INTERVIEW

映画『大いなる沈黙へ』フィリップ・グレーニング監督インタビュー

映画『大いなる沈黙へ』フィリップ・グレーニング監督インタビュー
映画館を修道院と化す「時のオブジェクト」

映画館を修道院と化す「時のオブジェクト」−−−
映画『大いなる沈黙へ』
フィリップ・グレーニング監督インタビュー

インタビュー&テキスト:小林英治 写真:湯浅亨

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先の「池澤夏樹電子出版プロジェクト」の記者発表で、池澤氏が「映画にはまだこんな力があるのか」とその体験を語っていた、ドキュメンタリー映画『大いなる沈黙へ』が岩波ホールで上映中だ(順次全国公開)。3時間に近い長尺、しかもナレーションやBGMもナシという異色の作品ながら、連日大勢の観客が駆けつけているという。
作品の舞台となるグランド・シャルトルーズ修道院は、カトリック教会の中でも厳しい戒律で知られるカルトジオ会の、フランスアルプス山腹に建つ男子修道院。修道士たちは毎日を祈りに捧げ、藁のベッドとストーブのある小さな房で過ごし、ほぼ自給自足の生活を送る。彼らに会話が許されるのは、日曜の昼食後にある散歩の時間にだけだ。このような生活が何世紀にもわたって繰り返されている。
修道院に撮影を申し込んだドイツ人監督フィリップ・グレーニングは、1984年の依頼時から16年後のある日、「音楽なし、ナレーションなし、照明なし、ただ一人で修道士とともに暮らす」という条件のもとで、世界で初めて内部の撮影許可を得る。計6カ月間の修道院生活で撮影した映像から生み出された169分に身を浸す観客は、次第に自らも修道院に紛れ込んだような、特異な感覚に引き込まれることだろう。

「繰り返す」ということが、自分の内面の深い部分に目を向けていくことにつながり、自分の外にあるものをより深く認識できることにつながるのだと思います。

フィリップ・グレーニング監督

フィリップ・グレーニング監督

―――この作品は、通常のドキュメンタリー映画とはかなり異なります。ある対象を眺めたり観察するというよりは、その中に入って対象そのものと一体化するような感じがして、見ながらだんだん時間の感覚を失っていきました。

フィリップ・グレーニング(以下PG):この映画を作ろうとした時に考えたコンセプトは、とにかく私が数カ月この修道院で一人で暮らしてみて、修道院のリズムに浸って毎日の繰り返しを体験することによって、自分自身が何らかの形で変化していくことを撮りたいということでした。そして、その変化の記録を使って、今度は観客が映画館で修道院の中に入っていくような体験をしてもらえる映画にしようというのが狙いでした。ですから私の中でもドキュメンタリー映画という感覚はなくて、言うなれば「時の中のオブジェクト」であると理解しています。

―――面白い表現ですね。それはあなたが修道院の生活ということよりも、時間というものに対して関心があったということでしょうか。

PG:そうですね。まず「時」というものは、自分にとって分からないものなんですよ。ごく単純な問題として、ある一定の時間があった場合、私はたくさん予定を詰め込んでしまって、結局は全部こなせないくらいの予定を立ててしまうというのが、自分と「時」との関係です。つまり全く「時」というものを理解してないということですよね(笑)。「時」というものほど謎に満ちたものはないと思います。

―――そもそも映画自体が「時間を扱った芸術」といえます。

PG:その通りです。

―――そこには編集ということが大きなポイントになるわけですが、この作品はどのくらいの素材があって、どういう方針で編集したのでしょうか。

PG:実は、撮影は6カ月だったんですけど、編集作業に2年半かかるという大変な作業になってしまいました。当初は映画の中にストーリーのような、ある程度の筋書きのようなものを考えていたのですが、それは全く意味のないものだと次第に分かってきて、結局そういったものは一切使いませんでした。いずれにせよ、このような形でこのようなテーマを扱った作品は過去に存在しなかったので、お手本になるような作品がなく、編集作業は文字通り困難を極めました。

―――最終的には、この作品自体が大きな時の円環を成す形で終わっていますね。

PG:修道院の戒律自体が、同じパターンの生活を繰り返すことでできています。それは毎日のレベルでもそうですし、あるいは1年の生活でもそうで、ある一定の規則性があって、その1年が終わるとまたもう一回最初から繰り返すというような構造になっています。そして、その「繰り返す」ということが、自分の内面の深い部分に目を向けていくことにつながり、自分の外にあるものをより深く認識できることにつながるのだと思います。

―――それは私たち日本人にも近い感覚だと思いますし、この作品が時と場所を越えて受け入れられる理由でもあると思います。

PG:おそらくこういった厳しい毎日の課題があって、自分を律しながら毎日のパターンを繰り返して生活してくというのは、ヨーロッパや日本だけでなく、いろいろな文化圏でどこにでも存在することなんだと思います。

―――今回の来日では京都にも訪れたようですが、何か発見がありましたか?

PG:京都ではさまざまなお寺を拝見したんですが、そこで使われている建物の素材を見ますと、「作られることと朽ちていくこと」が最初から一つのつながりとして理解されているのだなと感じました。
 
 

修道士というのは、とらわれのない人たちなんです。彼らは世俗のしがらみを切り捨てて修道院に来ているので、ある意味ではすごく自由なんです。

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―――基本的にこの修道院の内部では会話は禁止されているということですが、映画の最後の方に、盲目の修道士がインタビューに答えているようなシーンがあります。あれはどういう経緯で撮られたのでしょう?

PG:修道僧ももちろん必要な時は、筆談だと伝わらない時など話してもいいことになっています。そしてご指摘のシーンですが、実は彼は眼が見えないだけでなく、ほとんど耳も聞こえないんですね。でもあの時、私が部屋に入ってきたということに何らかの気配を感じて気付いたんです。そして問いかけたのではなく、彼の方から話しはじめたんです。

―――猫に話しかけている修道士もいました。

PG:彼はずいぶん猫と喋っていましたよね(笑)。あれは厳密に言えば戒律を破ったことになりますが、私はあのシーンを使いたいと思ったので編集で残したんです。それで映画が完成した時に修道院側に見ていただいて、もし「カットしてくれ」と言われたらそうするつもりでいたんですが、そのシーンを見ると彼らは大笑いをして、「本当はこれは駄目なことだけど、もうやったことだからそのままでいいですよ」と言われました。

―――屋外での会話の時間のシーンでは、神学的な話をしているだけでなく、サッカーの話をしたり、別の日には雪原で子どもみたいに無邪気にそり遊びをしていたり、こういう一面もあるんだなと興味深かったです。

PG:修道僧というのは、とらわれのない人たちなんです。彼らは世俗のしがらみを切り捨てて修道院に来ているので、ある意味ではすごく自由なんです。普通の人たちは持っている重荷から解放された無垢な状態で、神に向き合おうとしている人たちです。

―――バリカンで髪を刈っているシーンは、急に日常的な感じがして面白かったです。電気も使えるんですね。

PG:彼らは決して世離れているわけではなく、実際いろんな労働をしています。そして、彼らは本来であればあらゆるエネルギーを祈りに使いたいので、そういった生活のための作業時間は効率良くやりたいんだと思います。でも、そういった時間は1日のうちせいぜい2時間から4時間くらいです。彼らの生活を見ていると、人間は本当に8時間も働かなければ生きていけないのか?という疑問も湧いてきます。今までの人類の歴史において、最初の数千年に人間がやってきたことというのはすべての人に物資を供給するということだったと思うのですが、ここ数十年で人々が心配していことは、物資はもう充分にあるけれど、「すべての人に行き渡る仕事があるのか?」ということじゃないでしょうか。本当にそんなに人間は仕事をしなくてはいけないのか。しなくてもいいなら、喜んでこの修道士たちのように違うことに時間を使えばいいのではないか。そう私は修道院の生活の中で気付きました。
 
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大きな時の流れの中で見てみると、自分自身というものはそんなに重要ではないということが分かり、それが安心感につながるのだと思います。

―――撮影時から8年経ちますが、今でも修道院での生活を思い出すことはありますか?

PG:今でもよく思い出しますよ。通常は映画監督としての生活があるわけですから、いろいろ電話をかけなくてはいけなかったり、このように海外に出向くことも仕事の一つなわけですが、それでも当時の修道院の中にいたような、精神的な内的静寂を常に保つように努力しています。

―――この映画を観た観客も、自分の生活はこれまでとそんなに変わらないかもしれないけど、アルプス山中で修道士たちがあのような生活を、今この瞬間もしているんだなと想像するだけで、何かそれまでと違う気持ちになれる気がしました。

PG:まさにそうであると嬉しいです。そういったことに気づくか気づかないか、まさに認識の問題だと思います。

―――映画の中で、鐘の音が繰り返し何度も鳴ります。その鐘は今という刻を告げるものでありながら、同時に何百年とずっと変わらず鳴り続けてきた膨大な時間の厚みも感じさせます。

PG:おそらくこれはキリスト教だけでなく、仏教のお寺の鐘もそうでしょう。ここで生活している修行僧は来ては去っていき、または亡くなるかもしれませんけども、お寺なり修道院の生活というのは同じ形で続いていくというところが素晴らしいと思います。その大きな時の流れの中で見てみると、自分自身というものはそんなに重要ではないということが分かり、それが安心感につながるのだと思います。

―――あなたが25歳の時に修道院にこの企画をもちかけた時、「まだ早い」と言って断られたそうですが、それはあなたにとって時期尚早だと思われたのか、それとも修道院にとってまだ準備ができていなかったのでしょうか?

PG:当時、どうして駄目かという理由は修道院側からは言われなかったのですが、今から振り返ってみると、その時すぐに撮っていたとしたら、自分にとっても早すぎたと思いますし、たぶん修道院にとってもちょっと早かったんじゃないかと思いますね。

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[映画『大いなる沈黙へ』フィリップ・グレーニング監督インタビュー 了]
 
 


大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院



監督・脚本・撮影・編集:フィリップ・グレーニング
2005年|フランス・スイス・ドイツ|カラー|169分|ビスタ|ドルビーデジタル|原題:Die Grosse Stille|字幕:斉藤敦子
配給・宣伝:ミモザフィルムズ 宣伝協力:テレザ|サニー映画宣伝事務所
後援:ユニフランス・フィルムズ|東京ドイツ文化センター
推薦:カトリック中央協議会広報 字幕観衆:佐藤研|日本聖書教会
2006年サンダンス映画祭審査員特別賞ほか多数
岩波ホールにて上映中(~8月22日)。全国順次ロードショー。
http://www.ooinaru-chinmoku.jp


PROFILEプロフィール (50音順)

フィリップ・グレーニング

1959年ドイツ生まれ。デュッセルドルフとアメリカで育つ。映画の世界に入る前に南米を長く旅しながら医学と心理学を学び、ミュンヘン国立テレビ映画大学に入学。脚本家を目指しながら俳優として出演するようになり、助監督や サウンドアシスタントとしてのキャリアも積む。1988年に『Sommer』で長編監督デビュー。2作目『Die Terroristen!』(92)と4作目『L’Amour, L’Argent, L’Amour』(00)はともにロカルノ国際映画祭のコンペティション作品に選ばれ、『Die Terroristen!』で銅豹賞を受賞。 最新作『Die Frau des Polizisten(警察官の妻)』で2013年ヴェネチア国際映画祭審査員特別賞を受賞した。

小林英治(こばやし・えいじ)

1974年生まれ。フリーランスの編集者・ライター。ライターとして雑誌や各種Web媒体で映画、文学、アート、演劇、音楽など様々な分野でインタビュー取材を行なう他、下北沢の書店B&Bのトークイベント企画なども手がける。編集者とデザイナーの友人とリトルマガジン『なnD』を不定期で発行。 [画像:©Erika Kobayashi]