INTERVIEW

紙には、そして世界には表裏がある ―装幀者・菊地信義インタビュー

紙には、そして世界には表裏がある ―装幀者・菊地信義インタビュー
1/2「自分が求められていないときに、どうしたら振り向いてもらえるか。」


紙には、そして世界には表裏がある——
装幀者・菊地信義インタビュー
〈前編〉

聞き手・構成:戸塚泰雄(nu

菊地信義氏

菊地信義氏

1970年代前半に独立して以来、日本におけるブックデザインを牽引してきた菊地信義氏。1万2000点以上にも及ぶ膨大な彼の仕事は、どのような眼差しによって作られてきたのでしょうか。2014年7月まで神奈川近代文学館で開催された展覧会「装幀=菊地信義とある『著者50人の本』展」の会期中、文学と装幀を取り巻く状況に対しての今現在の思いを尋ねてきました。
※「装幀=菊地信義とある『著者50人の本』展」の会期は終了しています。

「デザインとしての装幀」と新しい才能

———菊地さんが装幀のお仕事を始められてから現在までに、最も変わったと感じられることは何でしょうか。 

菊地信義(以下、菊地):僕らより前の世代の装幀は、編集者や印刷所による仕事が多く、特に文芸のジャンルは各社に必ず装幀のできる名物編集者がいて出版界では名前が通っていました。資材についても各社の紙のプロが、編集者の装幀案に応じて紙を選んで印刷所が版下にする。それがひとつのスタイルでした。

———装幀は兼業が多かったわけですね。

菊地:画家が手掛けることもありました。そこへデザイン教育を受けた僕らの世代が徐々に参入し、かれこれ40年が経ちました。僕らが導入した「デザインとしての装幀」が、ひとつのスタンダードになったように思います。画家による装幀の系譜はほとんど途絶えてしまい、今は横尾忠則さんの装幀を目にするくらいです。それからご存知の通り、紙の版下からデータ原稿へほぼ移行しました。僕も10年ほど前に紙の版下は放棄しました。このふたつが決定的な変化です。

———それでは逆に、まったく変わらないことはありますか。

菊地:文芸の世界では次々と新しい才能が出てきます。それは変わりませんね。今も文芸雑誌にはラジカルな小説が出続けてますし、現代詩も5年に1人や2人新しい才能が出てきます。それは非常に嬉しいことです。本が売れないと言われても、才能のある人はちゃんと出てきます。  

———読者のほうはいかがでしょう。 

菊地:読者が減ったとよく言われますが、昔から変わりませんよ。僕がデビューした30代の頃に、あるベテランの編集者から「2000人の精読者がいれば日本の文化は廃れない」と言われたことがあります。産業として2000という最低ロットを如何に守るか。読者は今もそのくらいはいると思います。

———それでは、例えば1万部の見込みのある本の場合、初版2000部の本と比べて、装幀をするときにどういう違いがありますでしょうか。

菊地:いつも2000人に向けて装幀をするわけではありません。1万であれば1万の読者を見つけてあげるのが僕らの仕事ですからね。部数が増えれば資材の選択肢の幅も広がりますが、かといって2000人に向けて凝った鋭い造形にしてしまうとその他の8000人を遠のけかねない。装幀者はそのあたりを見定めるマーケティング感覚が大切です。

2014年7月27日まで神奈川近代文学館で開催されていた展覧会「装幀=菊地信義とある『著者50人の本』展」の様子

「装幀=菊地信義とある『著者50人の本』展」(神奈川近代文学館)


 
 

5人に想いを込める

菊地:芸術性の高い文芸作品の場合、たとえ1万の読者を想定したテキストであっても、そのテキストを読み解く人は、じつは5人もいればいい。

———それはどの作家にとってもですか。

菊地:どの作家のどの作品もそれだけいれば御の字ですし、その人達にちゃんと届けることができれば大成功です。真に読むということは、書くことと同じ、1対1です。5人なんて欲張りです。

———1万人と真の読者の5人を同時に考える。そのためには具体的にはどのような作業がなされるのでしょうか。

菊地:その作品によって真に救われる読者を妄想します。僕はよく「心の病み方」という言い方をします。この小説で本当に心が救われるのはどんな人だろう。どんなタイプの心の病み方だろう、と勝手に想像をするのです。そして、いちばん重い病状の人の心に届くようにある仕掛けを考えます。例えばその5人に特化させて紙の質感を選んだり、色や図柄などいろんな仕掛けが考えられます。その一方で1万という現実もあるので、1万に向けたタイポグラフィや図像の表情は確保します。1万部の本のビジュアルを5人のためだけに選んだらまずいよな(笑)。

———その加減について言語化するのは難しいですね。

菊地:それを装幀という表現のレトリックで、まずは編集者や営業を説得しなければなりません。同じ画像を印刷しても、普通の微塗工紙とエンボス紙とでは、対象との距離により表情が異なります。遠くから見ると脳天気な女の子のイラストが、近くで見たらエンボスの効果によって不気味に見える。そのような異化効果などを用いて、想定する5人に想いを込めます。装幀表現の要素をいかに重層的に構築して、人の五感に働きかけるか。それが文芸というジャンルの面白いところです。
 
 

ひとりでできる仕事としての装幀

———装幀の仕事を始められたきっかけについて教えてください。

菊地:僕は大学3年で中退をして、それから10数年コマーシャルの仕事に就いていました。1977年に装幀者として独立する4年くらい前は、スタッフ15人の小さな広告制作会社の雇われアートディレクター兼社長をやっていたのですが、オイルショックで小さなバブルが弾けてしまいました。
 そのときに社長業に専念するか、いちデザイナーに戻るかで随分と悩みました。元々デザインに憧れて美大のデザイン科に入った。そのときは大学の教育方針と考えが食い違って途中で辞めてしまったわけですが、まだ32歳くらいでしたから、もう一度自分の思いに立ち返って、ひとりのデザイナーとして生き直す道を選びました。沢山の人が関わるコマーシャルの仕事もおっくうになっていたし、売り上げの数字も大きくするよう求められていたからね。

———大学の授業はいかがでしたか。

菊地:僕が美大のデザイン学科に入った頃には「ビジュアル・コミュニケーション」なんて言葉をよく耳にしました。僕はちょっと屈折してるものだから、ひとつの意見を一方的に伝えるのは、コミュニケーションではなく単なる伝達の技術ではないか。コミュニケーションにはもっと屈折した相互性があるはずで、特にアドバタイジング・デザインの中には、コミュニケーションなんてないのではないか、と違和感を感じました。

———会社をお辞めになられてからはいかがでしたか。

菊地:会社を解散するのに3年かかってしまいまして、その時間の中でどんな仕事ができるかを考えたときに、ブックデザインの仕事であれば自分ひとりでもできるのではと思いつきました。

———ひとりでできる仕事として装幀が選ばれたというのは意外です。装幀の仕事はすでにご経験があったのでしょうか。

菊地:会社の仕事として音楽書のデザインをしていましたが、文芸書とは縁がなかった。ただ、ミカレディという既製服メーカーのPR誌『花笑(はなえみ)』を作っていました。たまたま指名コンペで手に入れた仕事なのですが、ウチの会社には雑誌を作れるようなキャパシティが何もなく、僕もそれまで編集の経験はありませんでした。しかし取れてしまったからには自分で責任をもってやらなければならないわけです。
 
 

ビジュアルのないファッション誌

———『花笑』の内容はどのようなものでしたか。

菊地:ミカレディは「良家の奥様方の既製服」と言われていて、基本的に流行には左右されません。ところが当時、雑誌の『an・an』が人気で、ファッションは流行が重視された。つまり5年間型崩れしません、というコンセプトでは売れなくなったわけです。季節ごとに変わる『an・an』的なファッションに対して、ミカレディから頼まれたコンセプトは既製服の価値観を問い直すということ。それがすごく面白くてね。というのも僕は、『an・an』の創刊から1年半、デザインのアルバイトをやっていたんです。

———それはいつぐらいのことですか。

菊地:雇われ社長をする前の、広告代理店にいた25歳頃です。昼間は広告代理店の仕事をして、夜中は『an・an』のレイアウトをやっていました。それで睡眠時間が足りなくて2年で体を壊してしまいまして。そのときの恨みつらみというわけではないが、指名コンペの企画書に書きたい放題『an・an』とは真逆のファッション論を書いたんです(笑)。そしたら面白いと言われて仕事が取れてしまった。それで『an・an』とは逆に、ビジュアルは使わず言葉のみの誌面にして、表紙だけ写真を使った。4年間に16冊、編集者兼アートディレクター兼デザイナー、ひとりでやりました。

『花笑』創刊号(ミカレディ、1973年)

『花笑』創刊号(ミカレディ、1973年)│神奈川近代文学館「装幀=菊地信義とある『著者50人の本』展」より

———内容も菊地さんが決められたのですか。

菊地:著者もすべて自分で決めました。4年間言葉としっかりとつきあい、文芸畑の人の面白さを知りました。

———その体験によって、言葉の世界により惹かれたわけですね。

菊地:日本は他のジャンルと比べて、言葉が大切にされている国だと思います。人間の心を掘っていくときにいちばん深くまでいける道具が言葉です。映画も絵画も結局は言葉に回収されてしまいます。言葉では表現できない、言葉を超えるイマージュみたいなものを獲得できたとしても、それを認識するのはやはり言葉です。そんな言葉というものを如何に扱うか。それが難しくも面白く、いつも「こんちくしょう」と思いながらやっています(笑)。

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———『花笑』の編集で心がけたことなどありますでしょうか。

菊地:16ページの冊子に、毎号ほぼ4人の著者に書いてもらったのですが、そうするとひとつの季節に4人の著者と付き合うことになります。そのときに自分で決めたのは、その著者の作品は全部読んでから会うということです。

———すべてを読み、さらに著者に直接会うという体験は大きいですね。

菊地:その4年間で言葉の面白さを知らされました。
 
 

培ってきた人間関係と偶然の重なり

菊地:ちょうどその頃、芥川賞や直木賞を取っても、以前のようには売れない作品が出てきていて「純文学は売れない」と耳にするようになりました。僕も文芸好きになっていたので、前の世代の装幀を幼いながらも批評的に見て、広告の世界で培ってきたデザイン的な知恵と技があれば、文芸ジャンルの装幀をもっと面白くできると思っていました。

———装幀の仕事を始められていかがでしたか。

菊地:とはいっても装幀の仕事は、画家がキャンバスを自分で買って勝手に描くようには始められません。自分にいくらやりたい思いがあっても、編集者と著者から選ばれなければ、僕らはキャンバスを用意してもらえないのです。ですから半分は運で、もう半分は自分の努力です。そのふたつで装幀の仕事は成り立つわけです。装幀者になりたいという人と沢山お会いしますが、残念ながら才能だけではなれません。

———運を掴むためにも、まずは第一歩を踏み出さないと始めることもできませんが、菊地さんは本の装幀を最初はどのようにして始められたのでしょうか。

菊地:会社の解散や『花笑』も休刊になったので、寄稿いただいた粟津則雄[★1]さんにご挨拶に伺いまして、「これからは本のデザインをする、ひとりのデザイナーに戻りたい」とお話したところ、たまたま集英社から出る粟津さんの本の装幀をその場で依頼されました。文芸のジャンルでは最初のチャンスで、それから偶然いろんな幸運が重なりました。

★1:粟津則雄(あわづ・のりお)……1927年生まれ。文芸評論家、フランス文学。モーリス・ブランショ『文学空間』、『来るべき書物』など数多くの翻訳・著作を手がける。

———どのような偶然ですか。

菊地:会社を畳む準備を進めていた頃、いろんな人間関係の中で中上健次[★2]さんと出会い、よく酒を飲むようになりました。それで装幀することになった『十八歳、海へ』という初期短篇集も粟津さんと同じ集英社でした。そして独立した1977年に集英社の純文学作品4、5冊を装丁するチャンスが生まれました。それまで培ってきた人間関係が重なった結果でした。

★2:中上健次(なかがみ・けんじ)……1946-92年。1976年、 『岬』で第74回芥川賞を受賞。

———おふたりともすでに出会っていて信頼関係ができていたわけですね。『花笑』の雑誌作りは体験としていかがでしたか。

菊地:雑誌は面白かったです。「装う」ということを考え、読みあさった4年間でした。オイルショックがなければ、そのまま雇われ社長をやりながら『花笑』の編集をやって、装幀者にはならなかったかもしれないな(笑)。

中上健次『十八歳、海へ』(集英社、1977年)

中上健次『十八歳、海へ』(集英社、1977年)│神奈川近代文学館「装幀=菊地信義とある『著者50人の本』展」より


 
 

自分の未知と出会える空間としての書店

———菊地さんにとって書店とはどういう場所でしょうか。

菊地:装幀者にとってはまさにステージです。自分の衣を着てステージに立ってくれた役者のお披露目を観ているみたいなものでドキドキです。独立した頃は時間もあったので半日以上書店にいたこともありました。

———喫茶室から書店の平台をずっと眺めていた、というエピソードが有名ですね。

菊地:伝説だったんだよ(笑)。その頃、東京駅八重洲口近くの八丁堀に住んでいたので、八重洲ブックセンターの2階のティールームの隅っこから1階の新刊書の平台を半日近く眺めていました。

———今はいかがですか。 

菊地:今でも少なくとも週に2度は書店の平台を見に行きます。書店は昔も今も僕自身を発見するための大事な空間です。書店ぐらい自分の未知と出会える空間はありませんからね。

———お気に入りの書店などはありますか。

菊地:やっぱり八重洲(ブックセンター)の棚が好きでしたね。これは他に代えがたい。銀座にあった近藤書店や旭屋書店の棚も好きでした。

———以前は、本を購入するには書店で本を実際に手にとって検討できるのが当たり前でした。菊地さんは平台での見え方も踏まえた装幀を様々な角度から積極的に提案されていました。今はリアルな書店が減り続ける一方で、オンライン書店の利用が急速に普及しました。これからは実際に本を手にとって検討をしたくても、オンラインでの購入以外に選択肢がないというケースが増えることが予想されます。その場合、表紙のアイコンのみで比較検討しなければなりません。その現状に対する営業的なデザイナーへの要望として、オンライン書店での見映えを気にする声も聞かれます。そのあたりについて、菊地さんはいかがお考えでしょう。 

菊地:装幀はあくまでも物としての本へデザインを施しているわけで、それが見えない以上、意識する必要はないと思います。オンライン販売のために文字を大きくするなどはナンセンスです。1万人と同時に5人に届ける、それが僕たちの使命なのだからね。装幀を変えるのではなく、音楽や映画における予告編のような、装幀とは別のものでアピールすることが検討されるべきではないだろうか。その本の世界観を装幀とは別の、オリジナルの何かによって表現をする。今みたいに技術が発達していればいくらでも考えられると思います。別のものを作らないのはもったいないですよ。

———電子書籍についてはいかがですか。

菊地:はっきりいって、エンタテインメントや辞書、実用書、図鑑のようなジャンルのものは電子化していく一方です。だけれど、少なくとも芸術性の高い文芸や現代詩のような本はなくなりません。紙の本はまだまだしぶといです。
 
 

3つの装幀案 ——『水の女』の表紙に隠されたエピソード

菊地:装幀案といえば、こんなことがありました。独立後、集英社との出会いがあった3年後、僕の装幀者人生を決定付ける運命的な版元との出会いがありました。作品社といって、純文学のスーパースターみたいな編集者が興したばかりの会社でした。寺田博さんは、画家の司修[★3]さんを純文学ジャンルの装幀者として光をあてた人です。寺田さんと一緒に立ち上げた編集者も、杉浦康平[★4]さんと文芸書のブックデザインをしてきた人でした。

★3:司修(つかさ・おさむ)……1936年生まれ。画家、装幀家、作家。1976年、『金子光晴全集』(中央公論社)で講談社出版文化賞ブックデザイン賞を受賞。
★4:杉浦康平(すぎうら・こうへい)……1932年生まれ。グラフィックデザイナー。手がけた主な装幀に『伝真言院両界曼荼羅』(平凡社)、松岡正剛『全宇宙誌』、稲垣足穂『人間人形時代』(共に工作舎)など。

———司さんも杉浦さんも、それこそブックデザインにおけるスーパースターですね。

菊地:その版元の最初の刊行物が中上健次さんの『水の女』という短篇集でした。それほどの編集者が立ち上げた版元の最初の刊行物で、中上も芥川賞を獲って人気も高かったので、売れるのは最初から分かっています。

———版元としても、絶対に売らなければなりませんね。

菊地:彼らであれば杉浦さんか司さんに頼めるわけです。間違いのないふたりに。それなのに中上はこの本の装幀を、編集者を無視して一方的に菊地信義に決めてしまいました。

———その時点で菊地さんは中上さんとお付き合いがあり、すでに集英社の『十八歳、海へ』も手がけられていました。

菊地:とはいえ版元からすれば、僕はまだほとんど実績のない無名の装幀者です。だけど中上が菊地でなければだめだと言って聞かないわけです。版元としては僕に不安を感じているのは分かっていたので、こういうワルをしました。司修さんだったらこういう装幀にする、杉浦康平さんだったらこうする、菊地信義はこうすると、3つの装幀案を出したのです。それまでに前の世代の装幀表現を自分なりに批評的に観てきた自信はありましたので、『水の女』のテキストに対して、司さんはこんな絵を描き、杉浦さんならこんな書体を使うだろうと、批判や否定ではなく、読者の視点で批評しました。まだコンピューターのない時代なので手描きです。

———司さんと杉浦さんの案の説明もされたのですね。

菊地:この案の場合にはこういう問題があると思うので、僕としてはこういうプランを提案すると。そしたら、ふたりとも僕のプランに興味を持ってくれました。

中上健次『水の女』(作品社、1979年)

中上健次『水の女』(作品社、1979年)│神奈川近代文学館「装幀=菊地信義とある『著者50人の本』展」より

———本の反響はいかがでしたか。

菊地:山田太一さんの小説と2冊同時刊行でしたが、『水の女』の装幀も好評で、次の月から丸3年間、作品社から毎月2冊ずつ出る文芸書はすべて僕に注文が来ました。

———毎月2冊を3年間ですと80点以上ですね。

菊地:僕の装幀のショールームとなったわけです。独立した寺田さんへのご祝儀でもあったでしょう、水上勉さんや瀬戸内寂聴さんといったビッグネームの作品が菊地信義の装幀で世に出たのです。

———まさに「半分の運と半分の努力」ですね。

菊地:自分が求められていないときに、どうしたら振り向いてもらえるか。思い切って相手の懐に飛び込んでプレゼンテーションをし、それでだめなら仕方がない。そのときはそういう気持ちでした。
 
 
後編へ続きます(2014/08/13更新)

(2014年6月21日、神奈川近代文学館にて)
取材協力:神奈川近代文学館


PROFILEプロフィール (50音順)

菊地信義

1943年東京生まれ。1965年多摩美術大学デザイン科中退。広告代理店などを経て、1977年装幀者として独立。以来、中上健次や古井由吉、俵万智、金原ひとみなど1万2000冊以上もの書籍の装幀を担当する。1984年、第22回藤村記念歴程賞受賞。1988年、第19回講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞。2014年5月31日から7月27日まで、神奈川近代文学館にて「装幀=菊地信義とある『著者50人の本』展」を開催


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新・装幀談義

菊地 信義 (著)
単行本: 210ページ
出版社: 白水社 (2008/03)