INTERVIEW

パソコン少年が世界的パブリッシャーになるまで。

パソコン少年が世界的パブリッシャーになるまで。
クレイグ・モド 1/3「初めて紀伊國屋書店に行ったとき、日本のブックデザインに感動して。」

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クレイグ・モドを知っていますか? ある時は、自らの立ち上げた出版社で飽くなき実験を続けるパブリッシャーであり、ある時はFlipboardをはじめとするプロダクト開発に携わるデザイナーであり、そしてまたある時はメディアについての鋭い著述を発表する作家でもあり……多彩かつ輝かしい経歴を持つ彼は、一体どのようにしてそのチャンスを得てきたのか。今後の出版・メディア業界における世界的重要人物の一人と言っても過言ではないクレイグ・モドの人となりを、近日DOTPLACEでスタートする連載に先駆けて尋ねてきました。

[幼年期〜高校時代]パソコンにのめり込んでいった子ども時代

――今日はよろしくお願いします。まずは、クレイグの生い立ちから伺いたいです。

クレイグ・モド(以下クレイグ):生まれは、アメリカのコネチカット州。例えば東京がニューヨークだったら、コネチカットは千葉みたいな感じで、結構田舎っぽいところです。母とおじいちゃんおばあちゃんの三世代がいる家で育ったんだけど、みんな本が好きで、若い頃から身の回りには本があった。

――子どもの頃に読んでいた本で、好きだったり特に印象に残っているものはありますか?

クレイグ:一番最初の本の記憶として覚えているのはバイブルです(笑)。僕は特にそこまで宗派とかは持っていないんだけど、アメリカでは基本的にキリスト教の人が多くて、絵本みたいな子ども用のバイブルとかもあった。本当にもう、まるで『ロード・オブ・ザ・リング』みたいな不思議なことばっかりバイブルには書いてあるので、それが結構印象に残ってます。

クレイグ・モド氏

クレイグ・モド氏


――クレイグはどんな子どもだったんですか?

クレイグ:子どもの頃から、プログラミングをやってたんだ。というのも、テレビゲームが大好きで。任天堂とかセガを越えるものを作りたいんだったらパソコンでプログラミングをやるしかないんだけど、うちはお金がなくてパソコンが買えなかった。でも、僕が8歳か9歳の頃、隣の家に住んでいる人がパソコンを買ったと聞いたので、「使わせてください、使わせてください!」と言って隣の家にポンと行っちゃって、それからは毎日毎日隣の家にお邪魔してました。今思うとすごく面倒くさい子どもだったと思う(笑)。そのうち、「もう勝手にうちに来て、いくらでもパソコン使っていいよ」と言われて、その家の鍵まで渡してもらったんだ。

――家の鍵まで(笑)。

クレイグ:まるで僕が、その人の“パソコン息子”みたいになっちゃった。それからパソコンにどんどんのめり込んでいって、10〜12歳の頃はBBSもやってた。当時のパソコン通信は、個人と個人の間の小さいインターネットのようなもので、お互いの電話番号さえわかっていればチャットしたりメッセージを送り合ったりゲームをやったりして人と繋がることができた。
 その中でもやっぱり一番楽しかったのは、「BBSのソフトをどうしたらもっと使いやすくできるのか」を考えることで、例えばもっときれいな画像が出るようにとか、どうすればインターフェースがもっと面白くなるのかとか、とにかく触りながらいろんな発見をしていました。
 15歳くらいの頃にはインターネットを使い始めたんだけど、その頃僕が使っていたのはUNIX ★1 だったから、NCSA Mosaic ★2 (以下Mosaic)がまだ使えなくて。だけどある時、特別なソフトを使えば自分の環境でもMosaicが使えるようになることが分かったんです。
 Mosaicを使い始めた瞬間、「これが未来だ!」と思った。情報を集めるにはこれからはこのスタイルが一番になるんじゃないか、という直感があった。

★1 UNIX:コンピュータ用のマルチタスク・マルチユーザーのOSの一つ。
★2 NCSA Mosaic:欧州原子核研究機構がWorld Wide Webの利用を解放した年である1993年に米国立スーパーコンピュータ応用研究所[NCSA]からリリースされたインターネットブラウザ。当時日本ではWebを閲覧することを「Mosaicする」と言うこともあった。

――パソコンに出会った8歳、9歳の頃から、インターネットを始めた15歳くらいまでの間に、クレイグの周りにはコンピュータ友達みたいな人はいたんですか?

クレイグ:いや、周りにはあまりいなかった。そういう友達は、BBSを経由してできたんです。その世界に一度繋がると、たくさんの友達が簡単にできた。
 思い返すとすごく謎なのは、僕が10〜11歳の頃、BBSでたまたま出会っただけの顔も知らない人の家までうちのお父さんが連れて行ったりしてくれていたこと。20歳以上歳が離れているような相手のところなのに(笑)。そうやってその頃は本当にいろんな相手と出会ったけど、まあ変なことされなくてよかったな、と今になって思う。もしも僕がお父さんの立場だったら絶対に許さないこととかも、結構許されてたんだなって。だけど、当時会ってた人たちは決まってマニアックな人ばかりだったから、パソコンのこともいろいろ教えてくれたんです。
 
 

[大学時代]パソコン/デザイン/執筆。核にあった「ストーリーを語る」ということ

――大学で勉強したのはどんな分野だったんですか?

クレイグ:入学する前はパソコンのことが好きだったから「自分はコンピュータ・サイエンスを勉強するのかな」ってぼんやり思っていたのと同時に、数学はすごく美しいと思っていた。だから、combinatorics(組み合わせ数学)とか、応用的な数学の勉強をいろいろしたりしていた。
 あとは、10代の頃はスティーブン・キングとかも大好きでずっと小説家になりたかったんです。英文学の授業も取っていて、自分でも小説っぽいものを結構書いたりしていて。大学1年生の時に取っていた短編を書く授業では、先生に「この短編、出版社に見せてみた方がいいんじゃないか」って助言された。その頃ちょうど、大きい出版社がアメリカ全土の大学1、2年生の短編を集める企画を毎年やっていたので、それに出してみたら選ばれて、僕の短編が載ったアンソロジーが18歳の頃に出版されたりして。
 パソコンへの興味もずっとありつつ、デザインのことも気になりつつ、やっぱり文章を執筆するのも好きで、その3つが自分の核にあった。当時から「ストーリーを語る活動」というのを僕はすごく大切にしていたんだと思う。

――ちなみに、日本に興味を持ったのはいつから?

クレイグ:それこそ4歳か5歳ぐらいの幼い頃に、任天堂とかのテレビゲームに夢中だったことが日本に興味を持ったきっかけ。好きなテレビゲームが生み出されている日本って、一体どんな国なんだろうなって思ってた。どうやって手続きできたのか覚えてないんだけど、日本のテレビゲームの雑誌の購読メンバーになって、定期的にコネチカットの家に送ってもらったりしてたよ。

――それは、日本のテレビゲームの雑誌?

クレイグ:そう。それは6歳か7歳の頃。日本語の雑誌が送られてくるなんて思わずに登録して、いざ届いたら日本語で書かれてて。その頃から“ちょっと謎な国”っていうイメージが日本にはあった。あとは、僕のおじいちゃんおばあちゃんがハワイ大好きで、僕も13〜15歳の頃は夏になると毎年ハワイに行っていたんだけど、日本人だらけのワイキキで生の日本人と話をする機会があると実年齢より大人に勘違いされたりして、「やっぱり謎な国だな」って思ってた(笑)。
 でも、若い頃から絶対に海外で勉強したいと思ってたんだ。14歳の時、高校の行事でスペインに2~3週間くらい行ったことがあって、そこで自分の国以外の文化に触れて、ものすごく感動した。食べ物や言語、街を歩きながら現地のカップルがキスしたりするのを目撃したり、そういうことに本当に感動して。それでも、スペインにならアメリカからはいつでも行けるんじゃないかというイメージがあった。日本だったら何かの大きなきっかけがないとおそらく行けない。なので、留学だったら行きやすいんじゃないかと思って、大学2年生が終わったタイミングでアメリカの大学は休学して、早稲田大学に行ったんです。

――留学前に日本語は勉強していたんですか?
(※編集部注:インタビュー中、クレイグ氏が話していたのは日本語。)

クレイグ:ちょっとだけ勉強してたんだけど、実際はほとんど話せなかった。でも、こっちに来てからはジャズのドラマーとして早稲田の音楽サークルに入って、そこですぐに日本人の友達ができた。言葉は話せなくても、音楽はできたから。そのうちにどんどん耳が慣れてきて、1年ほど過ごしたらなんだかんだ日本語も話せるようになりました。
 最初のアメリカの大学に2年間行って、その後1年間早稲田に留学して、またアメリカに戻って2年間勉強して、大学卒業。だけどもうちょっと日本語も勉強したかったから、卒業してすぐにまた東京に戻ってきて、早稲田にさらに1年間通いながら出版社を立ち上げました。
 
 

[2003年〜2008年]“物体として美しい”本を――出版社「Chin Music Press」を立ち上げて

――出版社を立ち上げた経緯はどんなものだったんですか?

クレイグ:自分は絶対に普通の就職活動は肌に合わないと思っていたから、かなり早め――(アメリカでの)大学1年と2年の間の休みと2年と3年の間の休みには、シリコンバレーのいろんな会社でインターンをしてたんです。そこで、出版社を新たに立ち上げたいという人と繋がりができて、意気投合して実際に立ち上げることになった。

――出版社は日本で立ち上げたんですか? それとも向こうで?

クレイグ:本社はシアトル。一緒に立ち上げた人はアメリカ人だったんだけど、25年ぐらい日本に住みながら雑誌編集をやっていた人。僕が日本に来る二度目のタイミングで彼がシアトルに越したから、出版社は本社がシアトルで、支店が僕のいる日本みたいな感じ。それが2003年頃かな?

――何ていう名前の出版社だったんですか?

クレイグ:Chin Music Press。Chinっていうのは……「あご」のこと。野球で、ピッチャーがボールを投げて、バッターの顔の近くにボールが来るときのその風の音をなぜか「Chin Music」って呼ぶらしい。一緒に立ち上げた彼は野球が大好きで、彼以外誰も知らない表現なんだけど(笑)。

――その出版社では、どんな本を出版していたんですか?

クレイグ:一番最初に出したのは『Kuhaku』っていう本。大江健三郎は著作の中で、「日本人」には3つのイメージがある、と書いています。日本人から見る日本のイメージと、海外から見る日本のイメージ――ゲイシャとかサムライとかニンジャとか――があって、だけど本当の日本人のイメージや魂はその2つの間にあるんじゃないか、っていう内容。その2つの間のことを指して“空白”という言葉を使っていたので、それをテーマに、15人ぐらいの日本人や外国人が書いたものを集めたエッセイ集が『Kuhaku』です。ヤマンバ(ギャル)について書いた人がいたし、日本の習慣の面倒さと素晴らしさの両方がはっきり見えている日本在住歴10年の外国人にはその立場から書いてもらった。逆に海外生活が長い日本人とかも参加してるよ。

『Kuhaku』(2005年)

『Kuhaku』(2005年)


 『Kuhaku』で僕は本のデザインも担当していました。具体的に存在する文学の物体として、できるだけ美しい本を作りたかった。本のデザインに関してはずっとそう思っていました。日本に初めて来たときに紀伊國屋書店に行って、感動したのはやっぱり日本の本のデザインです。形や大きさ、手の上での重み……そのすべてが持つ繊細さが、なんでアメリカの本にはないのかってずっと不思議だったので、この『Kuhaku』は、できるだけ日本のそういうセンスに合わせてデザインしたんです。こういう、ものすごく凝った感じの本をアメリカや海外に持っていけたらいいなと思った。表紙のクロスにシルクスクリーン印刷をしたり、本の全体的なバランスにこだわったりしました。

――(『Kuhaku』実物を見ながら)あ、これは確かにすごい。

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クレイグ:今見るともう懐かしい。

――この本が出た当時は、『Kuhaku』はアメリカにある本の雰囲気とは違っていたんですね?

クレイグ:そうそうそう。例えば、アメリカでは表紙にこういう帯とかはかけない。だけどこの本の場合は、「帯は買った後に捨ててください」っていうのでもなく、「帯が付いた状態のままでも気持ちよく楽しめる」というのが哲学なんだ。そういう風に、紙をちょっと大切にしたりする感覚もアメリカの本にはまったくないから。
 (中面を開きながら)この挿絵は、西新宿のNikonが入っているビルの窓からの景色。他にもそういうイラストがいくつか入っているんだけど、中でも一番変わっていたのは日本の缶コーヒーをレビューしたページ。「缶コーヒー」というもの自体、海外にはないからね。本の中ではそういう感じの遊びをしつつ、できるだけきれいで気持ちいい本はどうやって作れるか、ということを研究していた出版社がChin Music Pressだった。

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『Kuhaku』のうち、日本の缶コーヒーのデザインなどをレビューするページ。

『Kuhaku』のうち、日本の缶コーヒーのデザインなどをレビューするページ。


――『Kuhaku』は、英語の本として出したんですか?

クレイグ:そう。英語で出して、アメリカでは全国で流通してた。

――アメリカでは、この本はそこそこ売れたんですか?

クレイグ:そうでもないかも。でも、『Kuhaku』がある意味では会社の名刺になった。この本はかなり運のいい本で、普通だったら10冊ぐらい既刊のある出版社じゃないと絶対に契約してくれないアメリカの流通会社が、この実物を見て契約してくれたりしました。「こんなに凝っていて気持ちいい、きれいな本はなかなか見ない」と言ってくれた。それがきっかけで、以降もいろんな本を出せることになった。
 その会社に僕はもう在籍していないんだけど、一番最後に関わったのは『Art Space Tokyo』。僕とAshley Rawlingsという人が、東京のギャラリーや美術館について書いて紹介する本でした。

――その『Art Space Tokyo』は、僕も覚えてます。割と最近も日本のいろんな場所で普通に売っているのを見た記憶があるんだけど、最近までずっとChin Music Pressは続いていたんですか?

クレイグ:今も続いてる。僕はそこでいくつかの本を作ったあと、2008年ぐらいに辞めたんだけどね。なぜなら、ちょっとずつ電子のことが気になってきていたから

――Chin Music Pressを立ち上げたのが2003年だから、5年ぐらいその会社に所属していたということですよね。その間、クレイグはずっと日本にいたんですか?

クレイグ:ずっと日本でした。でも、その間もフリーでデザインの仕事をしたり、NYADC(New York Art Directors Club)の審査員としてニューヨークに呼ばれたり、出版についての講演活動を始めたりしてた。

――なるほど。ちなみに、詩人の菅原敏さんと一緒のバンドをやっていたみたいですが(※編集部注:菅原敏氏のインタビュー参照)、その活動を始めたのはいつ頃だったんですか?

クレイグ:2007〜8年ぐらいだったかな? 彼と出会ったのは実はもう10年以上前の2003年ぐらいなんだけど。僕の高校の同級生かつ海外に渡った5人のうちの1人で、なぜか東京に来ていた女の子に紹介されて以来、スガワラとは飲み友達。その彼女がどうしてスガワラと繋がったのかは分からないけど、スガワラがよく彼女をイベントで(演者として)使っていたんだ。ステージにただ立っているだけの金髪の美人として出てきてもらったりしていて(笑)。それから4~5年後には一緒にバンドをやることになった。

2/3に続きます(2014/07/28更新)

聞き手:内沼晋太郎 / 構成:後藤知佳 / 編集協力:秋山史織、安倍佳奈子
(2014年4月25日、株式会社ボイジャーにて)


PROFILEプロフィール (50音順)

クレイグ・モド

作家、パブリッシャー、デザイナー。 拠点はカリフォルニア海岸地域と東京。 MacDowell Colonyライティングフェロー、TechFellow Award受賞、2011年にはFlipboardのプロダクトデザインを担当。New Scientist、The New York Times、CNN.com、The Morning News、Codex: Journal of Typographyなど様々な媒体に寄稿している。 http://craigmod.com