「これからの編集者」をテーマに、さまざまな人にインタビューしていくシリーズ。第4回は、メディアアーティストであると同時に、『パターン、Wiki、XP』(技術評論社)などの著書をもつ集合知の研究者で、「ニコニコ学会β」実行委員長でもある、江渡浩一郎さんです。
※下記からの続きです。
第4回:江渡浩一郎(ニコニコ学会β実行委員長) 1/5
第4回:江渡浩一郎(ニコニコ学会β実行委員長) 2/5
第4回:江渡浩一郎(ニコニコ学会β実行委員長) 3/5
責任を割り振る役割としての「編集」
――ちょっと「ニコニコ学会β」の話から外れるんですけれども、この間「新潮社の校閲がすごい」というのがネットで話題になりました。あれを見て、新潮社の校閲の方はもちろんすごいのですが、一方で「校閲」みたいな作業は集合知向けなのではないかと思いました。1人の超スペシャリストよりも、100人の関心のある素人が集まった方が、ミスは見つかるものではないかと思ったのですが、ご専門である江渡さんは、どうお考えになりますか。
江渡浩一郎さん
江渡:そういう側面もありますが、そこまで単純ではないとも思いますね。実例で言えば、オープンソースソフトウェアはいろんな人がたくさん目を通すからバグとか致命的なセキュリティーホールがすぐ見つかると言われていますが、ある程度事実なのですが、かなり致命的なバグが長期間見逃されてきたということも、またやはりあるんです。
オープンソースソフトウェアといわゆるクローズドなソフトウェア開発との比較はしていないので、どちらの方が有利なのかはわからないのですが、「みんなチェックしているはずだからざっとみるだけでいいや」という逆方向の集団的効果もありうるわけです。
――なるほど。そこに一定のルールが与えられているとか、あるいは無償ではなくて、それぞれに責任が割り当てられているということになれば、また違うのでしょうか。
江渡:それもありうるでしょう。ただ、一般的に言えば、ルールを作ったり割り当てを考えたりすると、その「割り当てを考える」ということ自体に専門性が出てくるわけです。そこで間違った分野の人を割り当ててしまうと、より大きな問題が発生する可能性があるので、そこまで安易にはいかないかなと思います。
――そういう意味では、割り当てることが、ひょっとして「これからの編集者」の仕事になるかもしれないですね。誰に何を割り当てるか、のような。
江渡:それはありますね。
――『バクマン。』という漫画を読んだことはありますか?
江渡:あります。チラッとだけ。あの、集合知でストーリーを作るというものがありましたね。
――それです。『バクマン。』の中に七峰透というキャラクターが出てきて、彼は若い編集者の意見を無視して、漫画のアイデアを50人くらいのチャットで集めるんですけど、結果面白くないものになるという話なんです。それは一見、教訓的であるようで、本当なんだろうかと思ってしまうところでもありますよね。
江渡:お話としては面白いですよね。でも、流れとしては「だからプロの漫画家はすごいんだぞ」っていうそういうことですよね。
――これ、さっきの話と似ていますよね。これは本当だろうか、集合知でもうまくいく方法はあるんじゃないかと思うんです。「だからプロの作家はすごい」「だからプロの校閲者はすごい」「だからプロの編集者はすごい」というのはあまりにきれいすぎる。いわゆる漫画のなかにこういう要素を入れると売れる!みたいなこととか、要素の組み合わせのようなことをやるディレクターが必要で、七峰君がディレクションをしていて、要素とかギャグのネタとかが他の所から飛んでくるというのは七峰君さえ能力があれば、この漫画は非常に面白かったのではないかと思うんです。
江渡:ぶっちゃけその通りですよね(笑)。言いかえれば、その中心人物の技量がどれだけあるかで集合知を使いこなせるかどうかが決まる、というただそれだけですよね。だからある意味シンプルだと思います。
集合知で作った小説というと、筒井康隆に『朝のガスパール』という小説がありました。それはストーリーのアイデアをパソコン通信でいろんな人から受け取って、それを拾ったり拾わなかったりしてストーリーを組み立てていくというものでした。『朝のガスパール』で面白かったのは、複数のストーリーが並行して走り、その中の1つの話がメタな話なんです。普通のストーリーが走りつつも、その中のストーリーの一つとして作者のような人が出てきて、その人がパソコン通信で反応を聞いて「こんな反応があった」ということを話す場面が出てくるんです。そのようなメタなこともストーリーの中に取り込まれていて、それが読んでいて面白かった。小説としてどれだけ面白かったのかというのとは別の話なのですが、そういう風に集合知を使いこなしている様子そのものを小説に取り入れてしまうというのは、筒井康隆なりの手法として面白いアイデアだなと思いました。
――その、集合知を使いこなせる人の能力とはどういうものなのでしょうか?いい七峰君になる方法はあるのでしょうか。
江渡:難しいですね。例えば「ニコニコ学会β」の場合でいえば、そもそも「ニコニコ学会β」とは何かというイメージが私の中である程度存在しているので「そのセッション案は違うかもね」とか「そのセッション案はありだけど、この登壇者はない」という風に却下することもあります。こう言うと、座長が全部決めるということに反しているように聞こえるかもしれませんが、たしかにその通りで、却下することはあるんです。でもそれは、こじんまりとまとまってしまうことを避けるためにそうすることが多いですね。また、このセッションは細かく手を入れる、このセッションはまかせるという風に関与の度合いはある程度私が考えて決めています。
「なし」も「あり」も、実は決め方はある程度同じで、簡単に言えば頭の中でシミュレーションして決めるということです。1日または2日でシンポジウムをやるとして、その中の1つとしてこのテーマのセッションが入る。実際やるとして、この3人、この4人が登壇者として入る。この人を追加するとこういう風になるだろうな……などと頭の中で考えていくわけです。それが頭の中でつまらなそうな感じになったら「なし」、面白そうになったら「あり」だ、という感じで決めます。それを短く一言で表すと、「直感で決める」ということになってしまいますが。
――なるほど。その直感的な判断は、専門家でなくてもできるものなのでしょうか?その分野の専門家でなくても、面白くなりそうかどうかの判断はできるのでしょうか?
江渡:それはできないと思います。さっき言ったように、私が手を加えているセッションと加えていないセッションがありますが、私がまったく知らない分野はおまかせするしかないんです。それで上手く行ったこともあるし、そうではなかったこともあります。そして、まったく関与してないけど大成功したセッションが増えてきていて、それは本当にうれしいことだなと思っています。
――その座長を誰にするかの選択をする、ということですね。本当に編集長がいて編集者がいてネタを集めてくるというか、雑誌と似ていますね。
江渡:たしかに雑誌っぽいと思います。
ウィキペディアにおける対立を許しあうプロセス
――今の話と関連するかもしれませんが、小説でも雑誌でも、編集者は人の書いたものを直しますよね。作家の書いたものに対してものを言って、「ここはもっとこうした方がいい」とかいう風に。それは直される方にとっては気分のいいものではないこともありますよね。ウィキペディアでは、すごくそういうことが起こっていると思います。人の書いたものの直し合いがバトルになって、どこかに落ち着いていくわけですけれども、上下関係があれば最終的には決まると思うのですが、ウィキペディアにはない。そういう、永遠にバトルが続いたりする答えがでない仕組みというのが、いい仕組みかどうかと考えるとよくわからないんです。これからの編集における、人の書いたものを直して何かの形に定着させるというプロセスのことが気になっているのですが。
江渡:まず一般的な話で言えば、編集合戦が起こる場合と起こらない場合がありますよね。当たり前ですけど、編集合戦が起こらない場合の方が圧倒的に多いんですよ。だからこそウィキペディアが成り立っている。それはやはり初めにルールがあるからなんです。
まず初めにウィキペディアは「百科事典」であると定義されていることそのものが、1つの強いルールになっているんです。「この記述は百科事典的ではないよね」という「百科事典的な記述」というイメージがおおよそみんなの頭の中に定着されていて、それがあるからこそ「これは完成形だ」「これはどう見ても百科事典的な記述ではない」ということが一応同意が取れます。その上で、新しく情報を追加する、あるいは単純に間違いを直すということは基本的に誰もが賛成することですよね。特にそれを巻き戻す必要を感じないわけです。
編集合戦が起こりやすいのは、歴史的事実に対する言及など、かならずしも正解が明らかではない場面での修正です。その時に初めて1つの主張の対立が起こるんですよね。その上で、起きたらどうなるかということは、最初から設計の一部に組みこまれていて、 “Neutral Point Of View”というルールが適用されます。その言葉は「中立的な視点」と訳されるんですけれども、意味をもう少し正確に言うと、「意見が対立した時でも、双方が合意できる記述のあり方を双方で探りなさい」ということなんです。
例えば、ある歴史的事実に対する記述について、Aの視点を採用するのか、Bの視点を採用するのか、という論争が起きた時に、「中立的な視点」というのはどういうことかというと、「ある人はAという主張をし、ある人はBという主張をし、今のところ複数の主張が存在する」と記述するのが「中立的な視点」ということです。そのようにすれば、複数の視点があること自体は双方認められるので、少なくとも記述としてはこれでいいということになりますよね。そこまでがウィキペディアのルールです。
しかし、事態はそこまで単純ではなくて、それでも対立が起こることはあります。「こういう主張があるということを書くこと自体がどう考えても間違えている」という種類の主張があって、例えば「人類は月に着陸していない」という陰謀説を、人類の月面着陸の歴史についてのページにいきなり書かれても困ってしまいますよね。この事例については実際にはそうはなっていないのですが、これに近いような事例は実際に起きています。
――逆に言えば、着地しやすいのは「百科事典」だからだということですね。例えばそれが創作の小説だったり漫画だったりすると、「中立的な視点」というのはあり得ない。「こっちの方が面白い」「いやこっちの方が」となった時に、それを誰が決めるのか、という場合に、人を上に立たせずに、着地させるいい方法は何かあると思いますか。
江渡:ないと思います。上に人が立たないモデルで、いわゆる創作的なものが上手くいくというのは、聞いたことがないですね。おそらくないんじゃないかと思います。いわゆる創作物的な何かであるなら、人が上に立つことが必要ですね。
――なるほど。やはり創作の場合は難しいのですね。
「第4回:江渡浩一郎(ニコニコ学会β実行委員長) 5/5」 に続く(2013/06/21公開)
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インタビュアー: 内沼晋太郎
1980年生。一橋大学商学部商学科卒。numabooks代表。ブック・コーディネイター、クリエイティブ・ディレクター。読書用品ブランド「BIBLIOPHILIC」プロデューサー。2012年、下北沢に本屋「B&B」を、博報堂ケトルと協業で開業。
編集構成: 内沼晋太郎
編集協力: 隅田由貴子
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