「戯曲にはふたつの価値があると思います。ひとつは読み物としての価値。そしてもうひとつは新しい演劇を生み出すという価値。過去の戯曲が未来の演劇のかてになる。その機会は多い方がいい。そんな考えから戯曲を公開してみることにしました。自由に読んでください。」――柴幸男さんが主宰する劇団「ままごと」が昨年より始めた「戯曲公開プロジェクト」のページの冒頭にはこうあります。演劇界の芥川賞とも称される岸田國士戯曲賞を2010年に『わが星』で受賞した柴幸男さんが今、自らの戯曲を無料公開する理由とは? 多くの人にとって馴染みの薄い「戯曲」という文学の1ジャンルの受容のされ方は今後どうなっていくのか? DOTPLACE編集長の内沼晋太郎が聞き手となり、出版・本(ホン)という視点からこのプロジェクトについて伺いました。
【以下からの続きです】
1/10「待っているだけじゃ誰も上演してくれないんです。」
2/10「『わが星』が岸田國士戯曲賞をもらって、戯曲について考える責任があると思うようになりました。」
演出家の時代
柴:でもそれは、時代に逆行しているのかもしれないです。もしかしたら、遠い将来、戯曲というものが必要なくなってくるかもしれないです。
——そうですか。
柴:現代の演劇界は「演出家の時代」と言われていて、演劇は「演出家が作った作品」という見方がとても強いです。演出家が、戯曲をどう解きほぐすかとか、現在を強く反射させる新しい演劇をどう生み出すか、ということがすごく問われているので。かつては戯曲がないと演劇ができない、という思い込みが強くあったと思うんですけど、それは今解消されつつあります。だから、進化の仕方によっては極端になって、戯曲がない演劇が増えて、劇作家の存在が薄れて、もしかしたら戯曲そのものがなくなっていくかもしれないですね。
——戯曲がない演劇の中にもテキストはあるわけですよね?
柴:そうですね。言葉や会話はあったりします。
——劇性がないものだけで演出がされているということなんですか?
柴:劇性がないとは言わないですけど。言葉や構成に関して、作者がどこまで自覚的に仕掛けているのかというのはありますね。だから、30分後のこと、1時間半後のこと、もしくは何年後のことまで計算して持ってきた言葉なのか、目の前の演劇のパーツの一個として言葉を現場で構成しながら作ってるのか、という違いはあると思います。ただ、考えて書いたからといって、いい戯曲か、劇性を持っているか、というのは別の問題で、その場でパッと出した言葉が力を持つことももちろんあります。だから、ルールさえ守れば優れた戯曲ができるというわけじゃない。それでも失敗作はあるし、そうじゃなくても優れた作品はある、という感じです。
戯曲とテキストの違い
——現場で、役者とのインタラクションの中から生まれてきた言葉は、最終的にはテキストを作るんですか、台本のようなものを。
柴:人によると思います。僕もいろんなパターンで演劇を作ったことがあるんですが、役者に口で説明して言葉を覚えてもらって、最終的に台本がないこともあります。頭から終わりまでの全部の出来事が書かれた紙がないことは、よくあると思います。
——そういう場合、あれを上演したいという問い合わせには、どうするんですか?
柴:スタッフ用として結局は台本にまとめられるし、そういう場合用に台本を書いたりします。ただ僕の場合、そうやってつくったときの問題は、頭から順番に書かれたわけじゃないということです。時系列をタイムラインとしてブロックのように表記させるべきものが、最終的な見た目は縦書きで戯曲と同じ形になってしまうわけです。で、それがスタッフに配られたり、発表されたり、上演台本として売られたりする。そうすると、頭から作者が一人で全部書いた戯曲と、言葉をパーツとして扱って再構成したものが、見た目は一緒になっちゃうわけです。見た目は一緒だけど、本質はどうなのか。もしかしたら、中身は全く別の意味を持ってるんじゃないだろうか。そういうことから、戯曲とテキストの違いをだんだん考えるようになったんです。
[4/10「一人の人間が全部考えて書くということは、どこか無理があるんですよ。」 へ続きます]
聞き手:内沼晋太郎(numabooks) / 構成:長池千秋 / 編集協力:鈴木恵理、細貝太伊朗
(2014年11月3日、RAILSIDEにて)
COMMENTSこの記事に対するコメント