COLUMN

田内万里夫 SUB-RIGHTS

田内万里夫 SUB-RIGHTS
09: Strange Fruit

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海外の本を自国で刊行する翻訳出版には、契約を成立させるための業務を担う「版権エージェント」という職種がある。このテキストは、一般社会ではあまり聞き慣れない職種「版権エージェント」の仕事、またそこから見聞きすることになった知られざる翻訳出版小史を伝える自伝的小説になっていく予定だ。連載タイトルの「SUB-RIGHTS」とは、著作権の二次的使用を意味する用語である。日本と海外の架け橋となったスコットランド人の版権エージェント、師であったウィリアム・ミラーへ追悼の念を込めて書き綴っていく。
※この物語は、概ね事実を元にしていますが「フィクション」です。登場する個人名・団体名の一部は架空名、もしくはプライバシー保護の観点から仮名にしています。
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「これ、ロンドンとフランクフルトのスケジュール、ざっとこんな感じになりそうだから、フンフン、まだ最終じゃないけど、目を通しといてくれる?」
 三輪さんから数枚の紙を手渡される。
 終戦記念日が間近に迫り、敢えてそれを選んでいるとしか思えないほど劣悪なサウンドシステムから爆音のアジテーションを流しながら、事務所裏手の六本木通りを街宣車がのろのろと移動している。フィーロンさんは顔を真赤にして立ち上がると足を引きずりながら通りに向いた非常用ベランダのドアを乱暴に開けて飛び出し、精一杯の罵声を浴びせている。事務所の社員達はそんな様子を見ても、誰一人なんら反応を示さない。やがて街宣車の騒音が遠ざかると、フィーロンさんが赤く上気した顔で、息を切らしながら戻ってくる。三月に入社した半年目の僕も、そんなフィーロンさんの様子に大して驚かなくなった。それよりもあの爆音で流される軍歌を聞かされていると、酒に酔って戦時中の歌を大声で歌いだす父親のことを否応なく思い出してしまい、なんとも整理のつかない気分に陥る。フィーロンさんも父親もおなじ1934年、昭和で言えば9年の生まれで、少年時代に第二次世界大戦を、それぞれスコットランドの港町と長崎の離島の漁港で過ごした。
 父親の像を頭から追い払うように、三輪さんから受け取った手元のスケジュール表にぼんやりと目をやると案の定、朝から晩までミーティングの予定でびっしりと埋まりつつある。「ロンドン」と見出しのついたものが2枚、それから「フランクフルト」が1枚。どうやらまた三週間の旅程だ。世界最大規模のブックフェア、世界中の出版社が集まるという本の見本市が毎年10月にドイツのフランクフルトで開かれるという話は聞いている。起源は中世の、グーテンベルクの時代にまで遡るのだとか誰かが言っていた。日取りを見るとフェアの開幕は10月7日の水曜日だが、フランクフルトでのミーティングはその前の月曜、火曜に始まるらしい。フェア前の二週間にはロンドンで出版社や出版エージェントを訪ねることになるようで、9月下旬の出発予定だ。
 まだ8月半ばなのに、もう10月のスケジュールができているのかと驚くが、どうやらロンドンとニューヨークにいるスカウトを通じ、7月から既にアポ取り合戦が開始されていたらしい。
「……まあ、毎年のことやから。ミーティングの予定が複数ある権利者、見れば分かると思うけど、フンフンフン、それ日本の出版社のために抑えたアポやから、みんなで手分けしてうまいこと調整しよ。あそこと会いたい、こことミーティングしたいって、日本の出版社、みんな言ってくるから毎年々々大変よ。困っちゃう」と口ひげをさすりながら、三輪さんがスケジュール表を睨んでいる。
 また外を別の街宣車が通り過ぎてゆくのが聞こえてくるが、さっきので憂さが多少は晴れたのか、それとも思ったような反応が社内で示されなかったからか、今度はフィーロンさんは自分のデスクから動かずに、「ろくでなしの国粋主義者どもめ! 消えてなくなれ!」と悪態をついただけだ。
「あ、そうそう、それからマイクが今年はロンドンの後でちょっとエジンバラに寄りたいって言うから、フン、あとで話を聞いておいて。……なんか、君を連れて一緒に行くって言ってるから」
 フィーロンさんによれば、スコットランドの首都エジンバラに近年元気が良くて気になっている出版社があり、その若き経営者でもある編集長と会って話をしたいのだそうだ。「まあ、その気になればロンドンででもフランクフルトででも会えないことはないんだが、それだと忙しないし、せっかくだからエジンバラに行ってみよう」と言うフィーロンさんの顔はまだ上気している。
 ロンドンの予定は二週目の水曜で切り上げて、それからエジンバラまで列車に乗って、フィーロンさんの生まれ故郷の海を車窓から眺めつつ北上する計画だそうで、既にマルメゾンというホテルを二部屋予約してある。オーケストラのコンサートの予定を調べて予約しなければとか、「アーサー王の玉座」という丘があって名所だから連れて行ってやるとか、夜はどこで飲もうかとか、とにかくもう待ちきれない様子だ。これはもしかしたら出張という名目の休暇なのかもしれないとも思うが、そんなことに僕も乗っけてもらえるのなら断る理由はどこにもない。ただ、手元のスケジュールを改めて見ると、木曜も金曜もロンドンでのミーティングが既に埋まりつつある。「その二日間くらいはシュウゾウに任せておけばいいから、とにかく一度スコットランドに一緒に行こう。行ったことないだろう? ぜひその目で見ておきなさい。きっと驚くぞ。ウイスキーもうまい! もちろん、出版社だって訪ねていくんだ。仕事を忘れるわけじゃない!」
 フィーロンさんは無邪気そうな顔を作ってウィンクを飛ばし、自分のデスクに戻ると届いたばかりのパブリッシャーズ・ウィークリー誌の最新号のページを捲りはじめた。
 ひとりだけで二日分のミーティングをこなさなければならないことが明らかになった三輪さんは、ちょっと不満気な様子であたりを見回すが、でも社員は相変わらずの無関心を装ったまま、もしくは本当に興味などないようで、誰も顔をあげない。ワンフロアの広くないオフィスだから、会話が届いていないわけではない。フィーロンさんがそう言うんだから、まあそれでいいってことじゃないの? 三輪さんはどうせ一瞬だって仕事から離れようとしないんだし。……そんな声が聞こえてくるようだ。職場に馴れてフィーロンさんの左翼的言動にも驚かなくなったついでに、そろそろ先輩社員達のそれぞれ言いそうなことも想像がつくようになった。新入社員なのに仕事を押し付ける側に回るのはなんとなくきまりが悪いが、俺が決めたことでもないし、知ったこっちゃない。ロンドンもフランクフルトも初めてだっていうのに、おまけにスコットランド、それもつい先日読み終えたばかりの『トレインスポッティング』の舞台のエジンバラにまで突然行けることになって、内心小躍りしたい気分だ。

 ところで僕も一服しようと非常用ベランダに出てみると、まだ外はくそ暑く陽射しは強い。煙草をもみ消して冷房の効いたオフィスに避難し、10月のことよりも今日の予定はなんだっけとスケジュール表を見ると、「午後5時、青土社」とある。
 僕はいわゆる普通小説を中心にしたフィクション、それから一部の人文書、あとは受け持つ担当者がいないという理由からコンピュータ関連の、プログラミング言語とかネットワーク構築とか、画像やら映像やらの編集ソフトとかの実用参考書(ほら、君がここでは一番若いから、こういうの理解も早いやろし、向くんちゃう? フンフン。ではよろしく)なんかも、内容などさっぱり分からないまま担当することになり預かっている。コンピューター書籍に限らず、実用書は読者の数を想定しやすく計算が立ちやすいから仕事として手堅いのだそうだ(ほら、君だって売り上げが立つほうが仕事も楽しいやろし)。アメリカから届いたばかりのプログラム言語の検定試験用のずっしりと重い参考書を塔のように積み上げて眺めながら、日進月歩のテクノロジーの世界から振り落とされてしまわないように知識をアップデートし続けなければならない技術者達に対する同情が芽生える。マイクロソフトなどが発行する資格が、仕事、つまり収入、要は生活に直結するから無視できないという購買層が確かにいるのだろう。幸せだろうか。資格というのは一体なにを保証してくれるのだろうと考え込んでしまう。いやちがう。自分の明日を掴み取ろうという意欲に満ちた手でしっかりとこの分厚い検定本を掴む人々がいて、だから先ほど僕の胸を過った同情心など見当違いで傲慢な反応なのだろう。これらは「役立つ本」なのだ。だからこそ読者が確実にいるのだ。僕自身がその世界のことを想像できていないだけだ。
 ……と、そんなふうに、自分の知らない世界の本を眺めて読者のことを想像するのは、それはそれで楽しい。自分の興味や日常に直結しない本であればあるほど、知らない誰かの人生が頭のなかに展開する。
 夕方のために用意した手元の人文書の世界に流れている時間は、比較するとなんとも緩やかでのんびりとしたものだ。新刊として届く本は、はるか遠くギリシャの時代に遡って書かれていたりもする。もしくは誰も到達できなそうな宇宙の果ての真実を求めて推論を膨らませていたり……。脅迫的なところはなく、興味があるなら試しに紐解いてみればいいという顔をした個性的な本が並ぶ。これなら部屋の本棚に飾っておいても目に愉しそうだ。こちらも一体、どんな人が、どんな様子で手にとっていくのだろう? いずれにしても、僕には理解のさっぱり及ばない本ばかりだ。
 青土社とのミーティングの後に、学術書担当の川上さんの案内で近所のレストランに出かけていって、みんなで一緒に飲むことになっている。「ついでにこういうのも紹介しておいてくれ」と、誰でも名前くらいは耳にしたことのあるような哲学者や科学者の名がタイトルにずらりと並ぶ薄手の入門書のシリーズを、フィーロンさんから示される。そういえば青土社と言えば『現代思想』や『ユリイカ』の出版社として学生時代に知ったのであり、課題のレポートやエッセイをそれらしく書く際にちょっと世話になった。なるほど、僕のような素人が参考にできるような本もたくさん出している。そう思うと少しは気が楽になる。出版社は様々だが、先方の本を手に取ったことすらないという場合も多く、気まずい思いをさせられることもある。でも今夜は楽しそうだ。どんな人達があの本を作っていたんだろうと興味が沸く。

 この夏は、寡黙な宣教師のようなジネディーヌ・ジダン率いるフランスと、元気いっぱいなやんちゃ坊主といった怪童ロナウドを擁するブラジルがワールドカップの決勝戦を闘い、宣教師が勝った。日本にとっては初めての出場となったフランス大会だ。大会直前にキング・カズが代表を外され、一種の社会的スキャンダルにさえなった。それからウィンドウズ98の発売が大きな話題となって、街にはお祭り騒ぎが続いた。べったりと塗ったポマードで頭をテカテカに光らせた橋本龍太郎の内閣が金融改革に大失敗するなどして総辞職し、トボけた小渕内閣がスタートした。Googleが設立されたのもこの年の、この翌月のことで、僕達はまだYahoo!やgooといった検索エンジンを重用しており、Googleの「グ」の字も知らなかったし、それは存在してさえいなかった。バブル崩壊から7年という時間が流れたうえに前年のアジア金融危機の煽りもあって企業が雇用に慎重になり、就職氷河期と言われるようになった頃でもある。それでもフィーロン・エージェンシーのある南青山には、おもしろいパーティーをやっている小箱のクラブがいくつもあったし、近場の六本木や渋谷の方面に足を伸ばせば街は毎晩お祭りのように明るく賑わっていた。仕事のおかげで遊ぶ金ができたのをいいことに暇を見つけては歩き回っているうちに、帰国して半年ほどの僕の周囲には仕事外の新しい遊び仲間のコミュニティが形成されつつあった。
 職業に就いているという自分自身の状況には居心地の悪さを覚えながらも、やっと少しずつ馴れてきた感じもする。それでも仕事を通じて出会う出版業界の人々に対しては、住む世界が異なるように感じて、まだまだ怖気づいてしまう。ところが青土社の町山さんとは、その夜の出会いを機に、なんだかすんなりと仲良くなった。それからちょいちょい仕事外の集まりなどに誘われるようになり、出版の世界を通じてはじめてカジュアルな人間関係を結ぶことができたように感じた。町山さんは30を過ぎたばかりといったところで、年齢がそれほど離れていなかったのもひとつあるかもしれないが、なにより人柄が馴染みやすく、僕にとってはありがたい存在になった。編集者をやりながら総務の仕事もしているのだそうで、独特のバランス感覚の持ち主だ。長髪をひとつに束ねたスタイルがちょっとオタクっぽく、でも終始にこにことしていて気難しそうなところがなく、話し手に回るよりも先ず人の話によく耳を傾ける。話し上手は聞き上手と言うが、ひととおり相手の話が済むまではけっして邪魔しない。相手の言ったことをもう一度頭のなかで反芻するくらいの間を空けてから、話題の焦点をずらすことなく会話を引き取ってくれる。相手が脱線しても気にする風でもなく、その脱線に楽しそうに付き合ってくれる。酒の席は好きなようだが飲む量は至って控え目で、酔っ払った姿など見せたこともなく、いつも同じような調子でどんな話題にも対応する。本の仕事を離れた趣味の話も豊富で、学生時代のアルバイト先ではテレビの「プロ野球・珍プレー好プレー」で使われる野球選手のフィギュアを原型から作っていただとか、廃墟めぐりやら珍建築めぐりの仲間がいるだとか、手頃な価格の現代美術をコレクションしているだとか、とにかく話の引き出しが多く懐が深い。でも、だからといってそんな話題に自分から誘導することもない。いつも、なにかのはずみで驚かされる。「物言う人たちあっての僕達、出版社ですから、だいたいこんな感じですよ」ととぼけるが、そんなことはないのは僕でも知っている。むしろ出版業界には知識と話題が豊富な話し好きが多い。「あ、でも今度、下北沢の近くにある現代ハイツというギャラリーでグループ展があって、私も写真作品を数点出すから来てください」と言う編集総務兼任の町山さんの一体どこにそんな暇があるのかを訊ねると、「うちの会社の方針……というほどでもないんですけど、出版社の人間が仕事の本のことしかしないようだと幅のあるものが作れなくなってしまうから、社員は仕事以外の活動を持つようにって言われてるんですよ。……と言っても、もちろん本業に差し支えない程度にですけど。ふふふ」と、また本当なのか冗談なのか分からないような言葉が返されてくる。社長もたまにクラブDJをやったりしているらしい。フィーロンさんと三輪さんが会社を興したばかりで右も左もまだ分からなかった頃に日本の出版業界のことなどあれこれ教えてくれたという先代の社長は残念ながら既に亡くなり、子息がその跡を継いでいるそうだ。
 そろそろ夏の盛りも過ぎた感じの9月のある晩、また町山さんの誘いを受けて出かけてみると、青土社でよく一緒に仕事をしているという翻訳者を紹介された。
「マリオさん、サイケデリックが好きだって言ってたから、多分こういうのおもしろがってくれるんじゃないかと思って。去年うちから出した本なんですけど」と、町山さんがカバンから厚手の本の入った封筒を取り出す。取り出してみると、白い表紙にでかでかとベニテングダケの絵があり、その周辺にもなんだかちょっと怪し気なキノコの絵がいくつか小さくあしらわれている。シロシベ・クベンシスだったかメキシカーナだったか、そんな名で呼ばれている見覚えのあるキノコもある。1998年の当時は「観賞用」とか言って、このようなキノコを乾燥させたものがその辺の店や露店で普通に売られていた。タイトルには『神々の果実』(青土社、1997年)とあり、今目の前にいるのがこの本の訳者の松田さんだそうだ。「松田さんにはほかにも秘術の本とか悪魔の本とか、いろいろ訳してもらってるんです。もちろんどれも真面目な本ですよ。今やってもらっているちょっと大変な本が一山超えたので、今夜は飲もうかなと思って。ふふふ」
「いやぁ、監禁部屋に閉じ込められて大変でした……」と、疲れた顔の松田さんが頭をかく。青土社には筆の進まなくなった翻訳者や著者を閉じ込めて働かせるための監禁部屋があるのだと、町山さんがまた奇妙な想像を引き起こすようなことを言う。
「大手さんなんかはホテルの部屋に見張りをつけて著者を缶詰にしたりすることもあるらしいですけど、うちはそれほどの余裕はないですから、まあ拷問部屋、あ、違った、監禁部屋で。せっかくだから松田さんにサインしてもらったらいかがですか。いいですよね?」
 町山さんに促された松田さんは、訳書にはちゃんと著者がいるし、自分はそれをただ翻訳しただけだからと渋るが、結局僕がねだって本にサインを入れてもらう。
 松田さんと町山さんが、翻訳の際の苦労を笑い話のように織り交ぜながら、簡単に内容を解説してくれる。「苦労は笑いに昇華できれば、それでいいんです」と町山さんが言うと、「いや、印税に昇華してもらわなければ!」と松田さんが切実そうな表情を作る。
 キリスト教の聖書やインドの聖典などに記述のある神秘や奇跡の正体とはなんなのか? クラーク・ハインリックというアメリカ人の宗教研究家がその答えをベニテングタケの向精神作用に見出し、まとめあげた力作だそうだ。古の求道者や宗教の開祖達が語り、それに追随する誰かが記述した聖なる光や神性のある信託や啓示、神秘体験の正体はベニテングタケの幻覚作用によるものだという大胆な仮説を立て、文献に散りばめられた根拠となるサインを細かく拾いながら、持論を学術的に展開しているのだそうだ。書きぶりがまるで幻想小説のようで翻訳にはかなり気を遣ったと言って、松田さんがビールを飲む。聖典に記されている奇跡や神秘がもし事実なのだとすれば、なぜそれが現代の我々に起こらなくなってしまったのかと、ハインリックなる研究者は問題提起をしたうえで、その謎を解き明かそうとしている。宗教的な文献を読み込めば、詩的で、まるで暗号のような比喩が用いられ、秘密が書き記されているという。
 たしかに、古代の人には得ることのできた体験を、今の僕達が得られないのだとしたら不思議だ。また、過去には身近に存在したのみならず人間との対話までおこなっていた神々が、なぜこの現代においては姿を現さなくなったのか、言われてみれば説明がつかない。

 手に入れた『神々の果実』をさっそく読みはじめるとすぐにその本の罠にかかり、異世界に引きずり込まれた。魔窟で待ち構えていたのは著者の名を借りたキノコの霊で、小さな文字でびっしりと埋め尽くされた二段組のページを捲るごとに、狂気がひたひたと迫ってくるようだ。古代の文献からの引用が事あるごとに示される。研究者による著作らしく緻密なテキストに独特の雰囲気があり、それを追い掛けるだけで魔術に掛けられたような状態になる。我に返り、松田さんの言っていた翻訳の苦労を思い浮かべると気が遠くなりそうだ。読み進めながら聞いたことのないハインリックの声と松田さんの声とが静かに重なり、倍音のように響いてくる。終わり無いテキストの螺旋が暗闇に紫とグリーンの光の模様を描いて浮かび上がり、幾重にも重なる曼陀羅となって回転をはじめる。タイムマシンに乗せられた僕は「生命の樹」であるとされる白樺や松の生い茂るなかに放り出され、足元に生える炎のように赤いキノコの傘と、そのうえに散らばる白い斑点に目を釘付けにされる。蒸し暑く黒々とした森のなかだ。気配を感じて振り返ると目の赤い神が股間にそのキノコを生やし、奇妙な格好で坐っており、その横には乳房のある神がやはり不思議な姿勢でそれを慈しんでいる。ヒンドゥー教における男根崇拝の理由のひとつはベニテングタケだとハインリックは断言する。ユダヤの民に割礼を命じたのは山の神で、その「神の言葉」はベニテングタケの存在がなければ人の耳に届くことはなかった。モーセが神の山で出会ったヤハウェ、つまり燃える植物、とはまさに炎の傘を持つ例のキノコのことである。浮遊するエゼキエルが神に命じられるままに口にした燃える巻物とはそれであり、イザヤの幻に現れた燃える者もまたそれである。さらにページを捲っていくと、キノコの山を歩くアダムとエヴァが、エデンの園で蛇にそそのかされている。北アメリカの五大湖地方の原住民、アニシナウベグ族の伝説の紅白のキノコ、ワジャシクウェデグがまさにそれであり、「聖なるものを示す者」であるイエス、もしくはヨシュアが人々を自らのカルトに招き入れるために行った秘儀に用いたものはそのベニテングタケによる酩酊である……。そのイエスが太陽(ソル)と月(ルナ)に差し出す赤々とした血の聖杯がなんであるか、もう言われなくとも分かるだろう。
 いつも新しい音楽を紹介してくれる遊び仲間のなかにそんな話を面白がりそうな読書家がいるので、『神々の果実』を彼の隠れ家へ持っていく。知った顔、よく知らない顔が集っておりミニマル・テクノが流れている。
「つまり、西洋宗教はみんなベニテングタケなんだよ! そしてインドにおいてもまたそう。エジプトのファラオも、東洋の思想も、アメリカ原住民も、みんなマジックマッシュルームなんだよ。きっと中南米もベニテングタケ。このキノコ研究家ほんとすばらしいわ」
「そういえば、ティモシー・リアリーによる解説の『チベットの死者の書 サイケデリックバージョン』(八幡書店、1994)もそんな話だったな。その状態に入るときに必ず必要な“ガイド”の話があって、俺もなるほどと思った。でもそれってガイドが結局のところ教祖化するって話だよね」
「たしかに。酩酊、嘔吐、心因による呼吸困難……極めて不安定な、というか不安な状況に陥ったら、支えになるのは横にいるやつだけだ」
 ……この本にワッソンっていう、著者の先達となるベニテングタケに取り憑かれたイギリス人に学者が出てくるんだよね。世界中でフィールドワークをおこなうんだけど、おそらく軽い酩酊状態以上の体験は訪れない。……もしくはどちらかといえば副作用による不快な症状を体験が勝る。日本にも来てるんだってさ。……そういえば長野にはまだベニテングタケを地産のグルメにしている地域があるらしい。……ベニテングタケってイボテン酸ていう、要は旨味成分が大量に含まれてるんだって。で、ものすごく旨いんだって。……うわー、喰ってみてぇ! ……で、これ喰って具合悪くなってバットに入るやつもいれば、気持ちよくなっちゃうやつもいるわけ。たぶん体質の問題なんだけど。……それ危ねーな!
「だって考えてみなよ。カソリックの教会に行ってみたとしよう。あのゴツゴツとした尖った塔を眺め、重厚で大仰な重たい扉を開いて、暗くひんやりと静まり返った内部に足を踏み入れる。眼の前にあるのはなんだ? 刺し傷から血を流した、痩せ細ったキリストが、手足に釘を打ち込まれ、茨の冠に頭を締め付けられて、十字架に磔にされている像だ。なんでそんなものを人に見せる必要がある? 不安にさせるためだよ。パイプオルガンから聴覚の及ばない重低音が放たれ、アーチ型の天井はそれを構内に回す音響装置だ。死のイメージが前面に押し出された空間を灯す微かな幻想的な光が写し出すのは、、色鮮やかなステンドグラスに描かれた受難だ。おもむろに、光る法衣をまとった聖職者の姿が壇上に現れ、訓練された第一声を放つ。迷える子羊たちよ!」
「子羊じゃねーっての。人だし」
 ……それはおまえが正気だから、そう言えるんだよ。不安に駆られるやつをさらなる不安に陥れ、言うことを聞かせるのは簡単だ。なんでもいい。ただ、なにか、言葉を放てばいそれだけでいい。その言葉は相手の判断基準を失った相手の心理のなかをぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐるまわる。そこにひとり、意気揚々としたやつを放り込んでみたらどうだ? そいつは楽しげなリズムを打ち鳴らし、彼等を救い出す。明るく放たれた言葉や音が、死にそうなくらいの不安に陥った奴らを掬い上げる。幻想のなかでバーチャルな不安が解消される。要はそれが宗教だ。それが神託だ。神は死んだとニーチェは言った。要は、幻想から人々を放とうとしたんだ。ニーチェが悪いやつだったら、そいつは悪いガイドとなる。だけどあいつはややこしいニーチェだったんだよ! ややこしくならざるを得ない理由があったのさ。……なんで? ……人間が理解しないからだよ。笑えるよな! 強迫観念に囚われたやつらには理解なんてできないんだよ。プラトンの『国家』(岩波文庫;改訂、1979)に出てくる洞窟のやつらもそうだ。そう、あの洞窟の壁面に映し出された幻影を信じて、そこで働かされてるやつらのことだよ。足を一歩踏み出せば、そこには広々と開放された世界があるのに、やつらは結局、洞窟からその外に出ることを拒む。……なんで? ……不安だからだよ。……なにが? ……自分自身が。で、洞窟に繋がれてるってわけ。……出版の仕事って面白いだろ? ……そうかな。……そうだよ。言葉を放てるんだし、その言葉がある意味で、すべてなんだよ。だからまた、面白い本があったら持ってきて。
 ……ところで俺が最近読んだ本でさ──。

 フィーロンさんと飲み歩く以外は、音楽とテキストとをそうやって交換して過ごしているうちに9月も下旬になり、僕は三週間分の荷物をスーツケースに詰めて、成田空港からロンドンへ飛んだ。オックスフォード・サーカスとホルボルンのちょうど中間あたりの、キングスレー・ホテルにひとまず落ち着く。三輪さんとはおなじホテルだがフィーロンさんは別で、イーストインディア・クラブという会員制のクラブを定宿にしていた。世界のパワーバランスの不均衡について、その背後に根深く存在する思想と欺瞞について、事あるごとに問題意識をむき出しにして憤るフィーロンさんが東インド会社に由来する特権的な会員制クラブを定宿としているのが不思議でおかしかった。「仕事の役に立つんだよ、これが……」と言い訳をするフィーロンさんをからかいながら、いかにもロンドンらしく抑えの効いた照明の、こじんまりとしたレストランでまたワインを何本も抜いた。実際、フィーロンさんの言うことも正しく、そのイーストインディア・クラブの広間でエージェンシー主催のパーティーを催せば、数十人からのロンドンの出版人が集まった。パーティーで社交が補強される。仕事がどうしても気になる三輪さんは夜が早く、彼がシンデレラよろしく部屋に戻ってしまうと、僕はスイッチを切り替えて初めてのロンドンの街にまた繰り出し、まっさきに目に入ったサインの店に飛び込んで、いい時間まで音楽を浴び、束の間のオフを味わう。ホテルはSOHOやコベント・ガーデンといった賑やかなエリアから歩いて数分の場所にあり、結局その界隈でいくつか入りやすい場所を見つけた。誰でも入れる場所だけど、大音量のハウスやテクノやに身を委ねていれば時間がひとりでに過ぎてゆく。宿に戻ってベッドに沈み、朝がくれば寝不足の目をこすりながら、ついこのあいだニューヨークで出版社や出版エージェンシーを訪ねまわったのとおなじようにロンドンの街を動き回り、新しい本、これから二年ほどの間に出る予定の本の情報を漁り、またライツリストや原稿の束を山のように手に入れる。ニューヨークとの大きな違いがあるとすればこの街並みと、あとはアクセントの強いイギリス英語だったが、仕事のうえで気になるのはそれくらいだ。黒いクラシックカーのようなオースチンのロンドンタクシーと、小さなかまぼこのような車両のロンドンの地下鉄が新鮮で、ところどころなだらかな起伏のある街に入り組んだ路地が細かく張り巡らされているのが、なんだか懐かしいように思える。そんな路地はかつての馬車道の名残りだそうで、さすがは古都だと思う。街の方々にパブが開放されており、夕方前のまだ明るいうちから人々が大きなパイントグラスで色とりどりのビールを飲んでいる。スーツ姿のビジネスマンの姿もある。朝から夕方までミーティングが続くが、ランチタイムと夕方付近のミーティング相手とはそんなパブで1杯、2杯ビールを飲んでリフレッシュする。街全体に独特のユーモアが通底している。そして日が落ちる頃になればまた会食やパーティーがある。フィーロンさんがロンドン出張の際の習慣にしているということで、セントマーチンズ・レーンの坂道を下る途中にある大衆オペラ座、イングリッシュ・ナショナル・オペラで現代的な解釈の『オセロ』を鑑賞した。モチーフとなっているのはイラク戦争で、オセロはそこに登場するアフリカ系アメリカ人の大佐か軍曹か、たしかそんな設定で、迷彩服をまとっていた。最初の週末にはフィーロンさんの案内で、ウェストミンスター寺院やグリニッジ天文台を観光しながらテムズ川沿いを散歩し、翌日はひとりでウエスト・エンドまでロンドンの古着を漁りに行って、その帰り道にテート・ミュージアムに寄った。
 第一週目はフィーロンさんと、もしくは三輪さんのどちらかと二人で、相手が大口のビジネスパートナーである権利者の場合などは二人にくっついてみんなでミーティングに出向いたが、二週目になるとフランクフルト・ブックフェアに参加する日本の編集者の先乗り組もロンドンに乗り込んでくる。日本語を話さないフィーロンさんとは別に、三輪さんと僕はそれぞれ編集者達のミーティングに同伴することになる。夜になればそんな出版社の人達と接待したりされたりのその後で、僕はまた深夜のクラブに出かけ、気持ちの良い空気を吸い込む。
 寝不足も当然のことながら、完全に気が緩んでいたのだと思う。
 うるさく鳴り止まない電話のベルで夢から引きずり出され、ハローと出ると聞きなれない女性の声が日本語を話している。「河出書房の田代ですけど、体調でも崩されたのかしら? 朝のミーティングにも現れなかったからどうされたのかなと思って」
 時計を見ると11時で、寝過ごしてしまったことに気付く。約束の予定どおりオライオン社にいるというので、慌てて着替えて駆け付けたときにはもうミーティングも終わる頃だった。お察しのとおり、体調不良と見え透いた嘘をついた。その日の午後は気まずい思いをしながら彼女と一緒にロンドンを回った。あれから20年近く経った今も、彼女にそのことをからかわれることがある。
 とにかくロンドンでの10日間がそうやって終わり、翌朝、パディントン駅からフィーロンさんの手配してくれていた特急券で僕たちはエジンバラに向かった。

[To be continued…]


PROFILEプロフィール (50音順)

田内万里夫(たうち・まりお)

1973年生まれ。埼玉県出身。版権エージェント(現在はアルバイト)。マリオ曼陀羅の名義で画家としても活動、国内外で作品発表をおこなう。主な展示として『LOVE POP! キース・ヘリング展 アートはみんなのもの』壁画プロジェクト【キースの願った平和の実現を願って】(伊丹市立美術館・2012年)などがある。著作に『心を揺さぶる曼陀羅ぬりえ』(猿江商會)。本書はイギリス、台湾、イタリアでも刊行。訳書に『なぜ働くのか』(朝日出版社/TED BOOKS)。


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