第12回 “ペンギン”を育てた男
5月14日、大手出版社ペンギンを長年トップとして指揮したピーター・メイヤーが、82歳で亡くなりました。
現ペンギン・ランダムハウスはメイヤーを追悼して、「ペンギンにおける彼の長く輝かしいリーダーシップは、これからもペンギン・ランダムハウスのDNAを成す」と語っています。
今回は、彼の足跡を追ってみたいと思います。
▼エイヴォンでの成功
ピーター・メイヤーは、1936年にロンドンで生まれますが、3年後には両親とともにアメリカへ移住。父母ともにドイツ語を話したため、映画に出てくるナチスみたいで嫌だったとピーターは回想しています。
ただし、ハリウッドでドイツ人を演じていたのは多くはユダヤ系の俳優で、じっさいメイヤー家もユダヤ系。そのため、ヨーロッパに残った多くの縁者をホロコーストで失ってもいるのです。
ピーター少年は、近くの図書館に入りびたり、貸出上限の週5冊をつねに借りていたそうです。
奨学金を得て大学へ入り、英国留学を経て、卒業後は商船隊で航海を経験したり、タクシー運転手をしたりして金を貯め、フルブライト奨学制度を利用してベルリンで学び(ドイツ語ができたので)、比較文学を修めます。
ちなみに、タクシー運転手時代に彼はアレン・ギンズバーグと仲間たちをニューヨークから大陸を横断してサンフランシスコまで乗せていくという経験をしています。
最初は小出版社で編集アシスタントをつとめますが、翌1962年にはエイヴォンに入ります。
エイヴォンは、1950年代をつうじてペーパーバック出版社として名をあげ、ハースト傘下に入っていました。
ここでメイヤーは、1934年に出版されて30年間忘れられていたヘンリイ・ロスの“Call It Sleep”を復刊します。20世紀初頭のニューヨークのゲットーで暮らすユダヤ少年を描いた小説で、ペーパーバックでの復刊にもかかわらず、ニューヨーク・タイムズ・ブック・レビュウが一面で書評し、100万部を超えるベストセラーとなりました。
編集者ピーター・メイヤーは、復刊の達人でもあったのです。
こうして彼は、エイヴォンで頭角を現わしていきます。
エイヴォンは、前回も触れた、キャスリーン・E・ウッディウィス『炎と花』(野口百合子訳)を1972年に刊行しています。ロマンス小説の歴史を変え、200万部を超える大ヒットとなった作品ですが、これらの出版の陰にもメイヤーがいたわけですね。
メイヤーはエイヴォンでの14年間で、編集長を経て発行責任者までのぼりつめたのでした。
▼オーヴァールック・プレスと、ポケット・ブックス
ピーター・メイヤーは、勤めのかたわら、1971年に父とともにオーヴァールック・プレスを創業します。
彼は、1930年代にユダヤ系によって創刊されたドイツ語新聞のアンソロジーを企画しました。ユダヤ系移民の情報が集積された内容で、個人的に重要な本だったようですが、エイヴォンのラインには合わないため、これを出版するために、すでに手袋製造業を引退していた父とともに、会社を設立したのです。
こうしてメイヤーは、ウィークデイはニューヨークの大手出版社で働き、週末はウッドストックにあるオーヴァールック・プレスですごす生活を長年つづけることになります。
1976年、メイヤーは、エイヴォンをはなれ、ポケット・ブックスの発行人に就任します。
ポケット・ブックスといえば、アメリカにおけるペーパーバック出版の草わけ的存在。古典から現代小説、そしてミステリーなどを出版して、一世を風靡します。有名なカンガルー・マークは、アメリカのペーパーバック文化のシンボルといえるでしょう(たとえば、浅倉久志著『ぼくがカンガルーに出会ったころ』)。
ペーパーバック出版に追随したエイヴォンを、ポケット・ブックスは著作権侵害で訴えたこともあります(これは法廷で却下されましたが)。
つまり、ピーター・メイヤーは、ライヴァルの老舗出版社からトップとして招かれたわけで、その有能ぶりがうかがえます。
※ペーパーバックによる出版文化の大衆化は、画期的なことでした。第二次世界大戦中には出版界が「戦時図書審議会」を設立して、兵隊文庫と呼ばれるペーパーバックを戦場の兵士に送り、そのなかから、1925年の発行以来忘れられていたフィッツジェラルド『華麗なるギャツビー(グレート・ギャツビー)』が再発見されたりします(このあたりの歴史は、モリー・グプティル・マニン『戦地の図書館』(松尾恭子訳)を、ぜひ)。
しかしその2年後の1978年、彼はさらに大手へ移籍します。ペンギンです。
▼ペンギン時代
ペンギンは、もともと英国の出版社で、アメリカよりも早くペーパーバックを創始しました。彼の地のカンガルーに対し、こちらはペンギンがシンボル・マークというわけです。
1972年、経営が思わしくなかったペンギンは、教育系出版の大手ピアソンに買収されます。そんななか招かれたピーター・メイヤーには、路線の建てなおしが期待されていたことでしょう。
彼はペンギンのCEOとして、英米だけでなく、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ドイツ、オランダ、インドといった各国の法人を統括する立場となります。
メイヤーは、M・M・ケイやシャーリー・コンランといった女性小説、さらにはダイエット本やジェーン・フォンダのワークアウト、禁煙本などでベストセラーを連発します。
彼が文芸専門の出版人ではなかったことがわかりますが、文学ジャンルにおいてもウィリアム・ゴールディングの作品でブッカー賞を受賞しています。
こうして、6年間で売上高を3倍にしたというのですから、たいへんなもの。
買収も積極的に行ない、文芸出版社マイクル・ジョゼフやヘイミッシュ・ハミルトン、あるいはニュー・アメリカン・ライブラリー、さらにはフレデリック・ワーンを傘下に収め、そこが持っていたピーター・ラビットの権利も取得します。そしてマーチャンダイズを展開し、出版の新たな可能性をひらきます。おかげで、現在の『ピーター・ラビット』の映画化でも大きな利益を得ることになります。
しかし、ペンギンとピーター・メイヤーといえば、あの大事件を避けてはとおれません。
サルマン・ラシュディ『悪魔の詩』の出版です。
▼『悪魔の詩』事件
ニューヨーク・タイムズのメイヤーの追悼記事も、じつはこのような見出しです。
サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』は、ペンギンのインプリントであるヴァイキングから1988年9月に出版されました。
評価は高かったのですが、クルアーンと預言者ムハンマドを冒涜しているように読める内容をふくんでいたため、イスラム教徒を中心に反発がひろがります。
インドやバングラデシュなど各国で発行禁止になり、英国ではデモで焚書にされるという事件が起き、アメリカでは書店が脅迫されたり、爆弾テロもあったといいます。
そして翌89年2月、当時のイランの最高指導者ホメイニ師によって、ラシュディに死刑宣告が出されたのです。
ラシュディ自身は常時、武装警察の監視下に置かれ、3日おきに住み家を移動させられるという状態で、ストレスから強い虚脱感におちいったといいます。
作家は無事だったわけですが、各国版の翻訳者が襲撃を受けます。日本でも翻訳を担当した五十嵐一氏が勤務先の筑波大学で殺害され、トルコでは翻訳者を狙って37人が犠牲となるなど、世界的な問題となります。
ラシュディには警備がつきましたが、出版社のペンギンは放置されていたそうです。
メイヤーのもとには脅迫状が届き、出版停止にすべきだとの忠告もされたとのこと。住所や車を変えてホテルを転々として安全をはかるようにと助言も受けますが、彼は「修道士のように暮らすのは嫌だった」といいます。彼自身のみならず、会社全体が標的とされていたにもかかわらず。
「この本を嫌う人がいたり、この本のせいで脅してくる人がいるだろうから出版はしない、などといえば、それで終わりなんだよ」とメイヤーは語っています。
▼ペンギン以後
ピーター・メイヤーは、けっきょく20年近くペンギンを率いることになりました。
手がけた作家は、スティーヴン・キング、ポール・オースター、テリー・マクミラン、ソウル・ベロウ、J・M・クッツェー、アイリス・マードック、それにかつての乗客アレン・ギンズバーグなど、あげはじめればキリがないほど。
英国発祥の出版社を、世界中で読まれる本を生みだすグローバル企業に育てあげた彼は、1997年、60歳をこえたのを機に、ペンギンを退きます。
このとき、そのさらに上にあるピアソンから声をかけられたそうですが、彼はそれを断わります。
「会社の重役としてではなく、出版人として引退したかった」
こうしてメイヤーは、みずからが興したオーヴァールック・プレスに帰ったのでした。
ペンギンがランダムハウスと合併して世間を驚かすのは、その16年後の2013年のことです。
メイヤーの復刊路線は、オーヴァールック・プレスでも発揮されています。
たとえば、P・G・ウッドハウス。マーヴィン・ピーク『ゴーメンガースト』(浅羽莢子訳)に、チャールズ・ポーティスの西部劇『トゥルー・グリット』(漆原敦子訳)。あるいは、絵本の『ぶたのフレディ』シリーズ。宮本武蔵『五輪書』に、キリル・ボンフィリオリなども出しています。
メイヤーは、自身の復刊哲学について、こう語っています。「大事なのは、読んでおもしろいか、価値があるか、いい本か、ということであって、古いか新しいかは関係ないだろう? 読んだことがない本であれば、古いものであっても、その人にとっては新しい本なんだ」
その後、ロシア文学の版元アーディスや、創業100年以上になるダックワース(ヴァージニア・ウルフの父親違いの兄が創業した出版社)を買収し、出版の幅をひろげていきます。
こうして見ると、やはり文芸が専門だったように思えますが、ペンギン時代にも見たように、メイヤーは出版のジャンルにはオープンだったようです。「Sudoku(数独)」の本をアメリカで最初に出版し、ベストセラーにしたことからも、それはうかがえると思います。
オーヴァールック・プレスのスタッフは、ルールにとらわれないメイヤーのこんな逸話を披露しています。
フランクフルト・ブックフェアの自社のブースで、禁煙なのを気にせず、タバコに火をつけたメイヤー。かつてペンギンで禁煙本をヒットさせた当人は、ずっとスモーカーだったのですね。すると、通りがかりの友人が、ここでタバコ吸っていいの、とたずねました。メイヤーは真顔で「もちろん」と答え、すぐに彼の周囲は、各国から来た知りあいの喫煙者でいっぱいになったといいます。
出版文化の大衆化とグローバル化の時代を体現したような生涯でした。
[斜めから見た海外出版トピックス:第12回 了]
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