COLUMN

田内万里夫 SUB-RIGHTS

田内万里夫 SUB-RIGHTS
17: Untitled[最終話]

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海外の本を自国で刊行する翻訳出版には、契約を成立させるための業務を担う「版権エージェント」という職種がある。このテキストは、一般社会ではあまり聞き慣れない職種「版権エージェント」の仕事、またそこから見聞きすることになった知られざる翻訳出版小史を伝える自伝的小説になっていく予定だったが、どうだろうか。連載タイトルの「SUB-RIGHTS」とは、著作権の二次的使用を意味する用語である。日本と海外の架け橋となったスコットランド人の版権エージェント、師であったウィリアム・ミラーへ追悼の念を込めて書き綴っていく。
※この物語は、概ね事実を元にしていますが「フィクション」です。登場する個人名・団体名の一部は架空名、もしくはプライバシー保護の観点から仮名にしています。
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 フィーロンさんが亡くなったのは、2009年の秋も更けようとしていた11月のことだ。七十五年の生涯だった。
 その前年にはアメリカの投資銀行リーマン・ブラザーズ・ホールディングスの経営破綻を合図に世界規模の金融危機が起こり、資本主義社会の行きついた先の、特に金融の仕組みに潜む巨大な欺瞞が露呈した。別にリーマンじゃなくても、どこでだって起こり得た話だったはずだ。当時のことに興味があれば、金融業界について書かせれば当代随一の名著者、マイケル・ルイスの書いた『世紀の空売り 世界経済の破綻に賭けた男たち(原題:THE BIG SHORT)』という本が早川書房から出ているので、とりあえずそれを読んでみるといい。その本が原作となった『マネー・ショート』という映画を観るだけでも呆れ果てることになるだろう。だがその後もずっと僕たちは、世界を破滅へと導いていく晩期資本主義社会のなかで無自覚なふりをしながら営みを続けている。リーマンショックによって、金融に限らずあらゆる業界が打撃を受けたが、その衝撃はもちろん日本にも及んだ。1996年をピークにじりじりとした景気の後退が止まらない日本の出版業界においても他人事ではなかった。この頃までは会社の経費を使って遠慮なく飲み歩いていた大手、中堅の編集者たちが「経理のチェックが厳しくなってさ」とか言って、やっと自腹で酒を飲むようになった。英語圏の仕事相手とのやりとりから感じ取れる状況ははるかに深刻で、「解雇」を意味する「lay off(レイオフ)」という言葉が、まるで流行語かなにかのように飛び交った。日本国内の書籍の売り上げが、さらに落ち込んでいくことが予想された。

 そんなタイミングで、資本主義社会を最期の最後まで疑い続けたフィーロンさんは、幸か不幸か、その後の世界にどのような変化が起きていくことになるのかを目撃することなく死んだ。あのデヴィッド・フォスター・ウォレスの自殺のニュースが流れ、それから間もなくのことだった。死の直前、ウォレスは税と金融の実態について掘り下げ、それを小説仕立てにしようとしていたという話だ。
 僕がクビになった後になってエージェンシーに復職していた原さんからの一報を受けて広尾の日赤病院に駆けつけると、地下の殺風景な霊安室にフィーロンさんが寝かされていた。検査入院をして、そのまま息を引き取ったのだと聞いた気がする。
 もともと悪くしていた呼吸器系の不調がこの数年は特にひどく、ヘビースモーカーだったフィーロンさんもついに禁煙を強いられていた。たまに一緒に酒を飲みにでかければ、僕の煙草を物欲しそうな目で眺めた。よそでどうしていたのかは知らないが、少なくとも自前の煙草を持ち歩くのはやめていた。
 冷たい部屋の枕元にはきれいな切り花が行儀よく添えられていた。横たわるフィーロンさんも、枕元の花ほどには余力を残しているように見えた。
 だが、あの話し好きのフィーロンさんがもう二度と言葉を発することが無いのだと思うと虚しかった。

 僕がフィーロン・エージェンシーを解雇されたのはその8年前、2001年2月のことだったが、その後もフィーロンさんとの付き合いは続いていた。クビになってしばらくは、ほぼ毎週、たいてい水曜か木曜の夜に決まって声がかかった。食事をするか、めぼしいコンサートに付き合うか、いずれにせよ最後はかならず大酒になった。そんな関係が2年近く続いただろうか。美術館やギャラリーで面白そうな展示があれば週末に待ち合わせることもあり、横浜で初めてのトリエンナーレが催された際には当然のように出かけて行った。夜空に向けて高々と光を放つオノ・ヨーコの「貨物車」が素晴らしかった。仕事が話題にのぼることはほとんど無かったが、それでも本の話はよくした。仕事上の問題を分かち合わずにすむので、むしろ気楽な関係が生まれた。フィーロンさんは当時まだ60代だった。

 僕は結局、フィーロンさんが「蛇」と呼んで警戒した日本ユニ・エージェンシーの上野さんの誘いを受けて、彼が独立して立ち上げた新たな版権エージェンシーに参加していた。その創業に加わったのは解雇を言い渡された翌月、2001年3月のことだ。ユニの役員でありエースでありジョーカーでもあった上野さんだが、独立を決意してから実行に移すまでにはいくつかのややこしい難所を潜らなければならなかったらしい。上野さんが44歳で、僕は28歳だった。僕以外のメンバーはいずれも上野さんがユニから連れて出てきた、もしくはかつてそこで上野さんの同僚として働いていたことのある面々だった。右を向いても左を向いても波乱だったが、とにかくその三月下旬には慌てて刷った新会社の名刺を持って飛行機に飛び乗り、ロンドンのブックフェアに突入した。上野さんが予め握り合っていた数社のクライアントを除けばミーティングのアポイントメントなど無いに等しかったが、世界のあちこちに仲間のいる僕たちの旗揚げを祝い、面白がってくれる相手は少なくなかった。
 上野さんの独立、そして僕の解雇は、狭い版権世界における極東の小さなゴシップだった。笑いながら、まるで祝儀かなにかのように有力なタイトルを預けてくれる人達もいた。2001年の当時、海外の権利者たちにとって日本はまだ引っ搔き回せばなにかが起きるかもしれない、つまりそこそこの金になるかもしれないという期待の持てるマーケットだったのだ。
 ジョナサン・サフラン・フォアの『エブリシング・イズ・イルミネイテッド』が、新エージェンシーにおける契約の記念すべき第一号となった。版権を売るのが容易くはない地味な文芸作品の面倒をせっせと見てきた僕に対し、イギリスのエージェントが景気づけにと回してくれた鳴り物入りの新人著者のデビュー作だった。原稿を預かると、その夜はどこにも寄らずにホテルに帰ってむさぼり読んだ。ソニー・マガジンズの編集長が、御祝儀ディールだといって出版を約束してくれた。僕がフィーロンさんの会社を解雇された翌日、いの一番に誘い出してくれ、今は無きフェアモントホテルのバーでバーテンダーに「こいつ昨日クビになったんだって。そんなやつにぴったりの酒を飲ませてあげてよ!」と笑いながらドンペリを抜いてくれた恩人だった。「いいか、クビになった背景にはいろんなことがあったと思うけど、悪口や文句は外では絶対に言うなよ? 言いたいことがあるんだったら、今夜なにもかも吐き出して、それでもう終わりにしろ」と、昂る僕を鎮めてくれた。
 ロンドンのブックフェア会場で顔を合わせたフィーロンさんは、僕が本の世界で仕事を続ける道を得たことを喜んでくれた。クビを切った若者が路頭に迷わずに済んだことを知り安堵したのかも知れない。
 しかし、それから一息つく間もなく、2001年の波乱は思わぬ形を伴って続いた。
 フィーロンさんの生涯のパートナーである馬場さんが、あの西麻布のマンションの705号室の窓から転落して亡くなった。
 末期の癌を患っていた馬場さんは、数え切れないほどの手術を重ねながら命をつないでいた。強い鎮痛剤の作用により朦朧となった頭で、誤って窓から転落してしまったのだとフィーロンさんは繰り返したが、それはパートナーが苦痛の末に自ら命を絶った可能性については認めなたくないという態度の現われにも見えた。真実は誰も知らない。
 パートナーよりも先に自分の寿命が尽きることを悟っていた馬場さんが望んだのは、故郷に骨を埋めることではなく、フィーロンさんと出会ったイギリスでの散骨だった。
 馬場さんは群馬県の伊勢崎市の生まれだったが、そこはふたりの嫌った自由民主党政治の強固な地盤のひとつであり、特にあのサッチャーと手を結んだ中曽根康弘の地盤でもあった。そんな地域の封建的な旧家の出である馬場さんは、フィーロンさんによれば、その故郷を懐かしみながらも親族とはできるだけ距離をおいていた。とはいえ伊勢崎市の近郊に別荘を構えており、週末はそこでふたりで過ごすのだと言いながら、フィーロンさんが楽しそうに金曜の仕事を終えることもあった。生家とは物理的な、そして感情的な距離を保とうとした馬場さんだったが、フィーロンさんとともに密な付き合いを続けた親族がひとりだけいた。被差別部落の出身の若者と結婚したことで一族から疎外された聡明な姪がいるのだとフィーロンさんは言っていた。そして彼女の近況について話すときには、険しい表情になりながらも目を細めた。

 馬場さんの散骨の旅に出るから、ロンドンからドーバー海峡まで運転手をしろと声が掛かった。毎週のようにフィーロンさんと飲みに出かける僕を面白くなさそうな顔で見ていた上野さんも、この休暇については快く認めてくれた。
 フィーロン・エージェンシーからの参列者は無く、代わりに何羽もの大きなカモメが強い潮風の吹く海上を舞っていた。いずれも年老いたフィーロンさんのロンドン時代の友人たち十人ほどを乗せた小型のモーターボートが、扇のような白い波を後方に広げながら沖を目指してまっすぐに進んでいく。僕は散骨の様子を記録に収めるために、購入したばかりのソニーのデジタルカメラで連写した。日が落ちれば切ない宴会となり、皆フィーロンさんにつられてしこたま酔った。
 翌朝はその足で、二日酔いのフィーロンさんを乗せて姉のモーラグが暮らすロンドン郊外のセブノークスへと車を走らせ、樫の木の揺れる静かな丘に囲まれた小さな街を目指した。街の教会を訪ねたりしながら、モーラグと、フィーロンさんの甥にあたるマークと一緒に数日を過ごし、フィーロンさんは馬場さんとの思い出を振り返った。

 フィーロンさんによれば、馬場さんは反骨の闘士だった。政治的保守の権威を笠に着る一族から離れたい一心で、できるだけ遠くの北海道大学を受験し、そして晴れて入学した。しかしその三日後には雪道で足を滑らせ、ここでは自分は暮らせないと言って契約したばかりのアパートを引き払い、退学を決めてしまったのだそうだ。……なににおいても大袈裟なフィーロンさんのことだから、もしかしたら馬場さんが退学を決めたのは三週間後か三ヶ月後か半年後か、そんなところだったのかもしれない。とにかくその後、美容師になることを決めた馬場さんはロンドンへと渡り、そこでフィーロンさんと出会うことになる。1976年だったというから僕がまだ3歳のときのことだ。
 当時42歳だったフィーロンさんは脂の乗ったロンドンの名物編集者だった。
 オックスフォードの大学時代は左翼系報道に関わったことで政治裁判に巻き込まれもしたが、とにかく卒業を果たし、フィナンシャル・タイムズ紙に職を得た。1950年代のことだ。しかしブルジョワ的な経済紙の仕事は肌に合わず、27歳で初めての小説『EVERY NIGHT AND ALL』を書き上げる。1961年、ロンドンの出版界の花形だったアンソニー・ブロンドがそれを出版し、晴れて離職したフィーロンさんは文芸の世界へと足場を移すことになる。作家としては花開かなかったが、28歳でペーパーバックの出版社、フォー・スクエア(Four Square)に加わり、それがフィーロンさんの編集者としての人生の幕開けとなった。ペーパーバックといえば当時からペンギン・ブックス(Penguin Books)の独壇場だったそうだが、とにかくあらゆる階級の読者のもとに、等しく、可能な限り廉価で書物を届けるべきだという信念のもとに数多の本を世に送り出し、それから盟友ジョン・ブースと共にパートナー・ブックス(Partner Books)に移籍する。
「たとえ安価でざらついた薄っぺらい紙に印刷されていようと、書かれている内容さえおなじであるなら、その本質的価値はなんら変わらない」とフィーロンさんは言う。「それが書物というものだろう? なにが語られているのかが重要なのだ。もちろん、ただ価格を下げて著者の得るべき利益を損ねるような真似をしたわけじゃない。著者にとっても読者にとっても必要な機会を、とにかく広げようとしたのさ。機会均等の理念だな。知の共有だ。書籍は嗜好品のように思われがちだったが、そんなわけはない。まぎれもなく実用的な知であり、そこに接触できる一部の特権的な人々だけが独占して良いものであるはずがない」
 1950年代から60年代にかけて、特に第二次世界大戦後の戦勝国では解放的なムードが大きく開花したのだと、フィーロンさんは懐かしそうに振り返る。イギリスではビートルズが階級社会の壁を打ち崩そうとしており、そこにローリング・ストーンズが殴り込みをかけ、ザ・フーやスモール・フェイセズなどのロックバンドがさらに続き、にぎやかで華々しい乱反射が発生した。カウンターカルチャーの時代が本格的に幕を開け、若きフィーロンさんはその渦中にいた。第二次世界大戦の悲惨な記憶をいまだ鮮明に残す新時代の書き手、例えばカート・ヴォネガットなどの著書をフィーロンさんは大衆に向けて出版した。「おまえたちの言葉でいうと“グルーヴ”か? まさにそんな感じだったよ」と、当時を振り返って笑いながら、まだ生き証人は死に絶えていないとばかりに大きなグラスの赤いワインを一気にあおり、愉快そうに煙を吐き出す。

 馬場さんの散骨に集った面々の語る思い出話は、どれもフィーロンさんの大酒飲みのエピソードばかりだ。午前中の会議にはまず現れない。遅くなって出てきたと思えば赤ら顔で酒臭い息を吐き散らし、シャツはよれよれ、頭はとっちらかっている(まだ髪の毛がふさふさしていたわよね!)。
「そんなマイクに呆れ果てながらも、わたしたちこの人の作る素晴らしい本をいくつも出版したのよ」と、ジェラルディーンという厚化粧の老編集者が相好を崩す。
「そうだとも! 面白いと思えばこそ、価値があると信じればこそ、なんだってやった。ただ飲み歩いていたばかりじゃない。性を解放するために『カーマ・スートラ』の英語版を出版した。宗教弾圧に一石を投じた遠藤周作だって英語で出した。そこに読むべきものがあると思えば、あらゆる手段を尽くしてなんだってやった! 今だってなにも変わらないさ」と、横にいる僕に気を使ってか、フィーロンさんは日本人作家の名を加える。『沈黙』の英語版を出した。
 1965年、フィーロンさんのパートナー・ブックスがグラナダ(Granada Publishing)に吸収される。ローリング・ストーンズが決定的なブレイクスルーを果たすことになるセカンドアルバムを出した年のことだ。それから10年以上も続くベトナム戦争の口火が切られた不幸な年でもある。
「私は三十代になったばかり。当時はSOHOにアパートを借りて住んでいた。ドアから一歩繰り出せば、街は友人知人であふれていた。無軌道で疲れ果てるが、楽しい毎日だったよ。酒場でたまたま居合わせたポール・マッカートニーとそのまま飲み交わすようなこともあった」と、フィーロンさんはその夜のことを振り返る。「ちなみに、当時の私のアシスタントを務めてくれていたのが、うちの役員のあの口うるさいジョンの妹さ。縁とはそういうものだ」
 1972年、38歳でグラナダからの独立を決める。四人の仲間でカルテット・ブックス(Quartet Books)を立ち上げた。
「まさにこの世の春だった。ペーパーバックだろうがハードカバーだろうが、とにかくなんでも出版した。アンジェラ・カーター、メイヴ・ビンチー、才能ある書き手たちがわんさかいた。アンジェラ・カーターは新宿のバーで働いていたこともあるんだぞ、本を貸したろう?」
 僕にとってはどれも歴史上の名だが、彼等にとってはおなじ時代を生きた、思い出を伴った人々の名だ。たしかに、僕がまだフィーロンさんの会社に勤めはじめたばかりの頃に読めと言って渡されたアンジェラ・カーターの『花火 九つの冒涜的な物語』という短編集があった。本棚のどこかに刺さっているはずだ。東京時代のことが書かれていたとは知らなかった。
「……言われるまでもなく、当時はちょっとやりすぎたのかもしれないな。私たちのカルテット・ブックスの経営は次第に難しくなり、そして会社は傾いた。私は出版人ではあるが、残念なことに優れたビジネスマンではなかったんだ」
 フィーロンさんのトーンが下がる。
「……その頃に出会ったが馬場だった。シュウゾウとは、たしか馬場を通じて知り合った。ある種のゲイ・コミュニティさ」
 シュウゾウ、つまりフィーロン・エージェンシー副社長の三輪さんは和歌山の商業高校を出た後、大手商社に就職する。だが、そこで居場所を見つけられずに一念発起、国外に活路を求めロンドンへと渡った。フィーロンさんによればそういう話だ。三輪さん本人から当時のことを聞かされたことはほとんどない。
 42歳でカルテット・ブックスの経営をナマラ・グループ(Namara Group)に引き渡すことになったフィーロンさんはその3年後、45歳のときに馬場さんと共に日本に渡ることを決意する。その日本で興す翻訳出版の版権エージェンシーの経理などの実務を預かるビジネスパートナーとなったのが、商社勤めの経験のある実務派のシュウゾウ、つまり三輪さんだ。馬場さんはロンドン帰りの美容師として、上り調子の東京で、しかもファッションの中心地の青山で、慌ただしくもきらびやかな人生を歩んでいくことになる。「シュウゾウにとっても、あれは渡りに船だったはずだ」と、フィーロンさんは振り返る。
「しかし、それからが大変な日々だった……」
 フィーロンさんは100本目の煙草に火を点し、肩を落とす。

 ――1979年、フィーロン・エージェンシーの創立の際に出資主となったのは、フィーロンさんが出版の世界へと入るきっかけを作ったアンソニー・ブロンド、そのパートナーだった気取り屋でブルジョワのチャールズ、そして既に日本で貿易会社を軌道に乗せていたビジネスマンのジョンさんの3人だ。
「……東京は、あらゆる意味においてロンドンとは勝手が違った」
 海を越えて45歳で興したフィーロン・エージェンシーは、同業の老舗である最大手のタトル・モリ・エイジェンシー、それから実力派の日本ユニ・エージェンシーの二社からの猛烈な反発を受けることになった。
「それでもまだ、私は高を括くっていたのさ。なにしろ私には、特に英語圏における強力な仲間たちの支えがあった。だからこそ漕ぎ出すことができたのだし、そのまま波に乗っていけるものと、わりと安易に考えていたんだ。人間なんていつまで経っても世間知らずなものなのさ」
 フィーロンさんが英語圏を中心に欧米のクライアントとの関係を受け持ち、それを日本での翻訳出版に結び付ける。三輪さんがソロバンをはじく。欧米化への憧れに満ちていた高度経済成長期の日本における翻訳出版の世界には、概ね好意的に受け入れられた。1980年代に入ったばかりの日本社会といえば、まさにエルドラドへの昇り階段を勢いよく駆け上がっていくまばゆい時代だ。
「起業したのはあの西麻布のマンションだ。自宅とは別に一室を借りて、オフィスを構えた」
 そのオフィスについては難しい思い出のほうが多く残っているのだと言わんばかりに、フィーロンさんは苦々しげな顔をする。もちろん僕はその当時の様子を知らない。
 ロンドン時代の華々しい気分のまま飲み歩いてばかりで仕事に身を入れようとしないフィーロンさんに対する抗議のパフォーマンスだったのだろうか、血相を変えた三輪さんが事務所の窓から身を乗り出して飛び降りようとしたこともあったと言って、フィーロンさんは大きな煙を吐き出す。「経営者なんて役回りは、そもそも苦しくないはずがないのさ」
 事務方だったはずの三輪さんをエージェントの役に駆り出し、それでやっとどうにか会社が回るようになった。……時が流れて1993年、創業から実に15年を経てユン・チアンの『ワイルド・スワン』が大ヒットする。これで完全に苦難を脱し、軌道に乗ったと思えたのだという。
「やっと、やっと一息つける、そう感じたよ」と、フィーロンさんの背中から力が抜ける。「それまで楽ではなかったが、高度経済成長期という歴史的に珍しいほどの好景気にいあわせたのが幸運だった。あの大波のおかげでなんとか乗り越えられたんだ。運があるっていうのは、生きていくうえで重要なことだよな」と言って、グラスを置いて黙り込む。当時については静かに思い返さずにはいられない、いくつかの記憶があるようだ。
「80年代の日本は好景気の真っ盛りで大いに浮かれていたが、一皮剥けばいかにも日本らしく、旧態依然として封建的で、とにかく強固な社会だった」とフィーロンさんはまたワインを煽る。「私はガイジンで、ゲイでもあった。なんと言えばいいのかな……」
 社会は閉鎖的であることに無自覚だった。 だが“ガイジン”であることで守られる治外法権的な特権は、けっして小さくはなかった。「ここで言う当時の日本の“ガイジン”とはつまり欧米からやって来た白人のことさ。そのことで不利益を被ることはそれほど無かったと私の場合はいえるが、しかし常に異質な存在として扱われることには違いなかった」
 ある夜、有名レストランでの会席に加わったときのことだ。ジョンさんが幹事を務めるガイジンのゲイコミュニティのエクスクルーシブな宴席だった。パートナーの馬場さんを伴ってレストランのエントランスをくぐり、ボーイにテーブルへと案内される。フィーロンさんには上席が用意されていたが、引き離された馬場さんは“日本人パートナー”たちの並ぶ末席へと誘導された。
「ひどい一夜だったよ」と、忘れられないその夜の記憶を胸の奥で蘇らせながら、フィーロンさんが語気を強める。
 馬場さんは与えられた席につくことなく、踵を返してその場を去ろうとする。フィーロンさんは慌ててパートナーのあとを追う。
「流れ着いたのは確か、渋谷の東急ホテルだったかな。激しい雨が降っていた」と、また記憶を手繰り寄せながら、フィーロンさんは祖国スコットランドのウイスキーを一息に飲み干す。「窓をバーンと開け放った馬場が真っ赤な顔で、力いっぱいホテルのキーを投げ捨てた」
 昔よくあったあの四角いプラスチックの棒のついた、ホテルの部屋のキーホルダーさ、見たことはあるだろう? フィーロンさんが酔った目でこちらを見上げる。そのときの話ならもう何度か聞かされている。……“ボーイ”のひとりとして扱われた馬場さんが、とにかく荒れ狂ったのだ。
 あの夜のレストランで例えどのようなアレンジが為されていようと、フィーロンさんは馬場さんのことを対等なパートナーとして扱わなければならなかった。そのことを一座に示し、認めさせなければならなかった。守るべきものを守らなければならない責任と立場とが、あの場の自分には確実にあった。そんな単純なことにさえ思い至らなかった、もしくはその直感を無視してやり過ごそうとした自分自身を、フィーロンさんはずっと許せずにいる。
「言い訳をすれば、うっかりしたのさ。考えなしにあの状況をただ受け入れようとしてしまったのだ」と、フィーロンさんは苦い酒を飲み込む。「結果としては、そういうことだ。だが、それで良いわけなどなかった! 馬場はそんな私を見抜いてしまった。……深く傷付けたことだろう」
 フィーロンさんの目に感情があふれる。
 そんなフィーロンさんから引き取って欲しいと言われ、捨てるに捨てられなかったのだろう、御洒落だった馬場さんの衣類を詰めた、いつも旅行に持って出ていたあのルイ・ヴィトンの大きなボストンバッグを押し付けられた。どうしたものか迷った挙句、フィーロン・エージェンシーに就職してからしばらく過ごした豪徳寺のアパートの近所、世田谷八幡宮の焚き上げの山にそのまま供養のつもりで夜更けにそっと紛れ込ませ、手を合わせた。

 フィーロンさんと最後に飲んだのは、彼が亡くなる3カ月ほど前、まだ暑かった夏の夜のことだ。あの解雇劇から8年が過ぎたその頃にはもう、どちらからともなくたまに連絡を取り合い、タイミングが合えばちょいちょい酒を飲み交わす、そんなのんびしりとした関係になっていた。
 僕は上野さんのエージェンシーで七転八倒を繰り返しており、いくつか目立った仕事はあったがなにもかもうまく行っていたとはとても言えず、三十代の半ばに差し掛かり状況は厳しく、漠然とした疲労感にいつも襲われていた。6歳の娘と2歳の息子とが日々の張り合いだったが、雑誌社を辞めて料理研究家として独立したばかりの妻はまだその業界の駆け出しで、僕は正直なところくたびれ果てていた。あまりのストレスから描きはじめた絵がなにやら不思議な巡り合わせをもたらし、美術の世界のはじっこに彷徨い込んでしまったこともあり、そのための時間も作らなければならず、昼も夜もなく疲弊し切っていた。
「Be strong(強く生きろ)」
 弱音を吐く僕の顔を見るたびに、フィーロンさんはグラスを持ち上げながらそう励ましてくれた。
 フィーロンさんをタクシーに押し込んで自宅まで送る。
 かつて馬場さんと暮していた西麻布のマンションと比べると、ひとりになった寂しさを感じざるを得ない小ぢんまりとした五反田のフラットだ。見渡すと方々、細かく物が散らかっている。足取りの怪しいフィーロンさんを暗い部屋に担ぎ込み、ひとまず椅子に座らせる。
「煙草を吸えば肺をダメにしてしまうけど、あなたの場合、吸わなかったらそれはそれでストレス性の胃癌かなにかで死んじゃうでしょうね、……なんてことをいう主治医の先生なんだよ。なかなかできた医者だろう?」
 息を切らしたフィーロンさんはそう言って力なく笑うが、さすがに僕も、もう煙草を取り出さない。
「どうだ、最後にもう一杯だけ、飲んでいかないか」
 薄暗い壁には僕の描いた小さな絵が一点、あれこれに混じり額に入って飾られている。

 南青山の骨董通りの先にある、普段はダンスホールなどとして使われていると思しき会場で、業界関係者向けの告別式が催された。
 参列者に紛れ込んだ僕は、会場の明るすぎる照明の光を浴びる色とりどりの花に囲まれたフィーロンさんの棺に、煙草を一箱こっそり忍ばせた。
 翻訳出版業界の花形が勢揃いしていた。
 フィーロン・エージェンシーの面々は三輪さんはじめ、かつての先輩社員たちも誰も僕に近寄ろうとはしなかった。忙しない会場を預かるスタッフとして、それどころではなかったのかも知れない。会場を去ろうとする僕を見かけ、編集者のグループが酒場に誘ってくれた。

 ――僕以外の誰にも関係の無さそうな少しばかりの遺品を納めた小包が、後日、フィーロン・エージェンシーから送られてきた。見覚えのある本や、あれこれつまらないものが収められていた。フィーロンさんは蛙をモチーフとした雑貨を集めていたが、僕がどこかの旅先で手に入れて贈った小さな銅製の蛙の壁掛けや、それから僕の吸っていた煙草のメーカーのノベルティ用の携帯用灰皿まで入れられており、遺品の整理に苦心した彼等の様子が伝わってきた。
 欠けているものがあった。
 僕が挿画を描くことになっていたはずの、フィーロンさんが書き進めていたはずの原稿だ。
 来日してからのこのかたの出来事が記録されているフィーロンさんの原稿が見当たらなかった。’80年代から2000年代初頭にかけての日本について、またその間に大きく様変わりしたであろう日本の翻訳出版の状況について、異邦人としての、そして当事者としての目を通して描かれていたはずの、面白くないわけがない原稿がなかった。第二次大戦直後の貧しいスコットランドの港町からロンドンへと流れ、さらにそこから好景気に沸く東京へと流れてきた、優れていないとは決して言えない出版人の目を通して記された回想録があるはずだった。僕がフィーロンさんから依頼されていたのは、あの雨のあたる東急ホテルの窓、西麻布のあの705号室の窓、そして南青山の骨董通りに面した事務所の窓、その3枚の挿画だ。
 タイプをしないフィーロンさんのことだから、あの悪筆の手書きで綴っていたに違いない。パートナーである馬場さんを主人公に据えた物語として書き進められていたはずで、当然のことながら自身の回想録でもある。
 その原稿がどこにもなかった。
『ストーリー・オブ・ババ:馬場の物語』とか『ア・スコッツマン・イン・トーキョー:東京のスコットランド人』とか、その時々にいい加減な仮題をあてて話題にしながら、実際のところはまだ『無題:Untitled』なのだと笑っていた。
 性差別や人種差別、階級や出自による差別、それから経済的な身分などに起因して生じる社会格差の問題、日本社会と国際社会、政治と経済との関り、そしてそれらすべてを内包する出版、とりわけ東京の翻訳出版という世界……、そのような舞台装置が用意されていたはずの、あの酔っ払いのフィーロンさんの紡ごうとしていた物語には一体なにが書かれていたのだろう。大笑いさせてくれた可能性だってある。
 懐かしのフィーロン・エージェンシーの番号を探し、おそるおそる電話をしてみた。フィーロンさんのアシスタントを務めていた女性に訊いても、そのような原稿のことは何も知らないという返事だった。

 フィーロンさんがいなくなってから15年近い歳月が流れた。世界金融危機のショックも冷めやらぬうちに日本では東日本大震災があり、東京電力福島第一原子力発電所のカタストロフィが起きた。あの原発事故からこのかた、フィーロンさんが存命だったらうるさくて大変なことになっていただろうなと、ことあるごとに考えた。だがその騒々しさは必要なノイズであるはずだった。チェルノブイリの原発事故から間もなくソ連は解体された。爆発したエネルギーの大きさに比例する大現象だったのだ。日本社会においてもそれに匹敵する崩壊が起こることが容易に想像された。事実として、それは起こった。日本というイデオロギーの解体が、あの巨大事故から数年経って、必然のごとくはじまったのだ。そのようなタイミングでフィーロンさんが不在であることが無念だった。出版という、文化と商業とのあわいの地点にあって、バイオリズムとして崩壊をはじめた国家に生きる当事者として、地球という有限の環境のなかで、彼のような人物が担い得る役割はもしかしたら小さくなかったはずだと、何度も繰り返しそう考えた。そう思う度に、無性に悔しかった。商業としての出版の不況はそのような日本社会の流れのなかで、あらかじめ存在していたあれこれの小さくない問題を分かりやすく可視化させることになった。手っ取り早い利益を求める出版業界の傾向がいよいよ加速し、売れるとなればヘイト本のような毒にまで平気で手を出すほどに麻痺が進んだ。突破口を求めて孤軍奮闘の道を選ぶ独立系の小規模な出版社が少しずつ増えてきたのは、もしかしたら良い兆候といえるのかも知れないが、無事に存続していけるのだろうか。それもこれも焼け石に水ではないか、どうせ闇はますます深まるのだろうと捨て鉢に思うこともあるが、そこは希望を失わずに持ちこたえていたい。変化は必ず起こるのだ。
 フィーロンさんが出版人としてのキャリアを開花させた1950年代後期から60年代にかけてのカウンターカルチャーの時代、それを懐かしんでも仕方ないのかもしれない。でもその時代を生きた人の声を、今聴くことのできない現状がもどかしい。だが、それもまた一個の人間が有限の存在であるということを改めて教えてくれる、いわば戒めだと思い、夜の道を歩く。「良い本をポピュラーに、そしてポピュラーな本を良い本にするんだ」が、フィーロンさんの口癖だった。今夜も月は明るい。街の明かりにすっかり消されてしまってはいるけれど、星だって数えきれないほど瞬いているはずだ。

 これは卑近な話ということになるだろうか。フィーロンさんのエピソードの最後を飾るには物足りないかもしれないが、1998年、僕がフィーロンさんの会社に入って初めての年末、クリスマスの休暇を目前に控え、あるFAXの原稿を作るように指示された。国内の取引先に送るべき年賀状の山に先輩社員たちが一言二言のメッセージを書き添えていくなか、まだそれほどの付き合いの無かった僕は、海外の取引先に対してクリスマスカードの代わりに送るFAXをデザインせよと、フィーロンさんからあの読めない字の躍る原稿を手渡されたのだった。当社はカードの印刷代および国際郵便の切手代として支払われるべき額をそのまま全てアムネスティ・インターナショナルに寄付する、公正な世界を祈念しハッピーニューイヤー……とかそのような内容だった。

 フィーロンさんがいなくなってしばらく経つが、なんらかの決断を迫られるとき、僕はいまだにフィーロンさんの意見を求め天を見上げることがある。この状況に対して彼だったらなんと言うだろう。どの道を選べと指さすだろう。強く生きろと笑うだろうか。

The End 「献杯」


PROFILEプロフィール (50音順)

田内万里夫(たうち・まりお)

1973年生まれ。埼玉県出身。版権エージェント(現在はアルバイト)。マリオ曼陀羅の名義で画家としても活動、国内外で作品発表をおこなう。主な展示として『LOVE POP! キース・ヘリング展 アートはみんなのもの』壁画プロジェクト【キースの願った平和の実現を願って】(伊丹市立美術館・2012年)などがある。著作に『心を揺さぶる曼陀羅ぬりえ』(猿江商會)。本書はイギリス、台湾、イタリアでも刊行。訳書に『なぜ働くのか』(朝日出版社/TED BOOKS)。