#03:いまなぜ空海なのか(後編)
※前編はこちら
◆ロールモデルとしての空海
振り返れば24歳のころ、知人から「とにかく空海はヤバい」という話を聞き、松岡正剛さんの『空海の夢』(春秋社、2005年)や梅原猛さんの『空海の思想について』(講談社、1980年)などの関連書籍を買い漁った。原典である『即身成仏義』は買ってみたものの、それはあえなく積読となった。
当時の僕は、真言宗と空海さえ結びついていなかった。どちらかというと、松岡正剛さんがよく言う“アートディレクターとしての空海”という表現が、デザイナーだった僕の心にグッときたのだと思う。それはお経に登場する数多の仏さまを、曼荼羅という一枚絵にまとめることを評してのことだった。
他にも、遣唐使として長安に渡り、本来は20年間修行すべきところ、たった2年で密教を学び取り帰国したこと。当時、貴族しか許されていなかった学校教育をオープン化し、日本初の庶民向け私立学校「綜芸種智院」を開設したこと。
ひとつひとつの印象的なエピソードが心にひっかかり、やがていつからか「ロールモデルは空海です」と言うようにまでなった。
特にグリーンズを始めてから、梅原猛さんの著作の中で強調されていた「すべてを肯定する」というあり方に惹かれたのだと思う。Noの時代から、Yesの時代へ。
密教では無我をいわない。無我のかわりに大我をいう。無欲を説かず、無欲のかわりに大欲を説く。
ここが、密教と他の多くの仏教宗派、たとえば禅とちがっているところである。
禅では否定の契機が強いのにたいし、密教では肯定の契機が強い。
(梅原猛『空海の思想について』p.108)
とはいっても、その圧倒的なスケールを前に、その原典にあたってまで掘り下げることについては立ち往生していた。高野山にも「ふさわしい時機が訪れ、呼ばれるまでは行かじ」と、頑なに決めていた。
そんなとき友人のNOSIGNER・太刀川英輔さんの紹介で、高野山別格本山三宝院副住職・飛鷹全法さんと出会う。
そして三宝院で行われる大貫妙子さんのコンサートについてインタビューさせていただく機会があり、そのご縁でいよいよ高野山を訪ねることとなった。そのとき初めて、巨木が林立する奥の院にて、大師に「ただいま戻りました。今後ともよろしくおねがいします。」と、自分でも不思議に感じる言葉をかけた。
ここから何かが始まる。その予感の中で僕の背中を押してくれたのが先の『大宇宙に生きる 空海』であった。著者は、著名な宗教学者であり、高野山真言宗管長でもある松長有慶さん。尊敬を込めて、松長猊下(げいか)とも呼ばれる。
◆1200年前と対話する
ちょうど来年(2015年)は高野山開創1200年にあたる。その時を迎えて、僕は1200年前に発せられた言葉と対話しようと思っている。
とはいっても1200年前の景色なんて、僕には想像がつかない。樹齢千年を超えるあの老木なら、きっとその頃の話を聞かせてくれるのかもしれないけれど、まだ確かめたことはない。
20年前、インターネットはまだ当たり前ではなかった。50年前、地球の姿を初めて宇宙から眺めた。100年前、“世界大戦”という名の戦争が勃発した。200年前、まだ奴隷の存在が当たり前だった。500年前、大航海時代が幕を開けた。800年前、日本では源氏と平氏が内戦をしていた。さらにさかのぼること400年、平安時代が幕を開けたばかりのうねりの中に、ひとりの僧が生きていた。
1200年前とはまったく違う社会を、僕たちは生きている。そんなことは言わずもがなだけど、それでも僕たちは、歴史の妙をともにした古籍と向き合うことで、今に通じる意外な共通点を発見することがある。それはきっと、この世の本質に近いことなのだと思う。勉強家としての僕の魂は、どうやらその秘密に少しでも触れたいらしい。
空海は「真言=“真実についての言葉”は時空を超え、高らかに響いている」という。その言の端を頼りに、僕も壮大なシンフォニーに参加して、音を奏でてみようと思う。その響きが、読者のみなさんと開創1200周年を迎える高野山とを結ぶ、ささやかなご縁となることを願って。
[空海とソーシャルデザイン:#03 了]
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