第9回「写真」
水野祐
4月から大学で教鞭を取るようになったりなどでバタバタしてしまい、すっかりご無沙汰してしまいました。仕切り直しもかねて、今回から「である調」から「ですます調」に変更してみます(共著している平林は従前から「ですます調」でしたので、それに平仄を合わせる意味もあります)。
さて、最近、写真の著作権に関するユニークなニュースがありました。
Wikipediaが「写真の著作権はサルにある」としてカメラマンの訴えを却下
http://gigazine.net/news/20140807-wikipedia-refuse-photo-deletion/
このニュースですが、カメラマンのスレーター氏にこの写真の著作権が認められないのはかわいそうだ、と思われる方も多いのではないでしょうか?
写真の著作権は、その写真の主題、レンズの選択、被写体との角度、具体的な構図の選択、露光やシャッタースピード、フォーカスの設定、ライティング、撮影時間、シャッターチャンスなどを総合的に判断して、それらの要素に創作性がある場合にそれらを担った撮影者に認められます。
一方で、撮影プロセスがすべて自動化された自動証明写真や監視カメラによる写真については、上記のような創作性が認められないため、著作権が発生しないと考えられています。また、著作権全般に言えることですが、ある表現に著作権が発生するか否かは、あくまで「創作的な表現か否か」で判断され、その表現にいくらお金をつぎこんだかとか、どれだけ大変な思いをしたかなどの労力や資本の点は「原則として」無関係であるとされています(著作権法の世界では、このことを「著作権法は『額の汗』を保護しない」などという言い方をすることがあります)。たとえば、大金をはたいて、なかなか人間が辿り着けないような北極の果てで、自動証明写真を撮影したとしても、その写真には著作権が発生しないというのが著作権法の原則的な考え方になります。
では、本件のサルの写真には、スレーター氏による上記のような創作性が認められるでしょうか?
記事中では、
- スレーター氏は公表時のインタビューで写真が撮影された時の様子について「しばらくカメラを放置していたら、サルの群れが僕のカメラに近寄っていじくり回していました。最初は音に怖がっていましたが次第に慣れたようで、誰かがシャッターを押すのに合わせてポーズをとっているようにも見えました」と語っていた
と書かれています。
これだけ読むと、スレーター氏は、この写真における主題、被写体との角度、具体的な構図の選択、ライティング、撮影時間、シャッターチャンスなど、いずれについても創作性は認められないように思います。レンズ、露光、シャッタースピードの選択・設定は彼が事前に行っていたのでしょうが、こと撮影との関係ではそれも偶然にすぎないとも言えます。
このように考えると、スレーター氏には少々気の毒なように思いますが、Wikipedia側がこの写真についてスレーター氏の著作権を認めず、パブリックドメインであると評価したことには、著作権法の理論上、十分に理由があるように考えられます(人格を有しない動物は権利主体とならないという考え方が前提にあります)。
ここで、するどい読者の方は、たとえば、広告写真の現場などに行くと、大御所カメラマンが構図やライティングなどについてディレクションしたうえで、アシスタントにシャッターだけを押させるということがあり、その場合でも写真の著作権はその大御所カメラマンに認められるんでじゃないのか、という反論されるかもしれません。
おっしゃるように、この場合、写真の著作権はその大御所カメラマンに認められますが、これは上記のような写真における創作性がディレクションをしたその大御所カメラマンに認められるからです。つまり、写真の著作権は、実際にシャッターボタンを押した者に認められるわけではなく、あくまで創作性を発揮した者に認められるということです(法人著作などについてもありますが、ここでは割愛します)。
翻って、上記のサルの写真の件でいえば、裁判では、サルにセルフィー(自撮り)させる環境をカメラマンであるスレーター氏がどれだけ意図的に作出したのか、っていう点が争点になるでしょう。この点に関するスレーター氏の主張立証次第では、スレーター氏にこの写真の著作権が認められる余地もありますが、上記スレーター氏の過去の発言は、この点においてネガティブな方向に働くものと言わざるを得ません。
法律の理論上は以上のように分析・考察できます。本件は、人間の恣意がほとんど介在しなくてもカメラのオート機能によって優れた写真が撮影できてしまう世にあって、「写真における創作性とは何なのか?」という問題について鋭く問題提起をしているように思います。最終的に裁判所がどのような判断を下すかはわかりませんが、スレーター氏がいなければこのサルの写真が撮影できなかったという話と、この写真に彼の著作権が認められるかという話は、論理的には別問題と考えられるわけです。
この件に限らず、法律上の理論と公平さが乖離する例は時に生じます。ただ、本件においてスレーター氏が訴訟を提起することが彼にとってベストな選択だったのでしょうか?
スレーター氏がいなければ、この写真が撮影されることはなかった。この事実は揺らぎませんし、サルを相手にカメラを放置し続けることを選択し、その状況を観察し、決定的瞬間とも言うべき写真を選別した彼の柔軟さは注目すべきものです。そして、この写真により、スレーター氏の過去の写真や彼の仕事に注目が集まったであろうことは間違いありません。
しかし、ぼくには彼が著作権にこだわるあまりに、別の何かを失っているように思えてなりません。これは、写真上に「©」などを記載している写真を見かけるときに感じる感覚と近いものがあります(だってせっかくの良い写真が台無しじゃないですか)。スレーター氏のそばに、このあたりのネットのリテラシーに通じた法律家やアドバイザーがいれば、スレーター氏にとってよりメリットのある、違った展開があったように思えてならないのです。
ぼくらは、ある問題をつい理論的に検討して、答えを出してしまいがちです。それは法律家も一緒ですし、もしかしたら法律家の方がよりその傾向が強いかもしれません。しかし、現実には、権利にこだわるあまりに、結果として得をしていないという事例がよくあります。そして、このある種の「乖離」は、インターネット以降ますます進んでいるように思います(IT系のビジネスに関わる方などはよく感じているところでしょう)。
法律や権利とは、あくまでも現実の一側面を切り取るツールでしかない。このことはインターネット前提社会を生きるぼくたちにとって大事な視点なのではないでしょうか。本件は、先に述べたとおり、オート機能が完備されたカメラが普及するなかで写真の著作権についておもしろい問題を提起していますが、そのような、より一般的・普遍的な問題をも内包しているように思えます。
[Edit×LAW:第9回 了]
Edit × LAW⑨「写真」 by 水野祐、Tasuku Mizuno is licensed under a Creative Commons 表示 2.1 日本 License.
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