INTERVIEW

これからの編集者

これからの編集者
第8回:西田善太(ブルータス編集長)1/5|インタビュー連載「これからの編集者」(ブルータス編集長)

「これからの編集者」をテーマに、さまざまな人にインタビューしていくシリーズ。第8回は『ブルータス』編集長、西田善太さんです。

僕は「本の虫」だった

――ご自身の編集者としてのルーツから伺いたいと思うのですが、西田さんはどんな大学生でしたか。

西田:そこまで遡りますか(笑)。語るのは初めてですけど、真面目な学生ではなかったです。83年に大学に入って、今となれば口にするだけで恥ずかしい、ヨット、テニス、スキーという、ミーハーなサークルに所属していました。会社からは体育会系のヨット部だと思われているのですが、実際はあの頃流行りのオールラウンド系です。僕はその中で企画キャップという、サークルのイベント企画をやっていました。いわばお金を儲ける担当です。ダンスパーティー、いわゆる「ダンパ」を開く。ディスコを借りて、パーティ券を売って、DJの真似事みたいなのをみんなでやって盛り上げる。その上がりでディンギーを買ったり、ハーバーの維持費にあてたり。僕はすごく楽しかったです。OBになってからも、夏になると仲間とは毎週ハーバーで会っていました。

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西田善太さん

でもそれは自分の大学生活のほんの一部だったと思います。僕はいわゆる「本の虫」でした。とにかく、空いてる時間はほとんど本と雑誌にあてていた。冬場の土日は、ラジオと本と雑誌があればよかった。中学時代から土日に聴くラジオは決まっていて、その合間に乱読する。本屋に行くと、興奮して汗が出てしまうタイプでした。あれもこれもでいつもすごい量を買い込みました。本屋から家に帰ったら手を洗う。表紙に指紋がつくのが嫌で。汚れたら拭いたり、消しゴムで消したりしていていました。大事な宝物みたいに。

――「本の虫」になりはじめたのは、いつぐらいからですか。

西田:母親が本読みだったのでその影響で、小学5年くらいからかな。最初は江戸川乱歩とか星新一とか。星新一は健全で、すごくクリーンで。そこから筒井康隆を知ると、少しエロが入ってきて興奮しちゃたりして、小松左京に行ったら、なんだかもっとすごいぞ! みたいな。あの頃はSFが文学の最先端だった気がする。毎年出るSF傑作選で読むべき作家などを見つけて。あとは横溝正史、片岡義男…。80年代、とにかく、ポップな大衆エンターテイメント系を読み続ける学生でした。雑誌だと、中学時代(76年)に『ポパイ』創刊、高校時代(80年)に『ブルータス』が創刊される。そういう波を正面からかぶった典型的な男子です。十代の原体験が雑誌だったんです。古本屋で昔の『ポパイ』なんかを見かけると買い直したりするんですが、見るだけでいろんな気持ちを思い出す。憧れとか、挫折とか。

――遊びまくる学生生活。でも土日は家でずっと本を読んでいる。動と静のギャップみたいなものを、すごく感じますね。

西田:実際は、日々、大学のラウンジでだらだらとしゃべって、定例で飲み会があったりして。ごくごく普通の学生生活でした。授業は正直、ほとんど出ていなかったし、意識も高い方じゃない。ただひたすら、本と雑誌とラジオをカラダにインプットする日々、まるで世界の窓口みたいに思ってたんですね。

僕が就職する87年は、円高ショックで各社の採用人数が半分ぐらいになった、厳しい年でした。あの頃は8月の真夏が就活の時期なので、汗まみれ、落ちまくりで、プレッシャーで痩せちゃいました。コウノスケという飼い犬を見つめて「わかってくれるのはお前だけだ!」って抱きしめたり。

トイレにこもって声を出さずに泣いたりするナイーヴな修行時代

――就職が決まったのは博報堂でしたね。

西田:最初は商社希望でした。いわゆるPOPEYE少年なので、とにかく海外に暮らしたくって。アメリカ西海岸、東海岸への憧れでいっぱいでした。アメリカ人のジェスチャーを研究する本を買って、友人と練習したりした。けれど平凡な学生でしたし、そういう厳しい年だったこともあり、商社は全部落ちてしまう。結果的に、記念受験に近かった博報堂に拾われるんです。それだけはめぐり合わせ、としか言えない。面接がとんとん拍子に進んであれよあれよと。87年の4月に入社しました。

――4年間、コピーライターとしてお仕事をされたのですよね。その間を振り返ると、どんな感じですか。

西田:面接で「営業一生懸命やります!」と笑顔で言って入って、入社した途端「クリエイティブに入りたい」と駄々をこねる典型的なタイプが僕でした。100人近い同期がいて、1か月半研修を受けます。その間に、マーケティングとクリエイティブの試験があって、「マーケはどうだ?」と勧められたりもしたんですが、クリエイティブ志望をゴリ押ししました。「コピーライターブーム」の名残りがあった頃だったんです。あとになって、僕が選ばれた理由は作文が真面目だったから、と聞かされました。課題の作文で、シリアスで真面目なのを書いたんです。採用担当だったクリエイティブ・ディレクターに「真面目はこわいんだ」と笑って言われました。それでなんとか、コピーライター職に滑り込むわけです。

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しかしまあ、コピーライターとして働くのは、ものすごく傷つく毎日だった。「善太は文章がうまい」とか「面白い」と言われて育って、大学時代も周りからそう言われ続け、入社したら実はまったく通用しない…。コピーライティングは、勉強とか理屈じゃないんですね。普段ブラブラ遊んでいるような同世代のコピーライターと一緒に仕事しても、せーので課題を出すと、もう3枚目くらいで負けがはっきりする。会社のトイレにこもって、泣いたこともあります(笑)。ナイーヴな修行時代です。上司が厳しくて、100枚コピー書いてきても、何枚か見たらゴミ箱に捨てちゃうんです。厳しいでしょ? でも僕は半泣きになりながら、ゴミ箱から拾ってもう一度、上司の前に置いたっていう話を、よく思い出話みたいに聞かされました。今思えば、恥ずかしいコピーばかりです。

徒弟制度の最後の代で、びしびし鍛えてもらいました。ある意味、ものすごく可愛がってもらえたんだと思っています。新人の頃は、朝方に帰ってきて、9時半にはまた出社。ほとんど寝られないので辛いけど、それが当たり前だと思ってた。バブルの最後の方ですが、皆が10何個の仕事を抱えて無我夢中で働く日々です。最初は、会議での発言権もなかなか与えられない。徹夜で会議しても一言も発せられないし、意見を聞かれてもどうにもはずれた答えしかできない。でも2年目のときかな、自動車メーカーの仕事で四駆のプロモーションをやることになって。「高い買い物をする時、男の一番の敵は奥さんだよ」って話になり、「こうすればあなたも奥さんを説得できるハンドブック」というのを同期のデザイナーと作ったんですよ。奥さんにプレゼンするためのキーワードをいくつか抜き出して、順番に説得していきなさい、まずはこう切り出しましょう。それがだめならこうしましょう、最後は謝りましょう、それでもだめなら泣きましょう…みたいなオチになっていて。小さな仕事だったけれど、とても評判になってディーラーから注文が殺到して増刷された。二年目は悪乗りして、奥さん説得用のプレゼン紙芝居セットを作ったり。いい時代でしたね(笑)。

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今でいう、いわゆるリトルプレスみたいな、遊んで作る制作物でした。周囲の人から「あれを作ったのがお前か?」と言われるようになって、仕事のチームに呼んでもらえるようになりました。すごく嬉しかった反面、「長モノの西田」という呼び名がついた。短いコピーより長いのに向いてるってことですね。その頃から、もしかしたら雑誌に向いているんじゃないかと思い始めました。孤独で閉じこもる部分と、必要以上に外交的に振る舞う部分のある、アンビバレントな性格で、「お前はコピーライターに向いていない。おしゃべりが好きすぎる。もっと机と友達にならなきゃいけない」て先輩に優しく諭されてました。コピーライターとしてはずっと半人前でしたね。

「西田善太(ブルータス編集長) 2/5」 に続く(2013/07/23公開)

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インタビュアー: 内沼晋太郎
1980年生。一橋大学商学部商学科卒。numabooks代表。ブック・コーディネイター、クリエイティブ・ディレクター。読書用品ブランド「BIBLIOPHILIC」プロデューサー。2012年、下北沢に本屋「B&B」を、博報堂ケトルと協業で開業。

編集構成: 内沼晋太郎
編集協力: 名久井梨香


PROFILEプロフィール (50音順)

西田善太

1963年生まれ。博報堂のコピーライター職を経て1991年マガジンハウス入社。『ギンザ』編集部、『カーサブルータス』副編集長を経て、2007年12月より『ブルータス』編集長。