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第9回 出版翻訳者の心がけるべき8か条(前編)
この連載も、残すところあと2回。最後の2回は、出版翻訳者として、いま自分が心がけていることを箇条書きにして書いてみる。これまでトークイベントやセミナーなど、いくつかの場で話してきたことのまとめであり、『翻訳百景』やこの連載で以前書いたことにも、あらためてふれていく。
1 翻訳にはスキルが必要であることを伝える。
『翻訳百景』の第1章にも書いたが、翻訳の仕事をしていると、事情にくわしくない周囲の人々がさまざまなことを言ってくる。「英語ペラペラなんでしょ。辞書なんか引くの?」、「外人から英語の手紙が来たんだけど、ちゃちゃっと返事書いてくれない?」、「え、3年も学校かよって、まだ本出してないの?」、「ただ訳せばいいだけなのに、何が大変なの?」などなど。そういった経験について、翻訳者たち(出版系だけではない)の悲鳴や怒り(ごくまれに喜び)のツイートを集めた「翻訳者の何かのスイッチが入る瞬間」というまとめ記事ができている。
こういうとき大事なのは、いくつかの質問に対して自分なりの明確な答を用意しておくことだろう。調べ物などでどれほど手間がかかり、どんなスキルが必要で、それに対する報酬がどの程度かということを、少なくても身近な人には伝えて理解してもらったほうがいい。翻訳という仕事に対する無理解を嘆くだけでなく、筋道立てて説明することをしないと、ただ軽んじられるばかりだ。その際、翻訳者側の論理だけで物を考えるのではなく、読者やクライアントの論理でもいったん考えてみると、説明しやすくなると思う。
2 謙虚になりすぎない。
翻訳の仕事をしている人の多くは、自己主張があまり強くなく、温厚で控えめなタイプに属する。それは悪いことではないし、わたしもそういう世界に属していて居心地がよい。謙虚であることはとても大事だ。
ただ、同業者の先輩・後輩のあいだや、編集者などの業界人に対しては徹頭徹尾それで通してかまわないが(というより、そうあるべきだが)、一般の読者に対しては、特に本が出ている人の場合、ぜったいに謙虚になりすぎてはいけない。まわりの新人・駆け出しの翻訳者で、しばしばそういう例を見かけるので、これは声を大にして言いたい。
読者から見れば、いま読んでいる本の翻訳者がベテランだろうが新人だろうが、そんなことはなんの関係もない。原則として翻訳書は1社による版権独占だから、1冊の本の翻訳者は日本にひとりしかいない。つまり、読者は訳者を選べないのである。そのただひとりの翻訳者が「わたしは新人に毛が生えたぐらいですから」とか「まだ勉強中の身で、至らないことも多いと思いますが」などと気弱そうに言うのを聞いたら、読者はどう思うだろうか。訳者が必要以上に卑下するのは、読者に対しても、作者に対しても、その本の翻訳をまかせてくれた出版社に対しても、きわめて失礼な話だ。
謙虚にふるまうこと自体はもちろん美徳だが、訳者はその作家や作品の魅力を日本語で紹介する権利を持つ唯一の人間なのだから、ぜひそれだけの誇りをもって堂々と発言してもらいたいし、その覚悟がないなら最初から出版翻訳の仕事などに就くべきではない。自慢しろとか、いばり散らせというのではなく、その本を訳すために最大限の努力をしてきたことや、スキルが必要であることをきちんと伝えてもらいたい。結局のところ、それが翻訳出版の世界を盛りあげることにつながっていくのだから。
3 質の低下に加担しない。
たとえば、翻訳出版に慣れていない新興の版元が、とんでもない短期間で本を作って出そうとすることがときどきある。通常の文庫400ページ程度の長編小説であれば、3か月程度の翻訳期間が必要なものだが、それがわからないまま、1か月とか、ひどい場合には数週間でなんとかならないかと依頼してくるケースがあとを絶たず、もちろんわたしはその手の依頼をすべてことわっている。
だが、個人の翻訳者がつぎつぎ辞退しても、一部の翻訳会社などが何人もの(ときには何十人もの)登録翻訳者を掻き集めて、そういう無茶な納期の仕事を突貫作業で引き受ける場合もある。不慣れな出版社のほうは渡りに船とばかりにそちらに依頼して、やがて曲がりなりにも訳書が出る。めでたしめでたしと言いたいところだが、そういう場合、まとめ役の人間がよほど優秀でなければ、その訳書は読むに耐えない代物であることはまちがいない。
翻訳学習者からすれば、プロへとせまき門をくぐらなくてはいけないこの業界で、少しでもキャリアアップのチャンスを生かしたくてそういう無茶な共同作業を引き受けるのだろうし、その気持ちはわからなくもないが、そんなふうにして世に出た本の多くは、結局のところ「翻訳書は読みづらい」という評判をさらに増してしまうことになり、それが繰り返されれば、翻訳書がますます売れなくなって、自分で自分の首を絞めるだけである。どうか大局的に物を見て、慎重に行動してもらいたい。要は、自分が読みたくないような質の低い訳書を世に出すことに加担してはいけないということだ。
4 多少無理をしてでも、締め切りを守る。
3と矛盾するようだが、逆に出版社の立場に立ったとき、けっして売り逃せない企画もある。急に映画の公開が決まった作品や、ノーベル賞をとった人の自伝を翻訳出版したいときなどは、旬の時期を逃すわけにはいかない。そういう仕事の依頼が来た場合、翻訳者として大事なのは、自分の限界はどこなのかを見きわめることだ。いままで100パーセントと考えていた量より2割増し、3割増しぐらいまでは可能だろうが、いきなり2倍となると無理にちがいない。明らかに限度を超えていればことわるしかないが、翻訳出版界全体のためにも、少々の無理をするのはやむをえない。
版元が翻訳者の事情に理解があるかどうかも、引き受けるかどうかの判断材料になる。この連載の第2回に書いたエラリー・クイーンの国名シリーズのときも、『翻訳百景』にくわしく書いた『思い出のマーニー』の短期共同作業のときも、諸条件を検討して、質を落とさずに仕上げられると判断したからこそわたしは引き受けたが、どちらの場合も、版元の KADOKAWAとのあいだに絶対の信頼関係があったことが大きい。3と4のバランスを保つのはむずかしいことだが、翻訳者がつねに考えていなくてはいけない問題である。
次回は残りの4つについて書く。
[第9回 出版翻訳者の心がけるべき8か条(前編) 了]
【1月、2月のお薦めイベント】
・1月28日(金) 12:30~14:00
「翻訳百景 英語と日本語のはざまで」
単独トーク:越前敏弥
会場:朝日カルチャーセンター大阪中之島教室
一般向け定期講演。語学の知識が少し必要ですが、どなたでも参加できます。
・2月4日(土) 15:30~17:00
「映画日和、翻訳日和」
対談:中田秀夫(映画監督)、越前敏弥
会場:朝日カルチャーセンター新宿教室
大学時代の映画評論同人誌仲間である中田秀夫監督(〈リング〉〈怪談〉〈クロユリ団地〉など)との特別公開対談。映画漬けだった大学時代、イギリス留学時代、ハリウッドでの苦労話、新作〈ホワイトリリー〉の話など。もちろん、語学の知識はまったく不要。
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