在学中に本屋を始めようと決め、大学を卒業した春に初めて買付けのためにヨーロッパを訪れた。ツテも情報もない、今考えると無謀な旅だったが、1カ所だけ訪れようと決めていた場所がある。Buchhandlung Walther König(ウォルター・ケーニッヒ書店)だ。ここはウォルター・ケーニッヒ氏が1968年にスタートした本屋で、出版社でもある。学生の頃にアルバイトしていた書店でその存在を知り、自分で店を始める前に一度訪れてみたいと思っていた。
その旅で訪れたのはドイツの西に位置する街ケルンにある本店。2フロアからなる店内には、現代美術の書籍を中心に写真や建築、デザインの書籍などが美しく陳列されている。圧巻なのは高さ6mほどもある壁面全体を使った本棚で、この棚にはヨーロッパ、アメリカ、アジアなど世界各地で出版された現代美術関連の書籍がアーティストの名前順に並び、主要なアーティストはほぼ完璧に網羅されたラインナップは「ここに来れば揃わないものはない」といっても過言ではないほど充実していた。平台にはVerlag der Buchhandlung Walther König(出版部門の正式名称、以下Walther König)の出版物を中心に新刊が並べられていたが日本では目にしたことのない書籍ばかりで、洋書が日本に流通しているとはいえごく一部で、多くが日本では存在さえ知られないままになっていることを痛感した。自分の店で扱いたいと思った本が何冊かあったけれども、まだ店の場所も決まっていない状況で「これから日本で本屋を始めるので取引させてほしい」なんて言いだす勇気もなく、すごすごと帰ってきたのをとても良く覚えている。
その旅のあと、数ヶ月の準備期間を経て2002年に書店limArtをオープン。limArtでは古書を中心に扱っていたが、海外を訪れた際に新刊書店を覗くとやはり日本に入ってきていない良い本がたくさんある状況は続いていた。新刊を古書と平行して扱おうかと何度か試みたけれども店内で融合させるのが難しく、いつかきちんと新刊を紹介できるような店作りをしたいと思いながら年月が過ぎていたが、あるきっかけで2011年にこれまでの古書を中心としたスタイルを変え、定期的に扱っている本が出版社という単位ですべて入れ替わるPOSTという本屋をスタートする事になった。
出版社の単位で本を紹介することを思いついた時にはすでにWalther Königの本を最初に特集したいと決めていた。古書を買い付けている際にアーティストのことを知らなくても気になった本は、出版社を見るとWalther Königから発行されていることが良くあり、また、ヨーロッパに行った際に訪ねた先でどこに行けば良いかを訪ねると90%の確率で「Walther Königへ行くべき」と名前が挙がるほど有名なのに、日本ではこの出版社の名前をほとんど認知されていない状況だったので、ヨーロッパのアートシーンをアートブックで牽引し続けているケーニッヒ氏の出版社をきちんと紹介する機会を担いたいと思っての選択だった。
Verlag der Buchhandlung Walther Königは、美術館で開催される展覧会に合わせたモノグラフから、ゲルハルト・リヒターやマーティン・キッペンバーガー、クリスチャン・ボルタンスキーなどの有名作家による部数限定のアーティストブックまで年間数百タイトルのアートブックを出版している。展覧会に合わせて発行されるといっても作品の写真が記録的にまとめられたカタログ的なものではなく、丁寧な編集とデザイン作品の本質をうまく引き出されたコンテンツで、造本も本の解釈を広げるようなウィットやユーモアに富んだモノとしての魅力がある。アートブック愛好家だけでなくアートコレクターも魅了しているのは、その辺りのさじ加減がコレクター心をくすぐるのだろう。
Walther Königの設立者、ウォルター・ケーニッヒは田舎の学校を卒業後、戦後間もない1950年代にベルリンに移り法律を学んでいた。ベルリンには当時はまだ珍しかった書店や大型の古書店などがあり、そこで本の魅力に引きつけられる。書店で働きながら法律の勉強を続けていたが、法律を学ぶ事を止め本屋になる事を決心。当時、ドイツ国内で良書店として知られていた「Bücherstube am Dom」で働くためにベルリンからドイツを横断してケルンに移住し、本格的にブックセラーとしてのキャリアがスタートした。
Bücherstubeは美術書だけでなく文学から医学、ガーデニングまで幅広いジャンルの書籍も扱う総合書店だったが、そのハイレベルな本のラインナップに定評のある書店で、オーナーであるハンス・メイヤー氏に師事しながら本に対する熱意とブックディーラーとしての鋭気を育んでいった。さらに書店というビジネスの方法もそこで身につけていく。この修業時代に学んだマイヤー氏の店舗運営方法や顧客との関係の結び方は彼が後にオープンする書店でも踏襲されており *1 、仕事の中でマイヤー氏が紹介してくれた出版社とのコネクションは後の書店経営に大きな助けとなった。
1967年にメイヤー氏がもっとも情熱を傾けていた美術書部門を引き継ぎ、1968年に開催されたドクメンタに書店として参加したことが彼にとって大きな契機となる。ドクメンタの開催されていた都市カッセルには3ヶ月間滞在、快適と呼ぶにはほど遠い部屋で寝泊まりしていたが、ドクメンタの現場で世界中のトップアーティストたちと出会えたこと、ヨーロッパだけでなくアメリカのポップアートなど最先端美術の作品を直に鑑賞することができたことが彼にとって大きな糧となった。さらにその会場で、ドイツ国内に限られた美術書しか存在しておらずアメリカやイギリスのアートブックが一般的には手に入れる事ができない状況を目の当たりにした彼は、その事態を打破するために当時ニューヨークに在住していた兄のカスパー・ケーニッヒ *2 に頼み、MoMAやギャラリーの出版物を送ってもらい販売することを企画する。当時のドイツの傾向とは異なったアメリカの美術書は、顧客や同業者たちにとって非常に斬新なものとして受け入れられたという。
60年代後半メイヤー氏が亡くなった際に、一度はニューヨークに渡り書店での職を見つけるが、グリーンカードが取得できなかったことをきっかけに自身でビジネスを始める事を決心。そして1968年3月ケルン市内に小さなスペースを借り、自身の書店をオープンした。また同じ時期に、カスパーの「出版社を始めないか」という誘いに「いいね、やろう」と二つ返事で応え、カスパーの旧知の仲であったフランツ・エルハルド・ヴァルターの作品集「OBJEKTE, benutzen」を出版 *3 。これが彼の出版社としての最初の仕事になる。
本を作るにあたっては、DuMontのオーナーだったエルンスト・ブリュッヒャー氏を訪ねて本作りのプロセスを見学させてもらい方法を学んだという。メイヤー氏が書店における指導者であったように出版に関してはブリュッヒャー氏がメンターとなり、この二人がウォルターの土台を作ったと言っても過言ではないだろう。
その後、書店は「コーヒー・テーブル・ブックス」*4 の流行も重なって順調に発展を続け、出版部門ではアリソン・ノウルズ、クラウス・ベームラー、ギルバート&ジョージ、フィッシリ&ワイス、ハンネ・ダルボーフェン、ゲルハルト・リヒターなど、ウォルター自身が興味を持った作家たちの作品集を積極的に出版していく。
アーティストの本を作る上で彼が重要だと考えているのが「アーティストとのコラボレーション」だという。「私が価値を見い出せ、人間的にも好きになれるある程度のアーティストに全力を注いでいる」と彼が言っているのに現れている通り、単に出版社と著者の関係ではなく、お互いに信頼できるアーティストと親密に本の制作に関わり、制作から販売までを責任持って全うすることを大事にした哲学を尊守している。また、出会いの場としての書店が併設されていたこともあり、他の出版社では実現できないようなプロジェクト(ギルバート&ジョージの作品集出版に合わせてウィンドウでパフォーマンスを開催、キッペンバーガーによるウィンドウディスプレイなど)も行い、世界でも類を見ない出版社/書店へと成長していった。
現在は、出版業務以外にもドイツ以外にもロンドンのサーペンタインギャラリーの書店やアムステルダム市立美術館のショップなどを初めとする各国のミュージアムショップやドクメンタにオープンするテンポラリーブックショップも手がけ、まさに「Mr.アートブック」という称号にふさわしい地位を築いている。
POSTを始めるにあたってケーニッヒの出版部門へメールをした直後に、このプロジェクトに興味を持ってくれたセールス責任者のエヴァがすぐに返事をくれたことでPOSTを実現できたが、エヴァにあとから聞いた話によると「今までされたこともないオファーで、全く知らない土地の事だから最初は戸惑った」という。さらにもうひとつのエピソードも聞かせてくれた。ある出版社から「日本のPOSTという本屋からこんな話があるんだけれど、本当に大丈夫か?」と確認の電話があったという。その質問に対して、エヴァは「すばらしいプロジェクトよ」と後押ししてくれていた。彼らの理解と後押しがなければ毎回出版社ごとに本を紹介するスタイルは成立できなかったし、彼らとプロジェクトを行った実績によって他の出版社とも仕事ができるきっかけを作れたので、Walther Königが最初にOKと言ってくれなかったら今のPOSTはなかったと思っている。
2014年にWalther Königの2回目となる特集が終わった数ヶ月後に、Walther Königから1通の封書が届いた。請求書かと思って開けてみると、ウォルター・ケーニッヒ氏の直筆で一言「私たちの本を献身的に紹介してくれてありがとう」というメッセージが書かれていた。
初めてケルンの書店を訪ねた時にすごすごと帰ってきた頃には、本人から直筆のお礼状をもらえるなんて考えてもいなかったので、「POSTをやって良かったなぁ」と心から思った嬉しい手紙だった。
[Art Book Publishers Catalogue:第2回 了]
注
*1│一例として、店舗の最上階に限られた顧客だけがアクセスできる特別な部屋を設けているのは、Bücherstubeを参考にしている
*2│Kasper König。キュレーター。現在はケルンのLudwig Museumのディレクターを務める。また国際的に大規模な展覧会のキュレーションも多数手がけている
*3│「Verlag der Gebr. König, Cologne-New York」という名前でスタートしたが、カスパー・ケーニッヒの引退した1983年には「Verlag der Buchhandlung Walther König, Cologne」に改名している
*4│来客に備え、インテリアの一部として、家主のセンスを間接的に伝えるものとしてコーヒーテーブルの上にアートブックや写真集を置く習慣がヨーロッパで流行した
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