某出版社にて、翻訳書編集、法務をへて翻訳権輸出に関わる冨田健太郎が、毎月気になる海外の出版事情を紹介する「斜めから見た海外出版トピックス」。
今回は、口は災いの元!? プロモーション活動の中で巻き起こった、とある作家の舌禍事件について。
第20回 ベストセラー作家のスキャンダル
▼新進ベストセラー作家の失墜
海外ミステリー小説のファンなら、昨年2018年に翻訳出版された『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』(池田真紀子訳/早川書房)をご存じでしょう。
ヒッチコックの『裏窓』を思わせる設定の心理サスペンスで、新人作家ながらさまざまなベストセラー・リストで1位を獲得する大ヒットとなりました。
そんな華麗な新人に、突然のスキャンダルが巻き起こりました。
「ニューヨーカー」誌が「サスペンス作家、欺瞞の軌跡」と題する記事を掲載し、大騒ぎとなったのです。
▼A・J・フィンのプロフィール
問題の作家A・J・フィンは、本名をダニエル(ダン)・マロリイといいます。
1979年生まれの彼は、米国のデューク大学を卒業後、英オクスフォードで修士号を取得。ニューヨークの大手出版社バランタインで編集アシスタントになります。
その文章力はテス・ジェリッツェンなどの作家も認めていて、ルース・レンデルの『薔薇の殺意』の復刊にはみずからあとがきを寄せているそうです。
あらためてオクスフォードの博士課程に進み、パトリシア・ハイスミスのリプリー・シリーズの同性愛をテーマに研究。それからロンドンの出版社リトル・ブラウンに就職します(社名は「Little, Brown」ですが、「・」でつなぎますね)。
それから米国に帰り、出版社ウィリアム・モロウの編集者となり、やがて出版責任者に昇進。
そのかたわら、『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』を執筆します。
海外では、新人作家の作品を出版社につなぐのは文芸エージェントですが、彼の場合はカーティス・ブラウンという老舗エージェントが担当。このデビュー作は原稿段階から注目を浴び、最終的に彼の所属先のウィリアム・モロウが権利を取得します。
出版されると、たちまち大ヒットとなり、翻訳権は40ヵ国以上に売れ、ジョー・ライト監督、エイミー・アダムズ、ジュリアン・ムーア、ゲイリー・オールドマンといったキャスティングで映画化も進んでいます。
著者がハイスミスを研究し、編集者でもあったとすれば、この成功もわかるような気がしますね。
たくみな小説作法はもちろん、『ゴーン・ガール』『ガール・オン・ザ・トレイン』といった女性主人公のドメスティックなサスペンスの流行を捉えたあたりも、したたかさを感じさせます。「A・J・フィン」というペンネームも、あえて性別を隠す戦略でしょう。
ちなみに、ダン・マロリイ本人は、なかなかグッド・ルッキングな男性です。
▼ダン・マロリイの虚偽発言
さて、デビュー作でベストセラー作家となったダン・マロリイは、世界中をプロモーションで飛びまわります。
その過程で、気になる発言がいろいろと出てきたそうです。
たとえば、彼が魅力的だと中国人のホスト・ファミリーから言われたという話が、2週間後には、中国人ではなく日本人家族になっていた、とか。
まあ、そんなのはちょっとしたまちがいかもしれませんが、こんな話もあります。リトル・ブラウンにいたとき、彼はロバート・ガルブレイスなる作家の原稿『カッコーの呼び声』を読み、会社に出版を働きかけたといっています。つまり、のちに『ハリー・ポッター』のJ・K・ローリングが書いていたことが判明した、あの作品を出したのは、彼の推薦によるものだというのです。
リトル・ブラウンに照会すると、この話は嘘だと判明します。
これなども、自分をよく見せようとする他愛のない作り話かもしれません。
しかし彼は、自分が抑うつ症状に見舞われ、あるいは双極性障害をわずらって、電気ショックやケタミン療法などで回復した、とあちこちで語っているそうです。
いまをときめく新進作家がそんな打ち明け話をするので、会場はすっかり同情する空気につつまれるそうですが、これが虚偽かもしれないとなると、かなり気分の悪い話になってきます。
また、『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』の語り手は広場恐怖症という設定ですが、彼自身もそうだといっています。かと思えば、自分はかかったことはない、と語ったこともあるそうです。
いったい、なにが真実なのか? ニューヨーカー誌は、ダン・マロリイの過去を掘り起こしていきます。
▼病いと苦難
ダン・マロリイが、大学2年のときにデューク大の雑誌に発表した「苦難を最大限受け止める」と題する文章が紹介されています。
17歳のとき、母が癌に冒された、と彼は書いています。瀕死の床で母は彼に、大学への願書に自分の母親が癌だと書くようにすすめたそうですが、プリンストン大学の受験は失敗に終わった、といいます。
ダン・マロリイには、その後もこの手の病いの問題がつきまといます。
オクスフォードの修士課程への入学審査をした教官によると、彼の願書には、研究テーマであるハイスミスのことだけでなく、家族の病いについて長々と書かれていたそうです。乳癌の母と、メンタルな障害と嚢胞性繊維症に苦しむ弟がいて、在学中も看病のためにしばしば帰国しなければならず、弟も、そして母も亡くなったとのことです。さらにこの教官は、ダン・マロリイ自身も脳腫瘍をわずらっているが、心配させないよう母には伝えていないのだ、と聞かされていました。
米国の出版社でアシスタントをつとめたあと、ダン・マロリイはオクスフォードにもどってきて博士課程に入りますが、その指導教官は、彼が家族の看病のために研究を中断して大学を離れたことを、いまも残念がっています。
おや、変ですね。修士課程の際に母も弟も亡くなったはずなのに、まだ病気の家族がいたのでしょうか。
じつは現在、ダン・マロリイの母も弟も、健在なのです。
母パメラは息子のパーティに姿を見せてもいますし、弟ジェイクはふつうに結婚して暮らしていることがわかっています。
つまり、家族の病いは嘘だったのです。
嘘をつかれていたことを知ったオクスフォードの先生たちこそ気の毒というもの。
もっとも、ダンが十代のときに母が癌になったのは事実のようで、大学の雑誌に書いたように、母の枕もとにつきそったことはあったかもしれません。しかし、オクスフォード在学中に家族の看病をしていたというのは虚偽だったのです。
では、彼自身が脳腫瘍だという話は、どうなのでしょう。
▼編集者としてのダン・マロリイ
先にご説明したように、オクスフォードの修士課程を終えたダン・マロリイは、編集アシスタントとして米バランタインに入ります。
入社の際に彼は、深刻な癌の母親のために女性向けのフィクションを読んであげた経験を語っています。のちには、自分も脳の癌をわずらっていたといっています。
ここで、妙な逸話が紹介されます。オクスフォードの博士課程に入るため、彼はバランタインを辞めることになるわけですが、その直後から、彼の上司である編集責任者のオフィス周辺に、尿が入ったコップが置かれるという出来事が起き、彼が退社するまでつづいたのだそうです。
嫌がらせ? マーキング?
取材に対し、ダン・マロリイは広報担当者をつうじて、自分がやったのではないと答えています。
退社後、彼が会社のクレジットカードを使って英アマゾンで買い物をしていたことも判明します。これは本人も認めているそうです。
オクスフォードの博士課程を“家族の病気のために”中断したダン・マロリイは、リトル・ブラウンに入社しますが、その際には、米バランタインで編集者をつとめ、博士号を2つ持っている(オクスフォードと米国の大学と)と主張していました。もちろん、バランタインではアシスタントにすぎませんでしたし、博士号はひとつも持っていません。
さほど経験もないはずのダン・マロリイは、中級クラスの編集者として雇われます。
知識もあり意欲的な彼は、作家たちからも評価が高かったようです。
1年あまりで、同業他社から転職のオファーを受けていると会社に持ちかけ、昇進に成功します。
いっぽうで彼は、手術不能な脳腫瘍をかかえていると周囲に語っていました。医者からはあと十年も生きられないといわれたそうで、涙した同僚もいたといいます。実験的な治療を受けるために休むことも多くなり、化学療法のために脱毛するせいか、室内でも野球帽をかぶっていたようです。
ついには、尊厳死を進めるスイスの団体を訪問してきたともいっています。
そんななか、リトル・ブラウンの経営者は、ダン・マロリイが他社から転職をすすめられていた話は嘘だったことを知ります。守秘義務により明らかにされてはいませんが、どうやらこれがもとで彼はリトル・ブラウンを退社することになったようです。
リトル・ブラウンを離れる前、ダン・マロリイが米ウィリアム・モロウに編集幹部として入ることが発表されます。業界筋によると、年収は20万ドルをくだらない地位だというのですから、たいへんなものです。
では、脳の病気はどうなったのでしょう。
▼弟ジェイクからのメール
ダン・マロリイの英国における仕事上の知人たちに、ある日ジェイク・マロリイからグループ・メールが届きます。
そう、オクスフォード時代には病いのすえに死んだことにされていた、ダンの弟ジェイクからのメールです。
それは、ダンが入院し、脳腫瘍を取りのぞく危険な手術を受けるとの知らせでした。麻痺や下半身不随が起きる危険性も高いが、彼はおそれず手術を受けるので、気にかけてやってほしい、といった内容だったそうです。
アドレスはGメールで、受け取った人のなかで、ジェイクと面識がある人間はいませんでした。
翌日には、ジェイクは同じようなメールをニューヨークの関係者に送っています。
このメールを受けた多くの人が、心を痛めて返信したそうですが、不審な点もあります。
ダン・マロリイは一般的な「e-mail」ではなく「e.mail」という表記をつかっていますが、ジェイクのメールもまったく同じだといいます。
また、ジェイクがダンの病床につきそっていたと思われるこの時期、ジェイクとの結婚をひかえていたフィアンセは、フェイスブックに恋人といっしょの幸せそうな写真をアップしているというのです。
ともかく、その後もジェイクからのメールはつづき、7時間にもおよぶ手術が行なわれ、思わぬ失血量で輸血しながらも腫瘍は摘出されたことが報告されます。
やがて、ダン・マロリイ自身がエージェントにメールを送り、1〜2週間たったら食事しようと誘ってきたそうですが、その3日後にはジェイクからの一斉メールで、ダンが鎮痛剤の影響で心停止を起こしたことが伝えられます。そのまた1週間後には、今度はダンみずからのグループ・メールが届き、手術は完全に成功し、脊髄に金属がつけられていて、「半分人間で半分機械」だと書いてきます。
数週間後、ウィリアム・モロウに復帰したダン・マロリイからはひと言の説明もなく、様子も以前とまったく変わりはなかったそうです(体型も髪型も)。
ちなみに、『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』の原稿は、出版社が競合して奪いあいになりましたが、途中で作家の正体がウィリアム・モロウのエグゼクティヴ・エディターだと判明すると、大半が降り、けっきょく当のウィリアム・モロウが権利を買ったというのが真相だといいます。
▼ダン・マロリイの弁明
彼が折々についてきた嘘は数えきれません。
たとえば、大学時代にニューラインシネマ社でインターンをつとめた彼は、ホラー映画『ファイナル・ディスティネーション』のシナリオの手直しに加わったといいます(監督のジェイムズ・ウォンは、これを否定しています)。
Guessのジーンズのモデルをしたことがあり、ロシア版ヴォーグの表紙に出たことがあるとも語っているそうです。
英国の作家ソフィー・ハナが、ダン・マロリイの行動を疑い、それが彼女の作品のプロットに反映しているという話まであるとか。
こうなってみると、ダン・マロリイがハイスミスのリプリーを研究対象にしていたというのは、ひどい皮肉に思えます。
今回の取材を受けたニューヨークの出版関係者のなかには、対象がダン・マロリイだと聞いて、「いつかこんな電話が来ると思っていたよ。取材かFBIかはわからなかったが」と感想を漏らす人もいたそうです。
彼に対する周囲の受けとめかたがわかる話です。
これらの一連の問題に対し、ダン・マロリイは、母の病気をきっかけに双極性障害(II型)となったためだと説明しているそうですが、専門家によると、この病気で虚言が説明されるわけではない、とのこと。
いずれにしろ、この偽りが病いのせいなのであれば、本人のためにも適切に対処すべきでしょう。
ニューヨーカーの記事は、ベストセラー作家のスキャンダルだけに、数々のメディアからフォローされました。
しかしながら、小説家というのはそもそも嘘を作りあげる存在であり、だとしたら、作家がみずからについて偽りを語ることはどうなのか、という問題もあります。
さらに、『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』には盗作疑惑までが浮上しています。
本作に先だつ数ヵ月前にウィリアム・モロウが出版したサラ・Z・デンゼル『Saving April』という作品が、プロットから、あの終盤のツイストまで、そっくりだというのです。
いずれにしろ、『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ』の映画は2019年秋に公開予定で進んでいるそうです。
さらに、A・J・フィンの第2作は、2020年1月に出版されることになっています。
デビュー作以上に実力が試されるわけですが、このような騒ぎのあとで、読者はどのように作品を受け止めるのでしょう。作品と作家自身とは切り離して楽しむべき、というもっともな意見もありますが、さて?
[斜めから見た海外出版トピックス:第20回 了]
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