現在、ぼくはブックホテルをつくるプロジェクトを担当しています。もともとは「あしかり」という日販の社員保養所だった物件を、滞在型のブックスペースに生まれ変わらせるべく、2015年から日夜奔走してきました。ホテルの名前は「箱根本箱」。念願のオープンは今年の8月1日から。この連載コラムでは「箱根本箱」ができるまでのぼくたちの歩みと戸惑いを記しながら、ブックホテルをつくることの意義や、新業態を模索している取次の内幕を、当事者の一人であるぼく個人の主観を通してお伝えしていきたいと考えています。
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岩佐十良さんの講演に共感したぼくの上司の富樫は、岩佐さんとなら日販の保養所「あしかり」を意義ある形で再利用することができると直感。講演が終わると岩佐さんのもとへかけより、「箱根に老朽化した保養所があるんです。一度、活用方法についてご相談させてください」と初対面でいきなりのオファーしてしまったという……。ぼくなら見ず知らずの人に、挨拶もそこそこに突然仕事のお願いをされたら、答えに困ってしまう。
ところが岩佐さんの返答は、「いいですね! 一度現地を見てみましょう」という驚くべきものだった。このやりとりが、現在の箱根本箱へと続く長い道のりの記念すべき第一歩となった。この会場にいなかったぼくは、当然そのことを知る由もなかったけれど。
ここで箱根本箱の舞台となる「あしかり」について、紹介しておきたい。開業は1996年、「保養所」という肩書きからもわかるように日販社員のリフレッシュためにつくられた施設で、旅行や同好会、社員の家族やその友人に利用されてきた。箱根登山鉄道の中強羅駅から歩いて5分ほどの好立地で、大きな石垣に囲まれた赤茶色のタイルで覆われた建物と、桜、コナラ、背の高いつつじや梅など、季節のうつろいを感じることのできる植生が美しい。春の桜はひときわきれいだ。
入口正面のラウンジスペースには水色のソファーセットが置かれ、壁面に備えつけられた腰高の本棚には、歴代の利用者が残していった廉価版の分厚いコミックスや一昔前に流行ったベストセラー小説が、乱雑に並ぶ。本棚の上に設置されたコルクボードには、中強羅駅の時刻表や、強羅駅までの送迎タクシーの名刺がピンで留められていた。
ラウンジの左側は会議室スペースで、大人数の会議に対応できる広さなのだが、ここにはどうしたわけか、ふたつの卓球台が置かれていた。一方、ラウンジの右側は食堂で、クリーム色のクロスが張られたテーブルが等間隔に並び、ピンクの座面の椅子がきれいに収まっていて、業務用冷蔵庫はビールやソフトドリンクの瓶でいっぱいだった。食事は季節の食材を使ったメニューで、刺身や天ぷら、卓上固形燃料で温める小さな鍋もついた、オーソドックスな旅館料理が提供されていた。
2階にある客室は全14室、少し広い特別室を除いてすべて和室になっていた。障子の向こう側には、旅館によくある2脚の椅子と机のスペース(「広縁」というらしい。ぼくはこのスペースがとても好きだ)というレイアウトで、客室それぞれに早雲、湖尻、富士など、箱根にちなんだ名前がつけられていた。
あしかりの目玉は地下1階にある大浴場で、硫黄の匂いが強い白濁湯と、すべすべとした透明泉の2種類がひかれた天然温泉。一度にふたつの温泉を楽しめるのは箱根でも珍しいらしく、利用者に長らく愛されてきた。
大浴場の隣には娯楽室と銘打たれた20畳ほどの部屋がある。ドアを開けてまず目に飛び込むのは、使い込まれて若干くたびれている黒革のソファ。前方中央の小さなステージは、天井の小さなミラーボールが反射させる光を浴びて輝く。カラオケセットと2本のマイクも用意されており、夜な夜な盛り上がりを見せていたことだろう。
そんなノスタルジックな雰囲気にあふれる保養所「あしかり」だが、この数年は利用者の減少が深刻化していた。社会環境が変化し、仕事とプライベートの切り分けが進んでいった結果、休暇に社員と顔を合わせる気まずさからか、利用者が減っていったのだ。気がつけば空室が目立つような状況に陥っていた。また、会社の福利厚生施設とはいえ、あしかりの運営は外部委託であり、運営費や修繕費もけっして小さくない。
見かねた総務担当者が保養所の利用方法を検討し、収益化のためのプランニングを進めてはいたものの、福利厚生施設として存在している手前、用途の変更に踏み切ることはなかなか難しく、維持費がじわじわと首を絞めていく状況が続くなか、2015年、あしかりに回復不可能なダメージを与える事態が発生する。箱根山の火山活動が突如活発化したのだ。
当時、テレビや新聞で毎日のように報道されていたので、覚えている人も多いかもしれない。2015年4下旬頃から箱根地域一帯で火山性の地震が頻発、火山活動に関連する地殻変動が観測されたことから、気象庁が段階的に噴火の警戒レベルを引き上げ、予断を許さない緊迫した状況が続いた。決定的だったのは6月29日に箱根火山の火口付近である大涌谷周辺で降下物が見られたことで、県道やロープウェイなど、さまざまなエリアが立ち入り禁止となった。
多くの観光客でにぎわう箱根から人が消えた。11月になると噴火警戒レベルは引き下げられ、大涌谷を除いて立ち入り禁止エリアも解除されるのだが、一度遠のいてしまった観光客の足が回復するまでには、その後しばらくかかることになる。結果、2015年に箱根を訪ねた観光客数は、記録が残されている1972年以降でもっとも少なく、ホテルや旅館だけでなく、箱根のあらゆる産業が大打撃を受けた。あしかりも例外ではなく、5月からの予約のキャンセルが相次ぎ、閑古鳥が鳴く事態に。今後の運営について社内で運営面、安全面の観点から話し合いがもたれ、9月についに休館の決断が下ることになった。
11月になって箱根に平穏が戻りはじめても、あしかりは休館をつづけていた。皮肉なことに、低い稼働率で営業するよりも休館していたほうが維持コストを抑えることができていたのだ。総務部は以前から検討していた活用プランを調べ直し、経営会議に上程する手はずを整えていた。つまりこのとき、あしかりはおよそ20年つづいた保養所としての役目を終えたのだ。
岩佐さんと出会ったのは、まさにあしかりのつぎの一手を模索しているときだった。出会いから1ヵ月後の2015年8月、富樫が新潟の里山十帖を訪ねた。岩佐さんがプロデュースする空間で会話を重ねる。話は保養所の活用から出版の未来にまでおよび、さっそく箱根の現地打ち合わせの日程が調整された。
10月3日、1回目の箱根現地打ち合わせ。ぼくは同行できなかったのだが、富樫曰く、現地に向かうタクシーから「岩佐節」が飛び出していたという。長年の雑誌編集から箱根の情報にとても明るく、あしかりへ向かう道々、ホテルやレストランの最新情報がすらすらと出てくる。現地に到着すると、施設や設備をチェックするだけでなく、客室から見える景色や庭の光の入り方など、利用者が“体感”するポイントを重点的に確認していたそうだ。体験の重要性を誰よりもわかっている岩佐さんだからこその視点だろう。そして何より「これはこうしたらよさそうだ」「こっちをこうするといいね」など、現場での判断がはやくて驚いたそうだ。
それから3ヵ月が経った2016年1月、岩佐さんから提案書が届いた。その1ページ目には〈ライブラリーホテル「強羅本箱」〉と書かれていた。それはただゆっくりと本を読むためのスペースではなく、〈「本と箱根」をテーマにした文化創造型・複合施設〉を実現するための、具体的な提案だった。
リニューアル後のゾーニングは改装プランに合わせて既存図面の上に重ねられ、一度でもあしかりを訪れたことのある人なら、どこになにが出来るのかがすぐにわかる。新しい客室のイメージは木材をふんだんに使った温かみのあるもので、各分野で活躍する人物が選書した本棚が備えつけられ、本との新たな出会いを演出している(このアイデアは現在「あの人の本箱」として実現、箱根本箱の人気企画だ)。デザイン面の提案だけでなく、資料後半には老朽化が進む機械設備の更新や各種コストについての試算もしっかりと記載されていた。アイデア一辺倒の夢物語でもなく、かといって無味乾燥で事務的な手続き書類でもない、その提案書は、伝説的な編集者としてキャリアを積み重ねてきた岩佐さんのクリエイティビティが、ひしひしと伝わってきた。
けれどその一方で、正直にいえば、自分だったらこういうアプローチにはしない、とも感じた。正確にはできない。ぼくならもっと、本をどう読んでもらいたいか、どうしたら本をゆっくり読むことができるかだけを考えてしまう。あの日見た夢のように、本を介して人と人がゆるやかにつながり、ひとつの「場」を共有するような……。
岩佐さんは雑誌『自遊人』や里山十帖の経営を通じて、宿で過ごすひとつひとつのことを、丁寧に「メディア」体験として紹介するアプローチをとっていた。新潟でとれた新米を目の前で炊き上げて食べてもらうこと。リプロダクトではなく本物の家具に腰かけてその座り心地を感じてもらうこと。そういった宿で体感できることのあらゆる価値を、よりわかりやすく伝えていく手法をとることで、宿泊者の満足度がどんどん深まることを実感していたのだと思う。
岩佐さんの提案書には「良い本が集まる場所は新しい文化が生まれる場所」というステイトメントが記されていた。人と本をつないでいく空間として、あしかりを新たに生まれ変わらせるという提案内容は、YOURS BOOK STOREのコンセプトにも一致している。最終的にぼくたちはこの企画を一緒に進めるべきだと判断した。
そこからはじまる各種データの裏づけや資料作成、関係者間の条件のすり合わせ、それらすべてについて社内稟議を通していく過程で、想像もつかないほどの苦労が待っているのだが(そしてその責任者としてぼくが東奔西走することになるのだが)、このときはそんなこととは露知らず、ぼくは不安と期待がないまぜの日々を過ごしていた。
[ぼくらがブックホテルをつくる理由はどこにある?: Vol.3 了]
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