「これからの編集者」をテーマに、さまざまな人にインタビューしていくシリーズ。第7回は、「NEWSポストセブン」など数々のネットニュースの編集を手がける編集者、中川淳一郎さんです。
※下記からの続きです。
第7回:中川淳一郎(ネット編集者) 1/5
初めてかかわったニュースサイトが発明したもの
――少しお話は戻るのですが、cakesの連載は、博報堂をお辞めになってから、『日経エンターテインメント!』で初めてライターをされ、先ほどの『TV Bros.』や『SEVEN』のお仕事のお話を経て、最後『広告』の取材でアフガニスタンに行き無事帰ってくるあたりで終わります。つまり紙の雑誌のお仕事をされていた時代までなんですね。その後、今はネットニュースの編集をメインでやられていると思うのですが、そこからネットに行くところのお話をちょっとしてもらってもいいですか。
中川:これも仕事は断るなって話につながってくるのですが、たまたま近所に知り合いが住んでいたんですよ。まあ、女なんですが、そのときオレ、家に風呂がなくてね。時々飲んでいたのですが、その時に銭湯が閉まる時間になってしまい、何回か風呂入らせてもらいに行って、まあ、イイ感じになっちゃったわけよ。
――それ、たしか「Relife」というサイトの、大学生のインタビュー記事で読みました(笑)。
中川:いい話でしょ(笑)。で、その後その彼女に、彼氏ができたって言ってて、その人はカメラマンなんですよ。彼は某IT企業のA社に付き合いがあって、ライターを募集しているって言うんですよ。そこでオレを紹介する女もどうかと思うんだけど、たまたまそのカメラマンと一緒にA社に打ち合わせに行ったんですね。そうしたら、Xさんって美女が出てきて、彼女と話すと「うちの上司のYというものがおりまして」と。「え?博報堂にいた人ですか?」って言うと、そうだと言う。たまたま、元々知ってた人だったんです。彼が来て、「中川くんどうも、久しぶりだね」「こんにちは!」「何、ライターやってんの?」「はい」みたいに話して。そうしてYさんに覚えてもらって、いろんな仕事をもらうわけですね。最初は、メルマガの仕事だったのです。
中川淳一郎さん
――ネットニュースじゃなくて、メルマガだったんですね。
中川: HTMLでメルマガを発行するってサービス。2001年12月当時、最新鋭だったんですね。写真とかを貼ることができる。それのライターになったんですよ。やっているうちにまたYさんから「中川くん、うちの会社案内つくれる?」と、突然A社の会社案内を編集することになったんです。オレが『TV Bros.』をやってるって知っているから、できると思ったんでしょうね。もちろん「できます」と。社長のブログ過去7年分読んで、彼と3時間インタビューして、一冊書いたわけです。するとそれが、会社案内大賞的なもので賞を取っちゃうわけですよ。それでA社の社長が「あいつはいい編集者じゃないか」って思うようになったんじゃないですかね。そこからA社の社内で、文字を編集しないといけないときに困ったら、この人に電話しろっていう動きができるわけですね。
――なるほど。
中川:で、その1年後にまた、いきなりYさんから呼ばれたわけです。ニュースサイト作りを考えてるので、助言がほしいと。それで社長室に行ったら、社長以下ずらりと幹部が並んでいたわけですよ。そこで「ニュースサイトといえばもうすでにアサヒコムやyahoo!がいて。彼らは王道なので、TV情報誌的に言うと『テレビガイド』とか『ザ・テレビジョン』ですよね。A社みたいな後発がニュースをやるなら、大手が取り上げないようなことを取り上げる『TV Bros.』方式のニュースにすりゃいいんじゃないですか」というような話をずっとしていました。その途中でいきなり社長が「で、中川さん編集長やりません?」って言うんですよ。「え、オレですか?オレネットわかんないですよ。」って。それまでは本当に、2chすらほとんど見たことなかったくらい、全然ネットは詳しくなかったんですよ。あくまでも取材をしてメルマガ書いてただけなんですね。
――そうだったんですね!
中川:そこで社長のことをすごいと思ったのは「芸能人とかって、記者会見とか出ても、つまらないことしか言わないじゃないですか」と言うんですよ。「むしろ、ブログとかのほうが正直に言ってますよね。だったらそれをニュースソースにすればいいんじゃないか」って。2006年5月当時、ブログを元にニュース記事を書く人なんていなかったですよ。旧来的な記者は、現場に行ったってことだけ重要視して、そこで得た発言がいかにつまらなくても、行ったからってことで記事にするわけですよね。ブログとかで言ったことは、所詮ネットでしょって話で、記事にしてこなかった。「お前は記者なのに足で稼いでねぇ! ネットで手抜きしやがって!」と上司も言う。ただ、社長は、それはその人が言ったんだから、同じ価値があると。それをニュースにしようと。それに加えて、ネット上て起こっている様々なこともニュースにする。そういうコンセプトでいきたいというのは、社長が言ったんです。なのでいまのニュースでは当たり前になっている「ネットで誰々がこう発言した」とか「twitterで××氏がこう言った」とかを発明したのは、A社の社長なんですよ。
――それは知りませんでした。すごい話ですね。
中川:すごい。オレも、その手があったかと思った。当然、始めたときは「こんな、ブログから書きやがって」とか、かなり批判されましたよ。でもいまは当たり前じゃないですか。でもこれも本当に、オレが社長と幹部に、好きなこと勝手に言っただけで始まっているわけですよ。40分ぐらいで「編集長になりませんか?」っていきなり言われて。「え、オレすか?」みたいな感じで、決まっちゃったんです。
――その会議で、それ以外に「こういうニュースサイトにしよう」って決まったことはあったのですか。
中川:バカなネタを出す、ということですね。バカなネタというのは先人がいて、「デイリーポータルZ」っていうサイトなんですけど、納豆1万回混ぜるとか、あの手のことやればいいんじゃねえのって話になるんですね。そこでオレたちが実際始めたときに何をやったかっていうと、蝉の抜け殻を50匹集めて、つぶしてふりかけにするとかね。Tシャツを何枚着れるか試したとか。ゴキブリホイホイをお台場と原宿と歌舞伎町に仕掛けて、数日後に見に行ったら何が入ってるかとか。そんなことばっかりやってたんですよ。そんなバカなネタに行こうって話なんですね。それで、最初の段階で一橋大学のプロレス研究会の後輩を、5人ぐらいライターにしちゃったんですよ。
編集者の仕事は商品にすること
――その人たちはライターじゃなかったんですよね。
中川:その人たちは学生ですよ。ヤツらからすれば、いいバイトなんですよ。当時オレもコスト感覚あまりなかったんで、1文字10円くらい払ってね、いっぱい書かせて。そうすると彼らはひと月に8万稼いでたわけですね。大して時間かからずに。
――そういう人にいきなり書かせて書けるものなんですか。
中川:あとは編集者がちゃんと見るじゃないですか。ヤツらには、ちゃんと蝉の抜け殻拾ってこいよとか、そこのところをきちんとやってもらって、とりあえずおもしろく書いてくれたらいいから、あとは任しとけと。
――文章の上手い下手はあとで直していく。
中川:そう。オレの場合その原点にあるのは、cakesの連載にも書きましたが、日経エンタの大沢慶久さんという人がいて。彼に原稿出したら、「中川君って本当に文章がへたくそだね!」って感動しながら言われるんですね。そしてそれはいまも続いていて、いま東京新聞で連載をやっているんですけど、その記者にも結構直されるんですよ。東京新聞の人は、多く書いてくれって言うんですね。実際これは1000字くらいなんですけど、1200字とか書いてくれって言う。大沢さんと東京新聞の人に共通しているところっていうのは、多くきちんとネタさえ書いてくればあとは自分がやるからっていう。それは文章が下手だったら上手にするし、媒体のトーンに合わせるとかいうのは自分がわかっているから、中川さんはちゃんとしたネタだけくれ、っていうスタンスなんですね。ライターっていうのはそういうものだと思ってます。
――それを直すのが編集者ということですね。
中川:編集者の仕事は、それを商品にするところ。前に宣伝会議からも「これからの編集者に求められること」みたいな取材を受けたことがあって、そのときには「お金のことを考えられるかどうか」って確か言ったんですよ。この原稿をいかに商品化するか、ってことを考えなくちゃいけない。これを見たら企業の人が広告を今後出してくれるかもしれない、とか、編集タイアップを取れる企画を考えるとか。それってライターの文章一個でどうにかなるもんじゃないんですよね。オレは、ライターというのはやっぱり、編集者の手前の存在だと思っていて。きちんとした裏取りさえしていれば、まあいいんじゃねえかって思ってる。作家は別なんですよ。作家の原稿は、もらったものをそのまま載せるって方向になるんですね。
「第7回:中川淳一郎(ネット編集者) 3/5」 に続く(2013/07/10公開)
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インタビュアー: 内沼晋太郎
1980年生。一橋大学商学部商学科卒。numabooks代表。ブック・コーディネイター、クリエイティブ・ディレクター。読書用品ブランド「BIBLIOPHILIC」プロデューサー。2012年、下北沢に本屋「B&B」を、博報堂ケトルと協業で開業。
編集構成: 内沼晋太郎
編集協力: 片山菜緒子
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