紙の本が死につつある。
代わりに電子の本が飛躍。
そして誰もが混乱している。
悲しむ必要はあるのだろうか?
出版業界の足元がゆらぎ、同時にAmazonのKindleの売り上げ台数が急伸する中、旧来の「本」への思い入れを捨てきれない人々はこうした事態を嘆くばかりだ。だが本当に涙を流す必要があるのだろうか。
今消え失せようとしているのは
――読み捨てられるためのペーパーバック
――空港の売店で売られているようなペーパーバック
――ビーチで時間つぶしに読むようなペーパーバックだ。
失われつつあるのは、ゴミとして捨てられる運命にあるような本ばかりなのだ。見映えも保存性も、耐性さえも考慮されずに印刷されている本。一度だけ消費され、その後は捨てられるだけの本。引越作業の際は真っ先にゴミ箱行きになるような本。
まず姿を消すのは、そうした本だ。今、はっきりと言おう。「悲しむ必要はない」と。
重荷となっているこれらの本が消えてくれれば、ますます時代遅れになりつつある本の流通の無駄もなくなる。物理的な本が消えれば、死に絶えた樹木(=紙)を世界中に空輸する必要もなくなる。
そして、より重要な好影響があることも容易に想像できる。出版への参入障壁が下がることにより、より尖った、リスキーな内容の本がデジタル形式で現れることになる。新しいストーリーテリングの出現。環境への負荷の軽減。編集者の重要性の見直し。そして皮肉にも、実際に紙に印刷されて出版される本の質が高まるはずなのだ。
ぼくは2003年から2009年までの6年間、美しい紙の書物を作り出した。6年もの間だ。紙を使った本だけに取り組んだ。21世紀にだ。
その仕事が大好きだった。プロセスがたまらなかった。成果物の最終形が素晴らしかった。あの小さなインクと紙の塊の感触がすごくセクシーに思えた。そして今また、言える。コンテンツの作り手として、デザイナーとして、そして発行者として、iPadとその新しい可能性にとても興奮しているのだ。この興奮を素直に認めつつも、冷静にこの可能性について考えたい。
iPadの登場で、ぼくらはデジタル形式でリッチなコンテンツを消費するためのプラットフォームをついに手にした。だが、これはどんな意味を持つのか。iPadがなぜそれほどエキサイティングなのかを理解するには、まずこれまでの軌跡について考える必要がある。
ここで、新しい電子の本に対する紙の本の立ち位置や、これまで長い文章が画面上で読まれてこなかった理由、さらにiPadがこの混沌の中にどのように入り込もうとしているのかについて考えたい。そうすることで、コンテンツ出版に際しての紙とデジタルとの使い分けを明確にできるとぼくは考えている。
これは本の作り手、ウェブマスター、コンテンツの作り手、著者、デザイナーに向けた会話だ。美しい作品を愛する人たちに向けたものでもある。さらに、リスクを恐れず、自らの紡ぐ作品にとって最適な形式とメディアを模索するストーリーテラーに向けたものでもある。
コンテンツの核心
あまりに長い間、印刷・出版という行為が過大評価されてきたと言える。しかし、モノの存在価値は、その中身であって、モノ自体ではない。そしてモノが本の場合には、その存在価値は当然そこに含まれる内容=コンテンツと結びついている。
ここでコンテンツを大まかに2つに分類してみよう。
定まった形態のないコンテンツ
(”Formless Content”=「形を問わないコンテンツ」:図1)
明確な形態を伴うコンテンツ
(”Definite Content”=「明確な形を伴うコンテンツ」:図2)
「形を問わないコンテンツ」は、様々な形態に繰り返し移し替えることができ、それでも内在する価値を失わない。「レイアウトに左右されないコンテンツ」という捉え方もできる。大半の小説やノンフィクション作品はこちらに分類される。
たとえば、作家の村上春樹がパソコンの画面に向かって執筆する際に、その文章がどんな形で印刷されるか、ということは考えていないだろう。彼はストーリーを、どんな器にも注ぎ込むことが可能な「テキストの滝」と捉えているはずだ。(主人公がどんな料理を作っているか、どんなクラシック音楽を聴いているか、どんな不思議な女の子と出会うのか……実際にはそんなことばかりを考えているはずだが、きっとその料理、音楽、女性がどのようにページに印刷されるのか、本になったときの最終形については考えていないはず。)
それに対して、後者の「明確な形を伴うコンテンツ」は、ほぼすべての点で「形を問わないコンテンツ」の対極にある。画像、チャート、グラフなどを含むテキストのほとんど、あるいは詩などもこちらに分類される。このタイプのコンテンツは、後になって違う器に流し込むことも可能だが、その流し込み方によっては、内在する意味やテキストの質が変わってしまう恐れもある。
マーク・Z・ダニエレブスキー(Mark Z. Danielewski)は間違いなく自分の次回作の最終的なフォーマットについて考えているはずだ。彼の作品の内容は明確な形態と分かちがたく結びついているので、元々の意味をすべて失わずに作品をデジタル化することは実際には不可能だ。『Only Revolutions』は、多くの読者から嫌われている書物だが、その理由は、この作品が2人の登場人物の物語を交互に読むことを強要されるからだ。2つの物語が表紙と裏表紙それぞれから始まる形なのである。
もちろん、本のデザイナーが著者の意思を汲み取りながらコンテンツをレイアウトする際に、そのレイアウトを通じて、形を問わないコンテンツにさらなる意味を加えるかもしれない。そうして出来上がった書物は、デザインとテキストが組み合わさった「明確な形を伴うコンテンツ」となる(文末に挙げた見本『Vas』を参照のこと)。
現代の作品の中で、「明確な形を伴うコンテンツ」の極端な例として、エドワード・タフテ(Edward Tufte)の著作を見るといい。好き嫌いはあるだろうが、彼が著者ならびにデザイナーの才能を兼ね備えた希有な存在であること、さらに彼が最終的な形と意味、そしてレイアウトの完璧さに徹底的なこだわり方を示していることは認めざるを得ないだろう(図3)。
具体的な形を持つ書物という文脈の中では、コンテンツとページとの間で発生する相互作用が、形を問わないコンテンツと明確な形を伴うコンテンツとを分ける大きな違いとなる。形を問わないコンテンツは、ページやその境界線にこだわらない。それに対して、明確な形を伴うコンテンツの場合は、ページを意識するだけでなく、盛り込まれた内容とページ上のレイアウトが不可分に結びついている。こちらの場合、コンテンツは特定のページの中に収まるように編集され、改行が施され、そのサイズを決められる。ある意味で、明確な形を伴うコンテンツにとってのページはキャンバスであり、コンテンツはそうした特徴をうまく利用して、そのモノ自体とコンテンツの両方を、より完成度の高い一体のものへと引き上げる、と見ることもできる。
つまり、簡単に言えば、形を問わないコンテンツは容れ物の形を意識しない。明確な形を伴うコンテンツは、キャンバスとなる容れ物を快く受け入れる。形を問わないコンテンツは、通常はテキストのみ。明確な形を伴うコンテンツには、テキストに視覚的要素が加えられる。
ぼくたちが消費するものの多くは、形を問わないコンテンツに分類される。印刷物の大半を占める小説やノンフィクションは形を問わない。
この2年ほどの間に、形を問わないコンテンツを表示することに秀でた複数の電子端末が登場してきた。アマゾンのKindleがその代表だ。高解像度のディスプレイが搭載されているiPhoneのような端末でも、従来より快適に、長い文章を読むことができる。
つまり、現在は簡単に、形を問わないコンテンツをデジタル形式で消費することができるのだ。
ただし、これらの端末で文章を読むのは、紙の本を読むのと同じくらい快適だろうか。
おそらく違う。たが近づきつつある。
印刷された「本」が失われていくのを嘆く人たちは、多くの場合この「快適さ」の消失を嘆いている。「目が疲れる」と彼らは言う。「バッテリーがすぐ切れる」「日光の下だと読みにくい」「お風呂に持ち込めない」などなど。
ここで重要なのは、この文句のいずれも文章の「意味」の消失に対するものではないこと。デジタルに変換されたからといって、本の内容が難しくなったり分かりづらくなったりはしない。文句のほとんどが「質」に対するものなのだ。質に関する議論の必然的な結論としては、テクノロジーがディスプレイやバッテリーの性能を向上させることでそのギャップを埋めており、またメモやブックマーク、検索といった付加機能により、電子端末での読書の快適さが紙の本でのそれを必ず上回るということだ。
デジタル化されたテキストの利便性——読みたいときにすぐ読める、ファイルサイズおよび物理的なサイズの両方においての軽量性、検索が可能、といった諸点は紙の書物の利便性をすでにはるかに上回っている。
ここまでなら、話は簡単だ。形を問わないコンテンツを印刷するのをやめて、明確な形を伴うコンテンツだけを紙に印刷する。
だがiPadの登場でそれが変わる。
iPadの登場
ぼくらは紙の書物が大好きだ。それもそのはず、そもそも読む際には胸の近くで抱きしめるように持つからだ。パソコンの画面と違い、KindleやiPhone(そしてたぶんiPad)での読書もまた同じような姿勢をとる。テキストとの距離は近いし、文字を追うのも快適だ。そして、実際にテキストに触れるという一見些細な事実が、この読書体験をさらに親密なものにしている。
KindleとiPhoneはいずれもすばらしい端末だ。ただしテキスト主体の本にしか向いていない。
iPadは読書体験そのものを変える(図6)。iPhoneやKindleでのテキストの優れた読みやすさを、さらに大きなキャンバスに拡げてくれる。iPhoneやKindleの親密さや快適さに、よく練られたレイアウトを実現できるだけの大きさと多くの機能を兼ね備えたキャンバスがもたらされる。
これは何を意味しているのか。いちばんはっきりしているのは、明確な形を伴うコンテンツをデジタル形式でそっくりそのまま再現できる(図7)という点だろう。しかし、やみくもにこの方針を取り入れるべきではないとぼくは思う。紙に印刷された明確な形を伴うコンテンツは、そのキャンバスのためだけに、特定のページサイズを想定して構成されている。iPadはこれらの本と物理的に似ているかもしれないが、その上に紙の本のレイアウトをそっくりそのまま再現することは、iPadがもたらす新しいキャンバスやインタラクティビティを生かしきっていない可能性がある。
たとえば、ページのような最も基本的な要素について考えてみよう。「ページをめくる」ことのiPhoneでの再現は、すでに退屈で、そうすることを強制されているように感じられる。iPadでは、なおさらそう感じるだろう。コンテンツのフロー(流れ)はもはや「ページ」という単位に分けられる必要はない。新しい本のレイアウトとして、各章を横方向に伸びる枠のなかに配し、各章のストーリーは縦方向に流れるように配置する、というのはどうだろうか。(図8)
紙の本では、2ページの見開きがキャンバスだった。iPadでも同じように捉えがちだ。それはやめよう。iPadのキャンバスの場合、端末自体の物理的な境界を鑑みる必要があるが、同時にそれらの境界を越えて実質的に無限に伸びる空間を取り入れることが必要だ。
このキャンバスから新しいストーリーテリングの形式が生まれてくるだろう。これは、読者とコンテンツとの対話のモードを再定義する機会となる。そして、コンテンツ作りを仕事とする人にとっては、またとないチャンスであろう。
ぼくらが作る紙の書物
紙に印刷された本は死んだのだろうか。答えはノー。
iPadのコンテンツについてのルールはまだはっきりと出来上がったわけではない。自信を持ってそのルールを定められるほど長くiPadを使っている人はまだいない。しかし、ぼくはこれまで6年間、素材や形式、物理的な形やコンテンツを考えながら、そして能力の限りを尽くしながら、紙の本を生み出してきた。
これからの紙の本に対するぼくの考えは、こうだ。
まずは「この作品は使い捨てにされる種類のものか」と自問してみよう。ぼくの場合、この問いに対して考える際は、ある明白なルールしか思い浮かばない。
・形を問わないコンテンツはデジタル形式に移行する
・明確な形を伴うコンテンツはiPadと紙の本の二つに分かれる
紙に印刷する本は、制作工程に最大限の力を注ぎ込まなければいけない。デザイナー、出版者、作家がキャンバスとして認識した上で作る本でなければならない。物理的な形を伴うモノとして、これらの書物が何らかの意味を持つにはこれが唯一の道だ。
今後、印刷物として本を作ることを考えるとき、必ず次の点に留意するようぼくは提案する。
・ぼくらが作るその本は、物理的な形態を必要とする——物理的な形態がコンテンツと結びついて、内容をより輝かせる
・ぼくらが作るその本は、形状と素材の使い方において確信に基づいている
・ぼくらが作るその本は、印刷物であることの利点を上手に活用したものである
・ぼくらが作るその本は、長持ちするよう作られる(図10−1、図10−2)
この結果は次のようになる。
・ぼくらが作るその本は、手の中でしっかりとした存在感を持つものとなる
・ぼくらが作るその本は、懐かしい図書館のような匂いがするものとなる
・ぼくらが作るその本は、あらゆるデジタル機器を使いこなす子供たちにさえ、その価値がわかるものとなる
・ぼくらが作るその本は、紙に印刷された本が思想やアイデアの具現化であり得ることを、常に人々に思い出させるものとなる
この基準をひとつでも満たさないものは捨てられ、電子化への流れの中ですぐに忘れられてしまうだろう。
使い捨てされる本たちよ、さようなら。
新しいキャンバスたちよ、こんにちは。
[ぼくらの時代の本 第1回 了]
見本リスト
以下に挙げるのは、ぼくの書棚から引っ張り出した本の一部である。これらの本は、前掲の「ぼくらが作る紙の書物」の精神を具現化しているといえる。物理的な形態と内容が不可分に結びついていたり、あるいは時間の経過というテストにパスしたものばかりだ。iPadが登場し、電子の本が普及しても、置き換えられてしまうことがない書物。なぜなら、これらはいずれも完全なオブジェクトだからである。
とても美しい紙の上に苦心して手刷りで印刷されたものもある(『Heian』)。いい匂いのするものもある(同じく『Heian』)。また、作られてから100年以上の時が経過しているものもあれば(『Overland Through Asia』)、作られてから間もないけれども、著者とデザイナーの素晴らしい共同作業の成果であるもの(『Vas』)や、それ自体が芸術作品と言えるものもある(『A Dictionary Story』)。
「iPad時代の本」を考える
(オリジナル執筆:2010年5月)
クレイグ・モド 著
「iPad時代の本」を考える 翻訳グループ 訳
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クレイグ・モド 訳:樋口武志 大原ケイ 美しい紙の本/電子の本 ボイジャーより発売中 電子版 本体900円+税 印刷版 本体2,000円+税(四六判240頁・縦書) |
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