「ぼくはここ数年で、写真の価値やおもしろさを伝えるには作品をつくっているだけでは足りないと思うようになりました」。写真家の高橋宗正さんは、東日本大震災の津波で流された写真を洗浄し持ち主に返すプロジェクトに携わったことをきっかけに、こう思うようになったそうです。その先にある一つの試みとして、今年の5月には「ほぼ日刊イトイ新聞」で写真家たちをゲストに呼んでの対談連載「写真はもっとおもしろがれる!」を展開。ブックコーディネイターの内沼晋太郎は、震災後から続くこれらの“写真を撮っていない”一連の活動も含めて、高橋さんのことを「写真家」だと言います。
SNSにも写真付きの投稿が溢れ、誰にとっても撮ることが日常になったいま、写真家と非写真家の境目を決めるものは何なのでしょうか? そして「写真集」というメディアの存在意義とは? 「写真」と「写真集」をめぐる、2015年現在の対話の記録です。
※本記事は、本屋B&B(東京・下北沢)で2015年6月13日に行われたイベント「写真家と非写真家のあいだ」を採録したものです
【以下からの続きです】
1/7:「プロとしていいものを作るのがカメラマン・写真家だ、と考えていたのが、津波でひっくり返ったんです。」
2/7:「写真と思い出はメディアとして直結していて、だから『強い』ものになる。」
3/7:「写真集のコンセプトを言葉にしないことが、写真業界を狭いものにしているんじゃないか。」
写真家の人間性にクローズアップする ——ほぼ日での連載「写真はもっとおもしろがれる!」
内沼:ほぼ日での連載「写真はもっとおもしろがれる!」はどういう形で進めたんですか。
高橋:写真家ってだいたい人が良いから、インタビューを受けるときもちゃんと答えようとするんですよね。でもそういうときよりも、打ち上げの飲み会の方がおもしろい話が出ることが多い(笑)。それをやれればと思ったんですよ。僕が間に入ることでざっくばらんに、原稿もかしこまりすぎないようにまとめてもらって。そうしたら読む人はもっと写真家に対して人間味を感じられるのかな、と。
内沼:インタビュアーも無意識的に「写真集はすごいものだ」という前提があって、しっかり聞かないと、って思っちゃう部分もあるのかも。でもこの連載を読むと、「これは失礼なんじゃないかな」って思うようなこともあえて質問しているよね。
高橋:そうそう。それにアホみたいな質問や会話は、記事にまとめるときにカットされてしまう。でも、実はこいつはすごくアホなんだ、とか(笑)。そのアホな発言と作品のギャップが一番おもしろいのに、なんでカットするんだ、って思うんです。
たとえば山内悠と伊丹豪の回では、「大阪で食べていたラーメンの替え玉がしたくなって、ヒッチハイクでそのまま博多に行く話」なんかもしていますけど、山内悠は本当にこういう雰囲気の人なんですね。だからそこを出した方がおもしろい。普段より、もっと人間に寄っていくやり方がいいんじゃないかな、って。
内沼:実際に、記事もおもしろかったよね。
高橋:その企画の延長線上で、「TOBICHI」という表参道にあるほぼ日のスペースでLOST&FOUND PROJECTの被災した写真の展示と一緒に、1週間限定のショップも開いたんですよ。ウェブの連載で写真への敷居を下げた後の、「はじめて買う人のための写真集のお店。」。写真集を出している出版社さんに直接店番に来てもらったりもしました。
内沼:ほぼ日だからこそ出せる雰囲気もあって、いいコラボレーションだと感じました。
高橋:それもLOST&FOUND PROJECTでの経験が活きているんですよね。ちゃんと言葉にすれば伝わる。国も世代も関係ない。そういう理想論を持って、手を抜かずにやってみた。それでダメだったら「写真家はおもしろい」なんて言わずに、1人で海外でがんばろう、なんて当時は思っていたんですよ。
内沼:でも実際に「おもしろい」と言えたし、自分でも言葉にして伝えられる写真集を出せたんですよね。
高橋:「おもしろい」ってちゃんと言えたね。イベントでは本も売れたし、お客さんも楽しんでくれて。犬とか、猫とか、かわいい女の子が被写体なわけでもない「はじめての写真集」を買っていく。そういう姿を見ていると、やっぱり通じるじゃないか、話せばわかる、って思えたよね。
写真集に足りない「普通の言葉」
内沼:僕は、写真集を作る人と買う人、その間のコミュニケーションがいままでは少し足りていなかったんじゃないかと感じていて、これからの写真家はその間を埋めていく仕事もするんじゃないか、って思っているんですよ。
高橋:評論家やライターの仕事じゃなくて、写真家の仕事としてってこと?
内沼:さっきも話に出た通り、写真集って、本と写真家の関係性が説明されていないことが多いじゃないですか。一般的な商業出版だと、「こんな人が作った本で、こういう人に読んでほしい」というようなことが、帯とかどこかに書いてあったり、具体的に書いていなくても意図されてつくられていたりしますよね。
もちろんそういう情報が過剰になっているときも多くて、書店をやっている僕らもPOPをつけないとか、帯を外したりしながら、あえてコミュニケーションを減らすこともあるんです。でもやっぱりある部分までは必要だと思うんですよ。「どういう人がどんな思いで作っているのか」、「なぜ買って持っておくといいのか」、「なぜこの本が自分に響くのか」。でも実際は、写真集だとなぜか、そういうことさえ教えてくれない本が多くて。買う人が突き放されている感じ、と言えばいいのかな。「わかる人だけわかればいい」と言われている感じというか。「足りていない」ってそういう部分なんですよ。
高橋:それは確かにね。それで写真集を作っている人が、「写真集が売れない」と言っていて。それは当然売れないよねって(笑)。
内沼:さっきも言ったけど、決して何でも説明すればいいとは思わないんですよ。
たとえば小説でも「30歳OLが奮闘するドタバタお仕事小説」みたいなことが帯に書いてあったりする。その小説の本質はそこじゃない、ということはあるんです。ただ、ある意味では、そういう「タグ」をつけたほうが、手に取られるべき人に手に取られる、というところもあって……。
高橋:要は態度だよね。コミュニケーション。一緒に話そうよ、ということなんだと思う。
内沼:そこは、評論家がやっても機能しないと思うんですよ。あくまでも作った人、撮った人じゃないと。
高橋:いろんなものがコミュニケーションになるよね。デザインや製本、印刷もそう。『石をつむ』も、蝋引きの封筒を作って、中の本には表紙をつけずに、封筒越しに写真が透けて見えることで表紙のようにする、とか。そういう「人の考え」が形になっているんだよね。だから出版社も、もっと言ってもいいと思います、「こういう思いで作りました」って。難しく考えず「普通の言葉」でいいんじゃないかな。「普通の言葉」が足りないような気がしているんですよ。
[5/7「写真集が5,000部売れるのは大変だけど、5,000の『いいね!』がつく写真はたくさんありますよね。」に続きます]
構成:松井祐輔
(2015年6月13日、本屋B&Bにて)
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