[年末特別鼎談]
「アソシエーション」と「コミュニティ」をつなぐやり方
――『マッドマックス 怒りのデス・ロード』『山田孝之の東京都北区赤羽』から読み解く「まちづくり論」。
本サイトDOTPLACEにて、これまで10回にわたってコラム「アソシエーションデザイン つづく世界のつくり方」を連載してきたまちづくり会社「まちづクリエイティブ」。千葉県松戸市に拠点を置いてまちづくりを実践する中での体感とともに「コミュニティ」と「アソシエーション」という2つの概念を各所で対比させながら「まちづくりの教科書」を目指して執筆された彼らのコラムは、連載開始から現在に至るまで、まちづくり業界の内外から少しずつ注目を集めています。
これまでの連載を振り返りつつ、今年2015年に公開/放映され大きな話題となった映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』とテレビドラマ『山田孝之の東京都北区赤羽』の2作品を、まちづクリエイティブの役員3人が「まちづくり」の視点から徹底的に語ります! 前・中・後編にわたって年末滑り込みで公開する特別放談、お楽しみください。
●連載「アソシエーションデザイン つづく世界のつくり方」本編はこちら。
「まちづくり論」の置かれている状況
――お三方にDOTPLACEで連載していただいている連載「アソシエーションデザイン」は、2014年の5月にスタートして第10回まで続いています。基本的にはまちづクリエイティブ(以下、まちづ社)役員の西本(千尋)さんがテキストを書いて、代表の寺井(元一)さんと役員の小田(雄太)さんがそれをレビューする、という工程を経て原稿を送ってもらっていて。開始時から今に至るまで、それぞれに思いの変化はありますか?
西本千尋(以下、西本):まちづくり論について「教科書」を書くことはとても大変なことだと改めて思います。今のまちづくり業界は、残念ながら自省含め、自己批評の少ない分野の1つで「こういうまちづくりが行なわれてきたよ」という事実をあくまでも、1つの視角から載せた「どうだ、すごいだろ」という事例集が多いのが現状です。建築の本とか、都市計画の本とか、ワークショップの本などはあるけど、自らの課題に対して客観性を持ちながら、批評的に論じている本は今まで少なかったと思います。
寺井元一(以下、寺井):そういう意味では、僕たちの連載ではそれらを批評したんだっけ?
西本:私、個人としては、読者が読んでくれて、この分野における批評空間が少しでも拡がればいいなって思っていました。「今までのまちづくりはきっとこういうところが課題だったよ」ということを書きたかった。もちろん、自省も含めて。はりきって、どこの教科書にも書いていないことを書きたかったので、とても難しかったです。楽観視はしてなかった。良い意味でも悪い意味でも、「まちづ社がすごい」っていう風には書かないように心がけました。なるべく宣伝のような文章にはならないように。
小田雄太(以下、小田):まちづ社の営業のやり方としてもそうですね。基本的に他社と比較するのではなく、「そもそもこうあるべきところをまっとうにやります」という話をして、文章においても批評的な立場を崩さないないようにしつつ、自分たちのポジションゲームにならないようにすごく気を遣っていた気がします。
「まちづくり」って茫洋としていて形が掴みづらいから、多くの人は声が大きい人やマジョリティに従ってしまう傾向があるけれど、文脈をしっかりと見据えつつ、法律などにまで目配せすることによって、しっかりとわかりやすく読みやすい批評になるんだと思ってます。まちづくりからは一番遠いポジションにいた僕から見ても、ただ単純に「街」とか「まちづくり」に対して普遍的な価値を見出しづらい人も、この10回を読んでもらえれば、なんとなく形を掴んでもらえるんじゃないかな。
西本:おそらくですが、まちづくり分野でこれまでに批評を行っているのは
・都市計画の専門家、研究者
・社会学分野でフィールドワークをしてきた専門家、研究者
・公共空間の使い方など、住民参加のワークショップをしてきたコーディネーター
・“建てない建築家”[★1]のように建築のオルタナティブを探してきた建築家
といった、意外と限られた分野の人たちだけなんじゃないかなって思っています。同じ分野内の批評も、分野をまたいでの批評をし合うことは滅多にみられていないような気がします。ちなみに、まちづくりを行ってきた行政(職員)自身によるまちづくり本は、残念ながらこれまでほとんど書かれていません。
★1│建てない建築家:『美術手帖』2015年1月号の特集「建てない建築家とつなぎ直す未来 リレーショナル・アーキテクトの誕生」などでクローズアップされた、建物を建てるだけではなく、それを取り巻く人や地域との関係性まで設計する新たな建築家像のこと。上記の特集には、乾久美子+山崎亮による「延岡駅周辺プロジェクト」(宮崎県)、バスアーキテクツによる「空家町屋プロジェクト」(徳島県)などが登場。
そういう中で、寺井さんは政治学をやっていたし、小田くんはデザインや芸術に明るいから、まちづ社にはそういういろいろな分野の風が入ってきます。(連載第3回の)リヴァイアサンの話なんかで政治学を入り口にして、別の回では民主主義の話になり、民主主義を続けていくために芸術はどうあるべきなのかとか……こういう話をしているから「(書く側としては)もう大変だ……!」って(笑)。
もともとは(「まちづくり」を語るときに触れられるのは)勝手なわたしの認識だと、建築、都市計画、社会学の3つのカテゴリーくらいしかなかったところに、政治学とか芸術とか美術とかアートをやってる人たちまでが「まちづくり」って言い始めたので、「まちづくり」の概念が一層、ぽこぽこぽこっていい意味でも悪い意味でも、多面化している気がします。
理解されないストレスがあったから、「まちづくり」の教科書をつくろうとした
寺井:そもそも僕はまちづ社を始める前は基本的に異業種のなかで活動していて、「まち」をつくりたい、つくらざるを得ないといった気持ちになってしまった。世の中にはいわゆる「まちづくり」と呼ばれているものがあるとは知りつつも、僕にはそれが僕のしたかった「まち」をつくる取り組みに思えなかったから、「自分がやらないと仕方ない」というところからスタートしました。松戸駅の半径500メートルで「MAD City」というものをやった結果、わかる人にはわかるというレベルでちょっと知ってもらえるようになったのが、1~2年くらい前。そのタイミングで、MAD Cityが「まちづくり」の世界でどう見られているのか何となく探り探り聞いたときに、事例の中で浮いちゃってて、例外扱いされているんだなと感じる機会があったんです。
でも僕としては「いや、MAD Cityがやっていることは特殊じゃないのにな」と。「まるで職人やアーティストのようにMAD Cityをつくってるよね」っていう扱いをされがちで、でもMAD Cityって「松戸の一角に自分たちでまちづくりをしようとして、松戸の特有の土壌に自分たちなりのやり方で種を撒いたら、こんな樹が生えてきた」みたいな活動。だから結果はともかく、その手法は特殊ではなくて、応用可能な知見だと僕は思っているんです。一方で「次は何をやるんですか? MAD City を他の場所でもやるんですか?」って言う人もいて。土壌が違えば違うことを生む/生まれるという感覚が僕にとっては自然なのに、なんで「MAD Cityを次はどこでやるの?」って聞かれるのかなって。この点は「あまり理解されていない」っていうストレスがあります。
僕なりには「この街にあるのはこういう土だから、こういう木を生やせばいいんじゃないですか?」って、それなりに理屈っぽくやっている。だからMAD Cityそのものについて話すよりは、なぜMAD Cityができたのかを伝えられたら、もっと理解してもらえるのかなって思って。結果、「我々なりの教科書が必要だよね」ということになって、教科書のネタは何だろうと話していたら、政治だの何だのという話まで含むことになって。それを西本に試しに書いてもらったら、すごく面白い原稿になった。
――でも、その原稿は「幻の第1回」としてお蔵入りしてしまったんでしたよね(笑)。
寺井:よかったんだけど、Dis(批判)ソングの歌詞みたいなのができちゃった(笑)。それでどうしようって3人で話をして、スタンスを変えてマイルド気味に書き直してもらった。いいことも悪いこともあったけど、そういう流れで整理したテキストを掲載する方向性になってしまったところもあって、それは西本の苦難の始まりだったよね。
西本:大変でしたね。
小田:まあ、結果的には方向転換をして良かったんじゃないですか。回を重ねるごとにTwitterとかでツイートしてくれたりFacebookでコメントをくれる人もいて。
西本:ウェブに連載することで、見知らぬ人に会えたのは嬉しかったです。
小田:記事に反応してくれる人はどんな人なのかなと思って、SNSのプロフィールをチェックすると、全然まちづくり分野の人じゃなかったりして。
西本:職人さんやものづくりをしている人もいましたね。
小田:反応をくれるのはそういう人ばっかりでした。そういう人に読まれていて反応があるのなら、それは成功しているなって思います。
西本:まちづくりの教科書って、まちづくりをしていると自覚的な人しか読まないじゃないですか。だから、それ以外の読者に出会えたらいいなと思っていたんです。
広がりを見せた「アソシエーションデザイン」
寺井:連載のタイトルでもある「アソシエーション[★2]」という言葉が一般化されたとまでは言わないけれど、僕が会う人の中では、1回目の記事が出る前と今では、認知度は変わりました。「最近アソシエーションについて考えてる」とか「何なんだろうって気になっている」と言われることがすごく増えた気がします。
★2│アソシエーション:個人の自律性や自発性、対話や他者とともに行う活動(「アソシエーションデザイン」第2回「『アソシエーションデザイン』とは何か」より)。
小田:我々が連載することで、アソシエーションっていう言葉が使いやすくなったみたいなところ、ありますよね?
寺井:それまで(まちづくりの分野で)アソシエーションという言葉を使う人は、調べてみても出てこなかったから、多分いなかったと思います。でも今は、他の人も言い始めました。山崎亮さんもアソシエーションという言葉を使い始めたりしていて、影響を与えられていたらうれしいですよね、たまたまかもしれないけど。
小田:連載を通して「アソシエーションデザイン」という言葉を外に出すことによって、「それってどういうものなんですか?」って興味を持ってもらったりして、企業からの講演依頼が来たりしましたよね。
寺井:企業という規模だったり、街という規模だったり――そういうのも全部「まちづくり」の要素があると思うんです。会社にも「まちづくり」が必要だったり役立つところがある。アソシエーションという言葉で究極的に僕らが伝えたいのはそういう、人が集まって生態系をつくるときの普遍的な問題についての知見だと感じます。
小田:本質的には国全体が、出入り自由な『アソシエーション』のはずなんだけど、ずっと続いていく中で出入りの難しい、地縁的な『コミュニティ[★3]』になってしまっている、ということと似ています。会社もコミュニティ化してしまっているんですね。その中で何かを動かそうと目的を持った人たちが、会社の中でチームをつくったりする動きが「アソシエーションデザイン」だと思います。
★3│コミュニティ:人が共に暮らす領域や集団のことを指し、「地域共同体」から「国全体」まで幅を持つ概念(「アソシエーションデザイン」第3回「『コミュニティ』を耕す『アソシエーション』」より)。
最近、いろんな会社にまちづ社を呼んでもらって一緒に仕事をする機会があるんですが、「一緒にプロジェクトをやりましょう」というときも、“会社としてのコミュニティ”の中にもアソシエーションは必ずある。でもその概念が相対化できてないから、どっちのスタンスで自分がいったらいいか、社員の人はわからないんですよ。「『コミュニティ』として、防衛的に手順を踏んでしっかりやっておくモード」と「目的のために『アソシエーション』としてどんどんやっていきたいモード」といった、気持ちの区分けみたいなのがもっとあっていいんじゃないかなって思います。
ただ、気づいている人は既に会社の中でもそうやって動けているんです。そういう人には「コミュニティ」と「アソシエーション」の違いを理解してもらえる。だけど大半の人はそこに気づいていなくて、結局たこつぼ化してしまっているので、そういう人にもっと気づいてほしいですね。街でできるなら、会社でも「アソシエーション」はできます。今後もどんどんやっていきたいです。
『マッドマックス』、『北区赤羽』の中にある「まちづくり」
――事前のお話によると、映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード[★4]』(以下、『マッドマックス』)と、テレビドラマ『山田孝之の東京都北区赤羽[★5]』(以下、『北区赤羽』)という、それぞれ2015年に公開/放映された2つの作品には共通点があるとか。
★4│『マッドマックス 怒りのデス・ロード』:ジョージ・ミラー監督/2015年公開作品。『マッドマックス』シリーズの第4作として前作以来27年ぶりに制作された。
「石油も、そして水も尽きかけた世界。主人公は、愛する家族を奪われ、本能だけで生きながらえている元・警官マックス(トム・ハーディ)。資源を独占し、恐怖と暴力で民衆を支配する(イモータン・)ジョーの軍団に捕われたマックスは、反逆を企てるジョーの右腕フュリオサ(シャーリーズ・セロン)、配下の全身白塗りの男ニュークス(ニコラス・ホルト)と共に、奴隷として捕われた美女を引き連れ、自由への逃走を開始する。」(公式ウェブサイトより)
公開後たちまちSNSなどでも話題になり、熱狂的なファンを獲得。異例のロングラン上映も行われた。
★5│『山田孝之の東京都北区赤羽』:2015年1月から3月にかけてテレビ東京系で放映された全12話のテレビドラマ。
「2014年の夏、ある映画の撮影中に、役と自分を切り離すことが出来なくなり苦悩していた山田孝之は、赤羽に実在する個性的な人たちを面白おかしく描いた漫画『ウヒョッ! 東京都北区赤羽』(双葉社『漫画アクション』連載中)に出会い、感銘を受ける。「ここに行けば、見失った本来の自分を取り戻せる」と直感した山田は、信頼を寄せる映画監督・山下敦弘を自宅に呼び出し、赤羽に向かうことを告げる。そして、赤羽での自分の姿を撮影してほしいと依頼。」(公式ウェブサイトより)
全編にわたってドキュメンタリー風の体裁が取られ、赤羽に実際に住む個性的な人々との出会いや、山田と実際に交友のある俳優・映画監督の訪問などを通し、山田は自らの苦悩を克服していく。
小田:2作品の共通点として一番大きいのは、どちらの主人公も病を持っているということ。かつ、『マッドマックス』のマックスも、『北区赤羽』の中での山田孝之も、どちらもコミュニケーション不全による病気で、しかも、両作品とも病気が治らないまま主人公が舞台にした街を出て終わるという(笑)。
もうちょっと広い視点で見ると、『マッドマックス』も『北区赤羽』も、その世界の中に「コミュニティ」を持っています。『マッドマックス』の場合はそこから逃走することによってコミュニティと戦う。一方で『北区赤羽』は、山田孝之がコミュニティというものに対してアジャストしていく。その違いはあるんだけど、そのコミュニケーション不全を抱えた人が、“何かのコミュニティに触れて目的や自分のあるべき姿を取り戻していく”っていう点については、僕は完全に同じだと思っています。
寺井:どちらも“コミュニティの「欺瞞」に主人公が気づく”っていう話ですよね。
小田:『マッドマックス』は、支配者イモータン・ジョーが築いたあの砦のシステムがいいか悪いかは置いておいて、そういった物語の土台がなければ、主人公のマックスは砂漠の荒野で突っ立ってるだけのオッサンなわけです。コミュニティの圧力っていうものが生まれるところまで完成されてしまったイモータン・ジョーのシステムがあるからこそ、そのコミュニティ内の軋轢というか、システムに対しての欺瞞だったり不満みたいなものに主人公が出会うことになる。
物語の構造自体は『マッドマックス』と『北区赤羽』は同じなんですよね。
――なるほど。
小田:これは僕がひたすら言ってたんですけど、山田孝之と寺井さんは――顔はまったく似てないし男性としての魅力もまったく別軸なんですが(笑)――どこかで失望した後に、別の場所にあるコミュニティに接することで何かを得て、自分の才能・能力を発露するという意味で、ほぼ一緒だなって(笑)。
寺井:「寺井さんはイモータン・ジョーにならなければいけない」とも小田くんは言ってたよね。
西本:え、でも寺井さんはマックスがいいんじゃないのかな? イモータン・ジョーってちょっとあんまりじゃない?(笑)
小田:僕が『マッドマックス』を観て寺井さんに言ったのは「まちづくりやるんだったらイモータン・ジョーぐらいにならないと、やったとは言えないんじゃないんですか?」っていうことなんです。
イモータン・ジョーはまず、資源も何もない砂漠にシステムをつくるところから始めて、さらにその上にコミュニティをつくった。だけど実は国家が巨大なコミュニティではなくてアソシエーションであった。国の成り立ちと一緒で、「打倒される対象」にまでシステムを練り上げてしまったんですね。だから、イモータン・ジョーになって、殺されるまでが仕事なんじゃないですか、寺井さん(笑)。
寺井:マックスになれるかどうかは別にして、イモータン・ジョーになれって言った小田くんの理由は、わかる気がする(苦笑)。コミュニティ扱いされるようなアソシエーションをつくるというのは、途方もないことで、しかもそれがアソシエーションとして機能して初めて完結するという。
それで、まちづくりに関わっている人間として、「街とは何か?」ということを考えたときのマクロとミクロの諸相みたいなものを『マッドマックス』と『北区赤羽』はよく表していると思います。どちらかというとミクロな方は『北区赤羽』で、マクロな方は『マッドマックス』なんだけど。今までの世界史的な統治のシステムを再解釈して幻想的に描くと、イモータン・ジョーがいるコミュニティ的なものが出来上がると思うんです。あそこには統治の工夫みたいなものが異常に詰め込まれていて、しかもそれが過去のものじゃなくて「これから生まれるかもしれません」っていう体で描かれている[★6]。一方で、『北区赤羽』で起きていることは現在進行形で、松戸っていう街ともちょっと近いから親近感を抱きやすかったんだけど、まさにミクロな、僕が松戸に来て実際に出会ったものにすごく近い。その対照的な2作品を一緒に眺めると、まちづくりを巡る諸相の輪郭が浮かび上がるような気がします。
★6│『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の舞台設定:『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の舞台は「人類が核兵器を用いた大量殺戮戦争を勃発させ、生活環境は汚染され、生存者達は物資と資源を武力で奪い合い、文明社会が壊滅した世界」とされている(Wikipediaより)。
ちなみにこの2作品との違いは、僕はその舞台から出て行かないってことです。これらの主人公は2人とも外に出て行くことができた。主人公はどちらも「旅人」なんです。それはこれらが「まちづくり」の作品でも何でもないからというのもあるんだけど。
ただ、いわゆるコンサルタント的にまちづくりをやっている人たちは「旅人」なんですよね。3年くらいある地域にいて、何かをして出て行く、っていう立ち位置なんですけど、僕らはそこに居続ける……できればそういうことでありたい。
[中編「『マッドマックス』は、未来に対する儚さみたいなものが残る映画。」に続きます]
構成:二ッ屋絢子、後藤知佳(numabooks)
取材・撮影:後藤知佳(numabooks)
編集協力:大野あゆみ
(2015年5月18日/8月13日、RAILSIDEにて)
COMMENTSこの記事に対するコメント