『Spectator(スペクテイター)』と『TO』。それぞれまったく異なる切り口ながらも、時代に流されない特異的な編集方針に熱い注目が注がれる二誌の編集長と、その制作に携わるメンバーが、昨年末に「これからの雑誌の作り方」というテーマでトークを繰り広げました。その模様を4回に渡ってお届けします。
★2013年12月23日、VACANT(東京・原宿)で行われたトークイベント(Spectator × TO「これからの雑誌の作り方」)のレポートです。
★『TO』編集長の川田洋平さんのロングインタビューはこちら。
『TO』と『Spectator』
川田洋平(以下、川田):『TO』という雑誌を作っている川田です。『Spectator』の最新号が『Whole Earth Catalog』特集ということなんですが、僕が最近考えていることとか、これからの雑誌考えていく上でヒントになることがたくさんありそうで、今日はそんな話ができたらな、と思っています。
青野利光(以下、青野):『Spectator』編集長の青野です、よろしくお願いします。今日は長野県から来ました。1960年代から70年代にかけてアメリカで発行された『Whole Earth Catalog』という出版物(カタログ)についてを特集した最新号が、ちょうどこのタイミングで本屋さんに並び始めたのですが、今日はその内容の話なんかもできたらな、と思っています。
隣にいるのが、一緒に『Spectator』の編集をやっている赤田です。今回の『Whole Earth Catalog』の特集は、赤田の指揮のもとに作っています。もともと赤田は『Quick Japan』という、雑誌の創刊編集長をしていたんですが、彼とはその頃に知り合いました。90年代だったかな。今はうちの雑誌で編集をしてもらっています。
赤田祐一(以下、赤田):軽く自己紹介しますと、2年前の秋からこの編集部に入りました。僕は東京に住んでいるんですが、『Spectator』の編集部は長野県の長野市にあって、Webからの遠隔操作を受けるような感じで作っています。
草なぎ洋平(以下、草なぎ):僕は『Spectator』に突然赤田さんの名前が出てきた時、死ぬほど驚いたのですが……赤田さんはもともと、サザエさんの『磯野家の謎』(飛鳥新社、1992年)とかを大ヒットさせた敏腕編集者で、なぜ今『Spectator』の編集部にいらっしゃるのか、といったお話も聞きたいです(笑)。
僕は「東京ピストル」というクリエイティブの会社の代表取締役をしています。隣にいる川田くんが以前、Webマガジンの編集部で働いていた時に、ずっと僕の担当をしてくれていたんですが、その当時から川ちゃんに「雑誌を作りたい」という話を聞いていたんです。それからしばらくして、彼が実際に一人で『TO』を作るようになった時に、「対会社間でも仕事をやりやすくしたい」という相談を受けたので、うちの会社で『TO』を引き取るという形にして、川ちゃんも最近東京ピストルに入りました。
川田:ある時、草なぎさんに「一人でこれ(『TO』)を続けられるか不安です」という相談をしたんですよね。そしたら東京ピストルに制作を請け負ってもらうことになりました。この12月から東京ピストルに入社して、今後は色々と展開していこうと考えてます。
草なぎさんは、今でこそ雑誌の編集はされていないのですが、もともと『SPUTNIK : whole life catalogue』(株式会社イデー、2000年)という雑誌の立ち上げに関わっていたんですよね。
草なぎ:『SPUTNIK』には、僕が学生の時に副編集長として関わらせていただきました。野村訓市さんが編集長を務めていた雑誌です。
川田:このイベントのテーマ(「これからの雑誌の作り方」)にも合うかなと思って、僕から司会をお願いして、今回やっていただくことになりました。
草なぎ:川田くんはもともと「Houyhnhnm」というWebマガジンで編集をされていましたが、そこからどういう経緯で『TO』を作ることになったのですか?
川田:きっかけは突拍子もなかったです。大学を卒業後、その会社で働き始めて1年を過ぎた頃に、なんだか急に「僕はこのままでいいのか」みたいな迷いが生まれたんですね。ちょうどその頃に草なぎさんとよく呑んでいたこともあって、そんな相談をしたところ「早くやれ」と発破をかけられて始めたという感じです。
何かを始める上で、「終わりがない」というのが僕はとても嫌だったんですけど、東京23区をテーマにすれば、23冊出せばとりあえず終わらせることができる。そう考えて、現在の形にしました。
1号目は足立区を特集したのですが、足立区に通いながら作っていたこともあって交通費がとても嵩んでしまった。「移動でこんなに金が掛かるなら、いっそ住んだ方が早い」と思って、次の目黒区特集号からは「住みながら作る」というスタイルで編集することにしました。
そんなこちら都合のアイデアでしたが、いざその街に住んでみたら、見えてくるものが全然違う。その街で朝、昼、晩を過ごすのってこんなに新鮮なものなのか、ということに気付いたのは衝撃でした。今は、(2014年の)4月に出す予定の中野区特集号のために、中野区に住んでいます。
草なぎ:ほとんど電波少年みたいな感じですよね(笑)。実家は埼玉なんだっけ?
川田:埼玉ですね。
草なぎ:川ちゃんは今いくつでしたっけ?
川田:25歳です。
草なぎ:僕は今37なんですけど、僕ぐらいの歳の学生の間では「雑誌を自分で作る」という人はよく見かけたと思うんです。だけど、今の若い世代で雑誌を作っている人というのはなかなかいないんですよね、みんなWebに行っちゃうから。だから、『TO』は若いなりに雑誌を作っていて、なおかつクオリティが異様に高い、というのが客観的に見ても非常に面白いと思ってます。
『Bar-f-Out!』の“その他”を拡大して一冊にしたのが『Spectator』
草なぎ:青野さんの『Spectator』が生まれる経緯についてもお伺いしたいです。
青野:『Spectator』は今年14年目なんですけど、それを作るまでは、『Bar-f-Out!』という、渋谷系と呼ばれていた音楽を主に扱う雑誌を作っていました。
『Bar-f-Out!』は、「自分たちで雑誌を作って本屋さんに置きたい」という衝動だけで、大学の時の友達と一緒に町工場の印刷所に版下を持って行って、レコード屋さんで販売して、代金をかき集めて印刷料を払う、という無謀な始まり方だったんです。それでも当時は渋谷系の音楽が流行っていたので、レコード会社の広告も入ったりして、編集部もそれなりの規模まで人を増やしたりもしていたんです。
でも、僕はそういう音楽雑誌を作りたくて雑誌を始めたわけではなかった。雑誌自体は好きなんですが、もう少しカルチャー全般のことを取り扱いたいと思って立ち上げたのがこの『Spectator』なんです。『Bar-f-Out!』の“その他”の部分を拡大して一冊にしたのが、『Spectator』という雑誌でした。
『Bar-f-Out!』の創刊は1992年ぐらいなんですけど、赤田さんの始めた『Quick Japan』が1993年の創刊だったりと、その頃はインディーマガジンがいくつか出てきていた時期でした。例えばアップリンクの浅井隆さんが始められた『骰子(ダイス)』なんかもそうで、その辺りの雑誌が一緒に取り上げられた記事とかもありましたよね。
赤田:DTP(デスクトップパブリッシング)というのが、その頃新しかったんです。当時は『Bar-f-Out!』も全面DTPで作っていたんじゃないですか? 1号目とか。
青野:そうですね、ちょうどその時期が、印画紙を台紙に張り付けて版下を作る、というところからMacを使ったDTPに切り替わる頃でした。ギリギリ、『Spectator』の0号は版下をデザイナーさんが作ってくれて、それを印刷するという形で作っていたんですね。それが、1〜2号からはMacで出力したものが版下になり、制作費が画期的に下がって好きなように作れるようになりました。それが大体90年代初めのことですね。
“大人のジャーナリズム”とは異なるジャーナリズム
草なぎ:赤田さんも、その頃はもうすでに『Quick Japan』を始められていた頃だったと思うのですが……なぜ今赤田さんが『Spectator』を作られているのかということをお聞きしたいです。
その間、赤田さんは『団塊パンチ(dankaiパンチ)』(飛鳥新社、2006年創刊・2009年休刊)も作られてましたよね?
(『団塊パンチ』の写真を見ながら)「フランク永井の時代」とか、すばらしい特集ですよね(笑)。
赤田:ちあきなおみの特集とかもやりましたね。この雑誌は15冊ぐらい作ったんですけど、まったく売れなくて……。
『団塊パンチ』は一応「団塊向け」の雑誌ということになっているんですが、中身はサブカルですね。これは色々な原因があって、それを話すだけで1冊本になるくらいなんですが(笑)。団塊世代のおじさんを狙ってマーケティング的に作られたものの1つなんだけれども、なかなか当たらず。
その後も色々なことがあって、会社(飛鳥新社)も辞めちゃったので、「もう自分の好きなことをやってもいいかな」という欲望があったんです。実は、会社に勤めていた頃――つまりもう10年以上前から、『Spectator』には連載を持って原稿を書いたりしていたんですけど、再び雑誌の現場で編集をしてみたかったので、青野さんにお願いして、編集部に入れていただきました。
『Spectator』の扱う範囲というのは比較的勝手の分かる、自分の好きなジャンルだったんです。
草なぎ:『Spectator』はさまざまな時代の色々なテーマで特集を組まれていると思うのですが、コンセプトを一言で表すならどのようになるのでしょうか?
青野:「ニュージャーナリズム」という、アメリカで1960〜70年代くらいに流行ったジャーナリズムの形態があるんですね。自分が行為者となって調査・報道をして、何が起こっているのか自分の眼で確かめる。それをまるで映画を観ているような、心の中に画が浮ぶような文章で表現する。そういうのを自分もやりたいと思っていたんです。ハンター・S・トンプソンというライターの影響なんですが。
赤田:「主観的ジャーナリズム」という言い方もしましたね。客観性は大事なんだけれども、あえてその客観性を無視して、対象に積極的に関わっていくことで、結末までより深く書いてしまう。そんな流行りがあったんです。
例えばそれまで、ロックのようなテーマが若者の視点からちゃんと書かれることはなかったんですが、それへの反発から『ローリングストーン』誌が生まれたり……こういう現在の雑誌に続く一連の流れに興味があって、それに近いものをやりたいと思って、僕も 『Quick Japan』を始めたんです。
青野:いわゆる“大人が書いているようなジャーナリズム”のイメージとは異なるジャーナリズムを、もう少し下の世代が表現してもいいんじゃないか、ということを考えていて。僕の場合は、自分たちと同世代の、もうちょっとストリート寄りのカルチャーに関する考えを、ちゃんと活字で残す場所を作りたいと考えて作り始めました。
草なぎ:読者側の立場として、僕は『Quick Japan』と『Spectator』は全然違った雑誌のように見えていたのですが、根源的なものは一緒だったんですね!
赤田:今の『Quick Japan』を見たら想像できないですもんね(笑)。
草なぎ:できないですね。『Quick Japan』の編集長も、赤田さんの後に、かなり入れ替わりましたもんね。
赤田:4人くらい替わったのかな。
[2/4に続きます]
編集協力:隅田由貴子 [2013年12月23日 VACANT(東京・原宿)にて]
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