マンガナイト代表・山内康裕さんが、業界の内外からマンガを盛り上げる第一線の人々と議論を展開する鼎談シリーズ「マンガは拡張する[対話編+]」。
第5回のテーマは「兼業マンガ家・兼業編集者」。数々の企業を渡り歩きながら独自の立ち位置を獲得してきたマンガ家・田中圭一さんと、雑誌編集者・ライターとしてのキャリアを積みながら次第に活動の場を「聖地巡礼」のプロデュース業にスライドさせていった柿崎俊道さん。この道一本!と決めつけないことから見えてくるユニークなマンガ道をお届けします。
【「マンガは拡張する[対話編+]」バックナンバー一覧】
●第1回「『編集長』の役割とは?」
岩間秀和(講談社『BE・LOVE』『ITAN』編集長)×江上英樹(小学館『IKKI』元編集長/ブルーシープ株式会社)×山内康裕
●第2回「二次創作とライセンス」
北本かおり(講談社『モーニング』副編集長/国際ライツ事業部副部長)×ドミニク・チェン(情報学研究者/起業家/NPO法人コモンスフィア理事)×山内康裕
●第3回「Webマンガと市場構造」
菊池健(NPO法人NEWVERY「トキワ荘プロジェクト」)×椙原誠(DeNA「マンガボックス」事業責任者)×山内康裕
●第4回「新人の発掘と育成」
野田彩子(マンガ家)×豊田夢太郎(小学館『ヒバナ』編集部)×山内康裕
[前編]それぞれの兼業履歴書
田中圭一の場合:マンガ家×会社員×大学教授
山内康裕(以下、山内):連続でおこなっている「マンガは拡張する」公開収録。今回のテーマは「兼業マンガ家・兼業編集者」です。ゲストにはマンガ家の田中圭一先生、編集者の柿崎俊道さんという、兼業の経験がとても多いお二人にお越しいただきました。
まずはお二人の兼業の歴史を伺いたいんですが、田中先生はどうして兼業マンガ家になられたんですか。
田中圭一(以下、田中):こんにちは、田中圭一です。私は1962年生まれで、今年で54歳になります。大阪の枚方市という大阪で一番京都寄りのところに実家がありまして、出身大学は近畿大学。在学中に小池一夫先生の劇画村塾の神戸校というところができたもので、そこに通ってそのまま在学中に短編四コマでデビューできたんです。当時4年生だったのでちょうど就職を考える時期で、バブルが弾ける前でまだ景気が良かったということもあって、運良くタカラ(※編集部注:現在のタカラトミー)という玩具メーカーに入りました。そこから二足のわらじ人生が始まりましたね。就職のときはすでに連載を持っていて、そのうちどちらかに決着するだろう、と思っていたらこの歳までまだやっている(笑)。良く言えばどちらの仕事にも恵まれて、悪く言えばどちらかで一本立ちすることもなれず、ここまで来ました。
今は京都精華大学のマンガ学部ギャグマンガコースというところでギャグマンガを教えています。教授陣は、おおひなたごう先生、ひさうちみちお先生、上野顕太郎先生という、生徒たちが偏ってしまいそうな布陣です(笑)。マンガの方も最近はネットで作品を発表することも増えましたし、自分で出版もする、セルフマネタイズのようなこともやっています。本が売れなくなって、出版社の状況やマンガ家への条件も厳しくなっているなかで、自分で描いて自分で売る。それが割と順調ですね。
私の最初のヒット作は『ドクター秩父山』という劇画タッチの四コマ作品です(※編集部注:1986年より『コミック劇画村塾』ほかで連載)。当時、泉昌之さんの『かっこいいスキヤキ』とか、しりあがり寿さんの『おらあロココだ!』とか、劇画調ギャグというのが出てきたころで、「このムーブメントに乗るぞ」ということで一緒に乗ってやってきた、と(笑)。
『ドクター秩父山』はおかげさまで運良くヒットしてアニメにもなったんですね。そこで大手から声がかかり、『昆虫物語ピースケの冒険』という作品を『週刊少年サンデー』で連載することになりました(※編集部注:1989〜1991年にかけて連載)。当時はまだタカラにいて、週刊連載はできないので、月1で8ページの連載でしたね。
当時のサンデーは『うしおととら』(藤田和日郎)や、『行け!!南国アイスホッケー部』(久米田康治)、『GS美神 極楽大作戦!!』(椎名高志)とか、後にブレイクする作家さんが出てきた時代で、そこに一緒に載ることができたので、この作品で僕のことを知ったという方も多いですね。サンデーは発行部数も大きいですから。
山内:何年頃の話ですか。
田中:80〜90年代の話です。バブルの最中、はじける手前くらいかな。そしてその後、バブルもはじけて玩具メーカーも景気が悪くなり、おもちゃ屋さんに通う子供も少なくなってきた時代に、一番人気があったのはプレイステーションのゲーム。これが大ブームでした。95、96年ごろですね。そこでこれからはゲームだろうということで、「アートディンク」というゲーム会社に転職しました。最初にディレクションをしたのは、『アクアノートの休日2』(1999年)という作品ですが、これは僕が途中で引き継いだもの。その次、最初から担当したのが『建設重機喧嘩バトル ぶちギレ金剛!!』(2000年)。これは打ち合わせのときに建設重機で格闘やったらどうか、という話になったのが発端で。それでキャラクターデザインを当時『サラリーマン金太郎』がヒットしていた本宮ひろ志さんにお願いしたいけど、断られるだろうな、なんて言っていたら二つ返事でOKが出まして(笑)。メインの絵は本宮さんに描いていただいていますが、ゲーム中のイラストは本宮さんのタッチを僕が真似て描いたんですよ(笑)。
柿崎俊道(以下、柿崎):そのゲーム知ってますよ! 重機と重機がぶつかり合う、みたいな。すごいゲームでしたよね。田中さんの仕事だったんだ(笑)。
兼業ゆえの危機感と、パロディネタへの開眼
田中:その間、マンガ家としてはヒットから10年くらい経ちまして、自分のテイストも飽きられてきたんですね。それでそろそろ一発屋としてマンガ界から去った方がいいんじゃない、という話があったときに……。
山内:本当ですか(笑)。
田中:ほら、サラリーマンと一緒にやっているから。売れなくなってきたんだし、マンガだけじゃなくても生活はサラリーマンで安泰だから、という話も出ますよね。
柿崎:なるほど。
田中:でもそうじゃない、と。もっといろいろやらなきゃと思って、まずは絵柄を変えようというところから(笑)。ちょうど1995〜96年くらいの頃なんですが、1986年に手塚治虫さんが亡くなって、そこから5年以上経っていて、マンガ界に手塚タッチがまったくなかったんですよ。やっぱり古い、と。僕もいろいろ、萌えキャラからアメコミまで試したんですね。そこで今の時代だからこそ、手塚さんのタッチがいいんじゃないか、と。そこで一生懸命模写をして、そのタッチで手塚さんが絶対描かないようなマンガを描いて(笑)。まんまとヒットしまして(『田中圭一最低漫画全集 神罰』。イースト・プレス、2002年)。
でもね、これが当たらなかったらマンガ界から消えていましたよ。僕がデビューしたときも、一緒にいろんなマンガ家さんが出てきたんですよ。でも結構な数の人は消えています。新陳代謝が激しいギャグマンガで、もう一つ当たったから今がある、というところはありますね。
山内:手塚るみ子さんの、「訴えます!!」という帯文がすごいですね(笑)。
田中:編集と話をして、表紙に「訴えないでください」と書いてあって、帯が「訴えます」なら面白いかな、と。手塚るみ子さんには本当に良くしていただいています(笑)。
そこからまた10年くらいして、手塚テイストのギャグマンガもウケたんですがそれもだんだん「ふーん、またか」と。飽きられてきたんですね。この「ふーん、またか」って本当に怖いことなんですよ。そういうときにちょうど『宇宙戦艦ヤマト』のリメイクのアニメ作品『宇宙戦艦ヤマト2199』[★1]の制作があったんです。でもその制作には、権利関係の問題があって松本零士先生は関わっていないんですね。でも僕らの世代からすれば、ヤマトといえば松本零士先生でしょう、と。「2199」の新キャラクターもいたんですが、松本先生のタッチじゃない。でもやっぱりファンは松本零士タッチで見たいじゃないですか。でもそれは叶わない。じゃあ僕がやりましょう、と(笑)。そうやって、新キャラクターも全部松本零士タッチにした絵をネットに上げたらすごく評判が良くて。そしたら僕も、どんどん新作を描いてしまうじゃないですか(笑)。そういうものが溜まってきたので、じゃあ同人誌にでもしちゃいましょうか、と。
★1:「宇宙戦艦ヤマト」第1作を元にした38年ぶりのリメイク作品。2012年に劇場先行公開/ビデオソフト先行発売ののち、2013年4〜9月にかけてテレビ放映。総監督は出渕裕。
僕は今まで同人誌はやってこなかったんですが、いざ作ってみるとめちゃくちゃ面白い。だって誰にも止められないんですから(笑)。そうやっていろんなパロディネタをネットに上げて同人誌にまとめる、ということを始めていて、「別冊田中圭一」というタイトルで過去に3冊、今はちょうど4号目を作っています(※編集部注:2016年7月時点)。
山内:面白いです(笑)。いろんなチャレンジをされていますよね。
会社の方も転職しながらも今でも勤めていらっしゃるんですよね。
田中:そうです。今日は仕事として転職してきた会社の名刺をまとめてみました。最初に話したタカラから始まって、ゲームメーカーのアートディンク。それから「Comic Studio」といったマンガ制作ソフトを作っているセルシスという会社に半年ほどいて、その後ウェブテクノロジ・コムに入ります。この会社でマンガ制作ソフトの「コミPo!」を作りました。それから電子書籍を販売しているBookLive。ここにはまだ在籍しています。そして教授として働いている京都精華大学。だから今はBookLiveと京都精華大学を掛け持ちしていて、マンガ家もやっている、という状況です。
柿崎俊道の場合:アニメ雑誌の編集者から「聖地巡礼プロデューサー」に
山内:すごいですね。詳しい話は後でお伺いするとして、もう一人のゲスト、柿崎さんにも兼業の歴史をお話しいただきたいと思います。
柿崎:田中さんはすごいですね。僕は田中さんほどではないですよ(笑)。
今の僕は「聖地巡礼プロデューサー」と名乗っているんですが、もともとは編集者なんですね。最初は雑誌の『月刊アニメージュ』(徳間書店)からキャリアが始まりました。アルバイトに近い形で、アニメージュの常駐編集者として徳間書店に入って、2年くらいいたのかな。そこから一度やめてフリーランスになって、『週刊SPA!』(扶桑社)などでフリーランスのライターとしてやっていたんです。そうしたらアニメージュに呼び戻されまして(笑)。そこからまた2年くらいやって、辞めて。また呼び戻されて(笑)。合計してアニメージュには8年くらいいたんですね。
そもそもアニメージュに入ったのは、スタジオジブリと仕事がしたかったからなんですよ。ジブリがすごく好きで、「行きたい!」とことあるごとに言っていたらついに行けることになって。スタジオジブリの絵コンテ集を3年くらいかけて編集しました。『風の谷のナウシカ』から『千と千尋の神隠し』くらいまでの絵コンテ集に関わっています。そこで満足して、ついに辞めたんです(笑)。
山内:そこまでは一般的な編集者の仕事とも言えますが、そこからどうして聖地巡礼プロデューサーに?
柿崎:そうですよね。それ以降はフリーの編集者・ライターとして活動していたんですが、キルタイムコミュニケーションという出版社から依頼を受けて「聖地巡礼」をテーマにした本を書くことになったんです。アニメやマンガの舞台を「聖地」と呼び、そこを旅しよう、という活動ですね。それでできたのが『聖地巡礼 アニメ・マンガ12ヶ所めぐり』(キルタイムコミュニケーション、2005年)という本です。
僕がその本を書いたのは2005年で、鷲宮神社(埼玉県久喜市)への聖地巡礼が有名になった「らき☆すた」のアニメ放送が2007年なので……
田中:今は「聖地巡礼」って言葉はみんなが使いますけど、そういう概念を柿崎さんが最初に打ち出した、と。
柿崎:言葉や活動自体はそれまでもありました。僕自身も学生時代から作品の舞台をめぐる旅行には行っていましたから、依頼された内容もすんなり理解できたんですね。
本の執筆から時間差で訪れた「聖地巡礼」ブーム
柿崎:本はオールカラーで1,500円。8,000部刷ったんですがほとんど売れず(笑)。初版で終わってしまったんですね。だから僕もしばらく忘れていたんですが、そこから「らき☆すた」ブームがやって来て「聖地巡礼」が注目されて。北海道大学の山村高淑先生が僕の本をベースにして論文を書かれて、話題になったんですよ。でも、今まで研究の対象になっていなかった動きですから、そもそも各自治体や大学の研究者、特に観光学部の方とかが「聖地巡礼ってよくわからない」と。僕自身も山村先生が東京国際アニメフェアのシンポジウムに登壇されたときに直接お会いして、そこから各自治体の活動の支援や、大学でのシンポジウムを企画しながら、聖地巡礼のビジネスをすることになっていったんです。
例えば最近だと、埼玉県の「アニ玉祭」というアニメと地域をかけ合わせたイベントの総合プロデューサーをやっています。3回目の2015年は3万2,000人が集まりました。
あとは、『聖地会議』という本も作っています。いわば、聖地巡礼のビジネス本ですね。コミケとかで販売すると、研究者や地域の自治体の方が多く買ってくれますね。
そういう仕事をしていて、今は「編集者」兼「聖地巡礼プロデューサー」兼「イベントプロデューサー」という感じですね。
田中:「ガルパン」(ガールズ&パンツァー)で有名な茨城県大洗町とか、町おこしと結びついたアニメイベントがあちこちで行われるようになっていますけど、「アニ玉祭」が走りだったんですか。
柿崎:走りというわけでもありません。自治体が大きく関わっているアニメイベントは4、5年前に新潟、京都、埼玉で同時多発的に生まれているんですよ。そのうちの埼玉県を僕がやっているんです。埼玉県とは8年前から一緒に仕事をしているんですが、こういうイベントという形でやり始めたのは3年前(2012年)からですね。
田中:最近はデジタルで何でも画面の中で見れるから、逆にイベントで体験を買うというのも大きいですよね。マネタイズもしやすいし、行く人も楽しいし。
山内:実際に体験する、購入するものとして、イベントやグッズ展開は大きな要素ですね。
柿崎:そうなんですよ。イベントに対してはみんな5,000円とか、10,000円でも払ってくれるんですが、本屋に並んでいる本には1,000円でもなかなか払わないですね。
田中:同人誌を売った経験だと、やっぱりイベントで売ると本もよく売れるんですよ。そこは難しいところですね。だからまだまだ、日本はイベントやお祭りが増えてくると思いますね。
山内:逆に極端にイベントをやると「あざとい」と言われてファンに敬遠されることもあったりしますね。
柿崎:まだ答えがないんですよ。ファンに聞けばわかるかと言えばそうじゃないし、出版社の人もわかっていない。地域の人も、アニメ会社もわからない。今はまだまだ、「まぐれ当たり」みたいな状況です。うまいまとめ方がないかな、とは思っているんですが。
[中編「新規顧客をどう作り出すか。これはマンガ家一本では見えなかったこと。」に続きます]
構成:松井祐輔
写真・編集:後藤知佳(numabooks)
(2015年11月12日、マンガサロン『トリガー』にて)
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