「これからの編集者」をテーマに、さまざまな人にインタビューしていくシリーズ。第8回は『ブルータス』編集長、西田善太さんです。
※下記からの続きです。
第8回:西田善太(ブルータス編集長) 1/5
海外に行けるなら、安定より目先の3年の仕事で行こう
――コピーライターの後半に作られているものは、もはや出版物ですね。そこからマガジンハウスに中途入社されるのですよね。
西田:90年は、講談社が初めての中途採用を行った年です。小学館とマガジンハウスも中途募集があって。「編集経験者募集」の条件にはあっていないけれど、最終的には、講談社とマガジンハウスから内定が取れました。講談社の方が先に受かっているので、ここの最終面接でも「本当に来るの?」と言われ、「行きますよ、当たり前じゃないですか!」と言いながらも、実はどうしようかと迷っていて。最終的には、今一番やりたい雑誌がある方にしようと思いました。その頃マガジンハウスには、『ガリバー』という89年に創刊された旅行誌がありました。僕が最初は商社に行きたかったのも、海外への憧れがすごく強かったから。『ガリバー』に配属されれば、何カ国も取材して、年に4か月ぐらいは海外にいるって聞いていた。日本にいるときは、近所のホテル住まいで24時間編集するという噂も(笑)。どんなに忙しくても、それだけたくさんの国に行けるんだったら、安定よりも目先3年の仕事で行こうって。海外あちこち世界中周ったら、10年は人にその経験を話せるんじゃないか…と半ば本気で考えた。
西田善太さん
――91年入社ということですので、もう23年目になられるのですね。
西田:そうですね。少し話が飛びますが、昨年、博報堂に呼ばれて社内向けの講演をしたんです。『ブルータス』をみせながら面白おかしく講演して、ふと客席を見ると、僕が新人の頃の先輩たちがいるんです。焦りました。講演が終わったら先輩のひとりが発言して、「西田は長いのが上手くて、短いのは下手というイメージがあったけど、短いコピーもうまくなったな」と言われたんです。雑誌のタイトルをみて言っていると思うんだけど。二十数年経ってやっと報われたあの頃の俺、みたいな(笑)。
僕は内沼くんと同じ海城高校という、いわゆる「進学校」の出身ですが、元海軍予備校だから厳しいし、なにより男子校だったから本当につまらなかった(笑)。僕の中に、周りの皆が好きなものを好きになれないコンプレックスと、俺は好きなものが好きなんだ!という自信と、交互に反転して現れたりする。自分と同じ本を読んでいる人はあまりいないから、本の話がなかなか通じない。その割に親の血を受け継いで、よく喋るわけです。うちは父がNHKのスポーツアナだったのですが、10才の誕生日プレゼントが「アナウンス読本」ですからね。なぜだか夢中で読み込んで、「鼻濁音」を発音できるただ一人の小学生だったと思います(笑)。早口言葉とか得意になっちゃって。だから、言葉に対する意識は人一倍強かった。けれど、それはコピーライターという仕事とは関係がなかった。天才的なひらめきが言葉に落ちてくるという境地には、自分は至らなかったんです。コピーって本当に自分の全部が現れるから、ダメ出しを食らうと全人格を否定されたような気分になる。ガラスの20代…、仕事の評価を全人格で受け止めがちなナイーブな、焼き立てのメレンゲのように弱々しい男だったわけですよ。
社会人5年目。そんな男が、マガジンハウスに入社するわけです。残念なことに『ガリバー』は休刊が決まっていて、91年4月に『ブルータス』に配属されました。27歳です。2つ上に現『ギンザ』編集長の中島敏子さんがいました。その上は結構30代半ば以上のベテランばかり。4〜5年間は一番年下でしたので、末っ子として甘えさせてもらったかな。その頃の『ブルータス』はかなりマニアックなテーマ立てで、僕は自分の知識不足に呆然とする毎日でした。でもそのうち「コレクター特集」とか「湘南特集」とか自分っぽい特集をやらせてもらえるようになった。精神的にはとっても自由なのは『ブルータス』編集部の伝統かもしれませんね。
完全なチーム制で、6人チームが2つ。「1日発売班」と「15日発売班」に分かれている。それぞれキャップと5人の編集者がいて、その上に編集長と副編集長。例えば僕が1日班だとすると、1ヶ月に1冊ずつ作るわけですから、今と違って、いわゆる普通の雑誌の作り方ですね。「はじめての編集業」だったけれど、始めてすぐ水が合うな、と実感しました。コピーライター時代は、特に新人はとりあえずコピーを書くことしかしなくて、段取りには関わらなかったけど、実は僕は段取りが得意だったと気づいた。編集っていうのは、企画を考えるところから、人を集めるところ、撮影の手配をすること、アポをとること、動かしていくこと、入稿すること、校正などなど全部の段取りを組まなきゃならない。それがすごく楽しくて。とはいえ、書き手として特集の半分、30ページ近くを書かされることもあって、きつかったけれど力をつけた。映画でも音楽でも文学でも、なにか気になることは編集部の先輩の誰かに聞けば、必ず答えが返ってくる。最高の学校だったんですね、僕にとって。
「すまん、今回は死んでくれ」って言われたこともあった忙しさ
――色々なところで語られていますが、現在の『ブルータス』は一号あたり2〜3人の少人数のチームで、3〜4か月かけて作られます。これは、いつ変わったのでしょうか。西田さんが変えたのですか。
西田:いいえ、違います。96年に斎藤和弘さんが『ブルータス』編集長になった時に、編集部の人数を減らし、少人数チーム制に代わりました。6人2班が、3人4班みたいに。僕はいったん新雑誌創刊チームで『ギンザ』創刊に関わって、『ブルータス』に戻してもらった頃には、システムがだいぶ整っていました。編集をまず若返らせて、かつ丸ごと1冊任せる作り方。かつては特集は5人で分担して作るので、各自がバラバラに進めていた。自分の担当ページだけを見て、他のページはわからないまま作っていたので、一貫したストーリーが生まれにくいし、ページごとの出来不出来の差も激しくなります。ところが2〜3人で全体を見るという作りにすると、前半で変更があったら、それに合わせて後半を変えていく、というようなことも簡単にできる。システムに慣れる必要があったから、最初は四苦八苦しました。そのときは固定で4チームだから、担当は2ヶ月に1特集です。その頃、僕はいま副編集長をやっている田島と2人だけのチームでした。2人で作らないとならない上に、人繰りがつかなくて2号連続っていう時もあったりして。「『ブルータス』は隔週刊なのに、2号連続で作るって仕事としてどうかと思います」って斎藤さんに言いにいったら、「すまん、今回は死んでくれ」って言われたこともありました(笑)。「それ、アドバイスじゃないでしょ」って呆れながら、それでもやりきれたのは苦しさと同じくらい楽しさがあったんでしょうね。僕になってからの体制はチームさえなくて、人の組み合わせが毎回変わります。常にうごめいている編集部を見て、じゃあこの号はこの組合せはどうかな?って選ぶ。
――そのシステムは西田さんが始められたことなのでしょうか。
西田:必要に迫られて、徐々にそう変わっていったんだと思います。少人数にして、その分チームを多くして、1冊にかける時間を長くする。やがて、特集ごとに人の組み合わせを変えるほど自由度を高くしていく。何もかも固定しないことが大切です。僕は途中で『カーサ ブルータス』の創刊に携わって、それからも何度か『ブルータス』と『カーサ』を行き来しているのですが、『カーサ』は最初はたった3〜4人の編集部で、たとえば「柳宗理に会いませんか?」という特集はローテ上の都合で、僕の一人号です。この「一人で作った」というような言い方をすると、「そんなことできるわけない。一人で作るってどういうこと?」って他の編集部の人からも聞かれたりするんだけど、もうそれは本当に、実感として圧倒的に一人号なんですよ。人に話を聞きまくり、本や資料を読みまくる、一人で企画を組み立てる。大体の情報が見えてきたら、柳宗理さんに会いに行って、時間をかけて説得して、OKが出て初めて他の人たちにページを頼める。頼みながらも柳宗理さん側とのパイプは僕になるわけですね。各作業が進んでいく中で、順番や各企画のページ数など構成をあれやこれやと変える。各ページは人に振るわけですけど、取材対象者との責任があるのは全部僕で、常にページを守っていくという意味では、編集としては僕が一人で担当して作った本、という実感があります。取材対象に異常なまでの執着を持った編集者が、へばりついて作っていく。そういう作り方が僕の中で花開いたのは、『カーサ』のときですね。
――『柳宗理 「美しさ」を暮らしの中で問い続けたデザイナー』(河出書房新社)の中での、暮しの手帖編集長の松浦弥太郎さんとの対談でも触れられていますが、「棺桶に一冊一緒に入れてもらうとしたら、この本」と、講演などでよくおっしゃっていますね。
西田:それは話をするときのネタです(笑)。まず「1冊だけ入れるなら、僕は間違いなくこの本を入れます」って言いつつ、「2冊入れていいんだったら、これです」って他の特集も紹介して、結局5冊ぐらい入れちゃう、というオチなんですけど。でも自分の原点を作ったのは、柳宗理さん特集だったことは間違いないです。その本にも書いてありますが、最後、色校の束を柳さんに見せにいく時の緊張感はすごかった。最低限の直しになるよう説得するのに成功して、編集部に帰ってきて、「やったぞー!」と言おうと思ったら、みんな飲みに行っちゃっているという(笑)。なにせ他の編集部員を休ませるための一人担当だったから。
管理しにくくすることで、面白くなる可能性を担保している
――honeyee.comでの菅付雅信さんとの対談で「表紙のロゴ以外に『BRUTUS』を『BRUTUS』として留めているものは、もはや、ないんです」とおっしゃっていて、続けて「ただ、その特集テーマの向かう方向だけは、『BRUTUS』にしか出来ないものにしている」と。他の雑誌とはもう明らかに、1号ごとの練られ方、かけられている編集的な力が全然違うということは、いち読者としても感じるところですが、なぜそれは「『BRUTUS』にしか出来ない」のでしょうか。
西田:実際にほかの編集部がそういう作り方を望んでいない、っていうのがあると思いますけど。
『ブルータス』はメインの流れに逆らって、生き残ってきたカウンターの本なので、周りが全部それをやると意味がない、カウンターではなくなっちゃう、というのはあります。メインの雑誌はメインの雑誌で意味があって、その横にあると目先が変わって目立つから手にとってもらえるのが『ブルータス』。「『ブルータス』っぽいよね」「『ブルータス』っぽくないよね」っていう読み解きは、編集部の人間であっても実は永遠にできないわけですよ。だから単純に「『ブルータス』にしかできないのはこれだ」と断定はしにくいです、山の中にいると山の全体像は見えない、みたいに。「『ブルータス』っぽい」とは、外から見たイメージだと思います。いろんな方向で特集を作っていると、読む人それぞれに引っかかる号が必ずあるので、その何冊かをまとめて、読み手の中に「『ブルータス』っぽい」というイメージ、でも実はそれぞれに違うイメージが作られていっているだけだと思うんです。
『ブルータス』の特集も、一言で説明するなら、経済やファッション、本、映画、フードなど、どんな雑誌でもやれるし、実際にやっている特集ばかり。たとえば分厚い婦人誌1冊には、ファッションも本も映画も旅も何もかも入っていますよね。僕らはその1ジャンルをくりぬいて、1冊にして年間23テーマで出している。総合誌を横に切って、例えば映画1年分を1冊にしている。それが『ブルータス』です。通してみれば同じ…という説明だってできる。ただし、1冊まるごとにすることで深堀りをしているから、他と違ったように作れるし、意外なネタも差し込める。そういう構成の仕掛けに関してのアイデアは、僕らは作れている自信はあります。
――とはいえ『ブルータス』は、いわゆるそうしたカルチャー誌の中で一番売れていて、「雑誌大賞」なども何度も取っている。みんな『ブルータス』のような雑誌になりたいのではないかとも思います。先ほどの一つの号を少人数でじっくり作るというようなことも含め、方法論についても西田さんご自身も色々なところで語られているにもかかわらず、その「周りがやろうとしていない」理由、真似できない理由は、何なんでしょう。
西田:もしそうだとすれば、『ブルータス』の編集者の個人主義が育ってるからかなぁ。『ブルータス』を目指している編集部があるとして、方法論として少人数でやればいいと思うのは、間違いかもしれないですね。ランダムな組合せで少人数でやる、ということの肝は「ルーティンにしない」っていうこと。ルーティンだと管理しやすいってことの、逆を行く。毎号ルーティンにして担当を分けてというやり方をすると、スケジュール管理もしやすい、予算の管理もしやすい、ページ数も決まっている。2人とかでやると、そういったコントロールはできなくなるんですよ。でも皆それぞれのやり方でデッドラインは超えないようなスケジュール感はあるから、基本任せられる。席に座って編集部を見渡すと、企画段階から校了まで5号ぐらいが同時に動いているのが隔週誌です。様子を見ながら、「あれどうなっている?」と時々声をかけて、とにかく状況を把握する。管理しにくくすることで、面白くなる可能性を担保している。だからそのぶん優秀で、かつ企みとか野心を持っている編集者が集まってくる。
――B&Bで行われた東京編集キュレーターズのトークでも「僕は編集長だから、各号を超えて続く全体の流れを見るのが仕事」とおっしゃっていますが、西田さんは編集長というお立場で、いわゆる現場に行って取材をしたりできなくなっていることは、悲しいですか。現場で作りたいな、という気持ちになられたりすることはないのでしょうか。
西田:今は現場に行くのとは違う筋肉を使ってますからね。仕上がりのイメージはかなり早い段階で頭のなかにできあがっていますが、それを軽々と超えるページが上がってくると「うわ、どうやって作ったんだろう?」と、新人の頃に先輩のページをみて思ったのと同じ焦りを感じたりします。今はそれぞれの編集が「自分の号」という責任を背負って、評価も請け負うっていう経験を積んでいく…僕が昔やらせてもらってたことを、編集部の皆が積み重ねていければいいんです。
「西田善太(ブルータス編集長) 3/5」 に続く(2013/07/24公開)
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編集構成: 内沼晋太郎
編集協力: 名久井梨香
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