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冨田健太郎 斜めから見た海外出版トピックス

冨田健太郎 斜めから見た海外出版トピックス
第16回 文芸エージェント界のゴッドファーザー

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 某出版社にて、翻訳書編集、法務をへて翻訳権輸出に関わる冨田健太郎が、毎月気になる海外の出版事情を紹介する「斜めから見た海外出版トピックス」。
 今回は8月に亡くなった文芸エージェント、マイクル・シッソンズの生涯とともに、文芸エージェントの仕事に迫ります。

第16回 文芸エージェント界のゴッドファーザー

 今年(2018年)8月、英国の文芸エージェント、マイクル・シッソンズが亡くなりました。

(「業界のゴッドファーザー」マイクル・シッソンズ死去)

エージェント界の「ゴッドファーザー」と呼ばれていたという人物ですが、彼について触れる前に、まずは「文芸エージェント(Literary Agent)」とはなにか、からお話ししましょう。

▼文芸エージェントとは

 本を出版する場合、日本では出版社が著者に直接アプローチするのがふつうかと思いますが、海外ではそこに文芸エージェントが介在するのが一般的です。

 エージェントは、19世紀後半に英国で誕生したと言われています。
 当時、ある著者が、出版社との交渉がたいへんだ、とこぼしていたところ、たまたま同席していた弁護士とのあいだで、こんな会話があった由。

弁護士「だったら、わたしが出版社との調整をすべて引き受けるよ。そうすれば、きみは執筆に専念できるだろう」

著者「それはありがたい。報酬はどうしようか?」

弁護士「出版社から入る金額の1割でどうだい?」

著者「よし、決まりだ」

 と、まあ、以上は聞いた話なので、どこまで真実かは保証できませんが、ともかく1880年頃には、文芸エージェントという仕事が生まれていたようです。出版が産業化してくる背景と合致したのでしょう。
 そして、現在でも文芸エージェントのありかたは変わっていません。
 つまり、

1)著者にかわって出版社との交渉いっさいを行なう
2)文芸エージェントの報酬は、基本的に著者の収入の10%

 これによって著者は、面倒な契約業務などから解放されますし、文芸エージェントの側は、著者に有利な条件を出版社から引きだせば、自らの収入を増やすことにつながるわけで、まさに持ちつ持たれつの関係なのです。

 既存の著者の利益をはかることとともに、文芸エージェントにとって大事なのが、新人の発掘です。有力な著者をつかまえることができれば、将来にわたって大きな利益になるのですから、これは重要です。
 文芸エージェントのもとには作家志望者から原稿が次々と寄せられ、彼らはそのなかから良質な作品を選びださなければなりません。

 たとえば、無名だったJ・K・ローリングは、『ハリー・ポッターと賢者の石』を文芸エージェントに送りますが断わられ、2番めに送ったクリストファー・リトルと契約します。しかし、この文芸エージェントの努力にもかかわらず、この原稿を引き受ける版元は見つからず、13社めにあたる比較的新興の出版社ブルームズベリーでなんとか日の目を見た(しかも初版は500部)、などという話は、みなさんもご存じかもしれません。
 文芸エージェントが原稿を見きわめ、出版社に売りこむことができなければ『ハリー・ポッター』の世界的な成功もなかったわけで、大げさにいえば、文芸エージェントが有望な新人を見つけることに、今後の出版界の行く末がかかっているわけです。

 このシステムはなかなかよさそうですが、いっぽうで著者とエージェントがモメたり、あるいは作家志望者を食い物にする悪質な文芸エージェントもどきがいたりと、さまざまな影の部分もあるもの。
 そんな文芸エージェントの世界に興味を持たれたかたには、手前ミソですが、おススメの小説があります。

 デブラ・ギンズバーグ『匿名投稿』(中井京子訳)

 やり手の文芸エージェントのもとに飛びこんだヒロインが、素人作家たちからの投稿原稿を読んでいるうち、あきらかに彼女自身を描いているとしか思えない作品に出会い、しかも内容が現実とシンクロしてきて、ついには作中で殺人が起きる……というミステリーですが、文芸エージェントの仕事ぶりや、作家と出版社との関係もよくわかる好編です。

※日本では、かつては翻訳出版の仲介をするエージェンシーが翻訳家や海外へ権利を売る際に作家のエージェントとして機能していたことはありましたが、ボイルドエッグズを皮切りに、アップルシード・エージェンシーコルクをはじめとする文芸エージェントが増え、活動が広がってきています。

▼マイクル・シッソンズの歩み

 マイクル・シッソンズは1934年生まれで、ヨークシャーのハル出身。
 有名な地場産業でもあったペンキ作りが家業だったそうですが、父はダンケルクの戦いでの負傷がもとで死去し、1941年には空襲で工場が爆撃を受け、祖父も失っています。
 兵役のあと、奨学金を得てオクスフォード大学エクセター・カレッジで歴史を学びます(劇作家アラン・ベネットと同窓)が、学生新聞の編集に夢中になって落第するほどだったといいます。歴史の研究者をこころざしますが、アメリカで教える機会を得た際に、自分は向いていないと痛感。
 新聞社でフリーで働いたりしていた彼は、偶然、文芸エージェントという職業を発見します。イーヴリン・ウォーなどをクライアントに持つA・D・ピーターズが人をもとめていたのです。ピーターズは戦争末期に息子をなくしており、戦争で父をなくしたシッソンズとはたがいに引かれるものがあったようです。しかも文芸エージェントという仕事は「ビジネス界にも、執筆の世界にも身を置きたかった」という彼の思いにピッタリで、「その日以降、他の仕事に就くなど考えられなくなった」そうです。1959年のことです。

 当時の出版界はお堅い紳士たちの業界で、文芸エージェントはあまりよく思われていなかったそうですが、ランチ・ミーティングにノー・ネクタイでやって来るような型破りなシッソンズはどんどん頭角を現わし、30歳でA・D・ピーターズの責任者になります。
 73年にピーターズが亡くなったあとは会社を引き継ぎ、小説家だけでなく多くの政治家たちにも本を書かせて、成功をおさめていきます。
 89年、A・D・ピーターズは、芸能エージェンシーのフレイザー&ダンラップ社と合併。こうしてできた通称AFPは、日本の出版界にとっても重要な取引相手となっています。

 彼のクライアントは、A・S・バイアットとマーガレット・ドラブルの作家姉妹、歴史家サイモン・シャーマ、労働党のデニス・ヒーリーに保守党のウィリアム・ヘイグ元外相、演出家ピーター・ホールまで多岐にわたります。
 才能ある作家を見いだすだけでなく、話題作を書くポテンシャルを秘めた人材に目をつけ、じっさいに執筆させてベストセラーを生みだす、たしかな眼力を持っていたのです。

▼業界のゴッドファーザー

 シッソンズは、クライアントのためにはものすごい勢いで出版社にくってかかるという、おそろしい存在でした。経済面ではもちろんのこと、本作りなどについても同様だったそうです。
 そのベースにあったのは、著者たちの作品に対する絶対的な信頼だったといいます。
 長年の彼のクライアントで友人でもあったジャーナリスト、マックス・ヘイスティングズは、「あれほど戦闘的なエージェントはロンドンにはいないだろう」といいます。まるで、自分がかかえている作家がトルストイでもあるかのようなふるまいかただったが、じっさいそんなふうに信じていたのだろう、と。「彼は、なにをどう書くべきかを的確に教えてくれた……10%を払うのを惜しいと思ったことは一度もないよ」

 数あるシッソンズの戦いのなかでも、クリス・パッテン『東と西』にまつわる事件(98年)が有名でしょう。

 返還前の香港総督となったパッテンの回想録の権利を、シッソンズはハーパーコリンズに売ります。しかし、あとになって同社が、これを出版しないと言いだしたのです。
 そこで、シッソンズがはげしく攻撃をはじめます。ハーパーコリンズの親会社ニューズ・コーポレーションのルパート・マードックが中国に進出しようとしており、中国政府に批判的なこの本がビジネスのじゃまになるため葬ろうとしている、と主張します。
 ことは訴訟沙汰となり、出版社側は相当の金額を積んで和解に持ちこもうとしたようですが、けっきょくマードックが謝罪する形で決着し、本は他社から出版され、高い評価を得たのでした。

 こんなシッソンズですから、出版社の側からも、最高にタフで頑固な交渉相手だった、とおそれられていました。
 しかし、好奇心にあふれ、その広い興味に知性がくわわり、商業的な成功をおさめる素材を見抜く力があった、との賞賛も受けています。

 いっぽうで彼は、英国内の文芸エージェントをたばねる業界団体の設立にも尽力しました。
 こうして78年にできたのが「著者エージェント協会(Association of Authors’ Agents)」です。ときには作品を奪いあう状況も起きかねない文芸エージェントの業務の適正なありかたをさだめ、プレゼンスをあげるのが目的でした。

 また、早くからコンピュータの導入に熱心で、経理システムのみならず、著者の作品管理にも活用していたといいます。
 近年では、カタログのオンライン化に取り組み、自社で扱った全作品のデータ化を進めていたそうです。それによって、埋もれていた作品をもう一度世に送りだそうというのです。

「エージェントは、著者とその作品のために、あらゆる方法で戦うために存在しているのだから」

 よほど強面の人物と思われそうですが、グルーチョ・マルクスを敬愛する、ユーモアにあふれた人がらで、マーガレット・サッチャーのパントマイムをやらせると絶品だったとか。
 狩猟愛好家で、政府がハンティングを規制しようとしたときは反対運動の先頭に立ち、最近はブレグジットに対抗する残留派としても活躍。クリケットが好きで、オクスフォードシャーに農場を持ち、ヨークシャー人としての誇りを終生持ちつづけていたそうです。

 そんな彼の薫陶を受けた後輩は数知れません。

 文芸エージェントという天職をまっとうした、まさに「業界のゴッドファーザー」と呼ばれるにふさわしい存在だったのです。

[斜めから見た海外出版トピックス:第16回 了]


PROFILEプロフィール (50音順)

冨田健太郎(とみた・けんたろう)

初の就職先は、翻訳出版で知られる出版社。その後、事情でしばらくまったくべつの仕事(湘南のラブホテルとか、黄金町や日の出町のストリップ劇場とか相手の営業職)をしたあと、編集者としてB級エンターテインメント翻訳文庫を中心に仕事をし、その後に法務担当を経て、電子出版や海外への翻訳権の輸出業務。編集を担当したなかでいちばん知られている本は、スペンサー・ジョンソン『チーズはどこへ消えた?』(門田美鈴訳)、評価されながら議論になった本は、ジム・トンプスン『ポップ1280』(三川基好訳)。https://twitter.com/TomitaKentaro