INTERVIEW

アソシエーションデザイン つづく世界のつくり方[TALK]

大山エンリコイサム+寺井元一:ストリート・アートと公共性 ―表現の自由論からコレクションによる歴史形成まで
「公共空間は『みんなが納得することじゃないと実行できず、一人では使えない場所』になってきている。」

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まちづくりとアート│02
大山エンリコイサム+寺井元一
「ストリート・アートと公共性
――表現の自由論からコレクションによる歴史形成まで」

ストリートにおける表現活動とまちづくりは、これまで、そして今後どのように共生していくのか? 千葉県松戸駅の半径500メートルを「MAD City」と名付け、アーティストやクリエイターを誘致してまちづくりを行う「まちづクリエイティブ」の代表・寺井元一さんと、MAD City内のアトリエにかつて入居していた美術家であり、グラフィティ文化に関する論考集『アゲインスト・リテラシー』を2015年に上梓した大山エンリコイサムさんが対談を行いました。
 
●本記事は、2015年5月23日に本屋B&B(下北沢)にて開催されたイベント「ストリート・アートと公共性 表現の自由論からコレクションによる歴史形成まで ――『アゲインスト・リテラシー グラフィティ文化論』刊行記念」を採録したものです。
●連載「アソシエーションデザイン つづく世界のつくり方」本編はこちら

【以下からの続きです】
1/4:「グラフィティ文化は『匿名性』の一言で片付けられるものではない。」
2/4:「『やれない理由はそこにはない』というその様が、僕にとっての『ストリート』かもしれないですね。」

[3/4]

都市空間の変化と監視システム

寺井:『アゲインスト・リテラシー』を読んで最初に気になったのが、公共空間というものを通じて、まちづくりで行われている議論とつながるワードがいっぱい登場している点です。

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 まずは「BID」[★2]という用語ですね。BIDとはBusiness Improvement Districtの略ですが、日本のまちづくり業界でもBIDの話題は注目されています。海外には商店街と呼ばれるものはあまりないのですね。そこでどういうことが起きるかと言いますと、地権者やビルとかを持っているオーナーはビジネス街や繁華街に多くいて、その人たちがまちづくり的な意味合いで、エリアの経営をするわけです。フリーライダーが起きがちな地域活動や公共空間の活用などを行なう一方で、行政のインフラを利用するといった、ある種の行政ハックのようなことや自治権の獲得につながることに取り組んで、地域を変えていこうとしています。

★2│BID(Business Improvement District):法律で定められた特別区制度の一種。地域内の地権者に課される共同負担金(行政が税徴収と同様に徴収する)を原資とし、地域内の不動産価値を高めるために必要なサービス事業を行う組織。1960年代にトロントで原型が作られ、80年代のアメリカで発展。主要な成功例にニューヨーク市のタイムズスクエアなどがある。
(参考:http://www.projectdesign.jp/201410/2020urban/001635.php

大山:通常であれば行政が手掛ける公共空間のあり方を、民間の有力者たちがつくっていくということですね。

寺井:地権者が主体になることが多いですね。その意味ではお金持ちで民間の有力者、ということと当たらずとも遠からずかもしれません。日本にある「商店街」とどう違うのかと言いますと、公的な権力に踏みこんでいるという点で大きく違います。海外のBIDは、日本における固定資産税に上乗せするかたちでお金を徴収し、BIDに還元するケースが多いのです。民間が作った団体が税金を取れる仕組みを自分たちでつくり、行政の徴税インフラを利用しています。
 日本型BIDと言われている事例が、2013年にひとつ誕生しています。それは「グランフロント大阪」という梅田駅の北側の再開発プロジェクトです。

グランフロント大阪のウェブサイトより(スクリーンショット)

グランフロント大阪のウェブサイトより(スクリーンショット)

 日本でも、BIDがこれからどんどんつくられていくのではないでしょうか。と言いますのも、国土交通省がやっていることが曲がり角を迎えきったところがある。国土交通省は日本列島に街をどんどんつくってきましたよね。ただ、日本の人口はこれから減っていくので、建物も道路も、電機や水道やガスといったインフラもは圧倒的に余って修繕維持できなくなってしまうのです。そこでコンパクトシティ化が進みます。そのコンパクトシティに入りきらないエリアなどは、国が管理しきれなくなっていくので、ローカルレベルでのマネージメント組織が主体にならざるを得なくなる。そういう意味ではBIDというのは日本ではホットトピックです。僕も実はかなりBIDについて研究していたので、この本で出てきたことに驚きました。

大山:『アゲインスト・リテラシー』でBIDに触れているのは、都市の監視システムがどう変容しているかについてです。監視システムには、内面化された自制心によって自らを規制する「規律訓練型」と、環境から物理的に監視され規制される「環境管理型」のふたつがあると言われます。BIDが適用されたある種の地区では、両者がオーバーラップするという新しい状況に突入していると感じています。
 BID地区では経済論理で公共性が高まるので、よいサービスを受ける人々は満足し、内面化された充足感によって逸脱的な行為への欲望が沈静化されます。人々の振る舞いが、経済空間のコードに一元化されていくのです。そうして満足している大半の消費者が、同時にわずかな逸脱者を監視する役割を担っているという状況があり得ます。上質なサービスを受け、高い生活レベルを維持している住民コミュニティだと、その生活水準にマッチしない小汚い恰好をした人やホームレスは、警察や行政によってではなく、市民の声によって排除されていく。それが空間の質をさらに高め、より上質なサービスに還元されていくという循環構造です。

寺井:つまるところBIDはやり方でありツールなわけですが、行政が画一的・硬直的にしか施策を打てないという状況に対しては、BIDは(行政と民間の)中間にあたる存在として、より柔軟だったり弾力的な取り組みを実現できる可能性がある。というのも、警察や政府などの大きな装置によって画一的に決められたルールみたいなものに対し、個々人が新しいルールを提唱し、ボトムアップを働きかけられる可能性がありますから。

大山:でも、そのボトムアップに加われない人は排除されますよね。

寺井:そうですね。BIDの世界観のなかでは、行政という絶対的な管理者や権限の存在が薄まって、今まで権限を持ち得なかった民間が影響を及ぼすようになる。民間が主体になるというのは良い側面もありますが、悪く作用するとヒステリー現象のような監視や排除が起きてしまい、歯止めが効かないリスクがありますね。大きな政府が維持・管理していく世界はもう終わることが間違いないだろうなというなかで、私たちは何ができるのか、動的な状況のなかでバランス感覚をどう保てるのか、というのは僕も気になるところです。

法律と現代の情報社会の折り合わなさ

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大山:アートの文脈では少し前から、公共空間における表現の自由の問題があります。それも警察や行政の権力によって取り締まられるパターンだけでなく、市民の声によって抑制されるパターンもありますね。
 愛知県立美術館で開催された展覧会で、鷹野隆大さんによる男性が下半身を露出している写真作品を見た一市民が匿名でクレームし、警察が介入してしまった一件があります。単に市民の声だけでもないし、単に公権力だけでもないですね。
 美術館はひとつの公共施設ですから、そこには複雑な力学があったはずですが、結果的には同作の問題となった箇所に布をかけるという妥協的な状況になりました。日本では裸体画の恥部に布をかけるという歴史的前例があって、その反復のようにも見えます。ポイントは市民の通報ですよね。「市民」と言うと不特定多数のように感じるじゃないですか。実際は一個人の感覚で「私、これ嫌い」ということを市民から匿名で通報されると、警察は動かざるを得ない……。それが大多数の意見でなくても、表現が抑圧されることが起こってしまいます。
 このあいだ黒瀬陽平さんと話して知ったのですが、インターネットでも似たことがあります。SNSなどは有象無象の個々人の声を高解像度で可視化するので、有名人がちょっと尖った発言をすると無数のリプライでバッシングを受けることが起こり得る。でも、サイレント・マジョリティの意見は表に出ないので、実際にはごく一部の人が騒いだだけなのに、世間が怒っているような雰囲気が醸成されるというケースもあるようです。そう考えると、情報技術がいろいろなものを可視化することで生きにくくなっているところはあります。公共空間での表現のリスクは、ますます複雑さが増していると思いますね。

寺井:今まさに言ってくれたことは、僕の問題意識のなかでも相当大きなウエイトを占めています。先ほどのBIDの議論とも接点がある気がするのですが、市民や個人は行政や権力と対置されて、強大な彼らの肥大化を防ぐといった、比較的望ましいもの、支援されるべきと思われていたところがある。けれど今やその個人の声が行政や権力を動かすことで、他の個人を簡単に縛ることにもなっている。これは以前にDOTPLACEの連載で書いたリヴァイアサンの話とも繋がっている気がします。まちづ社も一度会社として炎上に巻きこまれたことがあるんだけど、そのとき思ったのは、ネットはネガティブな意見を増幅しがちだという一面です。噂話というのはそもそもそうなんですけれど、他人を支援するより攻撃するための増幅器としてネットが適しているという。

大山:一般論として、現行の法律システムは情報社会の新しいあり方やコミュニケーション作法と折り合っていないですよね。著作権の問題なども同様です。現行の法律体制が整備された時代は今とまったく違う時代なので、現代の情報社会で起きていることに対応しようとするとそもそも無理が生じる気がします。

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何かが「できない」場所として、公共空間は成長しつつある

大山:そうした問題がアートに限らずまちづくりの現場でも起こっているなら、同時代的な現象ということですね。

寺井:落としどころがまだ見えないなと感じますね。権力みたいなものが一定のベクトルをもっと強く持っていた場合、「性器が写った写真を展示します」というときに、「これは文化の範疇だから、誰から苦情が来ようが止めません」というかたちで議論が終了してもいいわけじゃないですか。

大山:日本では美術館を税金で運営している側面が強いこともひとつの要因かもしれません。ニューヨークだと、メトロポリタンでもMoMAでも、富裕層のドネーションによって運営されているところがあります。
 とはいえ、「TOKYO 1955-1970:A New Avant-Garde」という日本の戦後前衛美術の展覧会をMoMAでやったとき、横尾忠則さんの作品のひとつが韓国から見ると問題がある表現だったということで[★3]、在米韓国人の方々はデモをしていました。なので、もちろん海外でも展覧会に批判が向いたり、場合によっては表現が規制されるということはあるわけですが、日本のような「匿名市民」の圧力というパターンはあまり聞いたことがないですね。

★3│MoMAでの横尾忠則作品にまつわる騒動:2012〜2013年にMoMA(ニューヨーク近代美術館)で開催された「TOKYO 1955-1970:A New Avant-Garde」展に出品された横尾忠則氏のポスターに旭日旗のイメージが使われており、このことに在米韓国人たちが遺憾を表明、撤去を要求した。

寺井:それは、特定の狭いところで起きていることでもないですよね。東京の公園では(金網のケージなど専用設備がない限り)軟式野球ができる公園がない、というのは最近有名になりましたが、特定少人数の苦情により、公共空間の規制が強化される方向性はずっと続いています。公園でなくても、たとえば小学校の運動会のピストルだって禁止が進んでいます。一方で最近新聞で見たのですが、北海道の帯広で運動会を行う日には花火を上げていたそうなんです。それが最近、禁止になったという記事でした。ピストルと花火じゃ規模や周囲への影響は全然違うわけですけど、帯広ですらこういったことが起きていて、方向は似ています。
 公共空間とは、「みんなが何かをできる場所」だとみんな思っていますよね。ただ、今起きていることは、「みんなが納得することじゃないと実行できず、一人では使えない場所」になってきていると感じてきています。何かができる場所ではなく、何かができない場所として、今公共空間は成長しつつある。東京でも帯広でも、つまり全国的にそうなりつつある。この状況をどうやって変えたらいいのでしょうか。

大山:僕なら、できるところへ移動しますね。いまの寺井さんの話と僕の住んでいるニューヨークを比較すると、やはり違います。ニューヨークも規制やゾーニングは当然ありますが、ブルックリンに行けばまだ自由なもんですよ。60年代から80年代のニューヨークは完全に荒廃していて、財政面で破産していました。いわゆるミドルクラスの白人は郊外に引っ越して、いまデトロイトで起こっているようなドーナツ化現象があったんです。金持ちが外へ逃げていくという構図でした。それがジュリアーニ市長になってジェントリフィケーションが加速し、ニューヨークの再建が進んで人が戻ってきた。一応はよくなったのですが、いまでも東京に比べればカオティックです。
 ともかく、もし自分が住んでいるところが心地よくなければ、そこを脱出して、自分にとってベストの場所に移動してもよいのではないか。もちろん、誰でもできるわけではないので、一概には言えません。

寺井:僕が渋谷から松戸へ移ったのも、そんなようなところはあります。逃げるという手段を取るのは、ネガティブな意味ではなく、よいことだと思うんですよ。「移動すればいいよね」というのは、アーティストにとってはごく自然な発想だと思います。

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4/4「自由の感覚は、なにか枠組みを踏み外しているからこそ立ち上がる。」に続きます

構成:吉崎香央里、後藤知佳(numabooks)
取材・撮影・編集:後藤知佳(numabooks)
(2015年5月23日、本屋B&Bにて)

[「アソシエーションデザイン」関連イベントのお知らせ]
林暁甫×寺井元一「地域アートプロジェクトとアソシエーションデザイン」

 
「混浴温泉世界」(別府)、「鳥取藝住祭」(鳥取)に加えて、直近では六本木アートナイト、同じく六本木での「リライトプロジェクト」など、地方と都心を横断してアートプロジェクトに関わってきた林曉甫さんをゲストに招き、地域アートプロジェクトについて考えるトークイベントを行います。
 
開催日:2016年4月29日(金・祝)15:00〜18:00(14:45受付開始)
出演:林曉甫(NPO法人inVisible)、寺井元一(MAD City/まちづクリエイティブ)
定員:30名 ※定員を超えた場合、ご予約の方を優先いたします。また、立ち見の場合がございます。
参加費:1500円(1ドリンク付き)
会場:FANCLUB(JR/新京成線松戸駅徒歩2分)
主催:株式会社まちづクリエイティブ
協力:DOTPLACE
 
★イベントの詳細・ご予約はこちらのURLから(ご予約は前日まで受付中)。


PROFILEプロフィール (50音順)

まちづクリエイティブ(まちづくりえいてぃぶ)

松戸を拠点としたMAD Cityプロジェクト(転貸不動産をベースとしたまちづくり)の他、コミュニティ支援事業、DIYリノベーション事業を展開するまちづくり会社。 http://www.machizu-creative.com/ https://madcity.jp/

大山エンリコイサム(おおやま・えんりこいさむ)

美術家。1983年、イタリア人の父と日本人の母のもと東京に生まれる。グラフィティ文化の視覚表現を翻案したモチーフ「クイック・ターン・ストラクチャー(Quick Turn Structure)」をベースに壁画やペインティングを発表し、注目を集める。また、コム デ ギャルソンやシュウ ウエムラとのコラボレーション、著書『アゲインスト・リテラシー──グラフィティ文化論』(LIXIL出版)の刊行など広く活動している。現在ニューヨーク在住。 http://www.enricoisamuoyama.net

寺井元一(てらい・もとかず)

株式会社まちづクリエイティブ代表取締役、アソシエーションデザインディレクター。早稲田大学卒。NPO法人KOMPOSITIONを起業し、アートやスポーツの支援事業を公共空間で実現。まちづクリエイティブ起業後はMAD Cityを立ち上げ、地方での魅力あるエリアの創出に挑んでいる。


PRODUCT関連商品

アゲインスト・リテラシー ─グラフィティ文化論 Against Literacy: On Graffiti Culture

大山エンリコイサム (著)
単行本: 248ページ
出版社: LIXIL出版
発売日: 2015/1/26