第6回「予防」
平林健吾
この年末にケニアに行くことになりまして、先日、黄熱病の予防接種を受けました。
予防接種は、法律上「疾病に対して免疫の効果を得させるため、疾病の予防に有効であることが確認されているワクチンを、人体に注射し、又は接種すること」(予防接種法第2条)と定義されているとおり、注入されたワクチンによって体内に抗体を作ることで、病原体に感染するのを防いだり、感染の影響を和らげたりする効果がある、すなわち人が病気になるのを予防できると、一般に考えられています。
ところで、法務の世界にも「予防」があります。一般に「予防法務」と呼ばれています。これは、事前に法的な検討を済ませておくことで、人や会社が、法的に問題や紛争に直面することを防止する、というアプローチです。(これに対して、法的な問題や紛争が実際に発生したときに、その対応にあたることを「臨床法務」と呼んだりします。)
たとえば、ハリウッドスターが結婚相手と交わす婚前契約(Prenuptial Agreement)は、予防法務です。あらかじめ結婚相手と「もし離婚することになっても、自分の持ってきた財産以外は請求しません」と合意しておくことで、離婚の際に、結婚相手から多額の財産分与を請求されることを回避しようとします。
また、ひと頃、日本企業がこぞって導入していた買収防衛策も、予防法務です。株式などを利用して買収者が現れた時に支配権を取得できない仕組みを作っておいたり(ライツプラン)、買収者が従前の経営者を解任すると多額の退職金を支払わなければならないような条件にしておいて買収を躊躇させたり(ゴールデンパラシュート)、その他いろいろな方法で会社が買収されるのを防ごうとします。
予防法務というアプローチが採用される理由は、法的な問題や紛争が起こってから事後的に対処する(臨床法務)よりも、あらかじめ手立てを講じておいて法的な問題や紛争が起こらないようにする方が、費用対効果が高いからだと思います。
ハリウッドスターは、離婚に際して何十億円もの資産をもはや愛していない(むしろ憎んでいる)配偶者に支払わなければならないとしたら、結婚相手から器が小さいと思われても婚前契約を結んでおく方が、費用対効果が高いのです。
また、予防法務のアプローチを採用するためには、将来発生するおそれのある法的な問題や紛争という「結果」を、理論や経験といった「仮説」からある程度の精度をもって予測できることが必要だと思います。
ハリウッドスターは、統計的に(あるいは自分の性格からして)将来離婚する蓋然性を認識できるからこそ、婚前契約を締結するのです。
逆にいえば、予防法務の費用対効果が低い場合や、「結果」を予測する「仮説」の精度が低い場合にまで、予防法務というアプローチを採用しても仕方ないのではないか?というのが、最近の私の疑問です。
人は、予防接種の効果に対して、予防接種の費用が高すぎると感じれば、予防接種を受けないはずです。たとえば、今回、私が受けた黄熱病の予防接種は11,000円でしたが、もしこれが10万円だったら受けなかったと思います。
また、黄熱ワクチンは高い予防効果を持っており、重い副反応の心配もそれほどないので、黄熱に罹患するくらいなら黄熱ワクチンで予防しておいたほうが得だと判断できるのですが、仮に、黄熱ワクチンの予防効果は不明、ということになれば、わざわざ病原体の一種を体内に注入しようなどとは思わないでしょう。
これと同じことは、予防法務にも言えるのだろうと思うのです。
そして、この複雑で多様化した現代社会の中で次々に発生する「想定外」の事象への対応を考える場合、「問題は絶対に起こしてはならない」と万全の予防策を講じようとするアプローチは、もはや物事を停滞させるだけなのではないか、大胆に実行したうえで、何か問題が起きた時に、俊敏に、柔軟に対応して、被害を最小限に抑える(そういう対応ができる能力を普段から養っておく)というアプローチもあるのではないか、と思った次第です。
考えてみれば、この「予防法務」というアプローチを、どの範囲で、どのくらいの深度で実施するべきかという選択は、その後の出来事のタイムラインを「Edit」する行為でもあるのかもしれません。
[Edit×LAW:第6回 了]
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