本/本屋をテーマにした新刊が続々と出版される昨今。DOTPLACE編集部が気になる「本についての本」を、毎回さまざまなゲストに紹介していただきます。久々の更新でもある第4回目は、音楽・文芸批評家の小沼純一さんによる『読書礼賛』評です。
本という広大な世界をめぐるターミナル駅
[評者]小沼純一(音楽・文芸批評家)
『読書礼賛』
アルベルト・マングェル著、野中 邦子訳
[白水社、2014/05/23発売]
Amazon / 白水社
本を読む習慣のない人に本を勧めるのは難しい。いや、これは本にかぎらない。食べることでも、音楽を聴くことでも、絵をみることでもおなじだ。何かが好きになると、少しずつでもその対象にふれるようになり、それがだんだんと加速してゆく。そして、その行為がまた、本の読み方だの絵の見方だのをおのずと組みたてていくことになって、おなじように一言で読む、聴く、みる、でも大きく違いができてしまうからだ。とはいえ、それは、何か基準があって容易にはわからない。数値で測れるものではない。
アルベルト・マングェルは、この大部の本で何か大きなひとつの主張を繰りひろげようとはしない。全体は長短の文章からなっていて、発表された場所もそれぞれに異なっている。それでいながら、いくつかのパートに分けられ、まとめられてみると、浮かびあがってくるものがある。一言でまとめてしまえば、それは、本を読むことの楽しさであり、本が教えてくれることであり、本なしではいられないわたしという心身の告白である。
本についての本などいくらでもある。自分が如何に読み上手であるかを開陳するもの、蘊蓄を傾けるもの、好みが共通していればいざ知らずわかる人にはわかるとばかりにこまかいことを述べたててゆくもの、等など。くりかえそう、本についての本はいくらでもある。しかし、この書き手はそんな高慢さからは縁遠い。マングェルはといえば、『読書礼賛』のひとつのエッセイを読む「わたし」とともに、一緒に、歩く。そして語るのである。かならず「わたし」がここに、そばにいることを確かめ、ときどきこっちに視線をむけながら、語る。「わたし」はいつのまにかその語りに導かれ、おもいもかけぬところまで来てしまっている。こんなところまで来てしまった!との驚きとよろこびが、一エッセイのあとにはやってくる。気づくことがたとえなくても、同伴者は何も言わない。気づけるところがあなたの旅なのだとばかりに。
読み手をつかむのである。文章がみごとなのだ。そして、いつのまにかするすると読んでしまううちに、ひとつのエッセイを読む前と読んだ後とで、「わたし」のなかの何かが変わっている。それはちょっとした知識である場合もあるかもしれない。ある語の語源についてだとか、一作家のエピソードだとかだ。しかしそれ以上に、この本をこういうふうに読むのか、と、こうしたところに着目するのか、と、こうしてことばが織りなしてゆく森を探索し、ことばのひとつひとつの立ち方や木目、葉の一枚一枚と全体のバランスをみてとるのか、と、その読み方に魅せられるのだ。それは、ひとつの楽譜があって、見た目はおなじなのに、ある演奏家が弾くとまるで異なった音楽がたちあがってくるのと似ている。言及されているものの多くは古典ともいうべきものだ。名前も知らないという作家は少ない。それでいて、その古典が、新しい光を照らされる。
だから、この本は、厚さもあるけれど、それだけではなく、ひとつのエッセイを読んだら、そこに言及されているいくつかの本を再読したり、はじめて手にとってみたりしたくなって、ついつい時間をかけることになってしまう。この本自体に時間がかかるのだ。本をめぐる本とは、だから、『読書礼賛』の場合、ここを起点としてべつのところに出掛ける駅、いくつもの方面に出掛けることのできるターミナル駅のようなものだ。
他方、本を読むことは、しかし、けっして密室の行為ではない。現実の世界、ひとりひとりの読み手が住んでいる社会と結びついている。そのことをマングェルは、自らの読みのなかで、ときに喚起する。絵空事から現実へ、現実から虚構へ、往還することを喚起する。こんな文章を、ただエッセイの文字のならびで済ますことができるだろうか———「隠喩は隠喩の上に、引用は引用の上に築かれる。人によっては、他人の言葉を引用の源泉と見なし、それによって自分の考えを表現する。また別の人びとにとっては、他者による言葉が自分の考えそのものであり、他人が考えだした言葉を形だけ変えて紙の上に並べ、語調や前後の脈絡を変えることで、まったく別のものにつくりなおす。このような連続性、このような翻訳作業がなければ、文学は成立しない。そして、このような処理を通して、文学は永遠性を保つ。周囲の世界が変化するなかで、飽きもせずに寄せては返す波のように。」(p.168-169「エイズと詩人」)
一見抽象的にみえつつ、ちょっと考えてみれば、わたしたちのまわりにいる人たちのこと、ひとりひとりの顔を想いおこせるものであり、とても具体性を志向した文章であることがわかる。
本の読み方を語ってもらえれば、その人のことがわかったりする。本書も同様だ。アルベルト・マングェルという人物のことが、会ったこともない、せいぜいポートレートと経歴くらいしか知らない人物のことが、わかる。そして、こうした本の読みをする人物がおもしろいと感じ、ある読み方を指南してくれたことで師や先輩のように感じたりもする。以前おなじ著者による『奇想の美術館』を読み感嘆したことがあるのだが、『読書礼賛』では自らの本というフィールドに身をおきつつ、自由闊達に読むという行為をめぐって、語る。わたし、わたしたちを文字どおり抱きこんで。本という広大な世界をめぐるターミナル駅、それが『読書礼賛』だ。
[本についての本について:第4回 了]
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