COLUMN

武田俊 インターネット曰く

武田俊 インターネット曰く
第2回「それはまるで川の流れのように」

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第2回「それはまるで川の流れのように」

大学を1年休学し、卒業後1年のフリーランス生活を経て、25歳で起業をしたぼくのこれまでの人生には、上司というものが存在しない。それは一部の人には羨ましがられたりしてきたのだけれど、ぼくにとってはあこがれの存在でもあった。時にミスを指摘され、時に叱咤激励され、デスクで落ち込んでいると「もう今日はいいから飲みに行くぞ!」と肩を叩かれる。上司。ああ、なんという甘美な響き。

でも、そんなぼくにも師匠はいる。
といっても、あくまで直接師事をするわけではない、いわばエア師匠だ。エア師匠は、いつも本の向こう側から師匠独自の思想を語りかけてくれる。その中の1人が坂口恭平さんだ。

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01

坂口恭平さんはエア師匠の中でもめずらしく、現実の世界で交流のある人だ。雑誌『界遊』を発行していた時分、ぼくたちは毎号発刊時期に雑誌の中身を現実で体現させるべく「グレイトフル・ポップ」というリリースイベントをライブハウスで行っていたのだが、そこでのトークパートに登壇いただいたのがきっかけだった。

そんな坂口さんの最新刊『現実脱出論』を、10年ぶりに帰ってきた故郷の書店でぼくは手にした。時を経て丸栄百貨店内に移動していた丸善の棚に2冊だけ残っていたサイン本だった。ぼくは母のぶんと合わせてその2冊を持ってレジに進み、近くの喫茶店で一気に読んでしまった。

02

現実がある種強制してくる様々な価値観に圧迫されるのではなく、そのさけめを探し、多層化されたレイヤーを認識するということ。この本で語られているのはそのための様々な思考なのだけれど、そのどれもがぼくには心あたりがあった。とくに幼少期の頃、ぼくたちは想像力でもって、現実が提供してくるインタフェースの裏側を様々な形で楽しんでいたはずだ。ではいつからぼくたちは現実になにかを強制され、それに怯えながら生きることになってしまったのだろう

ぼくは走っている。
矢田川という一級河川があるこの町で、走るといったらこの河川敷ということになる。ぼくは小さく設けられた野球用のグラウンドや、もうめったに人の訪れないゲートボール場を、セイタカアワダチソウの茂みを横目に走っている。人気のない夕方にここを走ることのよさは、特に注意すべき障害が何もないことだ。たまにすれ違うランナーや、ごくまれに走っているロードバイクを除けば、ここにあるのはただ前から後ろに抜けていく河川敷の風景だけ。

無邪気に現実のさけめを探していた時に三角州につくった秘密基地の跡地を眺め、その奥の夕日に染まる浅瀬から白鷺が飛び立つ時、ぼくの視覚はおだやかな刺激を受け、ランナーズハイから分泌されたアドレナリンとあいまって、過去の記憶が召喚される。インナースペースと現実がリンクしはじめる。いつからぼくたちは現実になにかを強制され、それに怯えながら生きることになってしまったのだろう

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03

先日観た映画・『物語る私たち』のシーンが、頭の中に去来する。若い女性監督が、家族たちのインタビューを撮影していく中で、自らの出生の秘密にたどり着くという、フェイクのかかったこのドキュメンタリーはしかして、すばらしいセリフに満ちていたのではないか。なにかヒントがあったのではないか。ちょうど区境に差し掛かる橋桁のあたりで、映像から文字が飛び出るように浮かんでくる。

「事実は1つだが、真実は人の数だけある」

正しい事実は1つでも、人は自分の見て感じたものを真実だと思い込む。そうした真実が積層されて、現実がつくられる。目の前に敷かれている(ように見えている)レールが人の数だけ存在していて、それがパラレルに並んでいる。時にそれらが交差する時のことを、ぼくたちは「出会い」と呼んでいて、「出会い」の数だけ現実がリンクしている。そんな現実の中でのできごとを、ぼくたちはいつも物語ってしまう。仲間内とのどうしようもなく楽しい飲み会で、すてきな相手と過ごした夜を越えたけだるい午前中のベッドの中で、孤独な時間を埋めてくれる夜のインターネットの世界で、ぼくたちは現実を物語る。ぼくはiPhoneを取り出して、おもむろに曲を変える。

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ブルース・スプリングスティーンのこの曲を聴く時、ぼくは今走っているこの川のことを思いだす。川へゆくことを「Down to the river」と彼が歌う時、ぼくは心から共感する。川は、普段自分たちが過ごす世界から見て、すこしだけ目線の下を流れているのだ。そしてこの「the」という冠詞が示す固有性は、ぼくたちがそれぞれ過ごしてきた現実の中に登場した、川たちだ。

Hくんはその時、河川敷のグラウンドに申し訳程度に設けられたダグアウトに立って、檄を飛ばしていた。同い年のメンバーがレギュラーで出場する中、彼だけが控えとしてベンチ入りしていたのだった。1996年、小学5年生の秋、彼はレギュラーとして出場することが叶わなかった現実を憎んだりはせず、「俺は秘密兵器だからさ!」とのたまい、グラブを並べたりバットを片づけたりと、ベンチワークに勤しんでいた。その大会で彼が出場することは、なかった。秘密兵器の秘密は、とうとう明かされることがなかったのである。

Hくんは高校を卒業し、左官屋としての職を得た。彼が少し派手目な女の子と「Down to the river」しているということは、風のうわさで知っていた。団地には、他人の現実を物語りたがるおばさんたちがたくさんいるのだ。Hくんは稼いだお金で、中古のクラウンを買う。ウィンドウにはしっかりとスモークを張って、彼は彼の「メアリー」とその愛車に乗り様々なところに出かけただろう。すぐに子どもが生まれ、彼は父となった。クラウンはミニバンに変わり、スモークは「Baby in car」のステッカーにとって変わった。夕方になると彼の部屋の窓からは、幼い子の泣き声にまじって、夕べのにおいがおだやかに漂う。今夜はカレーのようだ。きっと今は、甘口になっているんだろうな。

ぼくの予想は的中した。

甘口のカレーなんて久しぶりで、かつての名残はその薄く鋭角に整えられた眉毛だけになってしまったHくんの家でご相伴にあずかったその味は、ずっと昔に練習前の土曜日に一緒に食べたものとほとんど変わりがなかった。2人の子どもたちは、本当にかわいく、彼はうれしそうに話してくれた。

「こいつら何をするのもはじめてでさ、夏に海に連れていったら、こわがって全然入らねえのよ」

そうなんだね。でもすごく楽しかったでしょう?
ぼくは胸がいっぱいになって、そう返すのが精一杯だった。たぶん彼は気づいていない。自分の子どもたちの毎回はじめての体験に1番近い位置で立ち会っている彼が、その体験を通して生き直していることを。はじめてのよろこびを、なにかがはじまる時のきらめきを、子どもを通して自分が追体験しているということを。

でも彼は気づいている。
そんな環境こそを自分が守るべきだということ。
そしてそんな現実を愛し、誰かに物語るべきだということを。

事実はいつだって1つでも、ぼくたちは、複数の、そして固有の現実を生きている。そしてそれを物語る。いつも過ごしている家族に、上司に、久しぶりに再会した友人に、未来に家族になってほしいと思う大切な人に。そんな時、そこには少しの優しい嘘が入ることもあるだろう。気づかいから、少しでもよく見られたいと思う見栄から、未来をともに過ごしたいというささやかな祈りから。現実を物語る時、それが物語になってしまうということ。それが人間の愛らしさの、きっと1つなのだろう。

だからぼくは思う。
人々は、自分の物語を、心から愛する権利があるということを。
そして編集者であるぼくには、そんな「みんな」の物語を愛し守る義務がある。

日々生きている時間の中で、ぼくたちはいささか「おわり」に対して過敏になりすぎてしまっている。卒業や別れ、誰かの死。「おわり」は、未来が絶たれるというセンセーショナルさでもって、記憶に強固に刻まれてしまう。あいつのことを忘れたくない。そんな切実な気持ちから、ピリオドの向こう側で、ぼくたちは「おわり」についてつい物語りすぎてしまう。

でも本当の本当は、1人の人間が人生の中で体験するおわりより、確実に「はじまり」の方が多いのだ。何気ない日ごとのくらしが、毎日生まれたての1日であるということ。子どもをもったHくんはそのことをフィジカルに理解していて、だから彼の語る物語は尊い。

今、「はじまり」のことだけが世の中に足りないような気がする。毎日なにかがはじまっていることの喜びを、愚直に物語ることが足りないような気がする。ぼくはこの川を走っていて、地場から記憶がよみがえって、そんなふうに思った。未来に足を踏み出すのを恐れる時、過去を振り返り誰かに物語ることは、逃げなんかじゃない。毎日が「はじまり」に、つまりは未来へのステップに満ち溢れていることを感じ直すための作業なのだ。

だから流れていった時間を少しだけ思い出し、誰かに物語り、笑ったり泣いたりしながら未来をはじめてゆけないものか。積み重ねられた時間と体験が、確実に未来をつくる。だからそのために、流れていった時間を慈しむために、ぼくはまたこの川に降りてゆく。ぼくとあなたの物語と、その交差を愛するために。未来をはじめるために、複数なのにそれぞれ固有な「the river」に降りてゆく。だからインターネットさん、あの曲を呼び出して。あの人が、キャリアの最後に「新しく愛している」と語ったあの代表曲を。まるでそれは、それはまるで、

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[インターネット曰く 第2回 了]


PROFILEプロフィール (50音順)

武田俊

元KAI-YOU, LLC代表/メディアプロデューサー/編集者/文筆家

1986年、名古屋市生まれ。法政大学文学部日本文学科在籍中に、世界と遊ぶ文芸誌『界遊』を創刊。編集者・ライターとして活動を始める。2011年、メディアプロダクション・KAI-YOU,LLC.を設立。「すべてのメディアをコミュニケーション+コンテンツの場に編集・構築する」をモット-に、カルチャーや広告の領域を中心に、文芸、Web、メディア、映画、アニメ、アイドル、テクノロジーなどジャンルを横断したプロジェクトを手がける。2014年12月より『TOmagazine』編集部に所属。NHK「ニッポンのジレンマ」に出演ほか、講演、イベント出演も多数。右投右打。


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