某出版社にて、翻訳書編集、法務をへて翻訳権輸出に関わる冨田健太郎が、毎月気になる海外の出版事情を紹介する「斜めから見た海外出版トピックス」。
今回は、有名書店から移った経営者がみごと立て直した老舗書店チェーン店の成功と、そこで噴出した賃金問題について。
第21回 英国書店員の闘い――店舗経営と労働条件の対立
▼ウォーターストーンズ書店
ウォーターストーンズといえば、英国屈指の書店チェーンです。
1982年創業と歴史は比較的浅いのですが、小売大手のWHスミスに買収され、その後HMV傘下に入るなど親会社は転々とし、現在はNYのファンドの所有下にあります。
店舗数は280以上、従業員は3500人にのぼります。
そんな書店チェーンが、世間の大きな注目を集めています。
2019年3月下旬、スタッフがネット上で以下のような請願を出したのです。
▼生活賃金
この従業員(エイプリル・ニュートン氏)は、ウォーターストーンズに生活賃金の支払いをもとめています。
ここでいう「生活賃金(living wage)」は、いわゆる「最低賃金(minimum wage)」とはちがいます。
「生活賃金」とは、働く人が一定水準の生活をするために必要とされる金額で、英国では時給9ポンド、ロンドンでは10.55ポンドとのこと。
いっぽう「最低賃金」とは、文字どおり人を雇ううえで最低限支払わなければならない金額のことで、公に決められています。2018年度で時給7.83ポンド、最新の2019年4月の改定で、最低賃金は8.21ポンドに引きあげられていますが、これでもまだ差がありますね。
ウォーターストーンズの書店員の時給は、最低賃金をわずかにこえる額だといいます。
生活賃金を支払ってもらえれば、書店員にとっては経済的な負担や精神的なストレスが減り、より健康的になり、本もたくさん読めて、知的で洞察力を持てるようになり、それがひいては書店を活性化することになる、と従業員は主張しています。
▼請願への反響
この請願は、1万人近い賛同者の署名を集めています。
しかし、反響はそれだけにとどまりませんでした。
作家たちが支援に動いたのです。中心になったのはケリイ・ハドスンという、みずからもワーキング・クラス出身の作家で、ウォーターストーンズの経営者に向け、公開書簡を発表したのです。
本を書いている者にとって、文学界という文化面においても産業面においても、書店員は生命線である。そのウォーターストーンズの職場に、大変な仕事量とストレスがかかっていることもよくわかる。だからこそ経営者には、書店員の技能や専門性や情熱に見あうだけの報酬を財政面でも考えてほしい——という内容です。
ただし、給与をあげるからといって、人員を削減したり、労働時間を短縮させたりしないようにしてほしい、と釘をさしてもいます。
これには、1400人近い作家が名を連ね、ウォーターストーンズの問題はさらに注目されることになったのです。
▼ウォーターストーンズの経営者
矢面に立たされることになったウォーターストーンズの社長(マネージング・ディレクター)は、ジェイムズ・ドーントという人物です。
外交官の息子として生まれた彼は、J・P・モルガンなどを経て、1990年に書店「ドーント・ブックス」を立ちあげました。
1910年に建てられた古書店の建物を利用し、アンティークな風情に個性的な品揃えと陳列で成功をおさめます。店舗を拡大し、2010年にはロンドン市内に6店をかまえるまでに成長します。
かたやウォーターストーンズは、危機的な状況にありました。長年の経営不振で、支店を次々と閉鎖しても株価は大きく下げ、ついに2011年にはHMVが手放し、ロシア人投資家アレクサンダー・マムートのファンドに買収されます。
アマゾンの隆盛に抗しきれなかった英国を代表する書店がロシア人に買われた、ということで、これは大きなニュースになりました。そのときにウォーターストーンズの再建をまかされたのが、ジェイムズ・ドーントだったのです。
これは、皮肉な話でもありました。
かつて、ウォーターストーンズが店舗数を拡大させていた時期には、近隣の多くの中小書店が淘汰されていきました。大規模なチェーン店が増加するということは、画一化された本屋ばかりが増えるという結果をもたらしました。
そこへ、アマゾンというオンライン書店の大波が押し寄せた結果、街の書店は経営が圧迫されていき、ウォーターストーンズはまさにその渦中にあったのです。
対抗軸となったのが、ドーント・ブックスに代表される個性的な独立系書店でした。巨大チェーン店と異なり、一店一店が独自の魅力を放つことで、客を呼び寄せることに成功したのです。
そのジェイムズ・ドーントが、ほかならぬウォーターストーンズの経営者に招かれたわけです。
ロシア人投資家マムートの炯眼といえるでしょう。
ドーントはさまざまな試みを展開しますが、その肝はドーント・ブックスそのままの戦略、すなわち個性的な店づくりだったのです。
ドーントは、900万ポンドを投資して店舗のインフラを改善し、よりよい環境づくりを目指します。
また、200万ポンドを投じて、顧客の注文を受けると翌日には商品が店舗に届くシステムを整備します。このように、読者の満足度をあげるような変革をしていったのです。
ウォーターストーンズの競争相手は、より大きなチェーンであるWHスミスや、より小さな独立系書店ではなく、アマゾンだけである、とドーントはいいます。さらに電子書籍とも距離を置き、ベストセラーに左右されない、商品のコントロールが利いた書店づくりを目指したのです。
ウォーターストーンズの経営権は、ロシア人のマムートからアメリカのファンドへと移りましたが、その後もドーントは社長として残りました。
しかし、ドーントの成功の陰には、人員削減ときびしいコスト・コントロールがありました。
上に掲げた2017年時点でのインタビュウでは、ドーントは「売り上げをのばし、利益を生みだし、最低賃金をあげたい」と語っています。「店員の給与を増やすことが必要だ……スタッフに投資すれば、彼らは会社に残りたいと思い、懸命に働いてくれ、会社もよりよくなるという好循環ができる」と。
▼ジェイムズ・ドーントの反応
その発言とは裏腹に、今回ドーントは、黒字化して2年の現状では昇給に応じることはできない、と答えています。生活賃金にもとづいた給与は望ましいが、利益を出しつづけられるようになってはじめてそれも可能になる、というのです。
賃金ベースを引きあげれば、経営は破綻するし、初任給をあげようとするなら、そのぶんを経験のある店員の賃金を減らすか、なにかべつの莫大なコスト削減を実現しなければならない。むしろ重要なのは、初任給をあげることより、キャリアをのばせば、それに応じて昇給するシステムをつくりあげることであり、会社はそうしてきた、とドーントは語ります。
そして、優秀な社員にはできるかぎりの賃金を支払うが、むしろ刺激的な仕事をする環境整備がメインだと述べています。
その後、ドーントは請願を出した店員たちと会い、書店員に生活賃金が支払われるべきだという訴えにはひじょうに共感するが、書店業の危機的な状況にあっては、持続可能なビジネスをつづけていくことと基本給の引きあげによるコスト増とは同一線上で考えなければならない、と答えています。
先ほども触れたように、最低賃金は、昨年の7.83ポンドから、今年4月に8.21ポンドに引きあげられましたから、5%近く上昇した計算になります。またウォーターストーンズでは、昨年9月に3%の昇給も実施したとのこと。つまり、それなりに増額が実現しているというのが、ドーントのいいぶんです。
彼は、書店員の給与が適正ではないと認めていますが、しかし、このような不適切な賃金はウォーターストーンズにかぎらずどこででも見られることであり、いまは会社の業績をあげることに努力すべきときだとしています。
じつに経営者らしい回答というべきでしょうか。
▼従業員側の動き
ネットをつうじて組織的な動きに出た従業員サイドは、『ウォーターストーンズで働くということ(Working at Waterstones)』という本を作り、実態を訴えます。このあたりも、書店員ならではといったところ。
ネットでの団結からさらに一歩進めて、組合設立の呼びかけもなされています。
現場の書店員は、仕事のカテゴリーがまちまちなので、統一しにくいと感じているが、他の小売業者とおなじで組合をつくって対抗すべきだ、という主張です。
書店員たちはいい仕事をしているのだけれど、賃金面でよりよい処遇をもとめて、ウォーターストーンズを辞めていく例も見られるとのこと。
ドーントがかつて語っていた「スタッフに投資すれば、彼らは会社に残りたいと思い、懸命に働いてくれ、会社もよりよくなるという好循環」とはまったく逆の結果で、これを聞かされて彼自身もショックを受けていたそうです。
街の書店の苦闘がつづくなか、英国では現場の従業員にしわ寄せが行っていることがあきらかになりました。
日本でも似たような状況かもしれません。
それを打破できる明快な処方箋があるわけではなく、それだけに出口が見えていない現状が気がかりです。
[斜めから見た海外出版トピックス:第21回 了]
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