某出版社にて、翻訳書編集、法務をへて翻訳権輸出に関わる冨田健太郎が、毎月気になる海外の出版事情を紹介する「斜めから見た海外出版トピックス」。今回は、日本では馴染みが薄いですが、欧米では大きな市場を誇る「キリスト教出版」について最近の動向をまとめてただきました。店舗の閉店が相次いでいるようですが、もちろんキリスト教自体が廃れるわけではなく……。
第23回 米国キリスト教出版の世界
▼現代アメリカとキリスト教
トランプ政権になって、米国のキリスト教保守派の動静をよく聞くようになった気がします。
昨年2018年の中間選挙の際には、NHKが興味深い現地リポートをしていました。
熱心なクリスチャンの立場からは、女性スキャンダルや差別発言を繰りかえすトランプは許せないように思えるのですが、キリスト教徒の主張をつぎつぎに実現している大統領として、個人的な罪を上まわる業績をあげている、と評価されているらしいのです。
そんなアメリカでは、出版においてもキリスト教のカテゴリーがあります。
キリスト教関係の本を専門に出す大手出版社もあれば、キリスト教徒を顧客の中心にすえた書店チェーンもあります。
今回は、そのキリスト教出版を取りあげてみようと思います。
多くの日本人(筆者もふくめて)にとっては、あまりなじみのない世界かもしれませんが、考えてみればグーテンベルクの印刷術が聖書からはじまったように、欧米文化の基礎にはキリスト教があるわけですもんね。
▼キリスト教出版とは
聖書はもちろん、ダンテ、バニヤン、ミルトンなど、キリスト教の古典とその出版の歴史は深いわけですが、米国に目を移すと、昔からキリスト教出版物のメガヒットがよくあります。内容は、神の言葉を聞いたといった預言であったり、天国を見たという臨死体験であったり、キリスト教徒としての生き方を説く生活信条であったりさまざまですが、一度読者に受け入れられると、数千万部という単位のヒットになります。
フィクションでは、ルー・ウォーレス『ベン・ハー』(1880年)が有名でしょう。累計5000万部売れているといいます。日本では映画版が有名で、歴史スペクタクルの印象が強いですが、ご存じのとおり、キリストが重要な役割を演じます。原作は「キリストの物語」と副題がつけられています。
さらに、たとえばC・S・ルイス『ナルニア国物語』はキリスト教小説として把握されています(一度死んで復活するアスランはじめ、キリスト教のメタファーにあふれているとか)。『指輪物語』も著者トールキン自身がカトリック小説であると説明しているそうです。
近年大ヒットした小説としては、ティム・ラヘイ&ジェリー・B・ジェンキンズ『レフト・ビハインド』(1995〜2007年/いのちのことば社から邦訳あり)があげられます。敬虔なキリスト教信者が天に召される現象(携挙)が起き、地上に取り残された人びと(=レフト・ビハインド)がアンチ・キリストと戦うという、ヨハネの黙示録の世界をサスペンスフルに描いた一大シリーズで、前日譚もふくめて全16巻、累計8000万部売れたといいます(ニコラス・ケイジ主演の映画版もありますが、あれはすでに3本作られたうえでのリブートでした)。
キリスト教信者向けのブックガイドなどを見ると、楽しみのための読書が禁じられているわけではないようですが、当然ながら、堕落につうじる娯楽は神の道に反すると考えられています。
では、どんな本を選べばいいのでしょうか。
信仰にもとづいて執筆している作家の作品ならまちがいはないので、エンターテインメント小説界でも、数多くのキリスト教作家たちが活躍しています。こうした著者の作品なら、信仰に即した小説の楽しみを味わえるというわけです。
ロマンス小説においては、「クリスチャン・ロマンス」「インスピレイショナル・ロマンス」「スピリチュアル・ロマンス」など呼び名はさまざまですが、キリスト教信者向けのジャンルがあり、作品がたくさん書かれています。もちろん性愛描写はなく(アルファ・メイル=我の強いヒーローは登場しますが)、信仰で葛藤を乗りこえる展開が好まれるようです。そのようなジャンルの作品も、ハーレクイン・レーベルなどで邦訳があります。
ミステリー界にもキリスト教作家がいます。人気作家のひとりがテッド・デッカー。映画化もされた『影の爆殺魔』(棚橋志行訳/扶桑社)が、書評で「バカミス(=バカバカしいオチがつくミステリー)」の称号を受けたことからもわかるように、予想外の展開を得意とする作家です。スリルはあっても残虐な描写はなく、勧善懲悪で安心して読めます(そこが物足りないともいえるかもしれませんが)。
▼キリスト教書店チェーンの苦戦
いっぽう、書店業界に目を向けると、最近大きなニュースがありました。キリスト教書店チェーンのライフウェイが、全店舗の閉鎖を発表したのです。
ライフウェイは、キリスト教系書店としては全米最大のチェーンで、その172店舗すべてを閉じるというのです。
19世紀に、日曜学校の物品販売からはじまった同社は、2013年の184店舗をピークに経営が悪化していたようです。状況を打開するため、食料品などにも力を入れたようですが、キリスト教福音派の教えにあまりに近寄りすぎたため、他の宗派をふくめた顧客を遠ざけることになったのではないか、といった分析も出ています。
出版物のほうでも、女性や性的少数者といった現代的な問題に取り組むキリスト教作家の作品はライフウェイには置いてもらえない、といわれていたそうです。
経営基盤をかためるため、コアな福音派に寄り添った店づくりをした結果、逆に他の客を寄せつけなくなってしまったのだとすれば、不幸な話です。
いずれにしろ、ライフウェイはキリスト教信者の地域の拠点としても重要な役割を担ってきただけに、その閉店は大きな影響がありそうです。
たとえば、こんな話があります。
ユダヤ系の女性が、ラビである夫の赴任にともなってアリゾナの町に来て、そこでかつての技術を発揮して、製本の仕事をはじめたのですが、その拠点がライフウェイでした。
彼女は、キリスト教信者の家にある古い聖書の修復を請け負うようになったのですが、チェーンの各店舗をつうじて依頼が集まるのだそうです。
なるほど、特定の顧客が集まる書店にはこういう機能もあるのですね。
しかし、じつはこれに先立つ2017年、ライフウェイより多い240店舗を展開していた当時最大のキリスト教系書店チェーン、ファミリー・クリスチャンが全店を閉鎖する事態が起きていました。2015年に破産し、経営立てなおしをはかっていたものの、うまくいかなかったのです。
2年たらずのあいだに、国内最大のチェーン店がつづけざまに閉店したわけですが、キリスト教出版はだいじょうぶなのでしょうか。
▼今後のキリスト教出版界
経済誌フォーブズは、楽観的な予測です。
まず、キリスト教関係者にとってもインターネット書店の存在が大きく、実店舗が減ってもさほどの影響はないといいます(ライフウェイは実店舗をクローズして、オンライン・ビジネスに注力する方針です)。
また、独立系書店の存在もあげられます。
ファミリー・クリスチャンとライフウェイで、あわせて400店以上が閉店することになりますが、独立系書店が約2000店舗あり、よりコミュニティに根ざしたサーヴィスを提供しています。先ほども紹介したように、ライフウェイの選書はかたよりがちだったようですが、独立系書店は、もっと読者のニーズに答えたビジネスをしているのです。
そして、なによりも、キリスト教出版の売上が好調だというのがポイントです。米国の出版社協会の発表によると、2018年度の宗教書は前年比4.5%と伸びています。
調査によると、米国人の3/4はキリスト教信者で、4割近くが自分はひじょうに敬虔な信者だと答えているそうですから、それだけで日本の人口ぐらいにはなります。
つまり、キリスト教出版は、いまも有望な市場なのです。
キリスト教作家をかかえるエージェントたちも、おなじ見解です。
市場の可能性があるといっても、書店チェーンがなくなれば販売ルートが減ることはまちがいないので、作家たちはこれまでとは異なる販路を広げることが重要になります。インターネットやソーシャル・メディアが強い影響力を持つのは、キリスト教作家でもおなじですね。
近年はフィクションをもとめるキリスト教出版社が減っているというエージェントもいますが、読者がいなくなっているわけではないので、さらに効果的な版元探しが必要になります。
じっさいに、DIYや料理といった実用書や、ティーンズ向けの本、家族みなで読めるようなカラー版の企画などを要求されることも増えているそうです。
ニーズが多様化するというのもまた、市場の活性化につながる可能性があるでしょう。
最後に、こんなニュースを紹介します。
エヴァンズはテネシー州の出身で、保守的なキリスト教徒として育ちましたが、みずからの町で起きたスコープス裁判(進化論を教えた高校教師が訴えられた事件)について正面から向きあった作品で注目され、つづいて聖書に書かれた、あるべき女性像を1年間実践した体験記でベストセラー作家となりました。
信仰を基盤として、真摯に女性のありかたを見つめた彼女は、新時代のキリスト教作家のひとりで、その早世は悼まれます。
しかし、彼女のような存在もまた、多様化する現代のキリスト教出版の展開を感じさせるものといえそうです。
[斜めから見た海外出版トピックス:第23回 了]
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