COLUMN

川崎昌平 未明のマンガ論—マンガは拡張する3.0

川崎昌平 未明のマンガ論—マンガは拡張する3.0
「読者と作者の関係はどう変わるのか?」

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 DOTPLACEにて2013年から連載を開始した「マンガは拡張する」。マンガを取り巻く現況を俯瞰し、マンガと人々がいかにして出会うことができるか、その可能性を綴った全10回の「連載コラム」。そこで描いた構想を直接第一線で活躍する方々にぶつけていった「対話篇」。その「マンガは拡張する」シリーズが装いも新たに新連載を開始します。題して「未明のマンガ論」。連載開始から約5年の間にも、マンガのポテンシャルは拡張し続けています。その実態を様々な角度から捉え、より広げていくために、今回の連載ではリレー形式でテーマを受け継ぎながら、複数の異なる経験を持つ執筆者が実態をレポートしていきます。
 第二回は川崎昌平さん。前回の原稿を受けて、編集者であり作家でもある川崎さんならではの立場から、マンガの「共通言語性」と後世に語り継がれるための方法について考察していただきました。

「マンガは拡張する」シリーズ
●「マンガは拡張する[連載編]」はこちら
●「マンガは拡張する[対話編]」はこちら
●「マンガは拡張する[対話編+]」はこちら

増え続けるマンガ

 前回の山内康裕さんのテキストには、現代のマンガを考える上で2つの重要なキーワードが提示されていると感じた。ひとつは「共通言語性」、もうひとつは「ツールとしてのマンガ」である。マンガのポテンシャルを上げたいとする山内さんの理念には、常日頃「本の可能性をさらに高めたい」と考えている私も大いに賛同する。マンガには、ユーザーにもクリエイターにも(この区分すら超越できそうなほどの)強い潜在的能力がまだまだある。文章がおそらく長くなるだろうから、まずは「共通言語性」について、ここで少し私も考えを述べてみたい。

 マンガの「共通言語性」についてだが、90年代前半に少年時代を過ごし、出版業界がもっとも儲かっていた時代の書籍をリアルタイムで読んでいた身からすると、大いに賛同できるマンガの機能である。誰もが同じ雑誌に触れ、同じマンガを読んでいたあの時代、友人同士でマンガについて語ることはさほど難しいコミュニケーションではなかった。
 だが、現状はどうか。雑誌というメディアによってスクリーニングされたマンガが、雑誌を手にする読者によってさらなる選別を受け、競争に勝ち抜いた一部のマンガたちが、多くの読者にイメージとして残り、文化に深く刻み込まれていく……というプロセスはもはや通用しない。ネットを中心とした「マンガを発表する空間」はたくさんあり、読者にとってマンガの供給源は雑誌に限らなくなった。多くの読者がいろいろな方法でさまざまな媒体からマンガを得ている。「雑誌で人気のマンガ」だけがマンガなのではない。言ってしまえば、「誰もが読んでいるマンガ」などというものは、もう過去と概念にしか存在しないのである。

 より細かく区切った読者相互の輪を形成できれば、共通言語性は担保されるだろう。ただ、そのコミュニティにおける共通言語性を維持し続けたければ、輪は極力閉じていたほうがよい。少し広げれば「アンチ」が湧き、さらに広げようとすれば「オワコン」のレッテルが待っている……と書いてみたものの、別段その状況が悪いわけでもない。細分化された嗜好に合致したマンガは、当然支える読者人口も少ないために、コンテンツとしての寿命が短くなるのは避けられない。「飽きっぽいユーザー」を責める権利はどんなクリエイターも有してはいない。いや、現代の「飽きっぽいユーザー」は「飽きてもすぐに次のコンテンツに出会える」からこそ簡単に飽きるという選択ができるわけで、その行動に制約を与えたければ……コンテンツそのものの数を減らすしかない。が、2016年に刊行された新刊コミックスは12,591点(日書連調べ)と、1996年の倍以上になっており、Web媒体、pixiv、Twitterなどなど、多種多様なネット空間で発表された作品も含めれば、すさまじい数のマンガが毎日新たにつくられていることになる。『幽☆遊☆白書』や『SLAM DUNK』の感想を身近な人間同士で語りあった時代とは、明らかに異質な環境が現代のマンガという文化を形成しているのである。

「共通言語性」の限界

 膨大なコンテンツ数となった現在のマンガのあり方を、私はまったく否定しない。年間刊行点数8万点を超えるような新刊至上主義とでも呼ぶべき現行の体制が、出版業界自体を苦しめているという理論を、ひとりの編集者として痛いぐらい理解している立場ではあるが、それでも「書籍もマンガも多すぎだ。増えすぎたコンテンツが出版を滅ぼす。だからコンテンツ数を抑制しよう」などという意見に私は決して与しない。それはどこまで言っても出版業界側の理屈でしかないからだ。「表現したい」という欲求を持つ人々がいて、なおかつそれらの欲求を適えるための環境がある状況を、どうして止められるだろう? どこの誰にそれを止める権利があるだろう? そういった状況下から次々と新しいマンガが生み出されるとしたら、私はそれらのマンガを選別する編集者ではなく、応援する編集者になりたい。

 もちろん、私が応援しようがしまいが、コンテンツ数の増大は止まらないだろう。その結果、今後ますます、数字上のヒットはともかくとして、高い共通言語性を誇るような「誰もが読んでいるマンガ」は生まれにくくなるに違いない。小さなクラスタに収斂した各人の嗜好が、それぞれのコンテンツを支持したり離反したりを繰り返しつつ、細分化したさまざまなマンガたちを育てていく。その過程を指して「創造性の焼畑農業」だと批判する向きもひょっとするとあるのかもしれないが……マンガの経済的構造についてはその指摘は正鵠を射るのだろうが(この部分については長くなるため、別の機会に改めて話そう)、「どうせ儲からないからやめなよ」と説き伏せられて筆を折るような人間ばかりだったら、これほどまでにマンガに溢れる時代になってはいないはずだ。私も少しマンガ(と呼んでいいものかどうかわからないが)を描いているが、お金儲けを意識してペンを走らせたことは一度としてない。ただ描く明確な目的があるために、描いているだけである。

 話を戻そう。私は細分化したマンガたちを否定しない。その状況から後年まで語り継がれるようなマンガが生まれにくくなることも想定している。しかし、だからこそ新しい可能性があるようにも感じているのである。

「批評」という可能性

 可能性をより具体的に考えると、「現代のマンガをいかにして後世に残すかという問題における各種の行動」となる。「細分化したマンガたちを否定しない」と上に書いたが、そうしたマンガたちが生まれては消えていくだけの状況をただ漠然と眺めているだけの、受動的な肯定も私はしたくない。20世紀までであれば「語り継がれるマンガ」は出版社が決めてくれた。確固たる売上を誇るマンガ、言い換えれば出版社にとって継続してメリットを与えてくれるマンガは、重版され、復刻されながら、経済的論理に基づいて残るように位置づけられてきた。ところが現状では新刊の刊行点数確保に躍起になるあまり、過去の作品へのフォローに出版社各社の手が回っていない。絶版にしたところで経済的損失が少ない、あるいは版を維持し続けることによるデメリットのほうが高いといった理由で(「出版」社なのに!)、多くのマンガがその存在を希薄にさせられ、やがて読者からも忘れられていく。

 そうした惨状に対する出版社がとれる最善策は過去の版の電子書籍化なのかもしれないが、有効な手段だとは思うものの、あらゆる作品を網羅するにはまだまだ時間がかかるだろう。それに、「忘れられる」危機にさらされているのは過去の名作だけではない。恐ろしい速度で生まれている新しいマンガたちも(むしろ彼らのほうが歴史や実績を持たない分)、一瞬だけ語られて、消えていってしまう危険を有しているのである(今こうやってつまらない原稿を書いている間も、ひょっとしたら、ある人はマンガを発表していたTwitterアカウントに鍵をかけてしまうかもしれない、ある人はpixivにアップしたマンガをすべて削除してしまうかもしれない! 急がないと!)。

 となると、例えば私にとって可及的速やかに実行できる具体的な手段は、批評である。消えてしまうかもしれないマンガを読み、読んだ事実を公にし、読んで得た思考を言語化する。特段ユニークでも新しいわけでもない手法だが、マンガに(およびその作者に)力を与えるという効果は、私がここで強調するまでもなく認められている。私にも経験があるが、「つまらない」にせよ「おもしろい」にせよ、感想をもらえるのは嬉しいものだし、そこに読者の思考が加味されたものがあれば(あるいは読者の思考が変化した事実が記されていれば)、私はそれを批評と受け止め、自身の思考をより練磨する糧とすることができるため、なお喜ばしい。実際、そうした批評を受けて私は力をもらい、今もマンガや文章をつくることができている。与えられたならば、贈るべきであって、私もこれからはどんどん読んだマンガを批評していきたいと思っている。

 ……などと書いてみたものの、そんなこと、私がここで強弁するまでもなく、すでに社会は実践している。悪口雑言も目立ちはするが、ネットのそこかしこに批評は存在する。実際問題、だからこそ、ここまでマンガというコンテンツが増大したのだと私は考えている。マンガをつくり、発表し、すぐに誰かの言葉をもらえるインフラが整備されているがゆえに、マンガという表現に挑戦する人々は増えたのだろう。出版社の編集者だけがマンガの一次読者である時代はとっくの昔に滅びている。現代は未知の読者にマンガを伝え、彼らの声をもらうことが容易い時代であるのだから。

読者と作者の関係性はどう変わるのか

 しかしながら、批評が読者と作者の相互間にしか介在しないというのであれば、その批評は批評が本来持つべき客観性という側面においてやや脆弱に思う。読者が作者に「おもしろかったです!」と伝えるだけでは、第三者は置いてけぼりだ。なぜおもしろいか、何がおもしろいかを明確に言語化した上で、作者以外の誰かに伝えられて、初めてその言葉は批評性を持つ。そうした批評をより強く、より激しく、より大きく伝えるメディアがあれば、新しいマンガたちにも活路が出てくるのではないか……もっとも具体的にそのメディアをどう設計し、どう編集すればいいか、試行錯誤というか、思案が固まらないでいるのだが……。ただ個々人が好き勝手に言葉を吐くだけでは、マンガがそうであるように、ネットの波にもまれて掻き消えるだけかもしれない。かといってマンガ批評誌のようなものを刊行したところで単なるランキングやデータベースのような本になっては意味がないし(いや、出版社的には意味があるのだが)……考えるのはとても楽しいが、そうあっさりと結論が出せるものでもなさそうである。

 アイデアなしで終わるのもつまらないので、ひとつヒントになるかもしれないと私が考えているものを事例として紹介させてもらうと、創作同人誌イベントとして有名なコミティアが発行している、ティアズマガジンという本には、批評と創作の理想的な関係性があるように思っている。

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ティアズマガジンの内容は半分がイベントに参加する作家・サークルの紹介なのだが(コミケカタログと同じ機能)、もう半分近くはP&R(プッシュアンドレビュー)コーナーと言う、イベント参加者が読んでこれはと思った本について紹介するコーナーなのである。紹介というが、単なる提灯記事などではなく、きちんとした分析としっかりとした愛が込められた短い文章で構成された記事は、立派な批評だと私は読んで感じた。P&Rに自分のマンガが掲載されると、作家は喜ぶ。喜びを露わにしやすい昨今なので、その喜びはP&Rを書いた側、すなわち読者も知るところとなる。すると読者も喜ぶのである(「作者にエネルギーを与えられたことを自身のエネルギーにできる読者」という構図は、まさしく文化の永久機関であって、これを高い水準で維持できたらマンガ界も当面は健康だろう)。
 そして読んでいて気づいたのだが、コミティアにおいては、読者が作者であることも非常に多い。マンガをつくり、マンガを読み、マンガを批評し、マンガを愛する……この行為に垣根がそれほど存在しないのである。この構造は、これからのマンガを考える上で、大事な示唆を持つように私には思えた。一握りの作家が大多数の読者にマンガを届ける時代では、もうない。作者と読者の境界線を壊し、相互に読み、相互に語り、相互につくりながら、マンガという文化を育てていく時代になるのではないか、いやなるべきだというのが、この瞬間の、私の意見である。

追記

しかしながら、こんなふうに他人行儀に語ってばかりいるのもどうかと我ながら思うので、近々、「漫画の批評」を本格的に展開してみようと思う。具体的には「同人誌というメディアで発表された漫画」にこだわって語ってみるつもりである。理由は明確で、どうもここ最近、「漫画を描き続けるには出版社が設けたコンペで受賞しなければならない」とか「出版社で働く編集者に認めてもらわねばならない」とか、そんな風に考える人が(とりわけ若い世代に)多いように感じるからだ。それはそれで漫画という表現を模索する上での道筋のひとつではあると思うものの、それしか道がないわけでは決してない。拙著『労働者のための漫画の描き方教室』(春秋社)という本の中でも述べているが、漫画を含め、表現はもっと自由な存在のはずである。

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漫画をより深く、より広く考えるためにも、同人誌に着目することで、マスをターゲットとしていない表現の形態から、今よりさらに漫画を愛する道を私は確かめてみたい。

[第二回 了]

次回の更新もお楽しみに!


PROFILEプロフィール (50音順)

川崎昌平(かわさき・しょうへい)

1981年生まれ。埼玉県出身。作家であり出版社勤務の編集者でもある。2007年、「ネットカフェ難民」で流行語大賞受賞。主な著書に『知識無用の芸術鑑賞』(幻冬舎)、『ネットカフェ難民』(幻冬舎)、『若者はなぜ正社員になれないのか』(筑摩書房)、『自殺しないための99の方法』(一迅社)、『小幸福論』(オークラ出版)、『はじめての批評』(フィルムアート社)などがある。