COLUMN

クレイグ・モド ぼくらの時代の本

クレイグ・モド ぼくらの時代の本
第6回 形のないもの←→形のあるもの ――デジタルの世界に輪郭を与えることについて(後編)

craig_banner06Illustration:Luis Mendo

★前編からの続きです。

そういう訳で

 共有フォルダにある997のデザイン案
 9,569のgitコミット
 スケッチがビッシリの本の束
 ローンチパーティでの写真の数々

この重さはどれくらいだろう?
長さ276ページ。大きさ30cm×30cm。重さおよそ3.6キロ。

30cm×30cm(撮影:マルコス・ウェスカンプ)

30cm×30cm(撮影:マルコス・ウェスカンプ)

表紙にはコミット・メッセージが刻まれている——コードベースの最初のメッセージ。それはハックであり、挑戦であり、可能性だ。ソフトウェア開発が始まる正確な時間というのはいつも曖昧なもの。開発の多くは、最初のメッセージよりも前から始まっている。そして、より力の込もった開発はこの後から始まる。しかし、最初のメッセージが打たれたその瞬間に、製品はアイデンティティを持つ——そのメッセージは未来への種だ。

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『iPhone版Flipboard』 最初のコミット・メッセージ詳細

『iPhone版Flipboard』 最初のコミット・メッセージ詳細

ぼくが好きなのは過剰なまでに細かい時間の記録だ——アメリカ西海岸標準時(GMTマイナス8時間)、土曜の夜9時35分55秒。おそろしいほど具体的!

ロマンチストたちは、デジタルへの移行による物質性の喪失を、人間性の喪失と結びつけたがる。よく引用されるのは、作家レイモンド・カーヴァーと彼の編集者ゴードン・リッシュのやり取りだ。発見された手紙に残る鉛筆の跡や注釈のおかげで、 ★9 リッシュの存在がカーヴァーの声を形成するのにどれほど役立ったかを、ぼくたちは知ることができる。 ★10


リッシュによる変更 カーヴァーの『ビギナーズ』

リッシュによる変更 カーヴァーの『ビギナーズ』

リッシュは大鉈を振るい ★11 ——ミニマルな文体に仕上げたが——キャリアの後半でカーヴァーの編集者が変わると、読者たちはカーヴァーの文体が変わったと誤解した。

 

    カーヴァーの後期の作品が初期に比べて冗長だと言う人たちは、
    単にカーヴァーが昔から冗長だったという事実を知らないだけだ。 ★12

こうした話を聞いて制作過程の裏側をのぞいた気分で興奮するのなら、今後はもっと興奮することになるだろう。

『iPhone版Flipboard』の表紙に刻まれた過剰なまでに細かい時間の記録——デジタル上の極めて具体的な時間——は、コミットの山の一端、いわゆるデジタル上のメタ・データのほんの一部に過ぎない。

今後は、カーヴァーの原稿の変更履歴がGPSつきで見ることができるかもしれない。彼がどこで書いたか、いつ書いたか。制作過程のすべてを再現することだってできるはずだ。もし望めば、ヘミングウェイが、スペインで、『日はまた昇る』を書く過程を追うこともできるだろう。

そんなのぞき見のようなことが、現実になっている。2011年にStypiというスタートアップが文書の制作過程を再現するサービスを開始した。 ★13 タイピングの一つひとつまでも再現する。URLで文書を共有することで、読者はその文書の制作過程を再生することができる。Yコンビネータの創設者(かつStypiの投資者)ポール・グレアムは、このアプリケーションを使って2011年11月に「スタートアップ13ヵ条」 ★14 というエッセイを書いた。ポールの執筆の過程を目撃するのは楽しくもあり刺激的だ。彼がエッセイを書く過程を眺めていると、とても人間的な親しみを感じることができる。

『iPhone版Flipboard』もまた、親しみを感じるようなメタ情報を含んだ表紙で始まり、最後のコミット・メッセージが刻まれた裏表紙で終わる。デジタルから物質に変換するにあたり、アプリのデジタル上の輪郭を——最初と最後のコミット・メッセージを——この紙の本の枠組みとして採用した。

『iPhone版Flipboard』――表紙

『iPhone版Flipboard』――表紙

『iPhone版Flipboard』――裏表紙

『iPhone版Flipboard』――裏表紙

最初のコミットは、土曜の夜遅くに行われた。そして最後のコミットは、果てしないコーディングの旅を経て、火曜の朝4時47分に行われた。この具体的な記録には、妙にロマンチックなところがある。エンジニアが最終決定を下すべくEnterキーを押すまさにその瞬間を、想像することができる。iPhone版Flipboardアプリはまさにその瞬間に生まれ、制作はその瞬間に終わったのだ。

本を開くと、月ごとの経過が、デザインとエンジニアリングの面から見られるようになっている。2月にHTMLとして始まったFlipboardは、12月にアプリとして完成した。


この形——紙の本——のほうが、スクロールで見るよりも、デザイン変更過程の大変さを理解しやすい。情報アーキテクチャ案のページ、ノートに書かれたスケッチのページ、グリッド線の試行錯誤が一覧できるページ。デジタルから物質へと変換されたことで初めて理解できるものになった。 ★15

『iPhone版Flipboard』――くり返し、くり返し、くり返し

『iPhone版Flipboard』――くり返し、くり返し、くり返し

『iPhone版Flipboard』――これもくり返し、くり返し、くり返し

『iPhone版Flipboard』――これもくり返し、くり返し、くり返し

『iPhone版Flipboard』――情報アーキテクチャ

『iPhone版Flipboard』――情報アーキテクチャ

『iPhone版Flipboard』――グリッド

『iPhone版Flipboard』――グリッド

そして後ろのほうにはコミット・メッセージ。9,569個全部だ。 ★16 コミット・メッセージがびっしり詰まったページをめくっていくと、開発が新たなフェイズに入ったこと、新たな開発者たちがプロジェクトに参加し始めたことが実感できる。

そして最後に、ローンチパーティの写真の数々。写真は、InstagramやFlickrでジオタグ検索してコッソリ集めた。

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9,569個のコミット・メッセージ

9,569個のコミット・メッセージ

ローンチパーティの写真

ローンチパーティの写真

デジタルであるがゆえに触れることのできなかったiPhoneアプリ開発の全貌が、3.6キロの本に刻み込まれ、揺るぎないものとなった。形のないものから形のあるものへ。雲をつかむようなものだった数ヵ月の工程が、把握できるものへと落とし込まれる。

配達

Blurbという会社 ★17 にオンデマンド印刷を頼んでいた本は前触れもなく届けられた——ある朝、会社のデスクに宅配便の四角い箱がポツンと置かれていた。

さあ、これがぼくたちのデザインと開発の重さだ。箱を開けて取り出しながら、その圧倒的な存在感を前にして言いようのない喜びが湧いてきた。その感情的反応は、InDesignの画面からは得られないものだった。その感情は、もちろん、一つのものがデジタルで表現されたときと物質となって現れたときの認識の落差から生まれるものだ。二つが同じデータから生まれたものであればなおさらだ。

仲間たち

ローンチ後のプロジェクト分析は、昼下がりの陽が降り注ぐ静かな部屋で行われた。巨大な木製のテーブルの周りに、iPhone版Flipboardのチームが集まった。その数10人から15人。うまく行ったのはどこか? うまく行かなかったのはどこか? 次はどう改善できるだろうか?

ぼくたちは厳しかった旅の道のりを語り合った。「でも」、ぼくは声を上げた。ぼくたちの旅は——そしてその教訓は——シリコンバレー特有の、ローンチ後の慌ただしさの中で薄れていってしまうのではないかと心配だったのだ。何がうまくいって何がうまくいかなかったかを考えるのもいいけど、そもそもその前に、「ぼくらがやったことは一体なんだったのだろう?」

 It represented closure on a process that often has no closure.
 いつもなら終わりを感じることのない制作過程に終わりを与えた

ぼくはカバンから巨大な本を取り出し、テーブルにドスンと置いた。チームのみんながページをめくり本の内容に気付いたとき、部屋が不思議な安心感で包まれたのがわかった。形のなかったぼくたちの厳しい制作過程に、ついに形が与えられたのだ。きっと、この本は、いつもなら終わりを感じることのない制作過程に終わりを与えたのだ。そして実際にこの本は、ぼくらが行った濃密なインターフェースの冒険を保存するものとして機能している。

この本は、会社の外部の人間に向けて作られたものではない。おかしなことだけれど、この本は、まさにこの本の中に収められたものを作った仲間たちに向けて作られたものだ。プロジェクトと制作過程をいちばんよく知るはずの、でも——デジタルという性質ゆえに——自分たちが作ったものを見渡し、その重さを知ることができずにいた仲間たちに向けて。

『The Umbrellas』という本は、消費者へ向けたもの。
『iPhone版Flipboard』という本は、制作者へ向けたもの。

二者択一、オンとオフ

このようなハードカバーの本は、EPUBやMobiファイルといった電子出版への移行の産物だということも覚えておく必要がある。『iPhone版Flipboard』も、5年前ならほとんど不可能だった。ぼくが作ったのは2冊。巨大な、フルカラーの本を2冊! そしてその2冊は、ぼくがデータを送った10日後に届けられた。ちょっとした奇跡だ。

……二進法、双安定的フリップ・フロップ、二者択一。
形のないもの←→形のあるもの。

一部分だけれども…

もちろん、『iPhone版Flipboard』は制作過程のすべてをきちんと具現化したものではない。スタートアップに参加している人ならわかると思うが——制作物にはチームの計り知れない努力が染み付いている。睡眠不足、筋肉量の低下、ストレス。技術上やデザイン上の問題に対する美しい解決策を発見したときには喜び、その解決策がムダになるような別の解決策に気付いたときには落ち込む。深夜のプログラム改良セッション、デザイン検討、内輪のジョーク、けんか、アニメーションGIF、ハイタッチ、にらみ合いで生まれた絆。これらすべてが完成品のどこかに・・・・刻み込まれている。すべてはそこにある。すべてが、そしてそれ以上のものが。もちろんそれは、目で見ることはできない。そこに注ぎ込まれた感情はどうやって表すことができるだろう? ひと山分とでも言おうか? ぼくたちが手に入れたいと願っているのは、制作過程の一部分をはっきりと体現したもの——感情の足がかり——だろう。チームの仲間たちが旅の経験を自分のものにすることができる、はっきりとした輪郭を持つ場所だろう。

 What could possibly represent that scale of emotion?
 感情を形にして表すとしたら?

データに形を与えること。独特かつ重要さを増しているその価値を、今回のようなプロジェクトは物語っている。データと物質を行ったり来たり。そうした空間を作ること。ビットの世界で不断の努力を重ね、そこに輪郭を与える。こうした試みはぼくたちのデジタル体験をよりわかりやすく、触れやすく、消費しやすいものにする。

輪郭を与えるということは、可視化する・・・・・ということでもあり、感情を与える・・・・・・ということでもある。輪郭があると、重みが生まれる。そうすることで「感じる」ことができる——手でも、心でも。そこまでくれば、自分たちが作ってきたものや辿ってきた道のりについての、よりよい理解が可能になる。

[ぼくらの時代の本 第6回 了]

Note

★9|「Letters to an Editor(編集者への手紙)」(2007年、ニューヨーカー)からの抜粋

★10|「”Beginners,” Edited: The transformation of a Raymond Carver classic(『ビギナーズ』編集記録:レイモンド・カーヴァーになるまで)」2007年、ニューヨーカー

★11|「Being Raymond Carver(レイモンド・カーヴァーになる)」ニューヨーカー

★12|「The Real Carver: Expansive or Minimal?(本当のカーヴァー:冗長か、ミニマルか)」2007年10月17日、モトコ・リッチ、NYタイムズ

★13|Etherpadは2009年にグーグルに買収されてオープンソース化され、オリジナルのサイトは閉鎖となった。http://en.wikipedia.org/wiki/Etherpad

★14|エッセイは彼のブログに載っている。そこでStypiでの執筆の「パフォーマンス」を見ることができる。グレアムのHacker Newsでは、エッセイへのリアクションなどを読むことができる。

★15|紙に印刷することの恩恵とは、その美しさと大きさにあるだろう。もし紙のように美しいスクリーン(2012年のiPadのような)が大きなサイズで実現できれば、紙に印刷したときと似たような感覚を、部分的であれ再現できるだろう。

★16| git log –pretty=format:’%h %an %ai %s’ {{{first_commit_hash}}}..HEAD –reverse > everything.txt 
より詳しくはこちらへ

★17|オンデマンド印刷には、もう何年もBlurbを使っている。彼らのサイトにはInDesignのテンプレートもあるし、PDFの製本指定書もある。紙の種類、製本の種類にも様々なオプションがある。おまけに、Blurbというすばらしい会社とそのCEOアイリーン・ギティンズは、美しい本が誰の手にも届くように、努力を続けている。

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形のないもの←→形のあるもの
デジタルの世界に輪郭を与えることについて
オリジナル執筆:2012年3月
クレイグ・モド 著
樋口武志 訳
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『ぼくらの時代の本』
クレイグ・モド
訳:樋口武志 大原ケイ


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電子版 本体900円+税
印刷版 本体2,000円+税(四六判240頁・縦書)

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PROFILEプロフィール (50音順)

クレイグ・モド

作家、パブリッシャー、デザイナー。 拠点はカリフォルニア海岸地域と東京。 MacDowell Colonyライティングフェロー、TechFellow Award受賞、2011年にはFlipboardのプロダクトデザインを担当。New Scientist、The New York Times、CNN.com、The Morning News、Codex: Journal of Typographyなど様々な媒体に寄稿している。 http://craigmod.com

[本章翻訳]樋口武志(ひぐち・たけし)

1985年福岡生まれ。早稲田大学国際教養学部卒。2011年まで株式会社東北新社に勤務。現在、早稲田大学大学院在学中。共訳書に『イルカをボコる5つの理由』(インプレスジャパン)、ピコ・アイヤー「空港は検査場」、ニコール・クラウス「若き絵描きたち」(ともに早稲田文学フリーペーパー『WB』)など。字幕翻訳に『ディクテーター』、『エージェント:ライアン』、『パラノーマル・アクティビティ/呪いの印』など。