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横田創『落としもの』(書肆汽水域)

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DOTPLACE読者におすすめの新刊書籍の中で、読みものとしてそれ単体でも強い魅力を放つまえがき/あとがきを不定期で紹介していきます。今回は少し趣向を変え、小規模ながら魅力的な本を発行する出版社を紹介するとともに、その新刊から「補助線」と名付けられた書評と読書ガイドを出版社、著者のコメントとともに2回に分けてお届けします。

落としもの_表紙

『落としもの』
横田創 著
[書肆汽水域、2018年1月22日発売]
四六版・上製 本文252頁
ISBN : 978-4-9908899-1-3/Cコード0093
本体:1800円+税
Amazon / 書肆汽水域

【内容紹介】
早川書房「想像力の文学」シリーズの一つである『埋葬』の著者・横田創の短編集。
表題作「落としもの」を含む6作品の単行本未収録作品を収録。

目次/編著者プロフィールはこちら


【書肆汽水域】

http://kisuiiki.com/
2016年設立。
出版取次の「大阪屋」、書店「リーディングスタイル」を経て、現在も都内の書店で働く現役の書店員が運営する出版社。

    朝と夜、大人と子ども、人間と動物、空想と現実、過去と未来、男と女、私とあなた。
    その「あいだ」にはどんなものがあるのでしょうか。
    書肆汽水域は、そんな好奇心を結実させるために本をつくります。
    作り手と売り手の「あいだ」であり、売り手と読み手の「あいだ」である、
    ひとりの本屋として。(出版理念より抜粋)

出版第0作『これからの本屋』(2016年刊)が直取引のみで2000部を販売する話題作に(現在は取次流通可)。2018年1月に刊行された第1作『落としもの』は「書店員として自分がどうしても売りたい本を自ら作った」という作品。

『落としもの』刊行にあたって
書肆汽水域 北田博充

書肆汽水域は、現役書店員である私が、自分の手で売りたいと思う本を、自分の手でつくる、「ひとり出版社」です。
という説明が一番伝わりやすいので、よくそういう説明をするのですが、実際のところ、「本をつくる」ことが目的ではなく、「自分が売りたいものをつくり、自分の手で売る」ことが目的なので、出版活動をしているというよりは、書店員としての仕事の一つとして出版活動をしています。
つまり、書肆汽水域とは広義の「本屋」です。

書肆汽水域として刊行する1冊目の本は(『これからの本屋』という刊行物もありますが、あの本は0冊目の本です)、自分が一番好きな小説家の本にしたいと考えていました。その作家が横田創さんです。
横田創さんは、2000年に群像新人文学賞を受賞してデビューし、2002年には三島由紀夫賞の候補にも挙がった作家ですが、3点ある著書はすべて品切れ・重版未定になっていました。その中でも2010年に早川書房から刊行されている『埋葬』はとにかく素晴らしい作品で、長く売り続けていきたいと思っていたのですが、それも叶わず、ずっと口惜しい思いをしてきました。いつかこの作家の本をまた売りたいと、密かに願い続けてきました。

書店員の立場で本をつくるのだから、裏表紙の推薦文も、本に挟み込む冊子の文章も、書店員に書いてもらおうと考えました。
だからこの本は、書店員が、書店員の力を借りながらつくった、書店員のための本です。


『落としもの』の補助線01

■綻びから見える世界

BOOKS青いカバ 小国 貴司

 横田創の作品は内臓にダメージを与える。これは、もちろん比喩として捉えられるだろう。でも、ひょっとしたら比喩ではないのかもしれない。事実、私は今年の健康診断で異常値が出た。もちろんこれは、私の日ごろの不摂生が引き起こした結果なのだが、このようなこじつけ(言いがかり)も可能だ。異常値が出たのは、横田創の作品を、この書籍化に際してまとまって読んだからだ!と。だから事実として、根拠はないけれど、横田創は内臓にダメージを与える作家だと言い切る。読んでいるうちに、得体のしれない感情や感覚にじわじわと体が支配されていく。

 では、横田創作品のどこが私にダメージを与えるのか。

 まず、非常に読みやすい、テンポの良い文章がくせものだ。例えば「落としもの」のこんな描写。

    同じ理由で、いや、それ以上の理由で、鎌やハサミで切っても切ってもまた生えてくる、草もわたしは怖かった。まー、育つは育つ、放っておけばまわりを囲むブロック塀より高いビル群を形成するやつらあり、低いところを這うように、舐めるように支配するやつらあり、花まで咲かす不埒なやつらありと、傍目に見てもそれはやりすぎだろう、調子に乗りすぎだろうと思われるほど草が繁茂していた空き地に業者のひとが入って、一日がかりで草刈りをして、文字通り草一本生えていない更地にされたのに、もうそこには生命を感じさせるものなどひとつも残ってなかったはずなのにまたそこから、同じ場所から同じように生えてくるゾンビのようなあの草たちは土と水と空気だけでできているのか。

 息の長い文章を巧みに書き切り、するすると体の中に浸透していくような文章で描き出されるイメージは、草の得体のしれない生命力を感じさせ、不気味でもある。まるで、ポカリスエットで良くないクスリを飲んでいるかのように、その不気味なイメージの浸透力は確実に私を蝕む。

 そして、そのイメージが体に浸透しきったところで、横田創の小説は、私を突き放す。描き出されるイメージや世界に慣れきることを、横田創の小説は許さない。ずっと読み続けていれば、ほとんどの小説は、その世界観に浸ることができる。居心地の良い小説であればもちろん、居心地が悪い小説ですら、いつの間にか自分の体にフィットし始めてしまうものだ。そのようにして「物語」の世界に埋没し、しばしの間、現実を忘れさせてくれる。でも、この作家の作品は、そんな生ぬるいことを許しはしない。私が「物語」に甘えることを拒否するのだ。「こちらの世界」と「あちらの世界」の区別を拒否し、気がつけば、不穏な世界は現実の世界になる。いや、より正確に言うならば、それまで現実が隠していた不気味さ、実は気付いていたのに、それを見ないようフタをしてきた現実の持つ違和感を、小説の世界が暴き出すのだ。

 他人との距離感を見失った登場人物たちも、私をひどく不安にさせる。前述の「落としもの」の主人公はその典型だ。猫や犬や人間の赤ちゃんを「きっとわたしたちとは違う言葉で話しているし考えているはずだ」と思う主人公は、「なにを話しているのかわからないというだけで、言葉を持たない種族だと断じるのは、わたしにはあまりに横暴すぎる」と感じている。これは、一見そんなにおかしな考え方ではないのかもしれない。しかし、その一方で(だからこそ?)、主人公は言葉を介してのコミュニケーションの方法を完全に見失っている。道に迷っている外国人に、主人公にとっても「乗り換えでしか使ったことがない」「未知の世界」なのにも関わらず、通じるはずがない日本語で話しかけようとする主人公の姿は象徴的だ。言葉では通じないものに心をくだくあまりに、現実の人間同士のつながりが見えなくなる、その際(キワ)に主人公は存在している。

 これまで書いてきたような、私にダメージを与える横田創作品の特徴は、こう言い換えることも可能かもしれない。横田創の作品は、様々なレベルの「区別」を拒否するものだ、と。

 「心地良さ」と「不気味さ」の区別、「こちら」と「あちら」の区別、「正常」と「異常」の区別。それらのあらゆる区別を、拒否しているように私には感じられるのだ。

 私たちは、現実生活を送るために、気付かないうちに思考を簡略化している。例えば、善悪の判断。良いものは常に良いものだし、悪は常に悪だ。良いものが悪に変わるのは、そこに納得できる理由がなければならない。逆もまた同じで、そこに理由がなければ、今日良いものは、明日も良い。そうやって、一瞬一瞬の判断を棚上げにして簡略化していく。でも、本当にそうだろうか? 「良いもの」と「悪」の区別そのものが、根底から間違っていたとしたら? そんな揺さぶりを横田創の作品は私に仕掛けてくる。

    その水際に、薄曇りの空の下にあるとは思えないほど鋭く光るクリスタルの山を見つけた。スワロフスキーだったらすごいのにな、めっけものなのにな、と思いながら近づいたわたしが足をとめたのは、ぬかるみに足を取られたからではなくて、それが不法投棄された注射器の山であるのがわかったからでもなくて、その下から顎で引っ張りだした白いビニール袋の中のものをトコがあにあに食べていたからだ。

 この小説のラストシーン、引用から始まる描写の連続は、この小説の中でひと際異様な光景だ。バランスを崩した主人公の冷静な観察眼で描き出されたものが、意味や解釈を放り投げるような、恐ろしいまでの生々しさを持ってこちらに迫ってくる。ひょっとしたら、その生々しさだけが、本当の世界なのかもしれない。それまで見ていた世界が、実は自分の思い込みで出来ていて、その思い込みが綻ぶときに一瞬見える本当の世界。

 横田創が描き出したものは、いつまでも体のどこかに沈殿していて、ふとしたときに顔を出し、私にダメージを与える。しかし、それは、文学だからこそ味わえるダメージなのだ。生への希望でも、明るい未来でもなく、死への衝動を「味わえる」のは文学だからこそ。

 横田創は、人間が死への衝動を抱えたまま生きているという矛盾を抱えた存在であることを思い出させる稀有な作家だ。

[了]

小国 貴司
1980年生まれ。リブロ店長、本店アシスタント・マネージャーを経て、独立。2017年1月、駒込にて古書とセレクトされた新刊を扱う書店「BOOKS青いカバ」を開店。

■「落としもの」の補助線 ~あわせて読みたい3冊~

書肆汽水域 北田博充

 「落としもの」という作品の魅力を言葉で伝えることは難しい。なぜなら、「落としもの」という作品は何かをうまく伝えようとしている作品ではないからだ。
 「落としもの」の中に散りばめられた言葉は、夜空にひっそりと輝く星のように、静かに読者を待っている。その星々を眺め、その中に星座を見つけることができるかどうかは読者次第だ。ここで紹介する3冊の本は、星座を見つけるための補助線となるような本である。

 最初に紹介する本は、バーナード・マラマッドの「レンブラントの帽子」という短編小説。2010年に夏葉社から復刊された『レンブラントの帽子』の表題作であり、マラマッドの短編の代表作でもある。

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 彫刻家のルービンと、美術史家のアーキンは同じ美術学校に勤める同僚である。ある日、ルービンがかぶってきた白い帽子を見たアーキンが、「レンブラントの帽子」とそっくりだ、と言ったことがきっかけとなり二人は仲違いをする。お互いに口をきかなくなり、相手を避けるようになる。アーキンはこう思う。「彼が怒るようなことを、なにかしたんだろうか」「レンブラントの自画像にある帽子について言っただけだ。あの日彼がかぶっていた帽子に似ていると言っただけだ。そのくらいのことで、あんなに腹が立つのだろうか?」と。

 人と人とはわかり合えないものだと簡単に割り切らず、どうしてそこまで怒ったのだろう、なぜこんなことになってしまったのだろう、自分に非があったのだろうか、と思い悩む過程が二人の距離を近づけているように思える。生傷なしに他人とわかり合うことなどできないのだと痛感させられる小説だ。

 きっと相手はこう考えているに違いないという確信は、思い込みであることが多い。相手のことを想う気持ちが、かえって相手を傷つけてしまうことだってある。けれど、相手を傷つけることを恐れていては、人とわかり合うことなんてできない。
 私と他人の境界線がゆるくほどけたその先で、人と人はようやく混じり合うことができる。「落としもの」の主人公が、赤の他人に「そんなことまで」言えてしまうのは、私と他人の境界線が曖昧な“汽水域”の世界で生きているからに違いない。横田創の『埋葬』(早川書房)という作品にはこんなことが書かれている。

    他人を他人であると思ったままなにかを言うことは原理的にも現実的にも不可能である。言えたということは、もはや他人が他人ではなく、自分であったということにほかならない。つまりは他人が他人であり、自分が自分であるまま、自分以外の誰かになにかを言うことも聞くこともできない。(P160)

この『埋葬』という傑作長編も、「落としもの」を読むための補助線になるはずだ。

 次に紹介する本は、伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)。

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 美学と現代アートを専門とする著者が、目の見えない人の「見方」に迫った一冊。「見えない人は視野を持たないゆえに視野が狭くならない」といったことや、「見えない人には死角がない」といった、見える側の立場からはなかなか想像できないことが的確に言語化されており、なるほど、見えない世界とはそういう世界なのか、と新鮮な気付きを得られる。

 たとえば、見えない人が杖をつきながら歩いているのを見かければ、私たちはどうしたって「見える人の世界の中に見えない人が生きている」と無意識的に思い込んでしまう。けれど、見えない人にとっては、「見えない人の世界の中に見える人が生きている」わけだ。

 自分にとっての「当たり前」が相手にとっても「当たり前」だと思い込んでいたと気づいたとき、はじめて相手と関わったことになる。本書もまた、「落としもの」の主人公の言動を読み解くための補助線となるはずだ。

 最後に紹介する本は、高石宏輔『あなたは、なぜ、つながれないのか―ラポールと身体知』(春秋社)。風俗のスカウトや路上ナンパ講師など、風変わりな経歴を持つ著者が、他者を通して自分を見出す方法を記した一冊。

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    相手に対して、あぁ分かるなぁと共感してしまったとき、分かっていないと思った方がいい。むしろ、まったく相手を見ていないからそんなことを思えてしまっているのだ。相手を見ずに、自分自身の気持ちや考えを相手に投影している。目の前の相手の反応は見えていない。それどころか、自分が共感するのに都合の良いところだけを見て、どんどん相手をまるで自分であるかのように扱い始めてしまう。(P39)

 相手をまるで自分であるかのように扱う。それは決して悪いことではない。むしろ、本当の意味で相手と関わりたいのであれば、私と相手との境界線をなくさなければならない。相手を傷つけることも、相手から傷つけられることも恐れてはならない。思っていることだけを口にし、嘘をつかず、偽らず、媚びず、阿らず、諂わず、それこそ猫が肉を食らうように本能的に生きていればそれでよい。ただ、それだけのことが自分にとっては難しい。

[了]

北田博充
1984年生まれ。大学卒業後、出版取次会社の大阪屋に入社。2013年、本・雑貨・カフェの複合店「マルノウチリーディングスタイル」を立ち上げる。その後、リーディングスタイル各店で店長を務め、2016年に退社。同年、書肆汽水域を設立。


『落としもの』(書肆汽水域)
横田創 著

落としもの_表紙

【収録作品】
お葬式(「ユリイカ」2008年12月号)
落としもの(「新潮」2008年11月号)
いまは夜である(「群像」2008年1月号)
残念な乳首(「群像」2008年8月号)
パンと友だち(「新潮」2009年4月号)
ちいさいビル(「すばる」2007年11月号)

【著者紹介】
横田創(よこた・はじめ)
1970年埼玉県生まれ。演劇の脚本を書くかたわら、小説の執筆をはじめ、2000年「(世界記録)」で第43回群像新人文学賞を受賞。2002年『裸のカフェ』で第15回三島由紀夫賞候補となる。著書に『(世界記録)』、『裸のカフェ』(以上講談社)、『埋葬』(早川書房)がある。

●この連載「Forewords/Afterwords」では、新しく刊行された書籍(発売前〜発売から3か月以内を目安)の中から、それ単体でもDOTPLACEの読者に示唆を与えてくれる読みものとして優れたまえがき/あとがきを、出版社を問わず掲載していきます。このページでの新刊・近刊の紹介を希望される出版社の方は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。
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PRODUCT関連商品

『落としもの』

横田創(著)
単行本(ハードカバー): 252ページ
出版社: 書肆汽水域
言語: 日本語
ISBN-10: 4990889916
ISBN-13: 978-4990889913
発売日:2018/1/22