COLUMN

田内万里夫 SUB-RIGHTS

田内万里夫 SUB-RIGHTS
08: Trainspotting

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海外の本を自国で刊行する翻訳出版には、契約を成立させるための業務を担う「版権エージェント」という職種がある。このテキストは、一般社会ではあまり聞き慣れない職種「版権エージェント」の仕事、またそこから見聞きすることになった知られざる翻訳出版小史を伝える自伝的小説になっていく予定だ。連載タイトルの「SUB-RIGHTS」とは、著作権の二次的使用を意味する用語である。日本と海外の架け橋となったスコットランド人の版権エージェント、師であったウィリアム・ミラーへ追悼の念を込めて書き綴っていく。
※この物語は、概ね事実を元にしていますが「フィクション」です。登場する個人名・団体名の一部は架空名、もしくはプライバシー保護の観点から仮名にしています。
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 そもそも、版権エージェントなんてものがこの世に存在することを知ったうえで、この仕事に就いた人などいるのだろうか? 僕? ぜんぜん知らなかった。勤めはじめてからだって、この仕事を知っている人と仕事外でたまたま出会うような偶然はない。
 おなじ出版業界のなかにいるはずの人たちでさえ、エージェントと聞いてピンと来る人は多くない、というかむしろ少ない。書籍のなかでも翻訳書を主に手がける編集者や一部の翻訳者は実際に僕たちとの接点があるが、あとはまあ翻訳書も出す出版社の経営者など、それから印税管理やらなんやらの管理業務に携わる人たちがかろうじて、この目で見たことはないけど存在は聞いたことがあるという程度だ。そんな一握りの人たちと、直接的にせよ間接的にせよ、出会うのも仕事を通じてのこと。世間的には、僕たちなどほとんど存在しないに等しい。そんなオバケのような仕事にたまたま就いているという感覚は、それはそれで楽しくないと言えば嘘になるが、説明を求められるようなことがあれば面倒くさくもある。
「うんそう、出版関係の仕事。え? 強いて言えば翻訳関係」
 仕事に馴れてきた夏頃には、そんな曖昧な返事をするようになっていた。翻訳出版権や本のエージェントと答えたところで、洋書の買い付けや翻訳権のバイヤー、翻訳そのもの、もしくは翻訳書の出版をしている人間と誤解されることも多い。おなじように人知れず日々の仕事にいそしんでいる人たちが――なにをやっているのか知る由もないが――社会のそこかしこに潜んでいるに違いない。

「あぁ、そう! それでまた、なんでエージェントになったの!?」
 目の前で、大きな声でそう言って笑う人は、飯田橋に訪ねていった青山出版社の社長だ。渡された名刺には「河上光康」とあり、裏返せば「Michael Kawakami」と印刷されている。
 翻訳物の現代文芸作品に特化する出版社を新たに立ち上げる予定らしいから、ぜひ会って話を聞いてこいと、先日フィーロンさんに薦められたのがこの河上さんだ。
 大柄というわけではないが、がっしりと分厚い印象の人で、スーツや靴、手首に巻かれた腕時計は、世間知らずの僕が見ても高級品だと察しがつく。だからといって派手な印象は与えない。50代前半といったところだろうか。肩にかかりそうな長めの髪が、謎の印象を与えている。眼鏡の奥の目はずっと楽しそうに笑っている。
「なんでって、特に理由なんてないですけど。他にやりたい仕事もなかったですし。というか、そもそも仕事を探していたわけでもなかったところを拾われたというか……。いってみれば、なりゆきで。でもまあ、海外の、というか、面白い小説は好きでちょっとだけど読むので……」
「あ、そう! 好きならいいじゃない! うん、じゃあよろしく!」
 話が早く、声が大きい。
「これ、この本知ってるでしょ? え? 映画は観たけど、本はまだ? だめだめ、これ読んでないとモグリですよ。去年? 一昨年? まあいいや、うちで出したの。ヒット作。もう、ドッカーンですよ! これあげるから、持って帰りなさい」
 そう言って手渡されたのはアーヴィン・ウェルシュ作の群像小説、『トレインスポッティング』(青山出版社、1996年)の日本語版だ。僕がちょうどアメリカの大学に転入したばかりの1996年にこの本を原作とした映画が公開されるやいなや世界中で大ヒットしたので、表紙にあるデザインはもちろん記憶に焼き付いている。ずぶ濡れの坊主頭のジャンキーが両腕で身体を抱え、禁断症状に震えながら背中を丸めて突っ立っている。この主人公のレント・ボーイを演じた坊主頭のユアン・マクレガーはそこからスター街道をものすごい勢いで駆け上がった。その後2012年ロンドン・オリンピックの開会式で総合演出を務めることになるダニー・ボイル監督の出世作でもある。表紙と背表紙に『Trainspotting』というタイトルが英語表記のまま、蛍光っぽいオレンジ色のフレームのなかに縦にでかでかと白抜き。内心小躍りしながらその本をありがたく受け取る。うきうきしながら表紙カバーを外してみると、ほどよく弾力のある表紙は更にミニマルなデザインで、白抜きの英語タイトルのほかは余計なものなど何一つない、明るくつやつやとしたオレンジ色のフラットな表面が光り輝いている。手にした途端、インクの匂いまで吸い込みたくなるようなこの感覚は、分かってくれる人も少なからずいるだろう。どうせならこういう本に関わりたいと、仕事をはじめてからずっと、ぼんやりと思っていたのだ。アンダーワールドの「ボーン・スリッピー」のあのイントロとサビが頭のなかで蘇る。クラブでこのイントロが流れた瞬間、周囲もはばからずに濃厚なキスをはじめたカップルの姿をなぜか思い出し、ストロボとレーザービームが暴れ出す。
 吸い込みたくなったのはインクの匂いばかりではない。映画のなかで鮮やかに描写されているジャンキー達のぶっ飛んだ姿が思い出され、なんだか胸のあたりがそわそわしてくる。
「……映画も素晴らしかったけど、小説のほうがずっとすごいから、とにかくぜひ読んでみて、それで感想を聞かせてくださいよ」という河上さんの声がして、そうだ、本の話をしにきたのだと我に返る。「聞いてると思うけど、今度また新しい出版社を始めようと思ってるんですよ。この青山出版は人に譲っちゃってね。そうです。それでこういう海外のかっこいい小説、日本人に書けないような小説をバンバン出しますから、いい本をどんどん紹介して欲しいの。アーティストハウスっていう出版社、どう、かっこいいでしょう?」
 そう言って豪快に笑う河上さんによれば、この社会の原動力はアートであり創造性であり、特に若い人たちは面白くてきわどい物語を貪欲に求めているのだそうだ。ゆくゆくは映画にも事業を広げてゆく計画だという(まだ内緒だよ?)。ついてはそのような読者のための小説を、これからいくつも探さなければならないから、あなたのような20代の若いエージェントの嗅覚とセンスをどんどん活用させて欲しいという殺し文句にくすぐられ、悪い気がせず、すぐにその気になる。
「でもなんで、わざわざ新しい出版社を作る必要があるんですか? 今のままでもいいじゃないですか」
 青山出版社はこの年の4月に、『“それ(It)”と呼ばれた子』という、やはり海外で超話題作となったという児童虐待の体験記を出版したばかりで、この本も目下大ヒット中であると、ついさっきまで得意げに語っていたではないか。業界のことなどまだよく知らない僕の目には、単純に、とてもうまく行っている出版社のように映る。
「え? まあそこは大人の事情というのもありますからね。……というか、まあ、せっかく新しい方向を考えているんだから、新しくドーンとやったほうがいいんですよ、こういうのは」
 なにも知らない若い者が余計なことに口を挟むな、とでも言うように、ずっと笑顔だった河上さんの目がメガネ越しに一瞬迫力を帯びる。おだてられて調子に乗ってしまったようだ。
 フィーロン・エージェンシーに戻る電車のなかで早速もらったばかりの『トレインスポッティング』の表紙をめくる。「舞台はイギリス・スコットランド・エディンバラ。仕事はない。学歴も役に立たない。金、酒、女、法律と、悩みとしがらみはつきない。ジャンキーたちの繰り広げる騒ぎの数々。ときにどきっとする名言を吐く輩たち。」と、袖に短い紹介文があり、焦らされる。スコットランドといえばフィーロンさんの生まれ故郷だ。映画は確かに観ていたが渡米直後のことで英語のセリフを追い切れず、というか思い返せば強烈な(英語字幕がつくほどの)スコットランド訛りの会話をほとんど捉えられずに、ただただジャンキー達の狂騒劇と、テンポ良くかっこいい映像と音楽の融合だけを楽しんだに過ぎず、「どきっとする名言」についてはさっぱり記憶にない。言われてみれば、あの「Choose your future, Choose life.(未来を選べ、人生を選べ)」という、トレイラー映像に使われていたパンチラインしか覚えていない。ページを開くと現れた二段組の密度あるテキストに飛び込んだ途端、大好きなイギー・ポップの「ラスト・フォー・ライフ」の迫りくるイントロが流れだし、あのしゃがれた声が響いてきて、気持ちのなかで拳を突き上げる。なんだこりゃ、翻訳がめちゃめちゃいい。あの映画のノリをまったく裏切らないどころか、これはこれでものすごくクールなテキストだ。翻訳物にちょいちょい感じる違和感など欠片もなく、むしろ読みやすい。おいおい。本をひっくり返して表紙を見ると「池田真紀子 訳」とある。
 この仕事に就いてから、翻訳者の名前が以前よりも気になるようになった。この訳者は、他にも当然出ているのだろうが、僕にとっては初めての名前だ。こういう人たちがいる世界なのかと思うと、さっきの河上さんの話がますます魅力的な響きを帯びてくるようで、わくわくする。物語のなかに戻り、気がつくと、地下鉄は乗り換え駅をとっくに通り過ぎてしまっていた。読み進めるうちに掘り起こされた記憶に意識を奪われてしまったというのもある。

 フィラデルフィアの大学で、ショーンという年上の男と仲良くなった。チョーサーの中世英語を読まなければならないクラスで一緒になって、ちんぷんかんぷんで困っていたところを助けられたのが縁のはじまりだ。赤毛、巻き毛、睫毛も当然おなじ色だが、うっすら緑がかった青い目と、なんともいえないコントラストだった。骨格の硬そうな、典型的なアイルランド系だ。ショーンの父親は長距離トラックの運転手。すこし歳の離れた兄がいて、街のライブハウスやバーの数軒で、アメリカ各地のローカルバンドのライブの、ブッキング・マネージャーをしていた。ショーン自身もKing James Versionというハードコアバンドでベースを弾いていたが、本職はギターだ。フィリーに来るまで僕がバンドでベースを弾いていたと知ると、セッションに誘ってくれた。ノース・フィリー側の3丁目あたりに、いくつかのバンドと共同で地下室を借りて、それをスタジオにしている。廃屋のような薄暗い地下室で、レンガがむき出しの壁際には大きなアンプやスピーカー、ドラムセットや簡単なミキサーやらがごちゃごちゃと置かれていたが、あるものと言えばそれだけだ。あとは灰皿。電気代は払っているようだ。
 ショーンの兄の雑然としたフラットに行けばツアー中のバンドが打ち上げをしていることもあったし、フィラデルフィアの地元バンドの仲間たちの集まるホームパーティーなんかにも混ぜてもらえた。たいていジョイントやパイプが煙った部屋のなかをぐるぐると回っているが、パーティーによってはコカインの白いラインの引かれたステンレスのトレイやクラックが見えることもある。どんちゃん騒ぎのなか、そろそろ子供を寝かしつけなきゃならないから帰らなきゃと立ち上がった瞬間にくすねた缶ビールを2本ポケットから落っことしてピアスの光る舌を出す刺青だらけの女性のよこで、だらしなく白目をむいていた男が我に返り、思い出したようにもう誰も聞いていない話しの続きをはじめる。ブラウン管のテレビには、さっきからホラー映画がずっと流れている。そんなところに呼ばれたデリバリーの男が、ブラウンペーパーの紙袋に包まれた真っ白い煉瓦のような塊を持って現れることもあった。

 独立戦争の当時はアメリカの商工業や政治の中心的都市のひとつであり長きに渡って栄華を誇ったフィラデルフィアも、90年代にはすでに不況のどん底に沈んで久しかった。そのへんの大学を卒業したからといって優雅な将来が約束されるわけでもないどころか、下手をすればいきなり低賃金のアルバイトや失業保険で食いつながなければならないというのも『トレインスポッティング』に描かれるエディンバラの若者たちと変わらない(……「受ければいいのに。君なら大学にも行けるよ」「行って何になるの?」ジェフは言葉につまった。【青山出版社、1997年、p.44】)。5種類の住所を使いわけながら失業保険詐欺を掛け持ちする『トレインスポッティング』の主人公のことは笑えない。スーパーのレジに並べば、フードスタンプ(アメリカ合衆国で低所得者向けにおこなわれている食料補助対策。公的扶助のひとつ)でベースボールカード付きのスナックを買っているやつらだっていた。かつては高級住宅地だったことを忍ばせる街の周辺部は、歩けば薬莢を踏んづけるような、すっかりスラムの様相で、検事上がりのジュリアーニの徹底的な締め付けで治安の回復しつつあったニューヨークとは反対に、発砲事件は日常的なニュースだった。夜遅く、暗い街灯が点々と光るだけの通りを歩けば、センターシティと呼ばれる市の中心部であっても、緊張感が否応なく高まった。夜のATMで現金を引き出そうとすれば、見張り役の同伴者が必要だった。たちの悪そうな奴らで溢れかえっていた。そこらじゅうにホームレスが横たわっていた。街なかで、まだ一口しか食べていないハンバーガーを手元から奪われたこともある。暗い舗道の先に、こちらに向かって近づいてくる人影が見える。彼もまた自宅へただ急いでいるだけかもしれないが、もしかしたらそうじゃない可能性もある。速度を落とし身構えて進んでゆくと、相手もまたこちらを警戒しているのが分かる。僕は小柄なアジア人だが、だからといってその僕が武装していないという保証はどこにもない。相手が素面か、正気かどうかだって知る由もない。互いに最大の距離を取るようにしてすれ違った途端、空気を溜め込んだ肺から安堵の息がどっと漏れ、ガールフレンドの肩に回した腕の力がやっと抜ける。フィラデルフィア郊外の腕のいいエクスタシーの調合師が検挙されたときには、ニューヨークで出回るエクスタシーの供給量が一気に減って、値段が跳ね上がったという噂も耳にした。考えようによっては天国のような街だったが、ひとつ角を曲がれば口を開けて待っている地獄もあった。……とはいえ、おかしなことに首を突っ込もうとせず、ある程度の緊張感と節度さえ保って暮らしていれば、『トレインスポッティング』の舞台と同様、街の日常は概ね平和であるとも言えた。あの小説はあくまでもエディンバラの街に潜むジャンキー達の話だが、それがどこであれ、街にはそのような一面もあるということだ。フィラデルフィアの僕の周囲には知る限りにおいてヘロインの常用者こそいかなったものの、間違ったドアを開ければやはり様々な代物が出回っており、言ってみれば似たり寄ったりの状況だった。親子関係による子供時代のトラウマをクスリで紛らわすことを覚えた日本人留学生の女の子もいたが、それは間違った用法だったに違いない。フラッシュバックに襲われると言いながら、様子がみるみるうちにおかしくなっていった。物事との付き合い方が変われば、人間関係もまた変わるもので、僕たちはそのうち自然と疎遠になった(結局、彼女は帰国して何年か経った後、そのフラッシュバックが原因だったかどうかなど今となっては分からないけど、電車に飛び込み、生後3ヶ月の赤ん坊をおいて、この世とおさらばしてしまった)。ショーンはハードドラッグには首を振り、ほとんど手を出すこともなく、のんびりしたものだけを選んで平和に暮らしていた。それでもウェスト・フィリーのガールフレンドの暮らす家に向かうときには、ズボンのウエストに拳銃を仕込み、それをTシャツで隠した。自宅の物置きのような部屋に置かれたデスクのうえに見たこともない機械と、それから分解されたリボルバーが一丁、無造作に置かれていた。「……学位を取ったからって、俺みたいな人間にどんな仕事があるのかなんてわからないし、手に職をつけなきゃいけないと思ってさ。親父のところで見つけたこの古い銃、分解して、クロームメッキしてるんだ。新品みたいにピカピカに仕上げてみようと思ってさ。習うより慣れよっていうだろ?」

 すべてを政治と経済の問題に帰結させて良いものかどうか僕には分からない。でも『トレインスポッティング』に描かれているのは、サッチャーの悪政で深い傷を負った社会ということで間違いないのだろう。それが蟻の群れででもあるかのように人々の生活を踏みにじったというじゃないか。新自由主義の旗を掲げマネタリズムを信奉し、社会保障財政などカネの無駄遣いだと言わんばかりに縮小し、福祉国家としてのイギリスを殺した。国家再建のために必要な大鉈だったのだ、そう主張する人々もいるかもしれないが、結果を見ればサッチャー政権なんて失敗だらけだと叫ぶ人達だってたくさんいる。10年以上も権力を手放さず、その間ずっとイギリスの労働者階級に懲罰的苦しみを与え続けた。そんな行政に対するあからさまな皮肉と批判が、この小説の随所にちりばめられているように感じる。レントンだって言っているじゃないか。「成功と失敗は、単純に、欲望が満たされるか満たされないかという話だと思う。欲望は、人それぞれの本能的欲求に基づいた先天的なものに支配されているのだとも言えるし、主にマスメディアや大衆文化を通じて提供される広告やロール・モデルに刺激される後天的ものだとも言える。(略)社会からの見返りを認識できないでいるために、俺にとって成功は(そして失敗は)、つかの間の経験にしかなりえない。なぜかといえば、そういった経験が、社会に容認された富や力、地位などに影響されて長く持続することはありえないし、失敗の場合も、恥辱や不名誉のために長く引きずることがないからだ。(略)要するに俺は何も考えちゃいないってことだろう? なぜだ?」【青山出版社、1997年、p.183】。富めるものと貧しきものとが分断され、弾力を失った社会が舞台装置だ。資本主義が過剰になり、消費社会が人々をも消費の対象とする。企業や金融こそが経済を生むのだといって巨大資本が優遇され、限りあるリソースがそこに吸い上げられてゆく。持たざる者たちは更に持つものを失い、犯罪と暴力、自暴自棄な享楽が彼等に残された手っ取り早い逃げ道だ。落ちぶれた弱者たちはその事実を認めようとはけっしてせず、更に弱い者を探し出しては搾取の連鎖を完成させてゆく。排外主義がはびこる。移民やホームレスへの暴行や、児童虐待なども最早ありふれた事件だ。右傾化と左傾化の分裂したイデオロギーと、社会格差が拡大する。でも、そんな解体されたコミュニティーの狭間で思索がなされ、概念としての自由への意味付けが再試行され醸成され、波紋を及ぼしてゆくこともある。それもまた、摩擦熱の生み出す副産物という一面だ。ウェルシュの描き上げたジャンキー達は、あろうことか純度の高い文学的副産物として世に歓迎され、出版された1993年には最高峰の文学賞、ブッカー賞を受賞してしまった。
 読み進めているうちに、あの映画で有名になったフレーズのもとになったテキストが飛び込んできた。「人生を選べ、ローンを背負った生き方を選べ。洗濯機を選べ。車を選べ。ソファに座り、ジャンク・フードをほおばりながら、退屈で気が滅入るクイズ番組を眺める暮らしを選べ。自分が産んだ、わかままで馬鹿なガキどもにとっては居心地が悪いだけの家庭で、自分を呪いながら朽ち果て得る生涯を選べ。人生を選べ」【青山出版社、1997年、p.185】……この《選択》のメッセージこそ、サッチャーが経済領域の拡大を計って利用したイデオロギーのパロディだ。ウェルシュはレントンに、こんな言葉を吐かせた。「だが、俺は人生を選ばないことを選ぶ。それを認めないというのなら、それはやつらの問題だ」【青山出版社、1997年、p.185】……たしかに映画も良かったが、この小説の勢いと面白さはまた別物だ。フラストレーションが毒の効いたユーモアに包まれ、散弾のように放たれる。

「サッチャーのしたことで最悪なことは数え上げれば切りがないが、そのうちのひとつとして確実に言えることは、人文系の学問への見当違いの介入および圧迫であーる!」
 その夜、河上さんとの会合の報告を求めて根城のカフェバーに僕を連れ出したフィーロンさんは、いつも以上にワインを煽り、タバコの煙を吐き出しながら、激しく息巻いている。「それが結局この世界を薄く空虚なものにしてゆくのだと、金、金、金、利権に足元を絡め取られた人間たちは思い至らないんだ! おかげでこの社会の足場は見えないところでもう崩れ落ちる寸前だ。ハイエク万歳! サッチャー万歳! 日本だって他人事じゃないぞ」
 利潤原理などというものに強迫観念的に囚われた結果、彼等のいうところの「経済」――つまりカネ、数字――に直結しない人文系の学問は迫害された(ときに致命的なほど予算や人員が削られた)。知性を犠牲にすることで権力を強固にし、社会の弾力を奪った寸法さ。権力のためには戦争でさえ利用し、つまり人の命を奪うことすら厭わなかった(それが、あのフォークランド戦争だ! 紛争? バカ言っちゃいけない。何人の若者が命を落としたと思ってるんだ!)。都合のいい一面だけを切り取ってそれらしくこしらえた統計で、経済が上向いた、国民生活は向上した、国家の国際的立場が回復したのだと嘯き、その欺瞞の裏で足元からの搾取を組織的におこない、市民生活を圧迫する。ドンパチやって支持率が上がった、正しい選択だった! おめでとう! 許しがたいことさ。
「サッチャーに孫が生まれたときに、彼女がうっかりなんと口走ったか知っているか?」とフィーロンさんは目を吊り上げる。「あろうことか、“We(私たち)”に授かった孫と、あの女は公共の場におけるスピーチで、そう口を滑らせたんだ!」
 フィーロンさんによれば、イギリス王室の伝統として、例えて言うならエリザベス女王2世が公の場で用いる様式として、物事を「We」という一人称複数形で、つまり国家全体の出来事として語るレトリック、すなわちある種の王室文化があるのだという。たかが孫の出生という極めて個人的な出来事に際し、サッチャーのごとき政治屋がそのような話法を用いたのは、絶対的な権力者たる妄想じみた過信の現れであり、倒錯した世界の住人だと自ら証明したにほかならず、結局そのように肥大したエゴの犠牲として社会も文化も破壊されてゆくのだと、フィーロンさんは更にワインを流し込む。今夜はなかなか帰れそうにない。「鉄の女か! 脳みそも鋼鉄製だろうな。もっとも、私はイギリスの王室文化も支持しない。君主制なんて認めないぞ。あんなものは時代錯誤の役に立たない様式さ。女王であれなんであれ、あらゆる人間は即ち人間として平等であるはずなのに、彼等はそのことになると見て見ぬふり、王室というのは、今では芝居じみた幻想さ。傲慢な政治がその芝居を利用する。それで権力だ。そんな権力あるところには、必ずそれをねだろうとする卑しくあさましく虚しい人間が群がる」と、こうなったらフィーロンさんの演説はどこまでも続く。「最近ではJ・G・バラードだが、遡ればグレアム・グリーンやロアルド・ダール、心ある作家たちがイギリス王室からの爵位を辞退した。賢明なことだよ。ジョン・ル・カレもそうと言えばそうか。まあいい。当然であり実に素晴らしい話だ。権力におもねることで得られる自由や開放されるべき知性など、人間社会のどこにもあり得ないのだから。くだらない、実にくだらない。いいか、私たちは出版という文化を通じて、そのくだらなさと向き合い、それを克服してゆかなければならないし、またそれが可能なんだ。そうだろう!? そうと言え!」
 権威主義に陥ることは社会を壊し、人々の日常を窒息させ、罪なき人々を殺すことに繋がるのだと、その夜のフィーロンさんは止まらない。まあよくあることだ。水辺まで引き上げてなお暴れる魚を玉網で捕まえる要領で、三軒目をフィーロンさんの自宅近くの西麻布交差点のタイ料理屋に移すと、そこで大雨が降り出した。やばいやばい、そういえば台風の予報が出ていた。稲妻が走り、雷が鳴り、ホワイトノイズのように切れ目ない雨音が大歓声となって、フィーロンさんの演説を盛り上げる。店の客はもう僕たち二人だけだ。店員たちは困った笑顔でこちらを見ている。「共産党! 共産党!」と、血走った眼で拳を振りまわすフィーロンさんの背中を押すようにして店を出る。介抱されながら幕が下りることもあれば、介抱しつつ切り上げることもある。大粒の雨を弾く六本木通りのヘッドライトに目を凝らしながらよろける足で、西麻布の交差点を吹き飛ばされずに渡りきり、レストランの斜向かいのマンションまで横殴りの雨に打たれる。暴風雨がフィーロンさんの叫びを中和する。

 マンションの705号室まで送り届けると、一杯どうだと招かれる。びしょ濡れののままワインを注がれ、ついでに例の河上さんについて面白い話を聞かされた。70年安保闘争の当時には文部省に軽トラックで突っ込んだという噂もあるその人の、若かりし日の話だ。「ある集会に参加するために、彼は沖縄に飛んだ……」そう切り出しながらフィーロンさんはアルコールで喉を消毒し、呼吸を整える。呼吸器の問題については、煙草と酒の影響がまったくないとは言えないだろう――話が加熱すればするほどフィーロンさんの息は怪しくなり、興奮した両目がサッカーボールのようにむき出しになる。軽い喘息の発作があり、医者にはあれこれ注意されているらしい。「そんなことはこの際どうでもいい!」とにかく、そこで河上青年を待ち受けていたのはイデオロギー論争に明け暮れる、頭のなかだけの“活動家”たちの姿だった。「つまらん!」さっぱり共感できず、その場を早々に抜け出した青年は、白砂のビーチに座って途方に暮れたのだという。握りしめた手を開くと、掌についた白い砂粒が、見たことのない星の形をしていた。彼は段ボール箱にその砂を詰め込めるだけ詰め込むと、東京に向け発送した。神田界隈の薬問屋で小さな薬瓶を大量に仕入れ、金のない美大生たちをアルバイトに雇い「星の砂」と書いた手描きのラベルを作らせ、そして売り出したのだという。砂をもっと取り寄せ、薬瓶を更に仕入れ、美大生たちに小遣いを稼がせ、おばちゃんたちを雇い入れ、そうして三ヶ月も経ったころには「星の砂」は大流行となっていた。
「札束が目の前に積み上がりましたよ」と、当時の話を、だいぶ先になってから河上さんが懐かしそうに振り返って話してくれたことがある(余談といえば余談だが、2018年の今、その河上さんは「スターサンズ」という映画制作・配給の会社をやっている。スター、つまり星の、サンド、つまり砂だ。もう70代だろうか)。
「……とにかく、半年も経たないうちに大手のギフト会社に目をつけられて流通を奪われ、それでおしまい。札束もみーんなパー。人もみーんなどこかへ行っちゃった。人なんて薄情なものですよ」
 個人で巨大資本に立ち向かうことの難しさを悟ったと河上さんは苦笑いした。でも「星の砂」で得た経験と人脈を活かし、エリマキトカゲという奇妙な生物が南半球にいると知ればそれを広告業界と結びつけ、ウーパールーパーをブランド化し、更にはMTVやエアロビクスなどの日本における商標にも、いち早く手を出した。「80年台? そうかな? まだ君なんか生まれてなかったんじゃない。え? 覚えてる? 嬉しいなあ。まあ、人がなにを面白がるかというのが実は重要で、そこにはいろいろ知らないことが潜んでいて、実はこれがけっこう深いんですよ」と、そう言って笑う。人生で二度、大海原のど真ん中、どこを向いても陸地などさっぱり見えないようなところにドボーンと沈められたことがあると言って、楽しそうに笑う。とにかく笑う。
「なにかを代弁しようと思えば、とにかくフィクションが最高なんですよ」
 そんな人がこんなことを言う。
 どうせ仕事をするのなら、例の『トレインスポッティング』のように鋭く時代を切り取る小説、つまり面白いフィクションをやりたいとぼんやりと思っていたところだったが、タイミングとしては逆風が吹いていた。これは、という小説を見つけて方々の出版社に片っ端から持ち込んだところで、「いやぁ、海外モノの文芸はちょっとねぇ」、「それ純文? じゃあ難しいわ。確かにおもしろいのかもしれないけど。でももうちょっと他に、なにかもっと売れそうなものないの?」と、どこに行っても足蹴にされる。「いや、絶対に読者いますって! じゃあ他の本なら売れるっていうんですか?」
 出版不況、出版不況。まだ楽しげに笑っているのに、出版不況。
「そういうけど、刷れる部数の問題もあるのよ。なんでもかんでも刷ればいいって話では当然ないんだけど、でも文芸はマーケットが小さいし、慎重にやらないと。ほんとはそういうの、私だって出したいんだけど、会社がね……」
 おもしろい小説がダメなら、この仕事をやってる意味なんてそもそもあるのかよ? と腐りかけた頃、見計らったように「海外の現代小説? いいのがあったらとにかくやるから。持ってきて」と、光り輝く手を差し伸べてくれたのがその河上さんで、そんなわけで僕はこの仕事をもうちょっと続けてみようと心に決めたのだった。

 河上さんの構想にあったアーティストハウスはその年、1998年のうちに発足した。第一弾の打ち上げ花火として、イギリスの新人作家の話題のデビュー作、アレックス・ガーランドの『ビーチ』を出版した。泣く子も黙るレオナルド・デカプリオの主演映画が決まっていたその小説の出版発表を兼ねた創立パーティーが12月、南青山のBLUEで華々しく催された。エントランスには花が並び、バーやフロアにはいかにも業界然とした人々や、カジュアルに着飾った楽しげな人々が入り乱れ、そして女性たちが酒を飲んで、尻を揺らして踊っている。
  ……でもちょっと待った。希望に満ちた賑やかなパーティーのその前に、毎年秋に催されるという、世界最大規模を誇るフランクフルトのブックフェアに、先ずは行っておかなければならない。

To be continued…


PROFILEプロフィール (50音順)

田内万里夫(たうち・まりお)

1973年生まれ。埼玉県出身。版権エージェント(現在はアルバイト)。マリオ曼陀羅の名義で画家としても活動、国内外で作品発表をおこなう。主な展示として『LOVE POP! キース・ヘリング展 アートはみんなのもの』壁画プロジェクト【キースの願った平和の実現を願って】(伊丹市立美術館・2012年)などがある。著作に『心を揺さぶる曼陀羅ぬりえ』(猿江商會)。本書はイギリス、台湾、イタリアでも刊行。訳書に『なぜ働くのか』(朝日出版社/TED BOOKS)。


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「本書は、AI時代における僕たち人間のサバイバルそのものを根源的に問う一冊でもある」
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