する〜プロクロニズムの思想と実践』(青土社、2013年)、『オープン化する創造の時代〜著作権を拡張するクリエイティブ・コモンズの方法論』(カドカワ・ミニッツブック、2013年)、『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック〜クリエイティブ・コモンズによる創造の循環』(フィルムアート社、2012年)。 [写真:新津保建秀]


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