#04:空海とは?(前編)
「空海とソーシャルデザイン」の本題に入る前に、まずは空海とは誰か、ざっくりおさらいしたいと思う。
とはいっても詳しいことは他の入門書にゆずり、ここでは空海がどんなソーシャルデザインに取り組んでいたのか、初心者の僕がどんなところに興味を惹かれていったのか、そんな観点から生涯を振り返ってみたい。
■ “大師伝説”としての空海
みなさんは空海というと、どんなことが思い浮かぶだろう?
「弘法にも筆の誤り」や「弘法筆を選ばず」といった、ことわざだろうか。*1
人によっては、四国八十八箇所の「お遍路」や厄除けで知られる「川崎大師」かもしれないし、僕も通っていた人気ラーメン店「麺屋 空海」かもしれない。
他にも「杖で地面を突いたら、温泉が湧き出た」「一夜にして、お寺を建てた」「年に三回も実をつける、不思議な栗を残していった」など、たくさんの奇譚が日本各地に残されている。なんとWikipediaの「サンタクロース」*2 ページにも、空海が登場するほどだ。
一説によれば、「星占い」や「曜日」をはじめ、「お灸」から「さぬきうどん」まで、日本に初めて持ち込んだのも空海と言われ、「ひらがな」や「五十音図」といった日本語の基本を整えたのも空海だと信じられてきた。そういえば「いろは歌」もそう。
温泉、星占い、五十音図……すべての伝説が本当かどうかはわからないけれど、僕たち日本人の原風景と深いつながりがあることを、何となく感じていただけたのではないかと思う。
何より真言宗においては、空海は今でも高野山で瞑想しながら、人びとの救済のために祈りを続けているとされている。だから“入滅”ではなく“入定(にゅうじょう)”であり、1000年の時を経てもなお空海は“生きて”いて、僕たちはいつでも会いにいくことができるのだ。
■ 空海の人生〈前期〉
伝説としての弘法大師像はここまでとして、ここからはひとりの人としての空海の人生を、大きく3つの時期に分けて駆け足でみていきたい。
〈前期〉は誕生から20代後半、若いひとりの僧が「空海」を名乗るに至るまで。〈中期〉は遣唐使として長安に赴き、密教の正当な継承者として帰国後、日本に真言宗を確立していく40代前半まで。〈後期〉は、40代後半から入定まで、空海によるソーシャルデザインが多く実行されていた頃にあたる。
〈前期〉
774年 讃岐国で誕生(0歳)
791年 大学に入学する(18歳)
? その後ドロップアウトし、山林で修行する
? 室戸岬で修行し、「空海」を名乗る
797年 『三教指帰』を著す(24歳)
さっそく〈前期〉から。とはいってもその頃の空海の様子は、あまりわかっていない。
774年、現在の香川県善通寺市で、地方豪族であった父と学者の家系である母の三男として、いわばエリート一家に生まれた空海。15歳の頃には漢学や史学に触れ、18歳で大学に入学し、中国古典や儒教の研鑽を積んだとされる。類まれな漢詩の才能は、その頃に磨きをかけていたようだ。
しかし、ひとりのお坊さんとの出会いを機に仏道に目覚め、大学をドロップアウトすることに。官僚になる道を捨て、山林で修行に励んだ20代は、空海にとって仕事はしていないけれど、将来のために種を蒔いていた時期だった。*3
少し脇道にそれるが、僕がウェブデザイナーをしていた27歳のとき、これまでの自信を一気に失い、まったく仕事ができない頃があった。でも、そんな状況にありながら、雑誌の連載など“書くこと”だけは続けることができた。この意外な発見は、デザインから編集へ、自分の仕事が少しずつ変化していった大切なきっかけになっている。*4
誰にでも必ず、“常識”とされていることを疑い、さまざまな矛盾と立ち向かう日々が訪れる。そういう意味では、空海という偉人であっても、現代に生きる僕たちとなんら変わらないのかもしれない。
そんなもやもやした日々のまっただ中で、出家を反対する親族に対しての決意表明として著したのが『三教指帰』だ。儒教、道教、仏教それぞれを支持する登場人物の対話形式で叙述され、とりわけ仏教が優れていることを示そうと試みたもの。歴史に残る初めての比較思想論であり、日本で最初の私小説ともされている。空海はその溢れんばかりの思いを、言葉で表現することにしたのだった。
ちなみに「空海」という名を初めて名乗ったのは、『三教指帰』にも登場する高知県室戸岬だと言われている。修行中に金星が口に入ってきて、菩薩からのあまねき光を感じる。唖然とするままに、しばらくして目に入ってきたのは、ただ大きな空と海のみ。それが幼名・佐伯真魚が空海になった瞬間だった、という。*5
その後も山岳修行のために四国や紀伊半島の山々を歩いたり、仏教を改めて勉強するために奈良の諸大寺を訪れたりと、自分探しの旅は続く。そんな若かりし頃について、空海自身はこう綴っている。
弟子空海、性薫(しょうくん)我を勧めて、還源(げんげん)を思いとす。経路いまだ知らず、岐(ちまた)に臨んで幾度か泣く。
訳:
弟子空海は、自身が本来備えている仏性への働きが動いて、本源へ回帰しようという思いが切なるものがある。けれども本源へ戻るにはどの道を歩んでよいか、まだわからない。それで別れ道に出会うたびに、行方の選択に迷って、幾たび涙を流したことだろうか。
――松長有慶『大宇宙に生きる 空海』p.58 より
空海にとっての20代は、自分を深く掘り下げるためのケの時期だった。そこにはたくさんの葛藤があり、悔し涙があった。ようやく10年という時を経て、自分の本源と再会し、進むべき道が見えてきたのだ。
このとき空海31歳、目指すは世界一の大都市・長安へ。いよいよ空海が、ハレの舞台へと上っていくことになる。
[中編に続きます]
注
*1│「弘法筆を選ばず」:
本当は書体に合わせて筆を選んでいたと言われる。
*2│空海のサンタクロース伝説:
「空海 – 柳田國男によれば、愛知県~岐阜県辺りで、11月24日ごろに「弘法大師が家々を回って福を授ける」と言う伝承があったらしい。また、嘗てオホイコと呼ばれる、11月頃に生まれた神の長子を祝う風習があり、後にオホイコの字大子がダイシと読まれ、弘法大師が11月に拝まれる大師講になったと言い、冬至に神の子の生誕を祝う祭りと共通するという。」
(Wikipedia: サンタクロース -関連項目 より)
*3│空海が将来のために種を蒔いていた時期:
松岡正剛さんは『空海の夢』(春秋社、2005年)の中で、この頃の空海を“ヒッピー空海”(p.99)とさえ呼んでいる。
*4│“書くこと”だけは続けることができた:
詳しくはこちらのインタビューを。 http://greenz.jp/2013/12/03/latebloomer_yosh/
*5│幼名・佐伯真魚が空海になった瞬間:
ただし、『三教指帰』にはただ「明星、来影す」とあるのみで、専門家によればいつ空海と名乗ったかは定かではない模様。
〈参考文献〉
渡辺 照宏, 宮坂 宥勝『沙門空海』(ちくま学芸文庫、1993年)
松長有慶『大宇宙に生きる 空海』(中公文庫、2009年)
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