第8回 トランプ内幕本出版をふりかえる
▼緊急出版の裏側
2018年の年明け早々、アメリカの出版界が沸きたったのが、ご存じトランプ政権の内幕本“Fire and Fury”です。
日本でも早川書房が『炎と怒り』と題して日本語版を出版する、あの本です。
ここは海外の出版事情を語る場なので、本の内容はさておき、出版の顛末をふりかえってみましょう。
著者マイケル・ウォルフは2016年なかばからトランプの周辺の人びとにインタビュウをはじめていたそうですが、当初この本は政権の最初の100日を描く主旨だったようです。
この作品の出版の権利を取得した出版社は、ヘンリイ・ホルト。米国の老舗で、現代文学からノンフィクションまで、どちらかというと手がたい本を出す印象の版元で、現在はマクミラン社の傘下にあります。
ここで、すこし注釈。
日本では、出版社の編集者が作家に対して執筆の依頼をし、作家がそれに答えて作品を書いて、出版にいたる、というのが通常の流れですが、欧米とくらべると、むしろこれは特殊です。
作家にはエージェントがついていて、出版社との交渉や契約などの実務をすべて引き受けてくれます。そのぶん、作家は執筆に専念できるというシステムです。
たとえば、日本のプロ野球選手は、多くが球団と直接的に年俸の交渉などをしていますが、大リーグに移籍するとかならずエージェントが入りますね。あれとおなじです。日本でも出版エージェントがビジネスをはじめてきていることは、以前にもご説明したかと思います。
なお、今回のマイケル・ウォルフのエージェントは、アンドリュー・ワイリー。この欄の第4回、2017年のフランクフルト・ブックフェアの紹介でも名前が出た、攻撃的でやり手の文芸エージェントです。ワイリーとヘンリイ・ホルトには強いつながりがあったことが想像できます(そういえば、エルトン・ジョンの自伝もワイリーがヘンリイ・ホルトに売っていたはず)。
さて、この本は2018年1月9日発売の予定になっていましたが、アメリカの単行本出版のスケジュールからすると、かなり急いで進められた印象です。
これも以前に説明したように、海外の出版では書店に商品を仕入れてもらうために、ときには発売の1年以上前からセールスをするのがふつうなわけですが、今回はかなりのスピードだったようです。
その証拠に、内容についてはじめて明らかになったのが、出版直前の1月3日でした。通常なら、リーディング・プルーフと呼ばれる簡易製本の見本が配られ、業界誌等に書評なども掲載されているはずですから、もっと早くから話題になっていておかしくないわけです。
そう考えると、版元側が緊急出版の態勢を整えていたらしいことがうかがえます。
▼「シリアル・ライツ」を利用して衝撃の新聞掲載
最初にこの本の概要を報じたのは、英国紙〈ガーディアン〉。
つづいて、〈ニューヨーク・マガジン〉に本からの抜粋が載ります。
ここで、また注釈。
この〈ニューヨーク・マガジン〉のように、新聞や雑誌に書籍の一部を掲載させることは、ときどき行なわれます。本の出版元にとってはよいパブリシティとなり、世の関心を高められますし、載せる媒体側にとっても、話題の本の内容を一部先読みできるということで注目を向けさせることができるので、双方とも利益が見こめるわけです。
この掲載権を「シリアル・ライツ」といい、権利ビジネスのひとつです。
海外の本を日本で翻訳出版する場合にもシリアル・ライツが扱われることがありますが、やはり大きな話題となる出版物であることが多いですね。しかも日本では、新聞社系の出版社や雑誌を持っている版元などが取得して、自社媒体に載せることが多いようです。
ちなみに欧米では、新聞や雑誌と出版社はフィールドがちがうと捉えられているようで、日本のように書籍出版と新聞や雑誌が緊密に結びついているのはめずらしいほうかもしれません。
新聞や雑誌は速報性がもとめられますが、出版の場合はそもそも刊行まで時間がかかるシステムになっていますから、おのずと立場がちがってくるのでしょう。
▼大統領側の失策とその後の攻防戦
トランプ政権のインサイダーたちの証言により驚くべき内実を暴露した〈ガーディアン〉の記事と〈ニューヨーク・マガジン〉の抜粋の掲載は、センセーショナルな騒ぎを巻き起こしました。
当然ながら本の予約が殺到し、アマゾンのベストセラー・リストではさっそく1位にのぼりつめます。
こうして一気に関心が集まったところに、当の大統領陣営が悪手を打ってきます。
トランプ本人の弁護士団が、著者と版元に対し、出版の差し止めをもとめる書簡を送ったのです。本の出版のみならず、関連する記事等の掲載もやめさせ、自分たちの調査のために本書の全文を提出するようにもとめたのでした。
これは、完全に逆効果となりました。虚偽の記述による名誉毀損やプライヴァシー侵害を主張していましたが、あたかも本の内容が正しいために公表を阻止しようとしているように見えてしまいました。
それより重大なのは、出版の差し止めが、憲法の根幹のひとつである表現や報道の自由をおかそうとするものと捉えられたことでしょう。なんといっても、大統領みずからが1冊の本の出版を止めようとしたのですから。
たとえば、作家の組合であるオーサーズ・ギルドも、いちはやく非難の声明を出しています。
このような大統領側の動きに対し、出版社は、発売日を1月9日から5日へ繰りあげるという反撃に出ます。政権の顔色をうかがうなどという忖度はいっさいなしで、全面対決の姿勢を打ち出したのでした。
はじめて本の内容が世間に出たのが1月3日で、そこからトランプの出版差し止め要求があり、版元によって前倒しにされた発売日が5日ですから、どれだけめまぐるしく展開したかがおわかりいただけるかと思います。
著者マイケル・ウォルフも、「明日には買えるようになりました。ありがとう、大統領閣下」と皮肉まじりにツイートしています。
▼発売日の店頭。意外な特需も
本来の発売日の1月9日にはまだ間がありましたが、すでに書店には商品が届いていたらしく、前倒しにされた発売日の1月5日にはぶじに店頭にならべられたようです。
しかしながら、売り切れ店が続出し、書店では商品の欠乏状態になってしまいました。出版は印刷・製本や物流をともなうため、いくら増刷を急いでも、ここまで騒ぎが大きくなると、とても対応しきれるものではなかったのです。
当初から仕入れていた部数が多かった書店ほど、利益が大きかったことになりますが、当然ながら買えなかった人もたくさんいたわけで、さっそく〈ニューズウィーク〉がこんな記事を出しています。
記事によると、ホワイトハウスのお膝元、ワシントンDCの独立系書店クレイマーブックスでは、真夜中には大行列ができていて、数分で完売してしまったとのこと。ただ、地元の書店ではまだ在庫が残っているかも、と書かれています。
もちろん、電子版やダウンロード型のオーディオブックは、在庫の心配がないので、よく売れたようです。
いっぽう、ウィキリークスが違法コピーしたPDF版をグーグル・ドライブにアップし、削除されるといった騒ぎもあった由。
さらには、おなじ“Fire and Fury”というタイトルの本(第二次世界大戦中のドイツ空爆の研究書)がネット書店でまちがって買われ、著者の大学教授が「この印税はバノンとトランプのおかげなのだろうか」と首をひねる珍事も引き起こされました。
出版社ヘンリイ・ホルトは、発売1週間で注文が140万部に達し、それ以上の部数を増刷中と発表しています。
▼見えないところでグローバル化する出版
ざっと騒動の顛末を見てきましたが、最後にドイツの裏話を紹介しておきたいと思います。
かの国でも英語版がベストセラーとなり、ドイツ語の翻訳出版が決まっているそうですが、そんなことではありません。
ヘンリイ・ホルトを傘下に持つマクミランは、じつは1995年に、シュトゥットガルトにあるホルツブリンク・グループに買収されているのです。つまり、“Fire and Fury”が売れてアメリカの出版社が儲かると、ドイツのコングロマリットをうるおすことになるわけです。
ホルツブリンク・グループは、1948年にブッククラブ事業からはじまり、現在では出版社や新聞、インターネット関連企業などを所有する同族企業。現在の当主のひとりステファン・フォン・ホルツブリンクは、50代なかばながら、あまり表に出ずに孤高を保つ人物といわれています。
ドイツには、いうまでもなく、ペンギン・ランダムハウス等々をおさめるベルテルスマンもあるわけで、このような出版のグローバル化も、日本からは見えにくいかもしれません。
[斜めから見た海外出版トピックス:第8回 了]
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