COLUMN

冨田健太郎 斜めから見た海外出版トピックス

冨田健太郎 斜めから見た海外出版トピックス
第14回 アナ・マーチとは何者か?

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 某出版社にて、翻訳書編集、法務をへて翻訳権輸出に関わる冨田健太郎が、毎月気になる海外の出版事情を紹介する「斜めから見た海外出版トピックス」。
今回はアメリカ文芸コミュニティを詐欺まがいの行為で何年も渡り歩く、ある女性に関するミステリー。全米文芸コミュニティで400人規模の盛大なパーティを開いた女性には隠された犯罪歴があり、数十万ドルの賠償金も負っていたのです。

第14回 アナ・マーチとは何者か?

……と題する記事が、ロサンゼルス・タイムズのウェブに出ました。

 サブタイトルは、「文学における野心。夢のようなパーティ。秘められた過去」という、思わせぶりなもの。

 しかも見出しの「アナ・マーチ」の名が、アニメーションによって、ナンシー・ロット→ディレイニー・アンダースン→ナンシー・クルーズと変わっていくという、これまた謎めいた趣向。

 夏のさなかでもありますので、今回は全米各地の文芸コミュニティを徘徊する危険な女性にまつわる怪談じみた話をご紹介しようと思います。

▼LAのアナ・マーチ

 2015年、ロサンゼルスのダウンタウンにあるエース・ホテルで、その「夢のようなパーティ」は開かれていました。ここは、映画会社ユナイテッド・アーティスツのビルを使ってオープンした新しいホテルで、そこに地元の作家や評論家、出版関係者など400人以上が集まったといいますから、壮観だったことでしょう。

 このパーティを取り仕切っていたのが、今回の主人公アナ・マーチです。

 派手な水玉模様の服に、ピンクの髪。本を出してもいないのに、総額22,000ドル以上もかかるこんな企画を主催する人物。

「これってなんのパーティなの?」と問う声が会場のあちこちで聞かれたそうですが、それどころか、こんな疑問もささやかれたそうです――“アナ・マーチとは何者か?”
 彼女を知らない関係者もたくさんいたわけです。

 彼女がカリフォルニアにやって来たのは、前年の2014年。

 婚約者であるアダム・ペサコウィッツという車椅子の男性とともに東海岸から引っ越してきて、最初はサンタ・バーバラに、それからLAに移ってきています。

 サロン・ドットコムなどにコラムを執筆するかたわら、出版コミュニティで活動をはじめ、シェリル・ストレイド(『わたしに会うまでの1600キロ(Wild)』の著者)などを呼んだイヴェントも企画しています。

 2015年には、人種やジェンダーや階級をテーマとした執筆を支援する「ルル基金」を設立します。

 詩人・ライター・編集者のメリッサ・チャドバーンは、2016年にルル基金の賞を受賞しました。しかし、チャドバーンが賞金の1,000ドルを受け取るまでには、アナ・マーチとのあいだで相当な攻防がありました。

 この基金が急に閉鎖されてしまったからです。2020年までつづけるとされていたにもかかわらず、設立からわずか9ヵ月後の休止でした。

 基金のサイトには、財務報告もふくめたアナ・マーチの文章が、いまも掲げられています。

 1年かけて、なんとか賞金を受け取ったメリッサ・チャドバーンは、それで終わりにはしなかったようです。ロサンゼルス・タイムズの編集者とともに、アナ・マーチを追った記事を執筆したのです。これによって、アナ・マーチの驚きの過去が明らかになります。犯罪歴があり、裁判も複数起こされ、数十万ドルの賠償金も負っていたのです。

※ロサンゼルス・タイムズの取材に対し、彼女はみずからのサイトで回答していましたが、現在は「工事中」になっています。

▼アナ・マーチことナンシー・ロット

 アナ・マーチは、本名を「ナンシー・ロット」といい、1968年にメリーランド州で生まれていました。

 ナンシー・ロットの名は、州検事局の文書で確認されています。1990年、21歳のとき、政治キャンペーンの会計担当者として不正を働き、精神的治療と5年の保護観察、18,000ドルの返還を言いわたされていたのです。

 しかも裁判所の記録によると、彼女は保護観察を満了せず、金も未納のままで、支払い命令も受けています。

 彼女はその後、ニューヨークで結婚し、姓がクルーズに変わりますが、離婚。結婚していた時期のナンシー・クルーズの名がつかわれるのは、しばらくあとのことになります。

▼ナンシー・ロットからディレイニー・アンダースンへ

 90年代中頃、彼女はサンディエゴにやって来ます。

「ディレイニー・アンダースン」と名のり、地元のNPO「ライティング・センター」に出入りするようになります。そこは文字どおり、作家志望者向けの執筆教室などを行なう小さな団体でした。

 NPOの主催者ジュディ・リーヴズは、彼女の熱心さとアイディア豊富なところを見こんで正式な職員に雇い、97年にはディレクターに抜擢します。彼女は、寄付集めのオークションを企画したり、著名なジャーナリストのジョージ・プリンプトンを招くなどの活動をつづけます。

 周囲には、自分の母親はホワイトハウスで働いていて、カーター大統領の娘のドレスにアイロンをかけていたなどと語っていたそうです。

 順風満帆に見えたライティング・センターですが、事務局に突然、立ち退き命令が届きます。緊急の理事会が招集されますが、ディレイニー・アンダースンがこの場で実情を説明する、という展開にはなりませんでした。当日の夜明け前、主催者であるリーヴズの家の扉に「辞任します」との書き置きを残し、彼女はサンディエゴから消えたのです。1998年のことです。

 文学好きのコミュニティを作ることが夢だったというリーヴズ氏は、センターの財務状況をあえて調査することもせず、ましてやアンダースンを訴えて金を取りもどすこともしませんでした。備品類をガレージ・セールで売りはらって損失を補填し、センターは閉鎖されました。ディレイニー・アンダースンが受け取った報酬は2年間で9000ドルだったといいますが、どのような財務運営をしていたのかはわからないままです。

▼ディレイニー・アンダースンからナンシー・クルーズへ

 3年後の2001年、彼女は首都ワシントンに現われます。ここでは、なぜか結婚していた時期の「ナンシー・クルーズ」を名のります。そして映画史の研究者アンドリュー・スミスと結婚し、公共ラジオ局WAMUでダイレクト・メールで寄付をつのる職を得ます。

 この頃、NPOの資金集めは、手紙からインターネットに移りつつありました。そこで彼女は、みずからの名を冠したコンサルティング事務所を設立して、あらためてWAMUと契約、サイトをつうじて15万ドルを集めてみせました。その成功を受けて、国内15局の資金集めのオークションをまかされるようになります。

 彼女は周囲に、自分の母親はカーター政権の報道官だったといっていたそうです。ここでもカーター大統領が引きあいに出されているわけですが、彼女の母親がホワイトハウスで働いていた記録は見つかっていません。

 04年9月には、彼女の会社がオンライン・オークションを主催し、15のラジオ局は前金として8,700ドルから68,400ドルを支払います。結果的にこのオークションは68万ドル近くを集めますが、各局への支払いは遅れ、9局へ1万ドルを送っただけで終わります。

 じつは彼女の会社は、このオークション実施の前から危険な状態におちいっていたのです。事務所の賃貸料を5ヵ月ぶん滞納して家主から訴訟を起こされ、協力してくれていた専門家への報酬も滞っていました。

 05年2月、彼女は会社をたたみ、クライアントには「金融資産はまったくない」とのメールを送りつけます。

 もちろん、これは訴訟ざたになり、裁判所は彼女に対して、ラジオ局側に38万ドル以上を支払うよう求めます。

 彼女の会社に入った法定管財人は、書類不足のためにじゅうぶんな調査ができませんでした。オークションで集めた金を会社が受け取っているのはまちがいなく、本来は信託財産として扱われるべきその金を横領した形になっているため、会社がなくなっても、ナンシー・クルーズが個人として負債を支払う責任があるはずですが、彼女はこの件は管財人によって処理済みと主張しています。

 このとき、公共ラジオ放送のニューズレターがこの件を取材しています。そして、彼女がディレイニー・アンダースンの名でサンディエゴのライティング・センターで起こした事件をつかんでいたのです。

(資金集め人の過去には、誰も知らない危険信号があった)

 しかし、すでに彼女は行方をくらましていました。

 過去の悪事が暴かれるところまできながら、またしても彼女は逃げのびたのです。

 05年10月、夫のアンドリュー・スミス(のちに正式に離婚します)がワシントンで破産を申し立てていたころ、ナンシー・クルーズは200キロほどしか離れていないデラウェア州に姿を見せます。

 人口1300人あまりの小さな町に現われた彼女は、当地の文学好きに、自分は大手出版社ランダムハウスと2冊の執筆契約を結んでいると吹聴します。『ティッピング・ポイント』で知られるジャーナリスト、マルコム・グラッドウェルといっしょに全米図書賞授賞式にも参加したといって、新聞の写真も見せています(ただし、その写真はグラッドウェルだけで、彼女はフレームの外にいてトリミングされたと説明したそうです)。

 ある地元民は、彼女がニューヨーカー誌に執筆すると聞かされ、ニューオーリンズへの取材旅行にもつきあわされています(無給で)。しかし、ボブ・ディランから個人的な電話があったと彼女がいいだした段階で、さすがに周囲も疑いはじめます。彼らは、ナンシー・クルーズが名前をあげていたエージェントや出版社にコンタクトを取り、彼女の話がすべて嘘だったことが判明します。

 地元の人たちからそれを告げられた直後、彼女はまた消えてしまいます。06年の夏のことでした。

▼ナンシー・クルーズからアナ・マーチへ

 彼女の次の消息は、5年後の2011年。名は「アナ・マーチ」となって、すくなくとも二度の離婚歴がある彼女は、今度は車椅子の男性アダム・ペサコウィッツとつきあいはじめます。

 翌12年には、サロン・ドットコムにアナ・マーチの記事が掲載されます。ここが彼女のメインのフィールドとなり、フェミニストの立場で執筆をつづけ、最後の記事は2017年の年末になっています。アナ・マーチは、ついに現実にライターになったわけです。

 ペサコウィッツとともに西海岸に越してきてからの動向は最初に紹介したとおりですが、つきあいのあったライターのアシュリー・ペレスによれば、アナ・マーチは他人がもとめていることをかぎわけ、喜ぶようなことをいってやる能力に長けていたそうです。なるほど、そんなふうに人を惹きつける力がないと、こんな生きかたはできないでしょうね。

 エース・ホテルでの「夢のようなパーティ」のあと、彼女は多くの知りあいから個人的な寄付をつのり(ソーシャル・メディアに書かないように、と念を押したうえで)6,200ドルを得たといいます。

 彼女は、1年でLAを去ります。ペサコウィッツは、婚約者の過去について真実を知らされないまま彼女を失うことになりましたが、いまは前向きに人生を立てなおそうとしているそうです。

 2016年4月、彼女はデラウェアにもどり、執筆のワークショップの開催を告知します。どこかへ旅行して、そこで集中的に文芸教室をするという企画で、参加者は前金として400ドルから3,000ドルを支払えば、授業と宿泊と食事が提供されるというものです。ただし、現地までの旅費は別途負担です。

 16年から17年のあいだに彼女がアナウンスしたワークショップは11にのぼり、パームスプリングスやサンタモニカやハワイ等々で行なうとされていましたが、次々と中止ないし延期されます。

 払いこんでしまった前払金は、申し立てをすれば返却される場合がほとんどだったようですが、トラブルも起きています。先ほど名前が出たLAのライター、アシュリー・ペレスは、イタリアでのワークショップに講師として招かれました。ホテルが確保されていると聞いたペレスは、パートナーとともに飛行機を手配。そこでワークショップの中止を聞かされますが、すでに航空券を買ってしまっていたのでともかくも現地へ飛びます。しかしイタリアに着いてみると、そもそもホテルが予約すらされていなかったのを知ったのでした。

 参加者がいたワークショップでも、ホテルが手配されていなかったことが4回確認されていて、フランスでのワークショップでは講師をほったらかしにし、彼が自分への支払いを要求すると、逆に脅迫めいたメッセージを送っています。「あなたがこの件を公表して騒ぎたてるというなら――わたしだったらしませんが――でも、あなたがそうするというなら、わたしが動画や写真を持っていることだけはお忘れなく」

 2016年秋にドナルド・トランプが大統領選に勝利すると、彼女は反トランプのフェミニズム雑誌「Roar」を立ちあげると宣言します。時流をとらえたこの企画は注目を浴び、オンライン・ファンドで5万ドル近くを集めますが、けっきょくなにも進まず、関わった人たちにも正当な対価は支払われませんでした。

 現在、アナ・マーチはデラウェアの小さな町で、執筆のコンサルティングをしているとのことです。送られた原稿を読んで助言をして、よければエージェントにつないでくれるそうで、それだけで料金は1,600ドルから3,000ドル。

 ロサンゼルスで大パーティをもよおした頃からはずいぶん撤退してしまったアナ・マーチですが、こんな人物が現実にいるとは、なかなか興味深いことです。

 LAのような大都市には出版コミュニティがあり、地方の町にも作家になりたい人たちがいて執筆にいそしんでいる……そんな状況だからこそ、彼女のような詐欺師まがいの人間が泳ぎ抜ける余地があったのかもしれません。彼女自身、すくなくともネット・メディアのライターにはなれたわけで、その意味では自己実現ができているのかもしれませんが。

[斜めから見た海外出版トピックス:第14回 了]


PROFILEプロフィール (50音順)

冨田健太郎(とみた・けんたろう)

初の就職先は、翻訳出版で知られる出版社。その後、事情でしばらくまったくべつの仕事(湘南のラブホテルとか、黄金町や日の出町のストリップ劇場とか相手の営業職)をしたあと、編集者としてB級エンターテインメント翻訳文庫を中心に仕事をし、その後に法務担当を経て、電子出版や海外への翻訳権の輸出業務。編集を担当したなかでいちばん知られている本は、スペンサー・ジョンソン『チーズはどこへ消えた?』(門田美鈴訳)、評価されながら議論になった本は、ジム・トンプスン『ポップ1280』(三川基好訳)。https://twitter.com/TomitaKentaro