「ぼくはここ数年で、写真の価値やおもしろさを伝えるには作品をつくっているだけでは足りないと思うようになりました」。写真家の高橋宗正さんは、東日本大震災の津波で流された写真を洗浄し持ち主に返すプロジェクトに携わったことをきっかけに、こう思うようになったそうです。その先にある一つの試みとして、今年の5月には「ほぼ日刊イトイ新聞」で写真家たちをゲストに呼んでの対談連載「写真はもっとおもしろがれる!」を展開。ブックコーディネイターの内沼晋太郎は、震災後から続くこれらの“写真を撮っていない”一連の活動も含めて、高橋さんのことを「写真家」だと言います。
SNSにも写真付きの投稿が溢れ、誰にとっても撮ることが日常になったいま、写真家と非写真家の境目を決めるものは何なのでしょうか? そして「写真集」というメディアの存在意義とは? 「写真」と「写真集」をめぐる、2015年現在の対話の記録です。
※本記事は、本屋B&B(東京・下北沢)で2015年6月13日に行われたイベント「写真家と非写真家のあいだ」を採録したものです
【以下からの続きです】
1/7:「プロとしていいものを作るのがカメラマン・写真家だ、と考えていたのが、津波でひっくり返ったんです。」
2/7:「写真と思い出はメディアとして直結していて、だから『強い』ものになる。」
3/7:「写真集のコンセプトを言葉にしないことが、写真業界を狭いものにしているんじゃないか。」
4/7:「ちゃんと言葉にすれば伝わる。国も世代も関係ない。そういう理想論を持って、手を抜かずにやってみた。」
SNSでつく「いいね!」と写真の「強さ」
内沼:いまスマートフォンにはカメラがついていて、Instagramといったアプリもあって、写真を撮る人も増えているし、SNS上でも写真を通じてコミュニケーションするのが普通になっているじゃないですか。写真集が5,000部売れるのはすごく大変だけど、5,000の「いいね!」がつく写真はものすごくたくさんありますよね。そういう状況ってどう思っていますか。Facebookで5,000いいね!もらえる人は写真家ですか。
高橋:「それは写真家じゃない」って否定するわけじゃないけど……。「いいね!」って挨拶以下のコミュニケーションだと思うし。
内沼:でも、そういう写真の中には本当にリアルな瞬間を捉えたものもあるんじゃないかな。たとえばプロの報道カメラマンよりも速く、すばらしい角度で捉えた素人の撮った災害や事故の現場写真がFacebookで何万シェアもされたりするよね。
高橋:でもそれはただ「出会っている」だけだよね。「向き合って」はいない。
内沼:そこが「写真家」とは違う?
高橋:うーん……。撮って、ウェブに上げて、「いいね!」という簡単な反応をもらうんじゃなくて、撮って考えて、撮って考えて……その繰り返しでできた、みたいなものが、「写真家」の写真。
内沼:でも、津波に流された写真と同じように、普通の人が撮った家族写真や飲み会写真のような日常の写真もみんながシェアしているじゃない。LOST&FOUND PROJECTや思い出サルベージのときはそういう日常の写真に対する敗北を感じた、という話だったよね。
高橋:それはいまでも、感じ続けていますよ。
内沼:FacebookやInstagramで100万の「いいね!」がついているような写真には敗北は感じないの? その境界が気になるんですよね。
高橋:あっ、あるある。写真がFacebookに流れてきて……。
内沼:これはすごい、みたいな。
高橋:あるある。いろんなものが流れてくるから、これはいい写真だな、というのはありますよ。あるけれども、写真家にとってそれが脅威か……というと、それこそ「いいね!」くらいかな。LOST&FOUND PROJECTとか思い出サルベージのときに感じた「俺はこのまま潰されてしまうのかな」というような感情はない。やっぱり一度津波に流されたそれら以上に「強い」写真はないんじゃないかな。仮にそれがSNSに上がったら、「いいね!」もたくさんつくんじゃないかと思う。
高橋:ほぼ日の連載で、大森克己さんがInstagramの話をしていたよね。Instagramのハッシュタグは写真のいろんな読み取り方のきっかけになるし、そこがInstagramのおもしろさだ、と言っていて。
内沼:たとえばそういうことだよね。ハッシュタグがあって、それがコミュニケーションの入り口になる。それって、写真家が写真集の中で作り出せていないコミュニケーションを作り出せてるということになるのかな。
高橋:コミュニケーションの「きっかけ」ではあるけど……。コミュニケーションって一つじゃないよね。すぐにシェアできて簡単なコミュニケーションは楽しい。普段の飲み会で話すのも楽しい。終電を過ぎてディープになってきた飲み会にも独特の楽しさがあるじゃない。アクセスが簡単なウェブサイトやTwitterというコミュニケーションもあれば、重くて、受け取る方にも「余裕」が必要なものもある。
たとえば、誰か近しい人が亡くなる重みは、僕が20歳のときには受けとめきれなかったと思うんだよね。だけど、震災のことも含め、受け止めざるを得ないときが来るんですよ。そのときに「余裕」というか、「経験」があるとないとじゃ受け止め方がぜんぜん違うと思う。
だから『石をつむ』も発行が少部数なんです。イージーなコミュニケーションもディープなコミュニケーションもあって、受け止められる準備がある人もいれば、そうではない人もいる。いろんな形で受け止められる人に通じるコミュニケーションがあればいいと思う。
[6/7「『素人だからわからない』って、『おもしろくない』ってことでしょ。」に続きます]
構成:松井祐輔
(2015年6月13日、本屋B&Bにて)
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