海外の本を自国で刊行する翻訳出版には、契約を成立させるための業務を担う「版権エージェント」という職種がある。このテキストは、一般社会ではあまり聞き慣れない職種「版権エージェント」の仕事、またそこから見聞きすることになった知られざる翻訳出版小史を伝える自伝的小説になっていく予定だったが、どうだろうか。連載タイトルの「SUB-RIGHTS」とは、著作権の二次的使用を意味する用語である。日本と海外の架け橋となったスコットランド人の版権エージェント、師であったウィリアム・ミラーへ追悼の念を込めて書き綴っていく。
※この物語は、概ね事実を元にしていますが「フィクション」です。登場する個人名・団体名の一部は架空名、もしくはプライバシー保護の観点から仮名にしています。
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2月末といえばニューヨークはまだ真冬の寒さでブリザードも吹き荒れ、街は凍てつく。世界最大のメガロポリスがまるごとひとつ、巨大な冷凍庫に封じ込められてしまうかのような状況になる冬もある。観光には向かず、渡航費も宿泊費も年間を通じて最も割安な季節だ。でも仕事の話をしに行くだけなら問題ないし、むしろ安上がりだ。
ニューヨーク出張から帰国したフィーロンさんは、やはりどこか不機嫌で、くたびれ切った様子だった。スコットランド育ちのフィーロンさんがニューヨークの寒さにやられて帰ってきたわけではない。また、仕事がうまくいかなかったという話でもない。覇権国家として世界に君臨するアメリカ合衆国という国の政治、そして国際社会における振る舞いにフィーロンさんは我慢ならないのだ。ロンドンの学生時代に被告となって経験した政治裁判の苦い思い出も酒を飲むと甦る。それ以来、CIAに監視されているという妄想が消えず、それがフィーロンさんのアメリカ嫌いの大きな理由になっている。アメリカ人の友人を多く持ちアメリカ文化の素晴らしさを認めてもいるが、それとこれとは別次元の問題らしい。ある種のアレルギーだ。だからニューヨーク出張に出向くのは毎年一度だけ、寒さゆえに多忙にならず自由度の比較的に高い2月のこの時期だけに限定している。版権エージェントの仕事をするうえで、ニューヨークは最大の要所だ。でもアメリカ国内で催されるブックフェアなどにはまず参加しない。
そういった個人的なことに加えて前年、1998年から激化していたコソボ紛争に対するNATOの軍事介入がほぼ確定的な情勢となったことも今回の不機嫌の理由だ。どうやらそのことで現地の出版人たちと、また議論を交えてきたらしい。
いつものように夕方、僕を酒場に連れ出してワインを飲みながら、フィーロンさんの肩はがっくりと落ちている。
「アイゼンハワーを知っているか?」
「アメリカの大統領でいましたね。それとも、新しい著者ですか?」
「いや、大統領だ」
軍産複合体に気を付けろと、退任演説で述べたドワイト・D・アイゼンハワーのテレビ放送の白黒映像が脳裏に甦る。眼鏡とその奥に光る眼が印象的だ。結局アメリカは戦争をし続けなければ自国の経済を回すことのできない軍事大国であるがゆえに世界のどこかを破壊し続けているのだと言いながらグラスのワインを飲み干したフィーロンさんは会計を済ませ、疲れた足を引きずって帰っていった。
そんなフィーロンさんのもとで僕がこの仕事に就いて、はやくも1年が経とうとしている。
仕事の要領は飲み込んだ。フィーロンさんがニューヨークから持ち帰った出版企画にまた片っ端から目を通し、日本での翻訳出版に結び付けるためにあれこれ考え、動き回ればいい。
数日も経てばフィーロンさんは本来の調子を取り戻している。僕たちは会議を重ねて企画を選り分け、日本の出版社との商談を重ね、交渉をまとめ、契約のための事務的な手続きを行なう日常を繰り返しながら、日が落ちれば酒を飲みに出かけた。
案の定、3月に入るとNATO軍がユーゴスラビアでの空爆を開始し、その凄惨な様子の一部が新聞やテレビ、インターネットを通じても報じられるようになった。フィーロンさんとの連日の酒席でも、そのことが主な話題となる。会社では経理部の渡嘉敷さんを中心とした数名が、出版社から送られてくる数千件の印税報告の処理に、毎日朝から晩まで追われていた。前年度の翻訳書の売り上げをチェックし、書類にまとめて海外の権利者に送らなければならない。
5月のBEA(ブック・エキスポ・アメリカ)はロサンゼルスだった。前年のシカゴと同じく、また三輪さんと僕とで事前にニューヨークに入り、出版社やエージェントとのミーティングを2週間に渡っておこなった後、ロスへと飛んだ。コソボ紛争に対するNATO軍の制裁的な攻撃、「アライド・フォース作戦」はしつこく継続中で、現地の様子は凄惨を極めているようだった。
西海岸へは二度目だったが、ロスは初めてだった。
前回は2年前、その頃僕はまだフィラデルフィアの学生だった。サンフランシスコの大学に留学していた友人のルームメイトが二週間留守にする都合で部屋が空くと言うので、フィラデルフィアから訪ねて行った。もっぱらローカルな生活を楽しんでいたガールフレンドの真紀と一緒の、初のアメリカ国内旅行だった。ヘイト・アシュベリーの古着屋で見つけたTシャツを着てレコードショップを巡り、未だそこらじゅうにフォルクスワーゲンのカルマンギアが走っていることを知り、サイケデリック・ムーブメントを支えたグラフィックデザイン集団ファミリー・ドッグの――なかでも特にヴィクター・モスコソ――の吸ったのとおなじ、ほどよい湿り気のある暑すぎも冷たすぎもしない気持ち良い空気を肌に感じ、歩き回った。スーパーマーケットの棚には加熱調理用の丸いバナナとか、東海岸では目にすることもないような食材が並んでいた。物珍しさにあれこれ買って持ち帰り、飲んだことのない銘柄のビールやテキーラ、そして安いカリフォルニアワインなどで酔っ払いながら、危うい手付きで料理した。友人の通う大学のキャンパスに潜り込んで、昆虫のように小さなハチドリが目にも止まらぬ速さで羽を上下させながら魔法のように空中で静止して花の蜜を吸う色鮮やかな光景に目を奪われた。日本から脱出したコメディアンの野沢直子の姿を街の路面電車で見つけ、なんだかそれだけで笑った。
ロサンゼルスは、しかし、まったく別の街だった。ひたすら平坦でだだっ広く、どこに出かけるにも車が必要だった。太陽がギラギラと輝いていた。
ブックフェアの初日、ミーティングの合間に一服しようと会場の外に出ると、あの河上さんの興したばかりのアーティスト・ハウスの編集者、拝島さんの姿があった。まだ三十そこそこの威勢のいいお姉ちゃんといった感じの彼女の横に、まっ赤なジョッパー型のスウェットパンツに目に眩しい白いTシャツ、サンダル履きに頭を固めた、まるで日本のチンピラみたいな男が腰を落として――いわゆるウンコ座りで――煙草をふかしていた。
拝島さんに挨拶する僕を斜めに見上げた彼は、どうやら同世代の二十代半ば。くわえ煙草のまま立ち上がって、大きな蛇革の財布から名刺を一枚、ぽいっと差し出した。
これが、その日から二十余年が経った今もなお、出版業界の潮流がどう変わろうが、とにかく誰よりも深く付き合うことになる相手との出会いになろうとは、まさか思いもしなかった。
「あ、これ、うちの矢沢。ロスは車がないと動けないっていうから運転手ってことで一緒に来てもらったのぉ。会社では営業担当!」と白い歯を見せる拝島さんは、こんな面倒臭いブックフェア会場にいるよりも、むしろすぐそこのビーチに飛び出して行って着ている堅苦しいシャツなど脱ぎ捨ててしまう方がお似合いといった雰囲気だ。
どうも、としか言わない矢沢君に代わり、ロスに入ってからのあれこれを拝島さんが興奮気味に話している。
初夏のロサンゼルスの太陽には暑苦しいモッズスーツ姿の僕を上から下まで一瞥した矢沢君はちょいと頭の先を下げながら、手元の煙草を携帯用の灰皿でもみ消した。
「どうも。……よかったら今夜、タトルの御子息と飲むんで、一緒にどうですか」と誘いを受ける。社長の河上さんから聞かされたのか、僕のことを知っている様子だ。
「あぁ、ケンさん! 去年のシカゴで知り合いました。ぜひぜひ」
こちらにとっては顧客となる出版社の人からの誘いということもあり、僕はつい前のめりになる。日本でもたまに飲みに連れて行ってくれている主婦の友社の定林さんも一緒だという。夜の合流に備え、互いのホテルの連絡先のメモを交換する。1999年と言えばまだ海外仕様の携帯電話など一般には出回っていなかった時代だ。
僕も煙草をもみ消すとロサンゼルスの直線的な太陽光線を浴び、自分の落とす黒い影を踏みながらまた空調の効いたフェア会場へ、30分刻みの混乱へと踏み込む。
ミーティングの合間に前年のシカゴ、そしてフランクフルトですっかり仲良くなったシンディとの再会を果たす。
サンディエゴに拠点をおくシンディにとって、ロスは庭だ。
夜の、日本の編集者たちとの会食に誘ってみると、「9時頃には西海岸の独立系出版社のパーティーがあるから行くつもりだけど、その前なら付き合ってもいいわよ」とシンディも乗り気だ。僕はむしろそのパーティーに惹かれ、同行させてもらうことにした。
それぞれがエージェントである僕たちは一日中ぎっしり詰まったミーティングをこなし、フェア会場のライトが落とされる頃、やっと解放される。
「このまま行きましょ? どこ?」
シンディの運転する年季の入った黒いボルボに乗って、まずはそれぞれの宿泊先のホテルを回って重い荷物を下ろす。彼女の携帯電話を借りて矢沢君のホテルの番号に電話をかける。
部屋につながらない……、あちらはあちらで忙しくしているのだろう。たしか7時の集合だったはずだ。ホテルの住所をシンディに手渡す。フロントで部屋番号を伝え内線を繋いでもらうが応答はない。しばらく待ってみたが、今夜は縁が無かったと諦め、僕はシンディに連れられるがままダウンタウンの外れへと流れた。
ローカルなインディー版元の集うパーティーには“お仕事”めいた感じがなく、むしろ文化的で楽しく、このアメリカ出張の思い出になった。
もうひとつのハイライトはニューヨークで、ホートン・ミフリン社で僕の連絡相手だった版権担当者のゾーイが放った一言だ。
「私、このブックフェアでいったん出版業界を離れることにしたの。後任にはあなたのことを引き継いでおくから問題ないわ。……ボランティアとしてコソボに行くことに決めたのよ。私の母方のルーツはアルバニア系で、コソボには遠いけど親族もいるの」
刺激的なニューヨークで出版の仕事をしながら陽気を振りまく彼女が初めて見せるシリアスな表情に圧された。大学では政治学と民俗学を専攻していたそうだ。
帰国後、彼女のことをフィーロンさんに話すと、彼は一瞬頭を抱え、そして静かに僕たちのグラスをワインで満たした。
「この世界に生きるあらゆる民族に、あらゆる文化に、それらを支えるあらゆる人びとの生命と幸せに、そしてゾーイの勇気に乾杯だ」
コソボでは虐殺と殺戮がおこなわれ、ユーゴスラビアにおいてはその全域が爆撃の対象となり、一般市民の生命が否応なく巻き込まれ、市街地の多くが無残に破壊されていた。
「残念ながら我々は無力だ――とでも私が言うと思ったか? 私たちは言葉を通じてあらゆる暴力に抗うことができる。そのことをけっして忘れるな。破壊的であるよりも創造的であろう。できるはずだ。手伝え」
フィーロンさんはいつでもこんな調子だ。目が燃えているのはワインのせいばかりではない。折しもアメリカではコロンバイン高校の銃撃事件という異次元の暴力が発生した直後であり、殺人に対する危機意識を改めて認識せざるを得ない状況に世界は直面し、戸惑っている。日本は平和で安全だ? そんな社会など気を抜けば容易く壊れてしまうとフィーロンさんは直感していた。
「知は想像力を生み、想像力が優しさや労わりの心を育む。それを手助けできるのが本だ」と言って、フィーロンさんは煙草に火を灯す。「しかし同時に、搾取や謀略、欺瞞……、それらによる残虐な支配を成り立たせるのも、またある種の知であるということを見逃してはいけない。それを狡知と呼ぶ」
翌週、ロスで出会った矢沢君から連絡があり、僕は六本木のイタリアン・レストランへと向かった。今度は約束どおりに合流することができた。そこは20名からの宴会の真っ最中で、マグマムボトルのワインが何本も空になって並んでいた。
「おう、マリオ君。ここ俺の後輩の店」
矢沢君は僕の顔を見ると店のマネージャーを呼び付けると名刺を出させた。そして一座に向き直ると、「こちら、フィーロン・エージェンシーのマリオ君。こないだロスで会ったの。そうそう、さっき話したでしょ? 外国の本を日本で出す翻訳出版のエージェント」と言って、一座に乾杯を促す。
空いている席を指差された僕は目の前の皿やグラスを押し退けて、とりあえず着席する。新潮社、幻冬舎という馴染みのある出版社からはじまって、ブロンズ新社、プレジデント社、ぴあ、きこ書房――知ってはいるが付き合ったことのない出版社の名刺が手元に集まる。白ワインのグラスをがぶがぶと飲み干す矢沢君は、両脇をかわいらしい女性で固めている。世界文化社、東京創元社の書店営業の担当者だそうだ。集まる人々のいずれも名の通った出版社の人だが、出している本のジャンルは様々だ。
「ジャンルなんて関係ないから! 俺たちは本を売ってるだけだから。面白い本ならなんでもいいんだ! 遠慮とかしないでガンガン行っちまえばいいんだよ」と吐き捨てるように笑う矢沢君の勢いに圧されつつ、僕も自己紹介をしながら一座に加わる。版権エージェントという仕事を知っている人は誰もいないが、だからと言ってそれが問題にされるでもなければ、特に興味を持たれる訳でもない。誰もが自分のことに熱心な様子だ。
定期的に矢沢君からの誘いがかかるようになった。なかには合コンの頭数合わせじゃないかという夜も少なからずあったが、様々な出版社勤めの営業担当者たち、トーハン、日販や大阪屋などの取次会社に勤務する同世代、近隣書店の売場担当者から仕入係の役職付のお偉いさんまで、杯を交わす相手はいずれも僕が版権エージェントとして日頃付き合う翻訳書籍の編集者や翻訳者たちとは趣の異なる人々で、まるで異世界に彷徨い込んでしまったかのような夜が続いた。そのまま、僕の友人の集まる深夜の音楽イベントに泥酔の面々でなだれ込んで騒ぎ、迷惑がられることもあった。
会社での仕事を切り上げフィーロンさんとのワインを空け、それから矢沢君が飲んでいる店に出かけて飲みなおすのが日常となった。矢沢君はいつでも、かならずどこかで人を集めて飲んでいた。夜明け前の六本木、西麻布、渋谷や恵比寿などのラーメン屋で仕上げてから帰宅した。顔見知りが増えたが、いずれも本の営業、流通や小売りといった、いわゆる売り手という立場で出版に携わる人々だった。たまに僕がエージェントの仕事を通じて知り合った編集者を連れて行ったりもしたが、なんだかそのことで座の空気がちょっと硬くなり、白けてしまうようなこともあった。本の作り手と売り手、それぞれの職分のあいだに曰く言い難い溝があるように感じることは少なくなかった。
そういえば先の5月のニューヨークで朝日新聞出版社の編集者とミーティング巡りをした一日の終わり、通りがかりのバーに誘われ、ビールで労をねぎらわれた。午後のミーティングでその編集者が目を輝かせたSF小説について、日本で出版するつもりがあるのか、つまり翻訳出版権を取るのかと彼に対して訊ねたところ、思いも寄らない返答があった。
「いやぁ、私自身はあの手のフィクションに目が無いし、面白ければぜひ出したいですよ。……いつだってそう思っているんだけど、でも下の人たちが、なかなか“うん”と言わなくてねぇ……」
「え? 出すか出さないかを決めるのは、上の人じゃなくて下の人なんですか?」
「いや、編集者がいくら推しても営業が通してくれないと、なかなかね……」
「え? 営業って編集の下なんですか?」
「あっ、いや、そういう訳じゃ断じてないんですよ。断じてないんだけど、なんていうか、いつも営業会議で企画が弾かれちゃうから、つまりこれは、その、あの、言ってみればなんというか、ひとつの逆転現象といいますか…… どっちが上でどっちが下ってことは絶対にないんですが……」
からからの喉にビールを流し込みながら汗を拭き、ぐにゃぐにゃと言いよどむ編集者の表情に、知りたくなかった出版社の内部事情を垣間見てしまったようで、疲れが抜けるどころかどっと増した。
日本における版権エージェントは、言ってしまえば“売り手”だ。本そのものを売るのではなく、形の見えない「権利」を預かり、それを出版社相手に売る。形としては作り手の仕事を手伝っているようでもあるが、関係性のイニシアチブは買い手となる編集者が握っていることが多い。でもまあ、それは僕がこの仕事に就いてまだ1年ということも理由だろうか。
営業担当や取次、書店員などが集まる矢沢君の飲み会に居心地の良さを覚えたのは、そんなことも関係していたのかもしれない。いずれにせよ、集まる面々はそれぞれの持ち場で、商品や作品としての多種多様な価値を本に見出しながら、結局は出版という業界とその文化を愛する人達だった。版権エージェントという仕事のことなど知っている人は皆無といって良かったが、僕たちには共通言語があり、立場の似通った面もあった。
「ところで“芥川賞を取る程度の見識が政治家には必要”だなんて嘯く、あの石原が都知事になったよね」
この年、1999年の4月の選挙で新たな都知事に選ばれたのは、あの偉そうな石原慎太郎だった。小説家あがりの政治家ということで、出版関係者のなかにはそれを歓迎する人も少なくなかった。前職の青島幸雄のとぼけた様子と打って変わって威圧感のある都知事が誕生した。
その後石原は、重度障碍者を指して「ああいう人ってのは、人格があるのかね」と見下し、戦後に蔑称として用いられた「三国人」という表現で犯罪者=外国人(朝鮮系、台湾系)という印象操作を行ない、同性愛を公然と嫌悪し、近隣諸国に対しては好戦的で挑発的な発言を連発した。しかし当時まだ二十代の遊び盛りの僕達の多くは、そのような暴言や態度を知っても、時代にそぐわない旧い世代の傍迷惑な言動という程度にしか捉えようとせずバカにしたくらいで、深刻な問題として直視しようとは考えなかった。4年前におもしろおかしく登場した全都知事、“意地悪ばあさん”の青島幸雄が、期待どおりにずっこけたまま失脚したことも物笑いの種ほどにしか思わない、まだ平和と好景気の余韻を引きずる時代だった。日本には優れた官僚制度があるのだから頭に立つのは誰だって構わないという社会の雰囲気があった。バブルが弾けたと言われて10年が経とうとしていたが、まだまだ社会には余力があるように感じ、かつての経済大国の日本人であることを永遠に続く特権ででもあるかのように勘違いし、享楽からは覚めそうになかった。
僕がまだアメリカで学生をしていた2年前にはまだ一部の利用者のものでしかなかったインターネット空間に「あめぞう」という掲示板サイトがあり、アンダーグラウンドな情報の入り口のようになっていたが、それが今や日進月歩の進化を見せるネットの世界で役割を終えつつあり、代わって「2ちゃんねる」が出現したのがこの5月のことだった。ハッカーの真似ごとをしていた友人がいち早く飛びつき、時代が変わったと騒いでいた。
フィーロンさんは右翼的で国家主義的な石原慎太郎に対して、あからさまな不快感を示している。泥沼の東欧情勢にアメリカの銃社会、そしてきな臭いタカ派の都知事の誕生……。フィーロンさんの酒量は増し、深酒になれば声を荒らげることも珍しくない。
「私達がどうやって西麻布のマンションの狭い一室から、この青山のオフィスを構えるに至ったか、そういえば話していなかったな……」と、ある夕方フィーロンさんはいつもの骨董通りのカフェバーで、赤いキャンティの丸いグラスを片手に語りはじめる。
ある中国人の作家と、その一族が歩んだ苦難の歴史を綴った一冊の本が、彼の会社に待望の転機をもたらしたのだと言う。
1904年、明治の大日本帝国とロシア帝国とのあいだで日露戦争が勃発。ロシア国内の不安定な情勢に助けられた日本はこの戦争に勝利し、歓喜する。10年前の日清戦争に続き、ふたたび大国を破ったのだ。すでに支配下に治めていた朝鮮半島に続き中国北東部の満州に勢力を伸ばした日本だが、この戦争によって資産を使い果たし国内は疲弊する。そしてその負債を埋めるべく、更なる侵略による拡大を目指していくこととなる。欧州列強による帝国主義の流れに本格的に便乗したのだ。
中国では1912年、それまでおよそ3世紀におよぶ栄華を誇った清が滅び中華民国が樹立される。しかし間もなく、革命を目指す中国国民党が興り内乱が生じると、勢力を強める国民党の圧政により、人民は蹂躙されることとなる。
第一次世界大戦において連合国の一員として勝利した日本は1932年に満州国の建国を宣言し、清朝最後の皇帝、溥儀をその皇帝に据え実効支配をおこなう。
中国国民党、そして日本の圧政を受けた満州において国民党の将軍の妾となった、ある貧しくも美しく聡明な満州人女性の人生を振り返りながら、その物語は幕を開ける。彼女こそ著者の祖母である。
1917年のロシア革命によってソビエト連邦が誕生していたが、相次ぐ圧政に苦しむ中国においても、1920年代になって中国共産党が立ち上がる。そして無産階級の人々が大多数を占める農村部を拠点に、ゲリラ戦が繰り広げられることとなる。
そのような社会情勢のなか、国民党将軍の妾の子として生まれた著者の母親も、共産党による社会主義国家の実現を目指す人民解放の運動に積極的に身を投じる。しかし強固に封建的で因習的な当時の社会において、彼女はその出自故に困難な人生を宿命づけられており、諜報活動を通じ結ばれた共産党軍の理知的なゲリラ隊長――著者の父親であり、忠実なる革命兵士である――と共に、不条理極まりない混乱の渦中に飲み込まれてゆく。
苛烈を極める抵抗運動を繰り広げながら、やがて彼女は生まれ育った満州から遠く離れた夫の出身地、中国南西部の四川に流れ着き、そこで著者を産み落とす。
叩き上げの共産党幹部の娘として生まれた著者は、当時すでに独裁的な権力を手にしていた毛沢東の“世界革命”の理想に心酔して育ち、1966年、文化大革命が始まると、14歳で紅衛兵の一員となる。しかしやがて文化大革命の流れに異を唱える父母が――特に自由な魂の持ち主であった母親が――3年後の1969年に異分子として糾弾されることとなり、一家は思想改造のため貧しい農村部へと追いやられる。父親もまた迫害の対象となり拷問を受け、精神を病み、そして他界する。農場や工場などいくつかの職を経たのち四川大学へと進んだ著者は、26歳で中国からロンドンへと逃れることを決意する。当時、ロンドンの大学院で学ぶ彼女を訪ねてきた母親の語った一族の克明な記憶をもとに親族や当時の両親の仲間だった人々に取材を重ね、清朝末期の混乱から現代の社会主義国家へと移り変わってゆく祖国についてまとめた大作が『ワイルド・スワン』という本だ。
それぞれの時代に翻弄された三代の女性たちの歩んだ苛烈な人生を通じ、時代の移り変わりが淡々と綿密に描かれている。強固に父権的で支配的な社会を生き延びながら子を育てた女性たちの闘争とサバイバルの記憶であり、なによりも中国現代史の暗部についての生々しい記録だ。
冷戦構造の終わろうとする1991年にイギリスで出版されると、間もなく世界で一千万部を超える大ベストセラーとなった。著者の名はユン・チアン。日本語版は1993年、土屋京子の翻訳により講談社がハードカバーの上下巻で出版した。既に同社のヒット作となっていた村上春樹の『ノルウェイの森』にあやかろうと験を担いだのではないだろうが、上巻が赤、下巻が緑のデザインだった。
「その『ワイルド・スワン』がミリオンセラーとなり、私たちはやっと1979年の創業以来、14年を経て初めて心安らかな時を迎えることができたのさ。それまでは、まさに生きた心地のしない瞬間の連続だったが……」
1950年代には学生として左翼運動に情熱を燃やし、60年代、70年代をロンドンの名物編集者として過ごしたフィーロンさんが、四十を過ぎて日本人のパートナーと巡り合い、そうして流れ着いた東京で十余年の苦しい時を経た後にやっと、再びまたやっと手に入れた安堵だった。
「大きな印税が入り、ついに余裕が生まれた。事務所にしていた西麻布のマンションの一室を引き払い、南青山のオフィスを契約した」
ユン・チアンの著作権を扱っていたのは、メアリー・ウェズレーという作家を母に持つトビー・イーディーというロンドンの出版エージェントだ。ノッティング・ヒルにほど近い、ハイドパーク北側のクィーンズウェイ駅から数ブロック先のレンガ造りの建物の3階に仕事場を構えていた。
「おまえもロンドンやニューヨークでは出版エージェントのオフィスをいくつも訪ねただろう。どのエージェントも扱う著作物に相応しく、落ち着いて趣味の良いオフィスを構えていて羨ましい限りだな」と、フィーロンさんは物言いたげな表情で煙草をもみ消す。「あの本の成功によって、私たちもいよいよオフィスを移転する算段がついた。どんな内装にしようかと夢を膨らませたものさ。……しかし金にうるさいシュウゾウはそんなものは贅沢だと、私の希望には耳を貸さない。結局は彼に押し切られ、今ある灰色のつまらない事務机とスチール製の本棚、それに味気ない蛍光灯のオフィスということになってしまった。せめてゴミ箱くらいは楽しいものを選ばせろと、私はあの大きな赤いゴミ箱を持ち込んだのだ……」
フィーロンさんは思い出すのも悔しそうに溜息をついてグラスに残るワインを一息に飲み干す。
「日本における翻訳出版の文化は、もっともっとカラフルに、豊かになって良いはずだ。そうなるべきだと思わないか。日本はたまたま豊かな国だ。確かに独特な文化も持つ素晴らしい国だが、それは他の国々だっておなじことだ。私はスコットランドの出身だが、ここ日本ではイギリス人と呼ばれ、それ以前になによりもガイジンだ。アメリカ人だろうとロシア人だろうと、この国ではみんなガイジンなんだ。インド人もブラジル人も関係なしさ」
幼くして第二次世界大戦を体験したフィーロンさんにも、もうすぐ21世紀が訪れようとしている。冷戦構造の世界のなかで、社会主義の理想と社会主義国家の歩む現実とを目の当たりにしてきた。ソ連は崩壊し、ベルリンの壁は壊され、もう東ドイツも西ドイツも無い。
「世界は驚くほどのスピードで思わぬ変化を遂げてゆく。おまえが入社してくるちょっと前までは、海外との急な連絡にはテレックスを使ったりもしていたものだが、今や影も形もなくなった。なんのことだか分からないだろう? それがFAXになり、Eメールだ。……変わらないものと言えば人々の、そして国々の争いくらいだ。今なお世界のどこかで戦争やら紛争やらが絶え間なく起きている。日本の外に目を向けなければ、なかなか実感することもないだろうがね」
日本だっていつまでもこんな時代は続かないぞと、フィーロンさんは警鐘を鳴らす。「あの石原を見てみろ。偉そうに物を言うが、あの手の自惚れた排外主義をのさばられていると、今に東京もえらいことになるぞ」
会社にある『ワイルド・スワン』をぜひ読んでみろと言って、フィーロンさんはその夜の演説を締めくくった。「とにかくあの本のお陰で、今の私たちがあるんだ。その意味においても貴重な本だ」
満州を手にした日本軍は、残酷で略奪的な支配をおこなった。現地人を奴隷のように踏みにじった。学校教育に日本語を用い、特に現地における歴史を書き換えることに力を入れた。そのなかで中国共産党は反日抗戦を綱領とした地下活動を拡大し、抵抗した。満州を拠点に中国内陸部へと勢力を伸ばそうとした日本だが、第二次世界大戦が終結し敗戦が決まる。今度は現地の日本人たちが身の危険に晒され、怯えることとなった。
日本の戦争はここまでだが、中国満州ではその後ロシア軍による支配が日本軍に取って代わり、やはり搾取が繰り広げられた。国内では腐敗した国民軍と、革命を目指す共産軍とのあいだで割れ、それから長く内戦状態が続いた。1950年代に入り共産党支配が確立されたが、現れたのは全体主義の監視社会だった。50年代から60年代にかけては大戦後の繁栄を謳歌する資本主義陣営への対抗意識が過熱し、西側諸国を相手にした経済戦争の機運が高まった。しかし大飢饉がおこり数千万人の命が失われると、権力者として君臨していた毛沢東は失脚し、雌伏のときを過ごすこととなる。3年後に再び権力の座に復帰した毛沢東がおこなったのは、更に独裁主義的で原理主義的な恐怖政治だった。そして60年代後半の、文化大革命が起こる。
「毛沢東の政治は中国をかつての中華帝国の時代に逆戻りさせ、アメリカの政策ともあいまって、中国を世界から孤立させる方向に進んでいた」(上巻より)と、1960年代終盤の様子について、ユン・チアンは書いている。
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