本屋をやっていると、「蔵書もたくさんお持ちなんですか?」と良く聞かれるが、意外と美術書に関してはほとんど所有していない。自分がいいと思った本を手元に1冊潜めておいても、その本が「こんな本を探してる」とか「この本が欲しい」っていう本に該当すると、どうしても隠しておけない、だから自分の場合はいい本は手元に残らず、それは仕方のないことだと思っている。
それでもやはり、「あの本は手元に置いておきたかった」という本が何冊かある。その1冊が、初めてベルリンに行った時に見つけたピーター・ズントーの本だ。
大判のハードカバーで、この本を知った2002年にはズントーの意向によって絶版になってしまっていて入手は難しく、古書としてもほとんど流通していない、もし見つかったとしても定価の数倍になっていた。ベルリンの高架下にある建築専門書店の片隅に1冊だけ発売当時の価格で置いてあるのを見つけて、普段はめったにないのだけれど「この本は自分のために」と購入。レジに持って行った時に、この本がすでに絶版であることを書店員も知っていたのか、表示されている値段を見て苦笑いしながら譲ってくれた。
結局この本も「こんな本を探している」という希望に応えて早々と手元から離れていってしまったが、Lars Müller Publishersの本との出会いは、こんな出来事が始まりだった。
Lars Müller Publishersはデザイン関係のコンテンツを得意とする出版社として良く知られており、タイトルテキストをそのまま使った端正なブックデザインが書店の中で陳列されていても目を惹く。設立者であるラース・ミュラー自身がデザインスタジオを主宰していることもあり、丁寧なグラフィックデザインとブックデザインが特徴になっている。
ラース・ミュラーは1955年にノルウェーのオスローに生まれ1963年からスイスに移住、その後はスイスを拠点としてきた。若い頃からグラフィックデザインの道を志し、スイスでの修行時代とアメリカ/オランダへの留学を経て、1982年にスイスへ戻りその年にはバーデンにデザインスタジオを構えた。1983年からは自身の名前を冠した「Lars Müller Publishers」を立ち上げ、タイポグラフィー、デザイン、アート、写真、建築などに特化した出版活動をスタートしている。これまでに出版している書籍は約300タイトル、1年に平均すると10冊ほど。それぞれの本にじっくりと時間をかけて丁寧に制作していることが年間制作数から伺える。
出版社のポリシーとして掲げているのは、彼らの本が「見る目を養う場所」を担うこと。メインに出版しているのはビジュアルブックだが、視覚的な部分だけでなく、その深層部にあるコンセプトや思想なども読み取れるようなセンスを読者が養えるような出版物の発行を志している。
出版社であると同時に、デザイナーとしての一面も見逃せない。1996年からは多分野にわたってデザインを担うデザイングループ「インテグラル・コンセプト」のパートナーとして、また現在はAGI(国際グラフィック連盟) *1 の会長を務めるなど、デザイン界における重要なポジションを担っている。
さらに、教育にも力を注いでいる。デザインスタジオ「インテグラル・ラース・ミュラー」へのインターンシップ受け入れや、ハーバード大学デザイン大学院でのレクチャー、スイスをはじめヨーロッパ各国でのレクチャーなど、後の世代を育成するための活動にも積極的だ。
2012年3月に、POSTでの特集と時期を同じくして来日していたラース・ミュラー氏にトークイベントをしてもらった。その時が初めてラース氏に会う機会で、ストイックなデザインから勝手に「とても厳しい人なのではないか」と緊張していたが、常に笑顔の気さくで柔和な人柄がとても魅力的な人物だった。
トークイベントでは、これまで出版してきた本の事例や、最近はどういったプロジェクトを進めているのかというような内容を通じてLars Müller Publishersの出版活動について話してくれたが、その中でとても印象に残っている発言がある。
トークの最後に設けた質疑応答で、参加者の一人から「これまで常に優れたデザインの本を作ってきているのを見てきました。ずっと良い本を作り続けるためのコツはなんですか?」という質問に対して、ラース氏が言ったのは「良い本を作るときに、一番重要なのはデザインではありません、編集です。編集がしっかりと整っていれば、本のデザインは自ずと良いものになります。」という答えだった。
彼が言っているのは本のデザインがきれいに整っていること、それ自体が重要なのではなくて、作品や作家、題材の性質や特性を理解したうえで編集の土台を築き、そこを軸にしながらデザインによってコンテンツを翻訳していった結果、魅力的で美しい本になっていることが重要だという、本作りの本質を的確に表現した言葉だった。「この素材を使いたい」とか「この印刷/製本を使いたい」といった表層をスタート地点にして、ハードカバーで箔押しといった豪華な作りだったり、他で見たことのない素材感になっていても、コンテンツとのリンクがないと魅力的にはならない。それに対してこういう理由でこの印刷を使う、こういう理由でこの製本にする……など、コンテンツとリンクしたデザインは、ソフトカバーや中綴じ、印刷はコピーといった簡素な作りでも説得力があるし、欲しくなる。
単に出版社として本を作っているのではなく、彼自身がデザイナーとして本作りに深く関わっているからこその慧眼なのだろう。それまでは感覚的に「良い本」を選んでいた自分にとって、本作りの基礎にラース氏の発言にあるような思想があるということを意識しながら本を見ていなかった。トークショーで彼の出版に対する考えを聞けたのは「良いブックデザインとは何か」を自分の中で明確に理解できた良い機会だった。
さまざまなタイプの出版社と直接のやりとりをしてきたが、優れた出版社に共通していることがある。それは本という媒体に対する観念が明確にあるということだ。インターネットをはじめとするメディアが急速に発達した現代において、前時代的なメディアだと思われかねない本の出版に携わっている人たちは「本には紙をめくるという手ざわりがあるのが良い」とか言ったような、懐古的な趣向に惹かれている訳ではない。彼らは他のメディアにはない本の性質を明確に理解して、その特性を活かしたプロダクトを作り、他の媒体では体験できない経験を読者に提供することに全力を注いでいる。
「本にとって厳しい時代」と言われているが、本が単なる情報を伝える媒体としては存在できなくなった現代だからこそ、それぞれの出版社がラース氏が言っていた「本作りの本質」を理解しなくてはいけない契機が訪れたと思う。その実現のために試行錯誤を繰り返した結果、ここ数年で魅力的な本を出版できる能力を手に入れつつある。本は、これまでになかったあり方が生まれる可能性を秘めた、新しい時代のスタートラインに立ったばかりだ。
[Art Book Publishers Catalogue:第3回 了]
注
*1│国際グラフィック連盟(Alliance Graphique Internationale、AGI、こくさいグラフィックれんめい)は1951年に5人のグラフィックアーティスト(2人のスイス人と3人のフランス人)によって組織された国際グラフィックデザイナーの団体。歴代会員にはアドルフ・ムーロン・カッサンドル、レイモン・サヴィニャック、ブルーノ・ムナーリなど、グラフィックデザインの歴史を築きあげてきた錚々たるメンバーが名を連ね、各時代の最先端で活躍するデザイナーが加盟する団体。現在は世界35カ国、約400名(日本27人)がメンバー(2012年8月時点)。[Wikipediaより]
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