写真:清水玲奈 イラスト:赤松かおり
第12回 Stanfords
ロンドンの中心部で劇場街にも近いコヴェントガーデンは、若者向けファッションの店やカフェが集まるにぎやかな界隈です。その目抜き通りであるロングエイカーに3フロアの大型店舗を構えるのが、世界最大の旅行関連専門書店として名高いスタンフォーズです。たとえば、「ロンリープラネット」シリーズのガイドブックの売り上げも実店舗の書店としては世界一です。
店があるのは地下鉄コヴェントガーデン駅からレスタースクエア駅に向かう途中。劇場街ウエストエンドや、かつて書店街だったチャリングクロス通りもすぐそこです。
スタンフォーズは、1853年、かつて書店街として知られたロンドン中心部のチャリングクロス通りに、エドワード・スタンフォードが地図の出版社兼書店を創業したのが始まりで、1901年にすぐ近くの現在の場所に移転しました。チャリングクロス通りに今も大型店を構える「フォイルズ」に続いて、独立系書店としてもイギリス第2の規模を誇ります。
ショーウィンドーの下には、創業者名と創業年がさりげなく刻まれています。
歴史を感じさせる専門書店でありながら、「冒険家から、アームチェア・トラベラー(ひじ掛け椅子で空想旅行を楽しむ人)まで」を対象にした親しみやすい店づくりで、たとえ旅行の予定がなくても、店内を眺めながら歩くだけで旅心が刺激されます。
店内のカフェの壁には、スタンフォードの歴史を物語るモノクロ写真が掲示されています。
創業者のエドワード・スタンフォードは1827年、ヴィクトリア朝のロンドンで、仕立て屋兼生地商の家に生まれました。1848年からチャリングクロス通り6番地にあった地図店トレローニー・ソーンダース(Trelawney Saunders)で販売員を務め、4年後には共同経営者になりました。1853年には店の全経営権を獲得し、「スタンフォーズ」が誕生します。店を隣の7番地と8番地にも拡大し、さらに別の土地に印刷工場を新設して、ロンドン随一の地図専門出版社兼書店となります。大英帝国が植民地拡大を続け、国内でも鉄道網が発達し、さらに上流階級の子弟たちはグランドツアーと呼ばれるフランス・イタリアにこぞって出かけていた頃、地図の需要は高まる一方で、時流に乗って店は大繁盛したといいます。
オーク材の陳列台と書棚が重厚な雰囲気。広い店内に本と地図がぎっしりと並んでいます。
スタンフォーズに67年間勤めたお抱え地図製作者、ジョン・ボルトンの手によるヨーロッパ大陸やロンドンの地図を次々と発売し、1862年のロンドンの地図は王立地理教会から「これまで製作されたロンドンの地図の中で最も完璧」とのお墨付きをもらいました。チャリングクロス通り55番地に拡大移転したのち、1873年には、現在の店のあるロングエイカー通り12番地~14番地に印刷工場が引っ越しました。イングランドとウエールズの陸地測量図を扱う唯一の公認店として営業を続け、1877年には女王御用達の文房具店として名高かったストーントン&サン(Saunton & Son)を買収するに至ります。
1885年、創業者の引退に伴い、息子であるエドワード・スタンフォード2世が店を継ぎ、1887年にはヴィクトリア女王の在位50周年を記念して、女王に捧げるロンドン地図帳「スタンフォーズ・ロンドン・アトラス・オブ・ユニバーサル・ジオグラフィー」を出版。1893年、王室御用達の地図店として認められました。
1901年、印刷工場のリノベーションの結果、この敷地に店舗と地図製作所も移転させます。顧客リストには、伝説的な人物が名を連ねました。ヨーロッパ人で初めてアフリカ大陸を横断したデヴィッド・リヴィングストン(1813年―1873年)。南極探検で活躍したアーネスト・シャクルトン(1874年―1922年)やロバート・スコット大佐(1883年―1912年)。クリミア戦争に従軍し「近代看護教育の母」と呼ばれたフローレンス・ナイチンゲール(1820年―1910年)。また、イギリスの植民地支配の立役者となった軍人たちもスタンフォーズの上顧客でしたし、シャーロック・ホームズは、『バスカヴィル家の犬』(1901年)の中で、ダートムアの地図を入手するために相棒のワトスンをこの店に送り込みました。
「シャーロック・ホームズ」シリーズの新装豪華版。この店で買ったら特別な一冊になりそうです。
1902年、エドワード7世が即位してエドワード朝が始まりますが、王室御用達の地図店としての役割は続き、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、イギリス陸軍省の公式出版社となりました。1917年には2代目の死去に伴い、息子のエドワード・フレーザー・スタンフォードが跡を継ぎ、大戦間のイギリスでさまざまな工夫を凝らした地図を製作。その中にはイギリスの歴史にかかわるような地図も多くありました。1922年には、当時の英国王ジョージ5世の王妃メアリーのドールハウスに納めるため、世界最小の地図の数々を製作しました。一般のドライバー向けのデイリーメイル道路地図は、1926年から第二次世界大戦後まで30年間にわたって出版されました。女流飛行士エイミー・ジョンソン(1903年―1941年)は、1930年に女性で初めてイギリスからオーストラリアへの単独飛行に成功した際に、スタンフォードが特別に製作した地図を使いました。
店の入り口近くには、ロンドンの地図のコーナーが設けられています。他ではお目にかかれない多彩な品ぞろえ。
1939年、当時のネヴィル・チェンバレン首相は、ヒットラーの権力拡大を示す地図をスタンフォーズに委託しました。3代目のフレーザー・スタンフォードは、戦況の悪化を深刻に受け止め、社屋の地下室の天井を鉄の梁で補強して防空壕としたそうです。第二次世界大戦中、ロンドンで空襲警報が相次ぐようになると、社員2人を毎晩常駐させて一般の人たちを受け入れていました。1941年4月には大空襲の標的となりますが、陸地測量図の大量の在庫がきっちりと積まれていたために建物は一部が崩壊したのみで済みました。戦後の困窮の時代を通して、店では端が黒焦げになった地図が売られたそうです。
「ロンドンへようこそ」というポップも楽しい平台。
1944年に3代目が死去すると、弟のジョン・キース・スタンフォードが跡を継ぎますが、1947年には、1834年創立の地図出版社、ジョージ・フィリップ&サン社に経営権を売却しました。戦後、コヴェントガーデンがショッピング街になると、スタンフォーズは出版業を廃業し、他では見つからないような珍しい地図も置く地図専門店としての経営にフォーカスするようになります。
スタンフォーズはその後も、イギリスの政治や文化の戦後史と共に歩んできました。1982年にはフォークランド戦争でフォークランドの地図が不足し、英国軍はアルゼンチン人から押収した地図に頼らざるを得ない状況になりました。このときは、「アルゼンチンの外交官が戦争勃発前にスタンフォーズの地図を買い占めたために品薄になった」といううわさがささやかれました。1988年には元モンティパイソンのマイケル・ペイリンが、スタンフォーズを出発地に選んで旅行記『80日間世界一周』を書くために旅立ち、トラベルライターとしてのキャリアを文字通りここでスタートさせました。
イギリス国内の地図帳とガイドブックの棚。道路地図帳、北アイルランド以外のイギリス全土、イングランドの地域別などに分類されています。
スタンフォーズが初めての支店をブリストルの旧市街にオープンしたのは1997年。イギリス国内で大小さまざまな書店が経営難に陥り閉店を余儀なくされていたころでした。2003年、150周年を記念して、ロンドン本店の1階の床には、ナショナル・ジオグラフィックの世界地図を印刷した巨大なビニールシートが敷かれ、新たなトレードマークとなりました。地下の床にはロンドンの地図、また2階の床にはヒマラヤの地図が敷かれています。
旅行の予定を書き込みたいカレンダーも充実。売り場の床には、巨大な世界地図がデザインされています。
2007年にはマンチェスター店が開店し、それまでブリストル店にあったビジネス・マッピング・サービスが移設されました。建設工事の許可申請に用いる地図や歴史地図など、主にビジネス向けにオンデマンドで地図や地理上のデータを提供するサービスを行い、陸地測量局の公式業者にも指定されています。
黒でシックにまとめた制服姿の店員さん。ポロシャツの背中には創業者のサインがデザインされています。
現在ロンドン本店の売り場は基本的に地理的な構成で、1階はイギリス国内、2階はヨーロッパ、地下はその他の地域となっています。さらに、1階には児童書、2階には登山とビジネス用の地図、地下1階には地球儀と海図も置かれています。品ぞろえは、本と地図、その他のグッズを合わせて22,000点と多岐に渡ります。そのうちの半分が本、4割が地図、残りの1割が地球儀や旅行用品、ノートやポストカードなどのグッズです。買い付けはバイヤー3人で担当していて、そのチーフであり、地図以外の本と商品を幅広く担当しているのがデヴィッド・マンテーロさんです。
自らも旅行好きのバイヤー、デヴィッドさんは、ロンドン在住でも一年中日焼け肌をキープしています。
スペインのアンダルシア州マラガ出身のデヴィッドさんは、在学中は教職を目指していましたが、大学卒業後、2000年からロンドンに移り住み、ショップの店員を経験して接客業が好きだということに気づいて、またロンドンが気に入ったためにスタンフォーズに入社しました。自らも旅行好きで、奥様とともに日本を始め世界各地を旅しているそうです。インタビューをお願いしたのは、カンボジアへの2週間の旅に出かける直前でした。
「ロンドンは空港がたくさんあって世界のフライト路線のハブでもあり、どこに行くにも理想的な出発点です。そして、スタンフォーズはそんなロンドンになくてはならない店です」。
本のセレクトは「旅に行く前、旅の途中、そして旅の後に」読みたくなる本を扱うという方針です。実用的なガイドブック、地図や地図帳から、旅行記や世界のさまざまな地域に関連する文学作品、料理書、それに児童書まで、「スタンフォーズらしい」ラインナップを工夫しています。
ガイドブックは世界各地を網羅し、登山、探検、旅行、ウォーキングなど用途別にそろいます。どこに旅行に行くのでも、スタンフォーズなら必ず良質の本と地図が見つかるという評判を裏切らないよう、コストがかかってでも在庫を切らしません。たとえば最近イギリスで旅先として人気が急上昇しているイタリア南部のプーリア地方についてのガイドブックは、オランダの出版社から仕入れて置いているそうです。
お客さんの中には、旅行の予定があり旅先の雰囲気を前もって味わいたいという人や、旅行から帰ってきてその国についてさらに知りたいという人が少なくありません。2階の小説のコーナーは、世界の国・地域別に配列されています。特定の場所についての小説はないかと聞かれることが特に多いため、人気の旅先にちなんだ小説はとりわけ多く置いていて、店員がそれぞれ得意な国・地域をカバーしています。たとえば日本に興味がある人には、日本を舞台にしたカズオ・イシグロや村上春樹の作品が人気だそうで、地下1階の「アジア」の売り場に豊富にそろっています。そして、小説の売れ行きが一番伸びるのは、休暇の時期ではなくて2月だそうです。「年末年始の休暇で旅行に出かけ、帰ってきてからも、まだロンドンは寒く暗い時期だけに、家で本を読んで旅気分を長く味わいたいという人が多いようです」とデヴィッドさんは分析します。
地下の「世界旅行」の売り場にある日本の棚。ガイドブックや旅に役立つ日本語フレーズのほか、村上春樹やカズオ・イシグロのペーパーバックが並びます。
地下の売り場の入り口にも、日本をテーマにした平台がありました。
児童書はすべてのテーマを置いていますが、やはりイギリスや世界の地理・文化についての本や、地図・地図帳が充実しています。おじいちゃん・おばあちゃんが孫のためにプレゼントを買いに来るほか、旅行を前に家族で店を訪れ、ガイドブックを買ったついでに道中退屈しがちな子どもに読ませるための本を調達する家族連れも目立つそうです。
世界やイギリスの地図をデザインした子どものためのシールブック。旅行に持って行くのにぴったりです。
有名店だけに出版社の側からもさかんに「これはスタンフォーズにふさわしい本」という売り込みを受けますが、「結局は個人的な判断で選んでいる」と語ります。「書評をよく読み、本についての知識を蓄えておきます。ジャンルごとに棚の広さが決まっているので、それぞれの棚にちょうどいい量の本をキープしつつ、タイトルを少しずつ入れ替えていきます」。人気のある旅先はフランス、スペイン、イタリア、イギリス国内、そしてアメリカの順だそうです。
店は今もエドワード・スタンフォード社による独立経営です。経営は2000年前後から低迷して赤字決算を続けていました。店は賃貸物件で、賃料は一年で17%も値上げされるなど厳しい状況は続いていますが、売り上げは2015年から黒字に転じ、今も順調な経営が続いているそうです。店では、近年イベントや賞の創設などに力を入れていて、これが功を奏したと分析しています。
2015年2月には、ロンドンで開かれる旅行関連の見本市「デスティネーションズ・トラベル・ショー」の会場で、第1回「スタンフォーズ・トラベル・ライターズ・フェスティバル」を主催し、30人あまりのトラベルライターや探検家らがトークを行いました。また同年、旅行記の分野で最も優れた本とトラベルライターを選んで表彰するため、「エドワード・スタンフォード・トラベルライティング」賞を新設しました。初年度は、日本でも『シェイクスピアについて僕らが知りえたすべてのこと』『アメリカを変えた夏 1927年』などの著作が翻訳されて出ている英国在住アメリカ人ライターのビル・ブライソンが、旅行文学への貢献が認められて「最優秀トラベルライター賞」を受賞しました。賞はその後もカテゴリーを増やしながら続いていて、スタンフォーズの新たな伝統となっています。作家、写真家、出版社とのコラボによるサイン会や講演会などのイベントは週1~2回のペースで行い、さらには「馬車でめぐるロンドン」といった店外でのイベントの企画主催を積極的に行っています。
地球儀や地図柄のクッションは、家の読書コーナーに置いたら、机上の旅行気分が盛り上がりそうです。
イベントを行うことには、2つの効用があると、デヴィッドさんは説明します。第一に、顧客が店にいつも関心を寄せてくれるようになり、新たな顧客の開拓につながるうえ、ニュースレターへの登録者数が着実に伸びているそうです。第二に、イベントや賞の主催は、作家との関係を強化することにもつながります。先述のマイケル・ペイリンやビル・ブライソンのほか、自らの体験談に基づく冒険小説『キラー・エリート』の著作があるイギリスの冒険家ラナルフ・ファインズなど、これまで店でのイベントに出演してきた数多くの旅行好きの作家が、その後も本や地図を探すためにお客としてしばしば店を訪れるそうです。「作家と良い関係を築くことは、成功する書店経営の秘訣です。そうすれば、彼らが新しい本を出した際に、まずはスタンフォーズでサイン会をやりたいと言ってくれますから。また、小さな出版社の本の場合、著者が直接、興味深い本の情報を教えてくれることもあります。イベントは私たち店員にとっても興味深いですし、お客さんに書店としての付加価値を提供することができます」とデヴィッドさん。本の出版記念のイベントやトークに訪れる人は通常30~50人、多いときにはさらに80人ほどが立見で参加します。
本に続く主力商品である地図は、世界中から仕入れ、「どこかに存在する地図はできる限りの努力をして取り寄せる」ことを売りにしています。デヴィッドさんによれば、地図をお客さんに選んであげる際は、丁寧なアドバイスが必要だとか。「縮尺について何も考えずに、たとえばイタリアを歩いて回るための地図を探していて、一枚にイタリア全土が入っているものはないかなどと聞いてくるお客さんは珍しくありません。それからつい最近、外国からロンドン旅行に来たらしく、地図を見てイギリスが島国だということを知ってびっくりするお客さんがいらっしゃいました」。
ヨーロッパ諸国の棚の前で、踏み台に腰かけてじっくり本を選ぶお客さんの姿も。足元にはアルプス山脈の地図。
2015年には、王立地理協会との共同プロジェクトとして、店内のアーカイブにあった歴史的な地図のデジタル化を行い、店内のプリンターでオンデマンドで印刷する地図やデータの形で販売を始めました。地図の売り上げは長年横ばいだったのが、数年前から上昇に転じました。特に、お気に入りの土地の地図や、趣のある古い地図を額に入れて家に飾っておきたいという需要が増えているそうです。グーグルマップ全盛の時代、紙の地図の価値が再注目されるようになっているのは、本の世界で最近見られる電子書籍離れに似た傾向のようです。
店内に置かれたオンデマンド地図のプリンター。インテリアのために大型地図を買い求める人が増えているのが近年の傾向です。
「お客さんはみんなわくわくした気持を抱えて店にいらっしゃるので、ここで働けるのは幸せなことです」とデヴィッドさんは語ります。旅先から「スタンフォーズで買った本のおかげで最高の旅になった」というポストカードを受け取ることもあるそうです。「いわば人間のポジティブな面が感じられる仕事です。みなさんが旅行を最大限に楽しむお手伝いができること、そしてシャーロック・ホームズにも出てくる歴史的な店ですから、その遺産を未来に引き継いでいることを誇りに思います」。
さらに誇りにしているのが、30人ほどいる店のスタッフの質だそうです。「みんな旅行好きで、本が好きで、面白い人たちです」とデヴィッドさんは自画自賛します。プライベートでもハウスシェアをするなど、「まるで家族のように仲が良い」スタッフたちが、チームワークが不可欠な大型書店を日々支えています。
往時のロンドンで社交場として栄えたカフェハウスにちなんで、店内のシックなカフェは「スタンフォーズ・カフェハウス」と名付けられています。
2016年には店の1階の奥にカフェを新設。スタンフォーズの歴史にちなんだ写真が飾られた空間で、本や地図を広げるひと時が楽しめるようになり、コヴェントガーデンの喧騒を逃れてほっとできるオアシスとして親しまれています。大型の独立系書店として、現状維持で順調に経営を続けていくだけでも成功というべきですが、今後さらにビジネスを発展させていきたいと、デヴィッドさんは夢を語ります。「接客はもちろん、バイヤーの仕事も、結局は人間関係が物を言います。これからはもっと出版社との連携を強めて、スタンフォーズのお客さんに求められているような本が世に出るように働きかけるといった試みもしていきたいです」。165年の歴史を誇る老舗の未来に、さらに期待が高まります。
[英国書店探訪 第12回 Stanfords 了]
Stanfords
12-14 Long Acre, Covent Garden, London WC2E 9LP
Tel: 0207 836 1321
www.stanfords.co.uk/london-store
月~土 9:00~20:00 日 11:30~18:00
開店:1853年
店舗面積:2286㎡
本の点数:11,000点
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