#05:空海とは?(中編)
※前編からの続きです。
■ 空海の人生〈中期〉
続いての〈中期〉は、ひとりの留学生にすぎなかった空海が、長安で密教の正統な後継者として認められ、日本に帰国して真言宗を広めていくまでの時期にあたる。
〈中期〉
804年 遣唐使として長安へ(31歳)
805年 恵果から伝法灌頂を受ける(32歳)
806年 帰国して、真言宗を伝える(33歳)
809年 京都に入る(36歳)
812年 教団としての真言宗が成立する(39歳)
816年 高野山を開創する(43歳)
機が熟すまでひたすらに自分を磨き、次々と千載一遇のチャンスを掴んで、さらに大きな舞台へと挑戦していく壮年空海の姿は、まばゆさとその影に潜む葛藤も含めて、34歳の僕にとってリアルに響くものがあった。
■入唐から帰国まで
804年、「ホンモノの仏教を学びたい」というひたむきな思いで、25年ぶりの再開となった遣唐使船に潜り込むことができた空海。しかし出発してすぐに嵐が襲い、大幅にルートが外れてしまうなど、決してその旅は順風満帆ではなかった *1 。
同年12月、やっとの思いで長安へ入った空海だったが、意外にも焦ることはなかった。長安の諸寺を巡ったり、サンスクリット語を指導してくれた般若三蔵らと対話を重ねたり、「『長安に空海あり』の噂が青龍寺(※しょうりゅうじ、当時の密教の中心地)に過熱する日を待っていたふしがある」(松岡正剛『空海の夢』p.128)という具合で、じっくり時機を伺っていた。
そして805年4月、ついに青龍寺の高僧・恵果(けいか)と出会う。この真言八祖 *2 の第七祖にあたる重要人物をして、「あなたが来るのを待っていた。私が受け持してきた密教を、伝えるべき人材に恵まれなかった。あなたにそれを早速授けたい」とまで言わしめ、早くも8月には「伝法灌頂」という最も重要な儀式でもって、密教の正統な後継者となる。このとき授かった名前が、「この世の一切を遍く照らす最上のもの *3 」を意味する“遍照金剛(へんじょうこんごう)”だった。
ここまでやって来られたのは、けっして私の力だけではありません。私は、大きな宿命の鉤(かぎ)でもって招かれ、索(なわ)でもって引き寄せられるように、師の許にやって来たのです。
――松長有慶『大宇宙に生きる 空海』p.66 より
自分にとって、憧れの人がいるとして、自ら歩み寄るのではなく、声が掛かるまで敢えて動かない。「師匠との出会いは“たまたま”だった」と控えめに振り返る空海から、僕は「努力しながら待つこと」を学んだように思う。
若き後継者の晴れの姿をしかと見届けた恵果は、「日本で密教を伝えなさい。次に生まれ変わったときには、あなたの弟子になろう」という遺言を残し、60歳で入滅する。葬儀にあたって、空海は500人を超える弟子たちを代表して追悼文を起草し、806年3月、その言葉に背中を押されるように、たくさんの仏像や法具、経典を携えて、わずか2年で祖国へ帰る運びとなった *4 。同年10月、日本に真言宗が伝わる。
■帰国から高野山開創まで
帰国後、筑紫(福岡県)の太宰府に入った空海だったが、すぐにその成果を持って、京都に向かうわけにはいかなかった。実は遣唐使における空海の立場は、長安で20年間の修行が必要な「留学僧」であり、その期間を大幅に前倒して、半ば勝手に帰国したことは、常識からすれば重罪だったのだ。
時を同じくして朝廷の内変なども重なり、ここから3年間、九州に足止めされるのだが、これも空海にとっては再びの「将来のために種を蒔いていた時期」にすぎなかったのかもしれない。膨大な手土産を『御請来目録』という報告書としてまとめながら、真言宗の奥深い思想をさらに掘り下げることに、空白の時間を充てていたのだろうと思われる。
そして809年、日本の仏教界の礎となる貴重な知見が詰まっていた『御請来目録』に注目した嵯峨天皇から、「京都に上るように」と声が掛かり、いよいよ空海が歴史の表舞台に登場することになる。このとき、空海36歳の春だった。
京都での最初の数年は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺に拠点を置き、当時の有力者だった天台宗の開祖、最澄らと交流を重ねながら、真言宗の基礎を固めていく。812年には、最澄らに対して「結縁灌頂」という儀式を行い、形式上とはいえ最澄が空海の“弟子”となったことをきっかけに、一躍、京都にその名が広まっていく。この年の暮れ、空海は弟子たちを束ねて役職を整え、教団としての真言宗が成立する。
帰国して10年、今までの仏教と真言密教の違いを記した比較思想論『弁顕密二教論』や真言密教の教義をまとめた『即身成仏義』『吽字義』『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』を次々と著すなど、大都会の京都で精力的に活動していた空海だったが、実はこのとき、もうひとつの大仕事に取り掛かっていた。それが2015年に1200周年を迎える、高野山の開創だ。
いまや仏法は栄え、優れた僧侶があちこちの寺で勉学を続けているが、高い山や深い峰に入りこみ、静かな土地で禅定(※ヨガや瞑想のこと)に耽る人はきわめて少ない。そこで禅定に入る最も適当な土地として、少年の頃見つけていた高野山を賜りたい。
――松長有慶『大宇宙に生きる 空海』p.84 より
人と情報が交わる都会と、大いなるものと一体化できる自然。どちらが欠けても社会的な活動は実現できず、静と動、そのリズムが大切であると空海は言う。この辺りは「ローカルの時代」ともいわれる今と、図らずもシンクロしているのがとても興味深い。
僕自身、去年、目の前で噴煙を上げる雄大な桜島をはじめ豊かな自然と温泉に恵まれた鹿児島に移り、東京との二拠点で仕事をしているが、都会と地方では人の密度や時間の流れが本当に対照的だ。それは、都会 vs 地方という話ではなく、僕にとってはどちらも大切な場所であり、むしろ往き来することで生まれる心持ちの変化にこそ、意味があるように思う。自分の生き方、働き方に、しっかりと気分転換のための余白を入れること。空海はその価値を、1200年も前に見抜いていたのだ。
816年に嵯峨天皇から高野山を賜ると、3年後には高野山にて結界の儀式を行い、弟子たちとともに未開の地、高野山のまちづくりがはじまる。そして自分の足場をしっかりと固めた空海は、「世を済(すく)い、人に利する」の思いで、全国各地のソーシャルデザインに取り組んでいく。
[後編に続きます]
注
*1│遣唐使船の旅:
漂流先の官僚たちに疑いを持たれてしまった遣唐使一行も、その重くるしい空気を変えたのは空海が書いた見事な手紙だったそう。
*2│真言八祖:
「大日如来」を教主とし、金剛薩埵・竜樹・竜智・金剛智・不空・恵果と続く、真言宗の教えが日本に伝わるまでに経た僧の系譜のこと。恵果はその七人目(=第七祖)。
*3│「この世の一切を遍く照らす最上のもの」:
イコール「大日如来」のこと。
*4│空海のスピード帰国:
その後、遣唐使は30年途絶えてしまっただけに、このとき空海が帰国しなかったら、真言宗は日本に伝わっていなかったかもしれない。
〈参考文献〉
渡辺 照宏, 宮坂 宥勝『沙門空海』(ちくま学芸文庫、1993年)
松長有慶『大宇宙に生きる 空海』(中公文庫、2009年)
松岡正剛『空海の夢』(春秋社、2005年)
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