ムエルト!
表紙は死んだ!
死んだのだ!
死んだのだ、レコードのジャケットと同じように!
死んだのだ、LDのスリーブと同じように!
死んだのだ、8トラックのシールと同じように!
死んだのだ、ディズニーのVHSが入った箱と同じように!
死んだのだ、カセットのインデックスカードと同じように!
死んだのだ、あのろくでもないCDケースや歌詞カードと同じように!
死んだのだ、DVDやBlu-rayのボックスアートと同じように!
表紙を箱に入れて燃やすんだ、その灰を地元のさびれた本屋に撒いてしまえ。もう終わりにしよう。本を切るナイフは捨てろ。金属活字の棚は閉じろ。不吉の前兆は消え去った。不吉の前兆は今火をつけた表紙にあったのだ——これでもう大丈夫。
次!
オーケー、やれやれ。まだ不安? いいだろう。
電子本の表紙がすっかり「死んだ」っていうのに、どうしてそんなに恐る恐る扱ってるんだろう? 紙の表紙のように扱えって? でも傷つけようがない。だって表紙は死んでるんだから。それじゃあこれから、ハックを始めよう。表紙をバラバラに、小さく切り刻んで、何ができるか見てみよう。
これは、本を愛する人々とデザイナーたちのためのエッセイだ。表紙はどこから来て、どこへ行くのか。電子本時代の表紙の美学とはどのようなものなのか。紙の時代の財産を無批判にデジタルの世界に移植するだけで、本質から目を背け続けている現状に不満を抱いている人々のためのエッセイだ。
ぼくたちが知っている意味での表紙は本当にもう——残念ながら——「死んだ」。死んだのはなぜかというと、電子本との接し方が、紙の本との接し方とは別のものになってしまったからだ。いったんそのことを理解すれば、次なる有益な考えが生まれてくる。
革表紙
ポーラ・フォックスは彼女の自伝『The Coldest Winte(最も厳しい冬)』の中で「まるで彼の顔に触れるように彼の本に触れた」★1 と書いている。こうした親しみを持って、ぼくたちは紙の本に触れている。
だから、表紙にはなくなってほしくない。なくなってほしくはないが、むしろ急速になくなりつつある(Kindleではもうほとんどなくなっている)。表紙にかわるものがない、という訳ではない。かわるものがあったとしても、それはかつてぼくたちが親しんだ表紙とは別の役割になるだろう。
表紙にはなくなってほしくない。
この懐古主義は興味深い。ぼくたちが表紙の喪失を嘆くようになったのはつい最近のことだ。マシュー・バトルズは『図書館の興亡』の中で次のように書いている。
- ワイドナー図書館を出入りする書物の整理をしている人たちの話によれば、図書館は「呼吸している」という。学期のはじめに書架は渦巻く大きな雲のなかに本を吐き出し、学期の終わりに図書館が息を吸い込むと、書物が舞い戻ってくる★2
飛び交う本たちは革表紙だったに違いない。厚くて、ホコリっぽくて、どれも一様で、「表紙であって表紙でないような」近代仕様。表紙を上に向けてテーブルに並べると、どれも同じに見える。しっかりとしていて格調があると同時に匿名的だ。傷や革の擦り切れ具合だけが何かを物語っている。しかしそれは、中身についてはほとんど語らない。
ここで表紙は、紙の束を守り製本状態を保つ役割を果たしている。おかげで本は、千回だって棚を出たり入ったりした後でも、使用可能な状態のままでいられる。デジタルの世界では、本は遍在することによって守られている。電子本はどこにもあって、どこにもない。簡単に増やすことができるし、痛んだり腐ったりすることなく何度でも取り出すことができる。紙の本のときのような表紙の使い方を、電子本は必要としていないのである。
紀伊國屋書店での喜び
ぼくが表紙に目を開かれ関心を持つようになったのは、10年近く前のこと。
新宿東口の紀伊國屋に足を踏み入れたのは19歳のときだった。当時のぼくは、日本や本作りについて何も知らなかった。日本の書店を訪れたのもそれが初めてで、日本でのその他多くの体験と同じように、興奮と刺激に満ちあふれ、想像をかき立てられるものだった。書店自体は日本的照明で単に殺風景だったが、殺風景がどうでもよくなるほど、棚から行き当たりばったりに本を取り出す喜びを感じたことをはっきり覚えている。棚に並ぶ本はどれもみな……理にかなったものだった。★3
それから数年して初めて、あの理にかなった本たちは読者への敬意から生まれたものだと知った。お尻のポケットやカバンにちょうど収まるサイズ。大著は何巻かに分冊される。紙質も洗練されている。製本もしっかりしている。しおりも挟み込まれている。でも思い返してみると、ぼくがなにより心打たれたのは、その簡素な表紙だった。リトル原研哉がそこらじゅうに。白を基調にして、インクの文字が考え抜かれて配置されている。色の統一感。写真は使わない。魅力的な本たち。それがたくさん。★4
ミニマルな表紙が棚を埋めつくしていた。実際、ほとんどの本がよく配慮された美学に則っていた。全体として、この美学は一つの文化の声を作り上げていた。理にかなったシステムを。紀伊國屋での衝撃はその後10年にわたりぼくを捉え、ぼくのデザインに深く影響を与えた。ぼくはいつも自分にこう問いかけている。「どうすれば節度のあるデザイン言語や生態系を作り上げることができるだろう? どうすれば抑制の利いたものにできるだろう?」
日本の表紙の美学は、西洋の表紙事情に一筋の光を投げかけている。日本とは違い西洋の書店の本棚は、いくぶん無秩序に見えた(今もそうだ)。表紙の歴史を振り返れば、どんどん視覚的にうるさくなってきていることがわかる。
それは実のところ、驚くことでもなかったりする。書店はどんどん減っている。本棚もどんどん減っている。それゆえに人の目を引くための競争が激しくなっている。結果として、表紙同士の声の張り上げ合戦がエスカレートしている。ところが、現在勃興しつつある電子本では、表紙の役割が劇的に変化してきている。場合によってはかつての役割がなくなったとも言える。表紙はもう声を張り上げる必要はない。なぜなら表紙はもう、かつてと同じ役割を果たしていないのだから。
Less shelves.
書店はどんどん減っている。
本棚もどんどん減っている。
今のこの変化は、デザイナーたちにとって絶好のチャンスだ。表紙は個別の作品だという考え方や、マーケティング部門の制約から脱却するチャンスなのだ。ある意味でこれは、やり直すチャンスなのだ。ハックするための。そして当然ながら、未来の電子本のデザインは職人魂を受け継ぐべきだ。日本の本のデザインのように、合理性のものさしを織り込んで。
新しい表紙
もちろん、西洋の表紙の全部が全部、声を張り上げている訳ではない。ここ数十年で目を見張るような作品が現れているのも事実だ。チップ・キッドの記念碑的な装丁、ジョン・ガルのアートディレクション、Gray318やベン・ワイズマンのイラストの手法、バーズオールのクラシックな文字デザイン、デイヴィッド・ピアソン、ヘレン・イェンタス、ビーター・メンデルサンドらの一連の美しいデザイン。
彼らはわくわくする道を見つけたのだ——イラストや独創的なデボス(型押し)加工、その他ハックの手法を使って——この百年変わらぬままだった領域に新たな道を切り開いた。彼らの表紙は、簡素さ、細やかさ、テキストへの敬意、そしてもちろん、マーケティングの結集である。★5
だがこうした表紙たちは例外である。★6
そこで疑問が湧いてくる――大部分の表紙デザインはオフラインでのマーケティング・ツールとして進化しているとして、電子本の「表紙」の役割はどうなっていくのだろう? 買った後の表紙はどうなる? いや、もっと言うと、買う前の表紙の役割は?
Amazonという場所
アメリカの大手書店ボーダーズ・グループの倒産は、ぼくたちも感じていた次の事実を浮き彫りにした。ぼくたちはオンラインで本を買っている。それもかなりの割合で。それなのに、表紙はAmazon上でおまけのような扱いを受けている。
表紙があるといえばある、という感じ。
これらの画像を見ると明らかなことがある。表紙はもはや、かつてのようなマーケティングのツールではないのだ。
Amazon上で表紙は、検索結果のページに小さく表示されているだけである。新着本のページでも非常に小さい。商品詳細ページですら、データの洪水に飲み込まれている。メンデルサンドが手がけた『The Information(インフォメ-ション 情報技術の人類史)』の素晴らしい表紙などは完全に消え失せている。
どうしてだろう? なぜなら——ぼくたちが本を買ったときに得ているものがデータだからである。
表紙画像は見る者を惹きつけるかもしれない。だがどうしてもレビューの数や内容のほうに目が行きがちなのである。ぼくたちは画像よりも評価を——マーケティングによる作為的なものでない「本当の」評価を——気にしてしまうものなのだ。人間が書いた推薦文。ときには自分の知っている人が書いていることだってある! Amazonのようなごちゃごちゃした場所では、表紙はおまけのような存在としか感じられなくなる。
ぼくたちは画像よりも評価を気にしてしまうものなのだ。
Kindleでの読書
Kindleというハードウェアはハックの最たるものだろう——「ハック」という言葉本来の「たたき切る」という意味で——Kindleの読書プロセスから表紙は完全に断ち切られている。
Kindleの文字だけのアイテムリスト(写真1)からタイトルを一つ選択すると、まず現れるのは最初の章の最初のページ(写真2)。前付——著作権や目次の部分——そして、もちろん、表紙は飛ばされる。スティーブ・ジョブズの伝記では表紙を表示させるのに「戻る」ボタンを15回以上押し続けなければならない(写真3——15回ではまだ表示されない)。これは残念なことだ。E-Inkのディスプレイに映えるモノクロ写真だってあるというのに。
この読書の流れは、ハードウェアの制約によるものではない。いきなり本文が表示されるという効率性(そして、おそらくは、データ)を意識した設計によるものだ。当然、この効率性は表紙への親しみを犠牲にした上で成り立っている。
電子本は、ほとんど、あるいは全く脈略なくどこからでも出入りできる。対照的に、紙の本を開くときには、いつも表紙が待ち構えている。読み返すときはいつでも、表紙を「通り過ぎて」本文に向かわなければならない。5回もそれを繰り返せば、本のタイトルや著者を忘れることはない。★7
鳥の会議
ファーラー・ベビハニによるデザインでテームズ・アンド・ハドソンから2009年に出版された『The Conference of the Birds(鳥の会議)』★8 は、表紙が(そしてそれに続く前付が)、見事に抹殺された時代で生き残るための一つの例だ。
届いたばかりのAmazon(当然!)の箱を開けると、布製の非常に美しい外箱が出迎えてくれる。
外箱の中には、本が入っている。本の表紙も布製で、外箱に負けないくらい美しい。そして表紙を開くと、洗練された見返しがある。
チクタク、チクタク。ぼくたちは本に引き込まれる。前付のどのページも、同じトーンを保っている。紙質、印刷の質、デザインの統一性。目次にたどり着く前に、ファーラー・ベビハニの仕事が生半可なものでないことを知るだろう。
やがて本文——Kindleでいう「最初のページ」——にたどり着く。段ボールを開けてから、目的の場所へとたどり着く。ここまで読み進めることができるのは、デザインのきめ細やかさと、製作上の決断のおかげである——そしてそのすべてが、頭から読み進めるという、紙の本の物質性からくる制約への対応なのである。
電子本にも、外箱や布生地、「見返し」や前扉を模したものが必要だと言っているのではない。紙の本のこうした部分は機能上の必要があって存在している。先例があって生まれてきている。そうした事実が、電子本のデザインでは見落とされている。ほとんど、こう問われることがない。なぜそれらは存在するのか? と。
紙の本のこうした部分は機能上の必要があって存在している。
なぜ表紙が必要? それは中身を守るため。
なぜ前扉が必要? 前扉は表紙がなかった時代の名残だから。
なぜ布製が必要? 布は守りたいものを包むのにとんでもなく適した材質だから。
ブック・デザイナーやソフトウェア・エンジニアたちには、ぼくたちの時代の電子本は何を受け継いでいくべきかを考える機会が無限に広がっている。電子という、紙とはコンテキスト(文脈)の異なった活字の海に投げ込まれたことで、失うものはたしかにある——しかし、どんな新しいコンテキストを作っていくべきだろう? 電子の海で表紙はどのような「機能」を持つべきなのだろう? それにそもそも、表紙ってなんだろう?
現代の表紙事情
iBooksやiPadのKindleアプリでは、表紙はせいぜい200ピクセルのサムネイルに成り下がっている。ほとんどのタイポグラフィは判読できない。アプリ化された本は、表紙がアイコンとして使われる。
どんな物理的メディアにも、電子メディアへの移行で失われるものがある。衰退を続ける本の表紙は、長くゆっくりと縮小を続けるCDのジャケットに等しい。レコードジャケットのデザイナーもまた同じような感覚を持っているだろう。彼らはカセットやCDのジャケットに、そして今はRdio(訳注:アメリカなどで提供される無料音楽ストリーミングサービス)やiTunesのサムネイルに追いやられている。キャンバスはほとんど失われてしまった。
どんな物理的メディアにも、電子メディアへの移行で失われるものがある。
ジェームズ・ブライドルは、2010年 ★9 に発表した表紙についてのエッセイの中で、鋭い指摘をしている。本がデジタルになったとき、出版社はコントロールを放棄せざるを得ないという。
私たちが認識すべきなのは、[表紙の]複製は制御できないということだ。表紙はコピーされ、リンクを張られ、解像度やサイズを変更して再投稿される(略)同時に認識すべきなのは、表紙はもっと別の役割を果たす可能性を秘めているということだ。
さあ、どうやってこの制御不能な状態に立ち向かおう?
どんなものにも適応するデザインを作ってしまえばいい。
■Domino(ドミノ)
セス・ゴーディンの「ドミノ・プロジェクト」は縮小を続ける表紙の世界に一石を投じ、体系化を目指した印象的な試みだ。
「ドミノ」が出版した初めての本『Poke the Box(箱を突っつけ)』の表紙には文字が一つもなく、ただ楽しげな男が描かれているだけ。表紙に文字がないことに戸惑う読者たちに向け、ゴーディン氏は次のように説明している。
誰が文字を必要としてる? ウェブ上で本を検索すれば、文字がたくさん出てくるだろう。スクリーン上の文字を読めばいい。表紙はアイコンなんだから。★10
これがAmazonの商品詳細ページというコンテキストに接続した、本の表紙の美学である。
■A Book Apart(ア・ブック・アパート)
これと対照的なのが、ジェイソン・サンタマリアのミニマルなデザインによる「A Book Apart」★11 だ。文字と派手な色の組み合わせ。大きくて、圧縮されたサンセリフ体の文字が明るい背景に書き込まれている。これらもまた、どんなサイズにも適応できる。
ジェイソン・サンタマリア「A Book Apart」
■紙とデジタルの中間地点
現在の、つかの間の、出版の萌芽/終末期において、多くの本は変わらず伝統的な流通チャネルを活用するだろう。それ故に、ある種の表紙には、電子の本と紙の本のどちらのコンテキストにも沿うことが求められている。
カードン・ウェッブがデザインしたオリバー・サックスの一連の表紙は、紙の本で見て美しい。ただ、より重要なのは、それがアイコンに縮まったとき、感動せずにはいられない全体像が現れるということだ。
これはデジタルの世界でもよく機能するデザインの一つの解答例だ(家の本棚で見るよりずっといい——だって、6冊もの本の表紙を表に向けて並べるスペースなんてどこにある?)。こうしたデザインは、iPadのKindleアプリにコレクション機能があるならば、ライブラリに集めようという気にさせる。
2011年に行われたオライリーの会議でぼくは、ぼくらが知っている表紙はもはや退化した尻尾の名残のようなものだと述べた。昔の本の名残である。
そう述べる場としてその会場を選んだのは、オライリーのアート・ディレクターたちが、表紙を体系化することの効果や、表紙によって作られるブランドの力をはっきりと理解しているからだった。彼らの作る表紙はまさに、前時代の特徴を最も有機的にデジタルの形へと変えたものだと言える。オライリーほど早く、表紙でのブランディングに気付いたコンピュータ書の出版社は他にない。紙の本の出版社で、すぐに(ちょっと手を加えるだけで)電子本のコンテキストに適応できる表紙のブランドを持ち合わせているところは数少ない。
■特徴
さて、今見てきたような表紙の特徴とはどんなものだろう?
・アイコン的
・文字が大きい
・目立つ
人の目を引く電子本の表紙を作りたければ、これらの特徴を参考にする価値はある。これらの特徴は紙の本にも適応できるし、総合的(ホリスティック)なデザインとして、iPad時代の表紙の指標となるだろう。
Kindle優先のデザイン:もしKindleで美しく表示されるのなら、その表紙はおそらく紙の本でも美しく見えるはずだ。
システムをハックせよ
だけど、それで満足していてどうする?
[後編に続きます](2014/09/08公開)
Note
★1│ポーラ・フォックス The Coldest Winter: A Stringer in Liberated Europe
★2│マシュー・バトルズ Library: An Unquiet History
『図書館の興亡――古代アレクサンドリアから現代まで』草思社、2004年、白須英子訳(p.10)
★3│日本が作り出すあらゆるデザイン(食べ物も? 文化も?)は、心酔すべき(中毒的な? 簡素な? 想像をかき立てるような?)合理性を併せ持っている。深沢直人の無印のデザイン、そしてその他無印の商品。ハリオのコーヒー用品。かまわぬのてぬぐい、そして畳……。何年か前、Art Directors Clubで審査員をしたときに、ぼくたちを魅了した優雅でミニマルなポスターのほぼ全部が、日本で製作されたものだったことを覚えている。もちろん日本でも、こんな感じのウェブサイトが作られていたりもするのだけど。
★4│それから約10年後、ぼくはパリのLa Hune bookstoreで同じような経験をした。完璧な白い本たちが、そこらじゅうにあった。
★5│その他、美しい表紙たちはThe Book Cover Archieveを参照のこと。
★6│日本の市場にも、ひどい表紙はたくさんある。けばけばしくて、不快になるものがある。そして日本の表紙もまた、マーケティングのツールである。しかし、全体的な感覚として――実際にそうかは不明だが――スーパーサイズの食品のような表紙は持ち込まないという暗黙の了解があるように感じる。公正に競い合おうとしているように見える。少なくとも表面上は優雅でいようとしているように見える。声の張り上げ合いにならないようにしているように見える。アメリカに比べると、イギリスの表紙も、配慮があり優雅なもののように感じる(紙質も含めて)。
★7│これはまた、電子本にある認知的距離の話でもある。Kindleでも「ホーム」ボタンを押せば、タイトルや著者の名前を見ることができる。しかしページが更新されるのに時間がかかる。表紙に戻るなんていうのは、紙の本なら10分の1秒程度でできるが、Kindleだと3、4秒はかかる。これはしっくりこない。人間は怠惰だ。なぜGoogleが1000分の1秒にまでこだわるのか。動物的な人間の脳は我慢強くなく、早くしないとすぐに気分が変わってしまうからである。
★8│ファーラー・ベビハニ The Conference of the Birds(2009年。いくつかの版があるが、騙されたと思って――この高くて、大きいハードカバー版を見てみてほしい)
★9│このエッセイは、オライリーの表紙を探しているときに見つけた。彼の発言とぼくのエッセイには2年の開きがある。その開きは、二つの両極端な事実を物語っている。この2年で、出版のシステムはものすごい勢いで変化しているが、表面上はものすごく変化を拒み続けているのである。
★10│Why Aren’t There Words on the Covers of Our Books? (ぼくらの表紙に文字がない理由)
★11│A Book Apart
表紙をハックせよ ――すべては表紙でできている
(オリジナル執筆:2012年5月)
http://craigmod.com/journal/hack_the_cover/
クレイグ・モド 著
樋口武志 訳
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クレイグ・モド 訳:樋口武志 大原ケイ 美しい紙の本/電子の本 ボイジャーより発売中 電子版 本体900円+税 印刷版 本体2,000円+税(四六判240頁・縦書) |
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