COLUMN

田内万里夫 SUB-RIGHTS

田内万里夫 SUB-RIGHTS
16: The Remains of the Day

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海外の本を自国で刊行する翻訳出版には、契約を成立させるための業務を担う「版権エージェント」という職種がある。このテキストは、一般社会ではあまり聞き慣れない職種「版権エージェント」の仕事、またそこから見聞きすることになった知られざる翻訳出版小史を伝える自伝的小説になっていく予定だったが、どうだろうか。連載タイトルの「SUB-RIGHTS」とは、著作権の二次的使用を意味する用語である。日本と海外の架け橋となったスコットランド人の版権エージェント、師であったウィリアム・ミラーへ追悼の念を込めて書き綴っていく。
※この物語は、概ね事実を元にしていますが「フィクション」です。登場する個人名・団体名の一部は架空名、もしくはプライバシー保護の観点から仮名にしています。
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 1999年の夏のあいだに巨大地震が二度あった。8月17日のトルコ西部地震(イズミット地震)、そして9月21日の台湾大地震(921大地震)だ。トルコでは1万7千人もの人々が亡くなり60万人が家を失うなど被災した。台湾では死者2千5百人あまり、負傷者は1万人を超えた。そういえば2月にはコロンビアも大地震に襲われ(コロンビア・キンディオ地震)、死者は千人とも2千人ともいわれた。瓦礫と化した街、頭を抱え、天を仰ぎ、血を流す人々、頭上に広がる青空……。見たことのない破壊のイメージがインターネットを通じて目の前に示され、その視覚的な衝撃に慄いた。この惑星の内部は常に流動しており、薄っぺらい表面に立つ僕たちの足場は盤石ではなかった。  
 秋になってまたロンドンに入り、2週間みっちりと仕事をした。フィーロンさんとのエジンバラ行きの話は今回は流れ、結局そのまま忙しなく2度目のフランクフルト・ブックフェアへと直行した。
 フランクフルトではまたシンディをはじめ同世代の版権担当者や編集者たちとの再会を楽しんだ。会期中の1週間はずっと朝方の2、3時間ホテルに寝に帰るだけで、夜が更ければまた溜まり場へと乗り込んで明け方まで大騒ぎを繰り返し、そして新たな面々とも次から次へと知り合った。僕にとって、このフェア一番の収穫はミッシェル・フェイバーという著者のメジャーデビュー作となる小説『UNDER THE SKIN』だ。あのジェレミーのキャノンゲートが全社的な勢力を投じて世界中に売り出しにかかっていた。男性ばかりを食い物にする女性エイリアンが登場する、フェミニズム的な裏テーマを秘めたSF小説の意欲作だ。怒涛の1週間が過ぎ、フランクフルト空港の出国ロビーに辿り着くと、世界中の出版関係者がもう信じたくないほどの長蛇の列をなしている。うんざりするが、あの原稿を日本に持ち帰るのだと思うと重い荷物も大して苦にはならなかった。
 帰国の翌日だけ休みを取って、また仕事の日々。そのまま11月下旬になれば忘年会シーズンに突入する。フランクフルトから持ち帰った数百におよぶタイトルのうち翻訳出版契約に結び付くのは数十点に過ぎないが、資料の作成や条件交渉、それから契約のための事務手続きの毎日だ。
『UNDER THE SKIN』は紹介した8社のうち6社からオファーをもらい、オークションは大いに盛り上がった。競り落としたのはなんと矢沢君のアーティストハウスだ。同世代の取引相手と祝杯を挙げた。
 年の瀬が迫るにつれ、ほぼ毎晩どこかの誰かと予定が入り、たまに一晩空いたと思えばフィーロンさんとの深酒が待ち構えている。欧米の権利者から「サブ・エージェント(sub-agent)」と呼ばれるたびに「いや、そうじゃない、私たちはコ・エージェント(co-agent)だ」と言い返しては相手の無自覚な上下関係を正そうとするフィーロンさんも、この年はいわゆる「リテラリー・エージェント」、もしくは「プライマリー・エージェント」、つまりオリジナル作品の文芸エージェントとしてある著者に入れ込んでいた。千葉で英会話学校の教師をしながら執筆を続けてきたデイヴィッド・ピースのデビュー作となる『1974ジョーカー』を、イギリスのクライムフィクションの渋い出版社、サーパンツ・テイル(Serpents Tail)からの出版に結び付けたことでひとつ大きな役目を果たした格好だ。シリーズ続編の原稿に目を通しながら、フィーロンさんは充実した顔でうなずいている。仲の良い早川書房に第一作目を売り込み、日本語版の出版を決めたばかりだった。
 とにかく毎晩、仕事の縁で飲み歩き、朝方になってガールフレンドの待つ部屋によろめきながら帰りつく。豪徳寺の安アパートは酒乱の隣人とのもめごとの末に引き払い、下北沢の裏手、新代田のマンションに越した。大きな幹線道路沿いの建物なので鉄筋コンクリートの壁が分厚く、ここなら音が問題になる心配もない。駅のすぐそばなので、深夜にタクシー運転手を困らせることもない。部屋もふたつに増えて広くなり、真紀がそこで過ごす時間が長くなった。
 卒業しないまま僕にくっついて帰国してきてしまった彼女がフィラデルフィアに戻る様子を見せないのが、僕には不満だった。頭の柔らかさはピカイチで、まだ学部レベルとはいえ専攻していた哲学科のテキストならまるでパズルで遊んででもいるかのように読み解きながら吸収してしまうし、音楽のある場所に遊びに出かければ低音にどっしり乗った踊りがかっこよかった。まだ二十歳そこそこでどこにだって行けそうなのに、僕の部屋と越谷の両親のところとを行き来しながら無欲な時間を過ごしている。偶然ありついた仕事によって多少金回りの良くなった僕が、年下で無職の彼女に対して優位な立場にあるように傍目には映っただろうが、ちょっとでも言葉を交わせば彼女のほうが僕より一段も二段も突き抜けているのは、勘のあまり良くない人の目にも明らかだったはずだ。
 深夜の人間関係が次々と繋がりを生みながら拡大し、夜の時間はいよいよ隙間なく埋め尽くされていく。予定が空けばフィーロンさんが待ち構えている。サントリーホールやオーチャードホールのコンサートや舞台に連れて行かれたりしながら遅くまで付き合い、タクシーに押し込んで見送ったあと、誰か仲間の集まるところに合流して遊びなおす。もともと得意でなかった朝がどんどん遅くなっていく。売り上げさえ立てていれば文句は言われない。社長であるフィーロンさんの庇護は厚い。仕事に就いて2年目で、すでに軌道を失いつつある。
 正直なところ、仕事の成績なんてどうでもよかった。金を稼ぐことよりも、企画を売り込みにいく先々に現われる驚くほど博識で話題の豊富な編集者たちの存在のおかげで毎日が面白い。版権を紹介する場に顔を出すのはたいてい決定権を持ったベテラン編集者たち、もしくは自分の手掛ける本の領域に対する意識の明確な、切れ味が鋭く意欲的な若手の編集者たちだ。それぞれが受け持つ専門分野の話題から、トラブルやハプニングなども交えた業界の裏話まで、酒の肴には事欠かない。そのような付き合いが広がっていけば自ずと仕事が成立するサイクルが生まれる。編集者たちからの問い合せは僕のところに届くようになるし、こちらから紹介する本の優先順位だって彼らが押し上げてくれる。担当を僕に替えて欲しいなどという要望が入ることがあれば、先輩エージェントの鼻を明かしたような気がして爽快だ。まだ大して高くない僕の給料に見合う程度の売り上げならなんとなく作れるようになっていく。そうしていくうちに自分の趣味や興味に沿う企画をうまく紛れ込ませていく機会だって生まれる。
 契約に至るのは出版社が採算が取れると判断した本だ。娯楽大作であってもニッチな専門書であっても、その点は変わらない。規模や傾向の異なるあらゆる出版社が、それぞれに自社の出版傾向に見合ったタイトルを探している。採算分岐点をクリアできると評価されれば、本になって出版されることになる。それが商業出版の建前だ。1冊のベストセラーが9冊の売れない本を支えている、などともっともらしく言われていた時代でもあり、博打めいた企画にこそ身を乗り出す編集者だって少なくない。限定的な読者しかいないことを半ば承知のうえでどうにか社内を丸め込んで一冊の本を出版に結び付けようとする、それこそが編集者の矜持だと見栄を切るような人も珍しくはなかったし、実際そのような人たちの作る本には不思議な熱量が宿っている。際立った本を作るのは、たいていその手の編集者だ。
「いいか、ミリオンセラーだなんだと威張ったところで、百万人なんて日本の人口の1パーセントにも満たないんだ。テレビでいえば視聴率たったの1パーセントだよ。バカ売れを期待するなら出版なんかやめてテレビでもどこでも行って、もっと派手な仕事をやりゃあいいんだよ」
 万人に通じるものばかりを追い求めていればいずれ頭が腐って落ちてしまうと苦笑いしながら冷酒を啜る年配の編集者の横顔を目の端に見ながらしみじみと更けていく夜の味わいには、同世代の友人たちとのバカ騒ぎとはまたちがう温かさがある。
 千年紀(ミレニアム)の区切りの年となった1999年の仕事納めは「2000年問題」を警戒し、会社のネットワークサーバーやデータベースの電源を落としたことを念入りに確認してから、ほろ酔いで解散した。どこもかしこもそわそわと落ち着かないお祭り騒ぎだった。ミレニアムDJバッキーバキの正体とはいったい誰だったんだろう。
 2月には例年どおり、フィーロンさんと三輪さんのニューヨーク出張があり、ふたりとも上機嫌で帰国した。
 3月、就職して2年が過ぎた年の査定に呼び出されたオフィスの近所の喫茶店で、僕は自分が先輩エージェントより多くの売り上げを立てていることを根拠に彼女たちの得ている賃金の最低額よりも高い報酬を求め、それが却下されると腐った。
 コマーシャルな一般書を多く扱う僕の仕事が、比較すれば版権料の低い学術書や児童書を担当する彼女たちよりも数字を作りやすいのは確かだった。でもこの会社でおざなりにされてきたマイナーな文芸作品や人文書の契約点数を増やしたという自負があったし、そのことで当方との距離が縮まった権利者だって少なくなかったはずだ。僕は食い下がり、それならば週の1日、水曜日を出社不要の在宅勤務で過ごさせてくれるようにと交渉した。フィーロンさんは呆れた顔をしながらも僕の提案を渋々飲んでくれたが、秩序と常識とを重んじる副社長の三輪さんは許し難いという表情を見せ、在宅勤務日ごとのレポート提出など細かな条件が課されることになった。
 三輪さんが僕の仕事を監視しはじめるとすぐにトラブルが起きた。僕がこっそり事務所のパソコンに入れていたプライベート用のメールソフトの中身まで漁られるとは思ってもみなかった。社会にはびこる不平等などに対する憤りを共有するアナキスト気取りの学友とのメールのやりとりのなかに、ポル・ポトの発言の悪趣味なパロディやドイツ国歌(ドイツの歌)一番の歌詞の引用などがあり、それが問題視されたのだ。歴史の誤ちを茶化す程度のつもりだった僕たちからすれば言いがかりに過ぎなかったが、それでも自分のしたことが軽率で浅はかな行為だったことを学んだ。やりとりの流れをくまなく見てもらえたならその内容は笑ってしまうほど青臭い、社会主義的な理想論であることが明らかだったし、実際のところ三輪さんはそのすべてを見ていたのだろうと思う。しかし、いかにも誤解を生みそうな四通の短信だけを厳選して切り取られ、僕は解雇の警告を受けた。フィーロンさんは第2次世界大戦下におけるナチスドイツの攻撃によって父親を失った貧しき市民の出であり、その後の人生を階級闘争と、それから出版を通じた平和と人権的平等の実現に捧げてきた人だ。いずれにしても許さるべきことではなかった。あの4通の英訳だけを見たのであれば、ひどい裏切りと感じたことだろう。
 すべては会社のために、秩序を無視する僕を排除しなければならないという三輪さんの管理職としての使命感に端を発したことだったのだろうが、最後には僕の反証が役員たちにどうにか受け入れられた。ただフィーロンさんと僕とのあいだに生じた議論は簡単には片付かなかったし、三輪さんはどこまでも執念深く、人が人を陥れようとするときの迫力に、僕は生まれて初めて胃の痛くなるような恐ろしさを知った。
 先輩社員たちは面倒なことに首を突っ込もうとせず気付かぬふりに徹していた。いつだってそうだ。

 5月のアメリカのブックフェア(BookExpo America=BEA)には、珍しくフィーロンさんも同行することになった。僕にとっては3度目のBEAとなるが、アメリカが苦手で渡米は2月の1週間だけと決めているフィーロンさんと一緒は初めてだ。つい3ヶ月前にニューヨークに出かけてきたばかりのフィーロンさんがまたすぐ渡米するというのは不思議だったが、だからといってそれ以上のことは考えなかった。MoMAやグッゲンハイム美術館のある界隈を、もしくは現代美術が繚乱するチェルシー地区やソーホーを、フィーロンさんと飲み歩くのも楽しそうだ。
 ちょうど2年前、僕が仕事に就いて間もない5月、初めてのニューヨーク出張に連れて来られた際にホームパーティーで迎えてくれた文芸スカウトのジェシカはフィーロンさんと同世代の60代半ばで、ドイツのフィッシャーという格調高い文芸出版社をクライアントとして維持することでどうにかスカウト業界での体面を保っていたが、目まぐるしい世界を相手にする反射神経も好奇心もすでに失っていた。夫はそこそこ成功している建築家で、仕事に必死にならなければならない理由も彼女にはない。フィッシャーを除けば有力な稼ぎ口となるクライアントは、もうフィーロン・エージェンシーを残すのみだ。日本の商業出版のメインストリームが求める多種多様な情報に対する瞬発力など彼女にはとても期待できず、僕自身についていえばこの仕事に就いて以来、ジェシカを頼ったことはほとんどなかったと思う。実務はもっぱらスカウト業を足掛かりに出版業界でのキャリアアップを志すアシスタント任せだ。
 そのジェシカに対して年内一杯での契約解除を言い渡すというのが、今回のフィーロンさんの憂鬱な使命だった。後任となる文芸スカウトの候補者については2月の渡米の際すでに絞り込んでいるようで、この滞在中、僕はフィーロンさんに連れて行かれたバーでふたりの若手スカウトと面会し、後になってそれぞれの印象を訊かれた。
 フィーロンさんにとっては気の重い2週間だったろうが、仕事そのものは順調といってよく、週末にはそれぞれボストンとフィラデルフィアで束の間の息抜きとなった。真紀がやっとこの2月からフィラデルフィアで復学していた。
 日曜の晩になってニューヨークのグラマシーパーク・ホテルに戻ると、落ち着く間もなくフィーロンさんから呼び出された。頭に貼った絆創膏に血が滲んでおり、明らかに気が動転している。週末のあいだに、泥酔状態の男性が全裸に近い姿でホテルのロビーをうろついていたとの通報があり、その容姿からフィーロンさんに疑いの目が向けられたということらしい。ボストンから戻ってくるなりホテルのマネージャーから呼びつけられたのだそうだ。フィーロンさんは学生時代に経験した政治裁判の記憶がフラッシュバックしたようで、CIAが自分のことを陥れようとしているなどとうめきながら目を血走らせている。あのクノップフ社のソニー・メータまで電話口に呼び出して、身の潔白を証明したのだという。ホテル側からの嫌疑は晴れたが、国家や諜報機関というものに対するフィーロンさんの病的な警戒心は治まらなかった。気を落ち着かせようとシャワールームに入ったところで足を滑らせ、派手に転倒した結果が頭の絆創膏らしい。手足にも大きな傷を負っていた。
 ニューヨークでの役目を終えたフィーロンさんは、もうたくさんだとばかりに足を引きずりながら東京へと帰っていった。残された三輪さんと僕は、ほとんど言葉を交わすことなくブックフェアの日程をこなし、翌週末に帰国した。
 フィーロンさんの深酒に付き合う夜の時間がまた増えた。
 学生時代からほぼ4年間ずっと一緒だった真紀はフィラデルフィアに行ってしまって、せっかく広くなったマンションに帰ったところでもう彼女はいない。僕の部屋はいつしか仲間たちが好き勝手に寝起きする秘密基地のようになっていった。新発売のゲームソフト、珍しいレコードやCDなどが知らないうちに増えていく。天井にぶらさげたブルーの照明に浮かぶ紫や緑色の煙が、ずっとゆらゆらと歪んでいる。意識を飛ばすような香りが入り交じっている。朝が来ると僕はそこにいる誰かに見送られて、赤い目で仕事に出かける。

 夏のロンドン行きを言い渡された。出版のデジタル化をテーマに国際会議が開かれるので、それに出席しろという。ひとりだけの出張は初めてだったので奇妙な空気を感じた。
 ロンドンでの3日間のカンファレンス、そして形ばかりのクライアント巡りを終えて1週間後に帰国すると、ひとり増員を決めたとフィーロンさんから告げられた。ゆくゆくはおまえのパートナーになる後輩エージェントだという。必要性の乏しいロンドン出張に僕を送り出したのは、不在の間にその人選をする必要があったからだとフィーロンさんがワイングラスを片手にいつものバーで打ち明ける。事情が飲み込めなかったが、とにかく九月からその誰かが新人エージェントとして加わることになった。
 大柄な、目を合わそうとしない青年だった。この春、大阪大学を出て出版社での仕事を志したが早川書房の最終面接で落選し、それで就職浪人していたのだという。妙に堅苦しくて会話の噛み合わない変なやつだったが、デスクに山と積まれた本に片っ端から目を通しては、ものすごいスピードで要約の資料をまとめて上げていく。僕がエージェンシーに入ったときとおなじく会社の古株、児童書の窪田さんが教育係として版権エージェントの実務を教えるという話だった。ただし新人の彼がサポートするのは僕の仕事になるということで、気安いクライアントとの打ち合わせや会食の席には連れて行くようにと指示された。なにを話しかけても伏し目がちにはぐらかす感じで、友人にはいないタイプの男だった。
 月末にはもう毎年恒例のロンドンとフランクフルトへの出張が控えている。前年に果たせなかったフィーロンさんとのスコットランドの旅程が今回は予めしっかりと組み込まれていたので、国際免許を申請した。
 ロンドンで1週間半、三輪さんを加えた3人であの忙しない出張のスケジュールをこなす。2週目の中日になるのを待って、フィーロンさんと僕はまたパディントンの駅からエジンバラ行きの特急列車に飛び乗る。一昨年とおなじく、小さなお城のようなマルメゾンホテルに1泊して、アリバイ作りのようにキャノンゲートの事務所だけを訪ねる。交流を温める任務を終えた僕たちは、その足でエジンバラの空港から国内線に飛び乗って、ハイランド地方唯一の大都市、インヴァネスを目指す。レンタカーが予約されており、そのまま北上する。運転手は僕だ。助手席のフィーロンさんは窓を流れる景色を嬉しそうに眺めている。とにかく北へと車を走らせ、今夜の宿泊地であるウィックという港町を目指す。ハイランドはどこまで行っても交差点も信号もないくねくねとした一本道だ。雨が降りはじめたかと思うとあっという間にあられや雹に変ってフロントガラスをぱちぱちと打ち付け、そうかと思うと雲間が割れて虹が現われる。起伏ある地形は褐色の地肌をむき出しにしており、あの『スターウォーズ』のチューバッカーのような、陽が射せば金色に輝く長毛の巨大な牛がときどき車の行く手を阻む。どこもかしこも濡れていて、9月下旬ともなれば気温も低い。無人の世界がでこぼこと、ただひたすらどこまでも広がっている。うっすらと緑の残る斜面があれば、そこには綿のような羊の群が点々と動くこともなく草を食んでいる。まるで絵画のような景色に見惚れながら車を走らせていると、また氷の粒が車のフロントガラスをバラバラと打ちつける。そして、空に大きな虹が現われる。
 初日の目的地であるウィックで車を停め、漁港に面した古いパブの2階の宿に落ち着く。階下のビールで喉を潤し、簡単な夕食を摂る。ハドック(鱈)の干物のミルク煮は、やわらかな塩味が絶妙だ。誰もいない夜の港でブラックホールのような海を眺めながら酔い覚ましの散歩をしてパブに戻ると、僕には聞き取ることのできないスコットランド英語がさざ波の音にかぶさるように、静かに行き交っている。もう今夜はこれ以上どこへも行く必要のない僕たちは正体をなくすまで、辛くて甘いウイスキーをあおる。
 二日酔いの頭でまたハンドルを握り、フィーロンさんのナビで西へと向かう。雲、雨、あられ、雹、太陽、虹、そして幻想的な起伏ある地形、黒く泡立つ冷たい海。村落を見つけて昼食を摂り、さらにハイランドを流していく。助手席ではフィーロンさんが幼少期のあれこれから、ロンドンに移った学生時代、そして編集者として華々しく過ごした頃の記憶を、まるで独り言のように振り返っている。80年代から先は東京の記憶だ。午前中からずっと車を走らせているが、すれ違ったのはほんの4、5台で、空にかかった虹のほうが多いくらいだ。淡い色の弧が空に現われるたびに、フィーロンさんが目を見開いて歓喜の声をあげる。雹が降っても、太陽が現れても歓声だ。この世の果ての絶景が、どこまでも果てしなく続く。
 オーバンという漁港の町で2泊目となり、また小さな民宿に落ち着く。今夜の酒はこの町の名を冠したウイスキーだ。
 また重い頭で目を覚まし、今度はハイランドの西岸を南下する。食事はとにかくハドックのミルク煮だ。何匹だって食べられる。
「見ろ。あれがスコットランドのウイスキーの聖地、アイラ島だ!」とフィーロンさんが雲間を指差す。魔法使いでも隠れていそうな岩山が真っ白い雲のうえに浮かんでいる。
 3泊目はどこかの山中のこぢんまりとしたホテルだった。もうこれから先は雪に閉ざされてしまうから、僕たちが今シーズン最後の宿泊客だという。冬のあいだはホテルを閉め、春まで再開しないと説明する男性の姿があの映画『シャイニング』のジャック・ニコルソンと重なる。僕たちのほかには誰もいないホテルのバーでこの日の道中を振り返りながら、フィーロンさんが思いがけない打ち明け話をはじめる。
 もう65歳のフィーロンさんは、そろそろ引き際を考えている。ニューヨークでジェシカの首を切ったのも、僕の後輩となるエージェントを雇ったのも、そのうえでのことなのだ。フランクフルトが終わって帰国したら引き合わせたい人がいるという。講談社インターナショナルに在籍している40代のイギリス人で、これから3年ほどかけてその人にエージェンシーの引き継ぎを行なう計画を立てている。
「三輪さんはどうするの?」と、フィーロンさんに訊ねる。
「シュウゾウは社長にはならない。彼はそういう人間ではない」というのがフィーロンさんの返答だ。
 フィーロン・エージェンシーがなぜ欧米圏で存在感を示してきたかといえば、それはアジアの会社なのに社長が西洋人であるからだ。封建的なところのある日本の翻訳出版業界においても、フィーロンさんが欧米圏によく通じた文化人であることが、つまり例外的な存在であることが、それなりの説得力になっており、商売に役立つのだという。身も蓋もない話だが事実なのだろうと思う。三輪さんは勤勉な実務家だが、コミュニケーターであるかといえばそうではない。もちろん本は読むが、読書家かといえばそうでもない。好人物だが、話の面白いタイプではない。実務派のビジネスマンだが、文化的な人ではない。ただ一筋に実直で、仕事上の人間関係においてはそつがないが、社交家というよりはむしろ孤独な性格の人だ。フィーロンさんが三輪さんと知り合って既に20年以上になるそうだが、三輪さんに私生活のパートナーがいるという話を一度として聞いたことがないと首を振る。仕事を離れたプライベートな領域で打ち解ける友人さえ、いるかどうか分からないのだという。対照的な存在であるフィーロンさんは、三輪さんが自分とは異質であることを仕事のうえのパートナーとしてありがたく考え、頼ってもいる。そしてそんな三輪さんと僕とがまた正反対の性質であることから、フィーロンさんは僕のことを自分に寄せて過大評価している。
「その気になりさえすれば、おまえも国際的な出版の世界で面白い役割を果たすようになるだろう」と、フィーロンさんは僕をおだてる。自分がそのような人間ではないことは、僕が誰よりも知っている。興味の赴くまま、僕はなかば遊んでいるだけなのだ。致命的に欠けているのは責任感だ。責任を与えさえすれば僕の朝晩の過ごし方も違ってくるものとフィーロンさんは考えているようだが、それはどうだろう。極めて不確実な未来をフィーロンさんは夢想している。このエージェンシーを使って、お前は好きなように仕事をすればいい。
「……で、フィーロンさんはその後どうするつもりなの?」
 車1台分の細い一本道をふさぐように、濡れて金色に輝く長毛の牛が立ちはだかっている。
「さて、どうしようかな」と、フィーロンさんは助手席の窓を開けて身を乗り出し、僕には聞き取ることのできないスコットランドの言葉で牛に説得を試みる。「――四半世紀前、このスコットランドから一人の酔っ払いが、遠く東の日本という島国に流れ着いた。そこからはじまる物語を書こうと思ってるんだが、道を空けてはもらえないかな!」
 スコットランド北部を3昼夜かけて巡ったあとインバネスで車を返却し、フランクフルトへと飛ぶ。また寝る間もないブックフェアの1週間だ。定宿の小さなホテルの老マダムは今年に入って他界していた。チェックアウトの際には手持ちのユーロとドイツマルクの全額をチップとして枕元におくことにするから、お前もそうしろと言い、フィーロンさんはグラスをかかげた。
 東京に帰り着くと、ゆくゆく僕の仕事のパートナーになるかもしれないというあの目を合わさない青年が待っている。ジェシカの後任となる若手スカウトとの連絡窓口となることが僕の仕事として加えられる。次期社長の有力候補となっている蝋人形みたいなイギリス人との席に何度か呼び出される。
 枯葉のすっかり落ちる頃、フィラデルフィアに送り出した真紀の母親が風呂場で急病の発作を起こした。おばあちゃんが発見していなければそのまま亡くなっていたかもしれない。真紀は青い顔で一時帰国したが、母親の状態が少し落ち着くとまた心配そうな顔でフィラデルフィアへと戻っていった。学期末を控えていたのだ。その出来事が関係したのかどうかは分からない。だけどこの一時帰国をさかいに、真紀と僕とのあいだにちょっとした距離が生まれた。彼女のアパートに電話をしても留守番電話の音声を聞かされることが増えた。やけくそになった僕はますます派手に遊び回るようになった。忘年会シーズンになると、あのユニ・エージェンシーの上野さんと何度も、いろんな場所で遭遇した。フィーロンさんが「蛇」と呼んで敬遠しているやり手のエージェントだ。共通の知り合いである編集者などを通じて顔を合わせる機会が重なるにしたがい、いつの間にか話をする仲になった。上野さんはまだ40代だったがユニのエースで、若手の役員だった。僕はといえば20代の平社員に過ぎなかったが、フィーロンさんに優遇されていることをいいことに好き勝手に振る舞っており、おなじようにノリの軽い編集者たちから、酒の席にちょいちょい呼ばれていたのだ。上野さんは商売敵としては手強く嫌な人だったが、遊びの場では気持ちの良い、破天荒な人だった。

 年が明けて2001年になった。阪神タイガースの新庄剛とオリックスのイチローとが、野手としてはじめてメジャーリーグに挑戦することが決まった。一昨年に急死した小渕恵三の後を有耶無耶に継いで首相の座に就いた森喜朗はこれでもかというほどの失言と失政とを繰り返しており、内閣支持率は最低だった。そこにあの小泉純一郎が登場し、「自民党をぶっ壊す」という自己否定的なパフォーマンスを繰り広げた。話題がその小泉におよぶたび、フィーロンさんは顔を真っ赤にして「あんなのに国を任せたら取り返しのつかないことになる!」と声を荒らげた。フィーロンさんにいわせればあのサッチャーとレーガンとが中曽根康弘の日本を巻き込んで押し進めた新自由主義の流れを、いよいよ拡大しようと目論むのが小泉だった。あのようなアメリカの手先を野放しにしておいては日本社会が壊されてしまうといって、フィーロンさんは嘆いた。しかし下り坂の世間は、威勢がよくて見栄えのいい小泉と、イチローの話題に酔った。
 そのような年明けにひとつ事件があって、後輩になるはずだった新人が退職した。
 雑誌社勤めの僕の女友達を騙して、自分のアパートに連れ込もうとしたのだ。それも僕の名を語って彼女をおびき出そうとしたのだから罪は重かった。
「忘年会のときに紹介してくれたあの後輩の人から、金曜のホームパーティーのお誘いがあったのだけど、マリオ君も来るっていうから、じゃあわたしも行くって返事したよ?」
 それが確か火曜か水曜だったと思う。1日、2日様子をみたが、僕にはホームパーティーの誘いなどない。決まりだ。彼女に訊ねると環八沿いのロイヤルホストの前で待ち合わせているということだったので、喧嘩っ早い友人に声をかけて僕も行ってみることにした。部屋着の格好でのこのこと姿を現した新人は僕たちを見て狼狽えた顔をしたが、そのままアパートに案内させて部屋に上がらせてもらった。
 翌週、彼は体調不良で仕事を休んだ。翌々週になって姿を現した彼は、それまでにも増して挙動不審になっていた。仕事中なのになにかの錠剤を飲んで、気が付くとデスクに突っ伏して寝ている。ときどきこちらに視線を感じる。気持ち悪かった。さすがになにかを察したらしいフィーロンさんにことの顛末を説明し、あいつをどうにかするまで僕は在宅勤務を続けると伝える。数日後にフィーロンさんから電話があった。工事中の穴に落ちたという新人が血だらけでオフィスに現れ、そのまま何かの錠剤をひと瓶飲んで泡を吹いて倒れてしまったのだという。大慌てで救急車を呼んで近くの日赤病院に担ぎ込み、胃の洗浄などを施したのだそうだ。すぐに故郷の四国から母親が様子を見にやってきて、数日後には退職が決まった。「おまえが彼を追い詰めたのだろうとシュウゾウは疑っている」と、フィーロンさんから聞かされ、心底うんざりした。「とにかく出社してこい」
 真紀に国際電話をかけた。あっちは真夜中のはずなのに、また留守番電話だった。
 僕は出社を再開したが、やる気がまったく起きなかった。会議に出るのも無意味に思えてサボタージュした。昂った精神を制御できなくなった僕は些細なことで簡単に憤り、仕事中の先輩社員たちのことなど無視してフィーロンさんと荒っぽい口論を繰り返した。仕事は手付かずになった。
 引退を視野に入れた新体制作りを進めたいフィーロンさんと、仕事を生活の中心に考えることができなくなった僕とのあいだの諍いは、まるで親子喧嘩のようにくだらなく迷惑だったことだろう。
 2月のニューヨークは大寒波に見舞われ、雪に閉ざされていた。
 例年どおりならフィーロンさんと三輪さんのふたりで行くはずのニューヨーク出張は、僕が三輪さんの代わりを任されることになった。前年のグラマシーパーク・ホテルの事件があったため、宿泊先はミッドタウンのアルゴンキン・ホテルに変更されていた。かつて文豪たちが集ったことで知られる名門ホテルのバーの外は、吹き付ける吹雪で視界もないほどけぶっていた。暖房のよく効いたロビーでは、このホテルのトレードマークのヒマラヤンの猫が1匹、宿泊客の様子を気高く優雅に見守っていた。
 僕にとってはこれがフィーロンさんとの、最後の仕事上の出張となった。前年のフランクフルト・ブックフェアが終わると同時に就任したフィーロン・エージェンシーの若きニューヨークのスカウトを、アルゴンキン・ホテルの有名なブルー・バーから見送った後、酒に酔った僕たちのあいだでまた口論がはじまった。傍目には痴話喧嘩だったろう。あの青年の採用を決めたプロセスや、三輪さんの耐え難い視線に対して、僕は不満をぶちまけた。
「わたしの気持ちが分からないのか! ※◇§ΦψЖЛ∈√∑Д⊇♂щ≦∂〆!」
 そう詰め寄られたところで、僕の精神は限界に達した。バーを飛び出すと外は横殴りの大雪だった。僕はどうにかタクシーをつかまえ、イーストビレッジの友人のところへと向かった。
 そもそも憂鬱な出張だった。
 フィーロンさんとの日程を終えた僕は、日本には帰らずそのままフィラデルフィア行きのバスに乗った。雪に埋もれた懐かしい我が町で真紀との破局を確認したのち、長すぎる1週間の休暇をかつての音楽仲間のショーンの家のソファで過ごした。

 帰国した僕を待っていたのは、エージェンシーの経営に大きな影響力を持つジョンさんの貿易会社への呼び出しを告げるメールだった。翌朝、時差ボケの頭を抱えて、会社のある青山ではなく有楽町へと向かう。路地裏を見つけて煙草を1本、大急ぎで吸ってから有楽町電気ビルのエレベーターのボタンを押してジョンさんのオフィスに上がる。細身のグレーのスーツ姿の、いつもどおりのジョンさんが応接間で僕を待っている。フィーロンさんの姿はない。
 奥の扉が開いて、なんともいえない笑顔を貼り付けた三輪さんがあのひょこひょことした足取りで登場し、白い封筒を僕に差し出す。封を切ると、「解雇通知」と書かれた太字の英語が目に飛び込んでくる。明確に予期していた訳ではないが、なるほどとは思う。突き付けられたところで特別な衝撃や感情に襲われることもなく、内心そのことにむしろ驚く。とりあえず文面を目で追うと「immediate effect」と書いてあり、つまり「即刻解雇」という通達だ。出張用のノートパソコンは僕の所有物とするなど、どうでもいい要件が律儀に記されていて笑ってしまった。三輪さんが中身をくまなく探った僕のパソコンだ。
「残念やけど、そういうことやから」と三輪さんが鼻を膨らませる。
 なぜ今回のニューヨーク出張に僕が行かされたのか、その理由がやっと分かった。不在にしていた2週間、東京はさぞ慌ただしかったことだろう。フィーロンさんのアルゴンキン・ホテルでの不機嫌の理由も飲み込めた。
 ジョンさんはあの灰色の目で頷いただけだ。
 僕はジョンさんにこれまでの礼を伝えて、南青山へと向かう。なにしろ即刻解雇なのだから、私物をまとめて持ち帰らなければならない。
 エージェンシーのドアを開けると、フィーロンさんが青い顔で座っていた。アルバイトのマユちゃんに段ボールをいくつか用意してもらい、自分のデスクのものを片っ端から放り込む。ひとつは自宅へ送付してもらうための箱で、残りは処分してもらう箱だ。引き出しにMOのディスクが何枚かあったので、自分のパソコンの中身を業務用のデータベースも含めて可能な限り、丸ごとこっそりコピーする。先輩社員たちは息を潜めて顔を上げようともしないが、いつも通りのことだ。データベースのコピーが終了するのを見計らって、段ボール箱に封をする。マユちゃんに送り状を作ってもらい、そして初めてフィーロンさんのデスクへと向かう。
「フィーロンさん、本当にお世話になりました。なにがなんだかさっぱり分かりませんが、これまでありがとうございます。大変なことになってしまって……」
 時計を見ると、昼前だ。
 片付けは終わったのかと、フィーロンさんが弱々しく訊ねる。
 よかったら、いつものカフェバーにランチに行かないかと、震える声のフィーロンさんに誘われ、それに応じる。
 フィーロンさんがグラスワインをふたつ注文する。食事はいいのかと訊くと、定番のチーズとオリーブを注文に加える。どうせ僕も食事の気分ではない。
 大きなワイングラスを持ち上げようとするフィーロンさんの手元が頼りない。またシャツにワインの染みができそうだ。シュウゾウが言い出したことだが私も結局同意しなければならなかったとつぶやいて、フィーロンさんはガタガタと震えるグラスを口に運ぶ。
「半分以上は私の責任だと、ジョンから厳しく責められた」と、フィーロンさんが言う。「……これからも、友人として付き合っていけるだろうか」
「……もちろんだよ」と僕は答える。「フィーロンさんさえ、それでよければ」
「私も、そしておまえも、魔法の杖を失ってしまった」
 クビを宣告された僕が、なぜか慰める格好でフィーロンさんを見送る。
 荷物で膨らんだバックパックを背負って、僕も店を出る。
 骨董通りの横断歩道の赤信号に差し掛かり、やりかけのままの大事な仕事がいくつかあったことに思いが及ぶ。携帯電話を取り出して、何人か、世話になった編集者たちにお詫びとお別れの電話をかける。
 なにを考えてそうしたのか思い出せないが、ライバルのユニエージェンシーの上野さんがこの出来事を面白がってくれるような気がして、息抜きに彼の番号を鳴らす。
「ほんとかよ!? おまえ、今どこにいるの?」と、上野さんが笑う。
 青山の骨董通りだと伝えると、「いいか! そこを動くな!」と電話が切れ、面食らう。五分ほど間抜けな顔をして突っ立っていただろうか。上野さんが息を切らして現われる。
「おまえ今、時間ある? まあ無職になったんだから、時間なんていくらでもあるよな」と、近所の酒の飲めそうな店に入る。
 上野さんはユニ・エージェンシーからの独立を企てている。それは僕も、年末に何度も同席するうちに聞かされて知っている。
「おまえ、よかったら一緒にやらない?」と誘われる。
 果たして僕はこの仕事を続けたいのだろうか。
「まあいいや。とにかく連絡だけつくようにしておいて」
 そう言い残すと、上野さんは会計を済ませて慌ただしく去って行った。たまたま近所で打ち合わせをしていたのだそうだ。
 上野さんとは共通の仲の良い編集者が何人もいる。
 もしかしたら面接のようなものだったのだろうか。そんな編集者たちから次々と声が掛かり、クビになった僕の慰労を口実にした酒を、あちこちで振る舞われることになった。小さなゴシップを面白がるだけの人もいたが、彼等に呼び出されることでまだこの世界との繋がりが維持されているように思えて、心強く嬉しかった。不当解雇で勝てるよとかいって、弁護士を紹介してくれようとする編集者もいた。1週間が慌ただしく過ぎた。

 東京にも雪が降った。
 ニューヨークの吹雪とは比べようもない、静かな雪だ。
 寒い2月に、無職だった。
 ぼんやりと窓の外の雪を眺めながら、なにもかも終わってしまったんだという不安に繰り返し襲われた。うちで寝泊まりしていた友人たちには出て行ってもらった。あの新人の一件で僕にSOSを出してきた雑誌社の彼女が、心配して様子をみにきてくれるようになった。料理がとてもうまかった。
 失業手当の申請などすべきところだったのだろうが、気が向かなかった。結果的にそうしなければならなくなったとしても、上野さんの誘いを確かめてからでも遅くない。しばらくは、なにも考えずに休みたかった。
 窓の外の粉雪を眺めながらオフィスから届いた重い荷物を開封すると、カズオ・イシグロの『日の名残り』(土屋政雄訳)があった。フィーロンさんが大切にしている著者だ。中央公論新社がまだ中央公論社だったころの文庫版だった。そのうち時間ができたら読もうと思っていた本が、ほかにもどっさり入っていた。今や収入もガールフレンドも失って、時間だけが残されている。交通量の多い環七沿いのマンションの防音は鉄壁で、ここはまるでシェルターだ。急ぐ必要もない荷解きなど後回しにして、文庫本を手にベッドに転がる。
 イギリスの執事というと、やはり気取っているのだなと思う。鼻につくほどだが、それが彼等の職業を支える美徳なんだろう。間違っても主人の格を貶めることなどないように徹底的に礼儀正しく、知的に振る舞い、そしてあらゆる過ちを嫌う。主人のみならず、屋敷を訪れるゲストとも言葉を交わす役目があるので、いかなる話題にも過不足なく受け答えできなければならず、よって博識であることが求められ、無知はとりつくろわなければならない職業上の恥だ。かといって自分の意見を明確に示すのも美徳に反するということのようで、なにを言うにも持って回った言葉遣いをしなければならない。空気を乱す行為は許されず、また自らも他者に対してそれを許さず、ひとりの人間というよりはむしろ屋敷の一部といった存在だ。そしてそれこそが彼らの矜持ということのようだ。滅私奉公という言葉を耳にすることがあるが、まさにそれだ。誇り高き彼等の人格を支えるのはその身分、その属性に対し特別に付与される役割と責任であり、つまりは忠誠心だ。
 だがそうはいったところで、意識を備えた個々としての存在であることからは彼等でさえも逃れることはできない。
 この物語の語り部はスティーブンスという老執事だが、キャリアの晩年に差し掛かり、いよいよ一個の人間として自らの人生を清算しなければならないという思いに迫られているようだ。静かな独り語りではあるが、その落ち着き払った口調とは裏腹に、うまく帳尻を合わせられそうもないという事実に直面し、わずかに狼狽えた様子を覗かせながらもひたすら“正しい”言葉を紡いでゆく。その姿が、実に健気だ。
 第二次世界大戦へと突き進もうとする大英帝国の名門に仕えた華々しきあの頃、まだ品格が何よりも重んじられていた旧き良き時代の記憶を懐かしく噛みしめながら、戦後の新秩序に戸惑う。我が身を捧げたものの正体とは一体なんだったのだろう。限りなく整然とした屋敷の外側にある広々とした世界に、初めて目を向けようとする。
 人間の存在の小ささが儚く、滑稽で物悲しい。
「私どものような人間は、何か真に価値のあるもののために微力を尽くそうと願い、それを試みるだけで十分であるような気がいたします」とスティーブンスは強がるが、これが彼の本心であることはおそらく間違いないのだろう。「そのような試みに人生の多くを犠牲にする覚悟があり、その覚悟を実践したとすれば、結果はどうであれ、そのこと自体がみずからに誇りと満足を覚えて良い十分な理由となりましょう」と、後戻りできない人生を正当化しようとするが、本当にそれで良かったのか、スティーブンス!
 本音と嘘との境目を曖昧にして目を向けず、肯定するほかないのがこの人生というものなのだろうか。
 慎重な手でハンドルを握り車を走らせるスティーブンスの目に映っているであろう見晴らしの良いイギリスの田舎道の景色が、僕にはスコットランド北部の寂しくも壮大な、あの風景に見えてくる。
 かつて職場をともにした、厳しい女中頭へのほのかな思いを匂わせるスティーブンスの感情が曖昧に描かれている。彼女は既に人の妻となっており、その事実を確認するためだけの束の間の、人生で初めての休暇を味わう老スティーブンスの、のろのろとしたドライブに読者は付き合う。なにもかもが手遅れだとしても、人は自ら歩んできた道をどうにかして受け入れなければならない。
 窓の外はすっかり暗い。
 腹が減った。
 皿のうえの小銭をポケットに、近所のラーメン屋に向かう。
 空腹だけが生きていることの実感だ。
 スティーブンスのように生きることは、現代の僕たちにはもうできない。そうしたいとも思わない。だけど結果は変わるだろうか? わずか数十年という時間しか僕たちには与えられておらず、こっちの都合などお構いなしに社会は変容していく。

[to be continued…]


PROFILEプロフィール (50音順)

田内万里夫(たうち・まりお)

1973年生まれ。埼玉県出身。版権エージェント(現在はアルバイト)。マリオ曼陀羅の名義で画家としても活動、国内外で作品発表をおこなう。主な展示として『LOVE POP! キース・ヘリング展 アートはみんなのもの』壁画プロジェクト【キースの願った平和の実現を願って】(伊丹市立美術館・2012年)などがある。著作に『心を揺さぶる曼陀羅ぬりえ』(猿江商會)。本書はイギリス、台湾、イタリアでも刊行。訳書に『なぜ働くのか』(朝日出版社/TED BOOKS)。